光の墓標4
- 山崎行政書士事務所
- 9月29日
- 読了時間: 34分

第八章 死角の地図
朝は、死角から始まる。 神谷亮の画面の上で、港のヤードが格子状に広がり、その上に三角の扇形が幾つも重ねられていた。監視カメラの視野を示す薄い灰色。ところどころに白い穴があく。そこが、昨夜「点検」で角度が変わった箇所だ。
「この三角が目。穴が盲点」 神谷は指先で拡大し、時間のスライダーをわずかに動かした。 「21:10の九分間で、CAM-3とCAM-5が右に三度、下に二度。ズームが一段。——封印の再撮影はその直後」
水城遥は扇形の縁を目でなぞった。紙の上の灰色は静かだが、現場では風に揺れる。 「死角の地図は、誰のためにある?」
「普通は、安全のため。ときどき、言い訳のため。今日は、書くため」
遥はうなずいた。扇形の外側——白い穴の位置に、小さく赤い点を打った。一つはA-3倉庫の前。もう一つはCYの端のドレンの上。 「舌に渡す地図にする。匂いの矢印も描きたい」
神谷が笑った。 「匂いは風に従う。風は紙に従わない」
***
北嶺大学の実験室は、朝の光がステンレスを薄く冷やしていた。 白井はクーラーボックスから瓶を取り出し、順にラベルを確認する。「No.7」「No.8」「No.9」。港CY末端、昨夜の22時台。 簡易の測定で導電率とpHを押さえ、前処理を終えて、AOFの外注便を手配する。机の端に並んだ小さな紙片には、前夜集めた「舌の証言」の言葉がある。 ——冷たいに何か ——音がする ——金気
白井はそれを見てから、画面の曲線に視線を落とした。陰イオンのピーク。酢酸が立ち、微弱なギ酸が尾を引く。塩化物は海の塩で膨らむ。 電話。水道局の南だ。 「先生、昨夜の採水——」 「今、出します。速報は夕方まで。——『念のため』は、続けてください」 「『念のため』の文言、今日から掲示を増やします」 南の声は疲れているが、丁寧だ。丁寧さは、紙の端に残る。
受話器を置くと、白井は封筒の角を指先で押さえた。昨日、遥から届いた内部メモのコピー。〈『計画物』運用〉〈『視認上の欠陥は軽微』〉。 数字の隣に、形容詞が立つとき、実験台の上の空気がわずかに重くなる。
***
午前の港は、色が浅い。 東出はA-3倉庫の鍵穴を見つめ、薄い金属の縁に新しい擦り傷を見つけた。白い手袋の浦辺商事の男が帳簿を捲り、笑顔で言う。 「本日、最終の荷、搬出します」 床のフロアドレンに水はない。封水は切れたまま、格子の間から冷たい空気が上がってくる。匂いは薄く、残っている。
「封水、入れたか」 東出が問うと、男は「点検のときに」と言い、白い手袋に鍵束を持ち直した。 東出はわざと視線を落とし、靴紐を結ぶふりで、ドレンの縁を綿棒でそっとなぞる。綿の先に、わずかなぬめりが移った。甘酸っぱい。 ポケットの奥に小袋を滑らせ、仕事に戻る。フォークリフトの音。帯鉄の唸り。金属の扉が閉まる短い衝突音。今日の音は、ここまで。
***
処分場。 田浦徹は、C-2のバルブに巻いた「作動厳禁」のテープをもう一度指でなぞり、手書きのメモに短く線を引いた。 〈二系・C-2、禁止。B-7、禁止〉 若い同僚が顔を出す。 「県の監査、午後。『状況の確認』だそうです」 田浦は笑っていない顔で言った。「確認は、いつも『後』だ」
机の上に、匿名の白い封筒。昨日の「C-2 地下合流図」と同じ筆跡で、短い紙が一枚。 〈D-1、旧雨水吐け〉 〈夜、使われることがある〉 〈鍵は、工具箱〉
田浦は立ち上がり、工具箱の引き出しを開けた。古い南京錠と、赤いプラスチックのタグ。「D-1」。 「鍵は、誰の手に」 自分の声が、小さく返ってきた。
事務所のドアが開き、海藤が立つ。 「午後、県の人と来る。——今、話せるか」
田浦は首を振った。 「鍵を探してる」
「どの鍵」 「夜、音を立てない鍵」
海藤は一瞬だけ言葉を失い、すぐに「後で」とだけ言って出ていった。背中が軽い。軽い背に、重い紙が乗っている。
***
庁舎の廊下で、井原が港湾管理のIT室から出てきた若い職員の肩を叩いた。 「助かった。『点検ログ』の時間だけで充分」 職員は小さくうなずく。 「自分の名前は、出ませんよね」 「出さない。——あなたの汗は、紙に書かない」
井原はスマホで「死角の地図」をもう一度開き、赤い点をひとつ増やした。CAM-5の死角の縁。 「角度の話は難しい。——だから、角度を数字にする。数字を、舌に渡す」
***
午後、神谷から更新が来る。 〈封印の比較、三枚で一本に。撚り方向・ピッチ・反射筋の角度を線で重ねた図〉 〈”死角マップ”に風向データを重ねた。昨日21時の南東風、匂いの矢印はヤード末端へ〉 遥は画面を見て、短いキャプションを書き添えた。 〈見えない場所と、流れる方向は、よく似た形で地図に残る〉
編集部に送る前に、白井から速報のメール。 〈No.7〜9、導電率上昇。塩の影響を除いても、陰イオンの組成に歪み。AOFの速報は夜〉 言葉は正確で、熱は抑えられている。抑えられた熱は、紙の中で密になる。
***
診療所。 大庭は、午前の「舌の証言」をカルテの隅に記すのをやめ、別の紙を用意した。 〈水の記録〉 「味」「音」「匂い」「時間」「場所」を欄にしただけの紙。患者の言葉を、医学の外に置くための紙。 老女が来た。 「先生、音は小さくなった。けど、舌は覚えてる」 「舌が覚えたものは、簡単には忘れない」 大庭は老女の指先に紙を渡した。 「ここに、書いてください。——これは、町のカルテです」
***
夕方。港。 白い手袋の係員が、タブレットに封印番号を打ち込む。「QL 908377」。 「確認。OK」 その声は昨日と同じ高さで響き、昨日と同じ速さで消えた。 東出はフェンスの内側で、風の音を聞いた。南東。匂いは海に引かれる。 「猫、戻ったな」 倉庫の影から、濡れていない猫が歩いてきて、黄色い線を一度またいで止まり、空を見た。
遥は金網の外から、写真の角度を、昨日と同じにした。角度を同じにすることは、嘘を減らす方法のひとつにすぎない。 スマホが震える。神谷だ。 〈出す〉 彼の「送信」は短い。短いほど、重い。
***
処分場の薄闇の中で、田浦は「D-1」の南京錠に赤いタグをかけた。 「封印だ」 自分で言って、鉛の封印の球を思い出し、苦い笑いが喉に絡んだ。 「封印は角度で嘘をつく。タグは嘘をつかない」 若い同僚が頷く。 「でも、切られます」 「切られたら、切られたという事実が残る」
ドアが開き、海藤と、県の職員が入ってきた。クリップボードと、丁寧な声。 「本日は『確認』を——」 田浦は短く説明し、赤いタグを指した。 「ここは、今夜、誰も触らない」 県の職員は「承知」と言い、紙に印を付けた。紙の上の承知は、現場の手を軽くすることはない。
***
夜が速く降りてきた。 港のCY末端で、白井がラベルを貼る。「No.10 港CY末端/20:52」。 東出が周囲の足音を数え、遥がライトを伏せて滴る水面を見た。油膜は薄い。薄いが、割ったあとに戻る速度が昨日より早い。 「膜、厚くない?」 「厚さはわからない。でも、癖はある」 白井は瓶の口を閉め、冷却ボックスに入れた。
金網の向こうで、白い手袋の懐中電灯が縫うように動く。 「点検でーす」 明るい声。声は、死角の地図に乗らない。 遥は、神谷のマップを思い出し、死角の縁に自分の立ち位置があることを確認した。 死角は、立つ場所だ。隠れる場所じゃない。
***
宿に戻り、遥は文章を組み立てた。 ——監視カメラの「点検」ログ。角度とズーム。 ——封印の「同じ番号」の「別の金属」。 ——死角マップと風向。匂いの矢印。 ——A-3の封水なし。床ドレン。 ——C-2とD-1の鍵。赤いタグ。
最後に、一行だけ、声を入れる。 〈見えないものは、見えないままではない。見えない角度を、舌と数字で埋める〉
送信の前に、非通知。 「見た」 海藤の声は低い。 「死角の地図。——君は、どこに立っている」 「死角の縁」 「風上に、立て」 通話はそこで切れた。助言の言葉は短いほど、体の位置を動かす。
***
深夜。 神谷から追加の短いメッセージ。 〈QL 908377、出港ログ。便名変更、積み替え完了。——写真、角度一致。番号一致。金属、別〉 〈『角度を舌に渡す』、タイトルにした〉
白井からも。 〈No.7〜9のAOF速報、上がっている。バックグラウンドとの差、昨日より拡大。詳細は明朝〉 〈町のカルテ、読みました。『音がする』の欄が増えている〉
遥は窓の外を見た。堤の上の街灯が、風に揺れて、光の円が微かに重なったり離れたりする。 「光も角度に従う」 声に出すと、言葉が耳で跳ね返り、机の上の紙に落ちる。
ノック。 扉を開けると、西根が立っていた。素手。掌に薄い擦り傷。 「今、封印のストック——『交換用』、港の保管庫から一つ、外に出した。——見せる」 彼は封筒を差し出した。中には、細長いワイヤと鉛の球。小さな番号。「QL 908376」。 「君が持つべきじゃないかもしれない。でも、君が持たないと、これが『ある』ことは紙にならない」
遥は封筒を受け取り、深く頭を下げた。 「顔は」 「顔は清潔だ」 西根は笑いもせずに言い、廊下の薄い明かりの中に消えた。
封筒の中で、小さな金属が、ほとんど音を立てずに存在した。 金属は、嘘をつかない。 角度は、嘘をつく。 舌は、嘘をつかない。 紙は、遅い。 だが、遅い紙がある限り、遅い正しさも生きる。
遥はノートに短く書いた。 ——死角の地図。 ——赤いタグ。 ——交換用の封印球。 ——風上に立て。
夜は、死角から濃くなる。 朝は、風上から始まる。 風の線と水の線が交わるところに、言葉の線を引く。 その線が、鍵を回す前に。
第九章 風上の証拠
朝は、証拠の手触りから始まる。 水城遥は、大学の研究棟の一室で、白井と神谷の前に置かれた小さな封筒を見つめた。封筒の中には、鉛の球と細いワイヤ——封印の「交換用」。刻印は「QL 908376」。 白井は薄い手袋をはめ、球の表面を実体顕微鏡の下へ滑らせた。接眼レンズの向こうで、鉛の肌に走る微細な筋が、地図の等高線のように立ち上がる。 「刻印のエッジ、工具の癖が見える。写真の封印と、刻印の型が同系統」 神谷はノートPCで昨夜の封印写真を呼び出し、画面を二分割にした。 「番号は同じでも、金属の肌理(きめ)は個体の“指紋”を残す。これを撮っておけば、番号だけを揃えて交換しても、見分けられる」
遥は頷き、封筒の内側に日付と時刻、受け渡し者の名前を手書きした。 「この封印は、大学の保管庫で預かって」 白井は短く息を吸い、うなずいた。 「研究試料として寄託記録をつける。温度と湿度、開封履歴も」
神谷が画面を切り替えた。ポートの監視カメラの「点検ログ」——21:10の九分間、CAM-3とCAM-5の角度とズームが動いた記録。 「角度が動いた直後に、封印の再撮影。死角マップの穴とも噛み合ってる」 画面の上に薄い扇形が重なり、灰色の視野に白い穴が浮かぶ。 「穴は盲点じゃない。誰かの“手”の形だ」 遥は呟き、ノートに短い線を引いた。
白井のスマホが震えた。外注分析室からの速報だ。 〈No.7:AOF 96 μg F/L/No.8:112 μg F/L/No.9:101 μg F/L(BG 14±3)〉 白井の声が低くなる。 「港CY末端、上がっている。導電率の歪みも一致。——『念のため』は続けてもらうしかない」
***
午前のうちに、港湾管理から編集部へ「照会」が入った。 ——封印の“交換用”の存在は安全管理上の一般的手順であり、記事は誤解を招くおそれがある—— 言葉は丁寧だが、温度がない。 ほぼ同時に、海藤から遥へ短いメッセージ。 〈午后、地区センターで住民説明会。——来るだろう?〉 「行く」 遥は返信を打ち、封印の球を保管庫に収める白井の手元へ視線を落とした。金属は嘘をつかない。だから紙は、しばしば嘘を学ぶ。
***
地区センターの会議室は、人の呼気でほんのり湿っていた。壁際の掲示板に、水道局の張り紙。「当面、飲用は一度沸かして冷まして」。 最前列に、老女と若い父親。ベビーカーの赤ん坊は眠っている。東出は後方で腕を組み、井原は通路に立ってメモを取る。大庭は壁際で静かに頷き、南は前に出て挨拶した。 「本日は『状況のご説明』を——」
海藤が続いた。 「弊社としては、地域とともに、計画に基づき——」 言葉は滑らかで、角がない。 遥は手を挙げた。 「昨日の夜の21:10、港の監視カメラの角度が“点検”で動かされています。直後に封印の再撮影。——その間、死角ができていた。どなたが、何のために?」
会場の空気がわずかに鳴った。南がマイクに手を伸ばしかけ、引っ込める。海藤はまばたきを一つ遅らせ、笑顔を作った。 「点検は、適正な——」 「誰が、何のために」 井原の声が重なった。 「『計画』は見える化だと言った。なら、死角の扱いも“見えるように”」
白井が静かに立った。 「昨日の港CY末端の採水で、AOFが背景の約七倍。陰イオンの組成も歪んでいる。『直ちに』の話ではないかもしれない。けれど、流れている」 老女が手を挙げかけ、抑えきれずに声が漏れた。「音は、まだする」 大庭が椅子から少し身を乗り出した。 「“舌の記録”をここに置いていきます。味、音、匂い、時間、場所——短くていい。町のカルテにする」
会場の後方で、紺のシャツが一瞬だけ動いた。西根だ。彼は目を伏せ、壁の時計の秒針を追っている。 海藤は、その視線の揺れを見ないふりをして、言葉を続けた。 「封印については、損傷時に交換用を——」 「交換用の“存在”は否定しない。問題は“使い方”と“記録”。番号は同じでも、金属の肌理は同じにならない」 遥は神谷が作った比較図を掲げた。撚り方向、ピッチ、反射筋の角度が線で重ねられている。 後方の空気がざわめき、東出が低く言った。 「角度は嘘をつく。——でも匂いは嘘をつかない」
南がマイクに戻った。 「当面のお願いは続けます。浄水過程での粉末活性炭の追加、凝集工程の見直しも——」 「源流は?」 白井の問いに、南は静かに頭を垂れた。 「“現時点では特定できない”。——だから、複数箇所で抑える」
説明会は拍手も怒号もなく終わった。白い手袋が配布資料を回収し、角をそろえる。紙は、軽い顔をして重くなる。
***
午後、港。A-3倉庫のシャッターは半分上がり、床のフロアドレンはまた乾いていた。封水は切れたまま。 浦辺商事の男が帳簿を捲って笑う。 「最終のパレット、出します」 東出は無言でうなずき、靴紐を結ぶふりで、ドレンの縁に綿棒を這わせた。ぬめりは昨日より薄い。匂いは残る。 白い手袋の係員がタブレットで封印番号を読み上げた。 「QL 908377、確認」
遥は金網の外から角度を合わせて撮る。角度を揃えるのは、嘘を減らす作法だ。 スマホが震えた。神谷。 〈死角マップ+風向、記事出た。反応早い〉 〈“角度を舌に渡す”の図、トップで回ってる〉
***
処分場では、田浦徹が赤いタグのぶら下がった南京錠をもう一度確かめ、「D-1」の箱の前に立った。 匿名の封筒に入っていた古い配管図——D-1の先は、旧雨水吐けに出て、港湾の排水路へ緩くつながる。 「夜、使われることがある」 紙の中の文字が、午後の光で薄く浮き上がる。 若い同僚が顔を出した。 「県の監査、入口で足止め。『別件対応』らしい」 別件——紙の上の都合。地下の水は、その都合を知らない。
ドアが開き、海藤が現れた。背広の肩に砂埃。 「D-1、触らせないでくれ」 田浦は短く頷いた。 「鍵はここにある。タグは俺が付けた。——切られたら、切られたという事実が残る」
海藤は視線を床に落とし、声を低くした。 「“切る手”の気配が動いてる。——夜、風が変わる」
***
夕方、白井から速報。 〈No.7〜9のAOF、正式:96/112/101 μg F/L。No.10(今夜20:52)採取後に出す〉 〈紙の“確認”より、舌の“記録”が増えている〉 添付されていた「町のカルテ」の写真には、子どもの字で〈おとがする〉と書かれた行があった。 遥は、喉の奥が少し痛むのを感じた。言葉は遅い。けれど、遅い言葉が残す印は、早い音より長いことがある。
***
夜、風が変わった。 陸から海へ、短く鋭い。死角マップの扇形が、頭の中でひっくり返る。 遥は金網の外に立ち、CY末端のマスへ向かう足音を数えた。白井と東出が合流する。 「No.10、いく」 白井がラベルを書き、瓶の口を水面に触れさせる。薄い油膜が割れ、速く戻る。 東出が顔を上げた。 「音が……」 遠く、コンテナの影で金属が一度だけ鳴った。封印でも、ラチェットでもない、もっと鈍い音。 「D-1じゃないか」 遥の胸が、ひとつ速く打つ。港の音は風に乗らない。けれど、地下の音は、地面を伝って来る。
白井が瓶を三本目まで満たし、蓋を閉じたとき、遥のスマホが震えた。神谷から。 〈処分場、D-1の足元に動き。現場センサーの微振動ログ。時刻 21:44〉 「行く」 東出が頷いた。 白井はクーラーボックスを抱え、短く言った。 「私は大学へ。——“No.10”は、今夜のうちに」
***
処分場に着くと、空気が濃かった。入口の灯が揺れ、事務所の中は誰もいない。 「田浦さん!」 東出の声に、奥から短い返事。 「ここだ」 D-1の箱の前。赤いタグは地面に落ち、南京錠は外され、扉はわずかに開いていた。 「誰が」 「黒い手袋。顔は見えない。——“点検”だと」 田浦の額に汗。手には新しい南京錠。 「閉める」 彼は扉を押し戻し、南京錠を掛けた。手の震えが金属に伝わり、一瞬だけ音が高くなった。 「タグは」 「切られた。——切られたという事実は残った」
背後で足音。廊下の角から、西根が現れた。素手。掌に細い傷。 「遅れて済まない。——“切る手”は、まだ近くにいる」 「見たのか」 「影だけ。……でも、鍵の音が違った」 西根は息を整え、言葉を絞るように続けた。 「君らの“線”は守る。けど、彼らは線を知らない。線を“予定”だと思ってる」
「予定は、紙だ」 田浦が吐き捨てる。 「紙の予定は、夜の音を知らない」
そのとき、事務所の電話が鳴った。田浦が受話器を取り、短く答える。 「はい……はい……“確認します”」 電話を切った彼の顔に、疲れの影が深く落ちた。 「県から。『港のCY末端で匂いの通報。確認を』」
遥は東出と目を合わせ、うなずいた。 「戻る」 西根が一歩前に出た。「俺も行く。——“交換用”の箱の鍵、持っている顔を知ってる」
***
港に戻ると、風はさらに冷たく、匂いは薄いのに、鼻の奥に残った。 CY末端のマスの縁——薄い虹が遅く揺れている。白い手袋の懐中電灯が左右に走り、明るい声が空に浮く。 「点検でーす。——異常なし」 異常なし。言葉は軽い。 東出はフェンスの影に身を寄せ、耳で地面を聴くように腰を落とした。 「音……厚い」 遥はスマホのメモに時刻を打つ。「22:18」。 西根は、CYの事務所の方向を一度見て、短く言った。 「保管庫だ」
三人は回り道をし、倉庫棟の背面に出た。白い手袋がいない側。 西根が低く囁く。 「この扉の中に、封印のストックがある。——番号は五連番」 鍵穴の縁に、新しい擦り傷。昨日よりも。 「開ける?」 遥の問いに、西根は首を振った。 「開けない。——“ある”ことを、外の紙に置く。君らが撮る。俺は見ない」
彼は扉のプレートを指差した。「保守部材保管」。 神谷の“死角の地図”が頭に浮かぶ。ここは薄い灰色の外、白い穴の縁。風上。 遥は距離を取り、プレートと鍵穴と扉の合わせ目を撮った。角度を一定に。反射の筋が、昨夜と違う位置で跳ねる。
「戻ろう」 西根が言い、三人は分かれて歩いた。 フェンスの向こうで、白い手袋の懐中電灯がまた横に流れた。 「点検でーす」 声は、死角の地図に載らない。
***
深夜。大学の実験室の灯は、まだ消えない。 白井からメッセージ。 〈No.10、AOF 118 μg F/L。陰イオンの歪みは継続。導電率、海塩の寄与を除いても上昇〉 〈“匂い”と“音”を、数字が追いかけている〉 遥は短く息を吐き、机にノートを開いた。
——D-1のタグ、切断。南京錠再装。 ——“切る手”の音。鍵の音が違う。 ——保守部材保管庫の新しい擦り傷。 ——No.10/AOF 118。 ——死角の縁=風上。
「紙は遅い。——でも、遅い正しさは、死角の縁に立つ」 その一文を書き、ペン先を止めたとき、スマホが震えた。非通知。 「——写真、見た」 海藤の声は、いつになく低い。 「どの写真」 「保管庫の扉。鍵穴の擦り傷。……君は立つ場所を選んでいる」 「風上に」 「なら、次は“音”だ」 少しの沈黙。 「明日の夜、港の北側、旧桟橋。——“音”を聞かせる」
通話が切れた。 遥は窓の外の暗い川を見た。堤の街灯が風に揺れ、光の円が重なっては離れる。 舌は、音を覚える。 金属は、嘘をつかない。 角度は、嘘をつく。 紙は、遅い。 だが、遅い紙が並ぶほど、言葉は厚くなる。
彼女は最後に一行、書き加えた。 ——風上で、音を待つ。 音が鍵を回す前に。
第十章 音の指紋
夜は、音から濃くなる。 港の北側、旧桟橋は、潮に磨かれた鉄の骨だけが残り、黒い海面に薄い格子の影を落としていた。水城遥は、防寒の襟を立て、桟橋の欄干に手を置いた。冷たい金属は、かすかな振動で指先を震わせる。水の奥に、遠い咳のような律動。
「ここだ」
海藤が、暗がりから現れた。いつもの背広ではない。薄いジャケットに、工具の入った小さな黒いケース。 「旧排水の合流。最終の吐け口。今は”使っていない”ことになっている。——夜を除けば」
「音は、鍵より先に動く」
遥が言うと、海藤はわずかに頷き、ケースの蓋を開けた。中には、薄い金属板のような接触マイクと、手のひら大の記録機。 「君らがやるべきだったが、今日は俺が持ってきた。会社の備品じゃない。——個人の『興味』だ」
そこへ神谷亮が早足で来た。黒い布袋から、小ぶりの地震計用のジオフォンを取り出す。 「土に伝う音も拾いたい」
東出が遅れて姿を見せ、桟橋の影から周囲を見張る位置に立った。白井は今夜は大学に残り、No.10の前処理を終え、AOFの正式分析を待っている。西根は消息を絶ち、十数分遅れるとだけ連絡をよこした。
神谷が接触マイクを欄干に貼り、ジオフォンを桟橋の脚の根もとに沈める。海藤が記録機の時刻を指で合わせた。 「これで、音に時間を与えられる」
遥は時計を見た。二十一時十五分。風は弱く、海は鉛の板のように重い。 桟橋の鉄が、ふっと息を吸うように鳴った。 海藤が囁く。「遠いポンプの立ち上がり。——誰かが触っている」
***
大学の実験室で、白井はスマホの画面に目を落とした。遥から送られてくる短い時刻の並び——「21:17 微振動」「21:23 周期増」「21:30 低音乗る」。 彼女はクーラーボックスからNo.10の分取管を取り出し、冷えたステンレスの上に置いた。陰イオンのピークは微妙に太り、塩の山の裾に、不釣り合いな小さな肩が付く。 「音が、流路を描いている」
白井はひとりごとを呟き、事務机の端に置いた「町のカルテ」に目をやった。今日書き込まれた子どもの字——〈おとがする〉の行が、白い紙の真ん中で小さく光る。
***
旧桟橋。 接触マイクの線を通じて、耳は金属の腹の中へ潜り込んだ。 「低い……四十前後。脈打ってる」 神谷が記録機の針を見ながら言う。 「ただの海鳴りじゃない。人工の脈」
海藤が桟橋の縁にしゃがみ、暗い水面に目を凝らした。 「旧管の先。潮位がここを越えると、音は変わる」 言い終える前に、遠くで金属が一度、短く擦れた。鍵の音ではない。もっと重く、鈍い回転。 「ゲート、触った」
時刻は二十一時三十五分。欄干が柔らかく唸り、足もとの鉄が一段低く響く。 遥は記録用のノートに線を引いた。 〈21:35 低音の層が増える。持続。〉 海藤が接触マイクの位置を少し変え、神谷がジオフォンの角度を調整する。 「これ、”音の指紋”にできる」 神谷が囁く。 「この管、この弁、この夜の癖。周波数の山、減衰の仕方、立ち上がりの時間。——番号より、よほど個性がある」
東出が、背後の暗がりに目を遣った。 「白い手袋、来る」
懐中電灯が二つ、桟橋の根もとの土手を横切る。 「点検でーす」 いつもの明るい声。 海藤が小さく舌打ちし、接触マイクのケーブルに目を落とした。 「光、上げるな。——音は、光に怯えない」
懐中電灯の円は、彼らの足もとをかすめずに通過し、海面を白く撫でた。白い手袋の影は、風の向こうへ消えた。
欄干の震えが、ふっと変わった。 「今、何かが『抜けた』」 海藤が言う。 神谷は記録機の波形に目を凝らす。 「低音に歯が立った。二枚刃。バルブの歯数、拾えるかも」
遥は耳で鉄の息を数えた。七つの短い脈ののち、間が一つ伸びる。再び七。 昨日、ラチェットの歯を数えた癖がよみがえる。 「七、ひと休み、七」
桟橋の下、黒い水面に小さな渦がひとつ、そしてもうひとつ生まれ、ゆっくりほどけた。匂いは弱い。弱いのに、舌の奥が微かにしびれる。
「記録、二十一時四十二分、ピーク」 神谷が針を押さえ、時間を書き込む。 そこへ駆け足の音。影が低く飛び、鉄の階段に足が触れる音。 「遅くなった」
西根が現れた。素手。手の甲に薄い擦り傷。 「D-1に人が来た。——音が違った。鍵じゃなく、工具だ」
海藤が顔を上げる。短い視線の交差。 「切ったか」 「切った。——でも、閉め戻した。田浦さんが」
遥は西根の息が整うのを待たずに、問いを投げた。 「保管庫は?」 「鍵穴に新しい傷。封印のストック、減ってる」
神谷が波形に目を戻し、囁く。 「今の『歯』、覚えた。——E音に近い。周波の刻み」 「音に音楽を持ち込むな」 東出が苦笑する。 「でも、音は音だ。——数えられる」
***
大学。 白井のモニターに、AOFの正式値が届いた。No.10:118 μg F/L。 彼女は短く息を吐き、データの右端に「21:30-42 音ピーク(旧桟橋)」とメモを挟んだ。 数字は匂いに遅れ、匂いは音に遅れる。だが、遅れる軌跡が重なるとき、線は一本になる。
水道局の南から電話。 「先生、町の『念のため』の掲示、明日も続けます。——『直ちに』は、まだ言えない」 「言わなくていい。音を聞いて」 白井は電話を切り、机の端の「町のカルテ」に今日の日付を足した。『音がする』の欄に小さな丸が増えていく。
***
旧桟橋。 音は、むしろ静かに太った。鉄の体が、微かなふるえで夜の奥行きを測る。 海藤が記録機のストップを押し、接触マイクを外した。 「十分。——これで、音の指紋は取れた」 神谷はジオフォンを抜き、砂を払う。 「波形、保存。スペクトル、明日出す」
遥は海面を見下ろし、慎重に言った。 「今夜の『使っていない』が、紙の上の『確認』になるまで、どのくらいかかる?」 海藤は答えず、桟橋の鉄の欄干を指で弾いた。短い高音。 「紙は遅い。——だから、遅い紙を複数重ねる。音、匂い、舌、数字、角度。全部で、ひとつの重さにする」
東出が遠くを見て顎を上げた。 「来る」
白い手袋の懐中電灯が、今度は海に向かわず、桟橋のほうへまっすぐ伸びた。 「夜間立入禁止です。——ここで何を」
海藤が一歩前に出た。 「港湾局の臨時協議だ。君の上司に聞け」 白い手袋は一瞬だけたじろぎ、無線に手を伸ばした。 「確認——」 その隙に、神谷は機材を布袋に押し込み、東出は桟橋の影に後退した。 遥は懐中電灯の輪の縁に立ち、目線をずらさずに言う。 「点検のときに、角度を動かすのは何分ですか」 白い手袋は目を瞬かせ、答えなかった。答えないことは、答えの形をしている。
「帰る」 海藤が短く言い、最初に体を回した。 「風上に」 その一言は、助言であり、命令だった。
***
宿に戻ると、神谷から波形の第一報が届いた。 〈21:35〜42、共振帯域の盛り上がり。基底40Hz前後+歯打ち(約7拍間隔)〉 〈ジオフォンにも同時刻の立ち上がり。——“管の呼吸”〉 遥は喉の奥で、その音をもう一度聞いた。鉄の体を通って耳に届く、喉の低い笑いのような音。
白井からも。 〈No.10:118 μg F/L。——音のピークと時間帯が重なる。『舌の記録』、今夜も増加〉 〈明朝、港CY末端と旧桟橋直下、並行採水したい〉
井原からは短いメッセージ。 〈明日、委員会の『報告』。死角と点検ログ、出す準備はある〉
遥はノートを開き、項目を書いた。 ——旧桟橋の音:21:35-42/歯打ち七 ——接触マイク/ジオフォン/“管の呼吸” ——No.10:AOF 118 μg F/L ——D-1タグ切断/保管庫鍵穴の傷——“点検”の角度/死角の穴
最後に、一行だけ足す。 〈音は、番号より正確だ〉
***
処分場。 田浦徹は夜勤の机に身を落とし、短いメモを引き継ぎ用ファイルに挟んだ。 〈D-1封鎖。タグ再装。切断痕あり〉 〈B-7/C-2厳禁〉 〈港CY末端注意〉 窓の外の斜面で、小さく何かが崩れた。黒い板の山の端。その音は、書類には載らない。
ドアが開き、西根が立った。掌の擦り傷は乾きかけ、目はまだ夜の色をしている。 「音、取れた」 田浦は頷き、窓の向こうの黒に目をやった。 「音は、紙の言葉を押す」 「押された紙は、誰かの鍵束に挟まれる」 「挟まれた紙は、角が丸くなる」 二人は顔を見合い、短く笑った。
***
深夜。 港の空は、磨いた鉛のように鈍く光り、クレーンの赤い点が、眠る猫の呼吸みたいに弱く明滅している。 遥は窓の外を見ながら、送信ボタンを押した。 ——《音の指紋》 封印の角度、死角の地図に続く第三の小稿。接触マイクの波形と、ジオフォンの立ち上がり。歯打ちの間隔。時刻。旧桟橋という固有名。 紙は遅い。だが、遅い紙が三枚重なるとき、重さはやっと、指で感じられる。
スマホが震えた。非通知。 「——聞いたよ」 海藤の声。 「音は、鍵より先に走る」 「鍵は、音の後ろで嘘をつく」 「嘘を減らすのは、角度と、数字と、舌だ」 「そして、顔だ」
短い沈黙。 「明日、昼。——A-3の鍵、もう一度借りる。帳面の『修正』が入る前に、貸出の手を見ておけ」
通話が切れる。 遥はペンを置き、眼を閉じた。 耳の中で、鉄の低い笑いのような音が、まだ小さく刻まれている。 七、ひと休み、七。 番号を持たない、夜の証言。
彼女は目を開き、最後に短く書いた。
——音は、鍵を追い越す。 ——匂いは、角度を裏切る。 ——舌は、数字を待つ。 紙は遅い。 だが、遅い紙の上で、音は生きる。 朝は、音の跡から始まる。 その跡が、鍵を回す前に。
第十一章 貸出の手
朝は、手から始まる。 港湾管理事務所の窓口の向かい、昨日と同じベンチ。壁時計は10:52。白い手袋の係員が鍵束を磨く仕草は、儀式に近い。金属の環がわずかに鳴るたび、音は短く冷たく、紙の上の時間に小さな爪痕を残す。
水城遥は、カメラを膝の上に伏せ、視線だけで窓口の帳面を追った。複写式の厚い帳面。貸出欄の「A-3」の横に、鉛筆で薄く「—:—」の線だけが引かれている。空欄は、いつも正しさの仮面をかぶる。
ドアが開く。白い手袋が二組。ひとつは、昨日から見慣れた窓口の係員。もうひとつは、灰色の作業服に「浦辺商事」の刺繍。後ろから、背広の男が一歩遅れて入ってきた。胸の名札に「港湾管理課補佐・桐生」とある。 桐生は笑顔を作り、帳面の前に立つと、右手の白い手袋を少しだけはめ直した。右の親指の付け根に、薄い茶の擦り傷。白は、そこだけ鈍く沈む。
「A-3、点検搬出。貸出、十一時ちょうど」
係員が頷き、鍵束から「A-3」のタグを外す。桐生の目が時計を見て、秒針の位置を測る。まだ十一時には四分ある。 「準備。……記入は、十一時」
浦辺の男が無言で書類を差し出し、桐生は赤鉛筆を手に取る。貸出欄の「A-3」の行に、赤の細線で小さな枠を作る。 秒針が十二の手前に来ると、桐生は右手で帳面を押さえ、左手でペンを取った。左利き。白い手袋の左が、時刻の欄に「11:00」と迷いなく書き入れる。 「印鑑、確認を」 彼は右手で「訂正印」の朱肉を軽く叩き、時刻の上の白い余白に小さな四角を落とした。 遥は、その手の癖を見た。左で書き、右で押す。押す瞬間だけ、右の親指の付け根がわずかに痛むのか、白い布が一瞬窪む。傷の位置と、印の癖が重なる。
11:00。桐生は鍵を浦辺に渡し、係員が帳面の「貸出済」に細いチェックを入れる。 「ご協力を」 言葉は明るい。明るい言葉は、見たものが少ない。
桐生が帳面を閉じかけたとき、海藤が入ってきた。ジャケット、緩いネクタイ。 「間に合った。——『報告用』に、貸出時刻を確認したい」
桐生は笑った。 「十一時、です」 「十一時」 海藤は復唱し、視線を帳面ではなく、桐生の手に落とした。その目は、笑っていない。
事務所を出ると、井原が庁舎から駆けつけ、短く顎を上げた。 「見た?」 遥はうなずいた。 「左で書いて、右で押した。——印の角が、ほんの少し欠ける癖」
神谷から「了解」の一言が来る。彼は事務所の外の自販機の陰にいて、携帯のカメラで窓口の手元を斜めから押さえていた。「手の角度」を数字に落とすのが彼の仕事だ。
***
A-3のシャッター前では、浦辺商事の男が鍵を回し、白い手袋の係員がタブレットを掲げる。封印番号の確認は後だ。まずはラックの移動。帯鉄が鳴り、パレットの角が低く唸る。 床のフロアドレンは、相変わらず乾いている。封水は入っていない。溝の縁に、昨日より薄い虹。匂いは弱いが、舌の奥が微かに覚える。
「封水、点検のときに」 浦辺の男が言い、白い手袋の係員が「記録します」と答える。記録は紙に行く。溝は海に行く。
遥は、角度を合わせて撮る。昨日と同じ高さ、同じ焦点距離。角度を揃えるのは、嘘を減らす作法だ。 海藤は倉庫の影で立ち、短く言った。 「帳面は『正しい』。——手は、正しかったか」
「手は、訓練されている」 遥は答え、桐生の親指の付け根を思い浮かべた。白の窪み。紙には、あの窪みは残らない。
***
北嶺大学。白井は朝のうちにNo.10の前処理を終え、外注のAOF正式レポートを待ちながら陰イオンの曲線を眺めていた。酢酸のピークが、塩の裾野に埋もれたまま、小さな肩を持ち続ける。 彼女は机の端の「町のカルテ」をめくる。〈おとがする〉の行が増えている。子どもの字、大人の字、震える字。 携帯が震え、南からの短い文が届いた。 〈掲示、継続。——『直ちに』は避ける〉 白井は、〈音を聞き続けて〉と返し、封筒の上に指を置いた。昨日、大学の保管庫に納めた封印球「QL 908376」。金属は嘘をつかない。だから、数字はその隣に立つ。
***
処分場。 田浦徹は、昼前に呼び出しを受けた。管理棟の小部屋。机と椅子と、クリップボード。県の職員が二人、海藤が一人。 「『柔軟な運用』に関する聞き取りです」 紙の言葉は乾いている。田浦は視線だけで窓の外を探り、黒い板の山の縁が崩れていないかを確認する。
「昨夜、D-1の封鎖タグが切断された件。——誰が切ったか」 「知らない。切られたという事実は、ここにある」 田浦は赤いタグと切断痕の写真を出し、机の上に置いた。 「C-2は?」「閉めた。『柔軟』は、骨に来る」
県の職員は、丁寧に頷き、「現時点では——」と言いかけて黙った。 海藤が間を継ぐ。 「現場の判断は尊重します。——ただ、書類の上の『予定』は、紙の上で進んでいる」
「紙は進む。水は沈む。沈むほうを見ているのが現場だ」
沈黙。クリップボードの紙が、乾いた音で移動する。
***
昼過ぎ。地区センターの会議室では、井原が「委員会報告」の準備に追われていた。 「死角の地図」「封印の角度」「音の指紋」。三つの小稿は、市内の掲示板とSNSで静かに広がり、コメント欄には「おとがする」「冷たいに何か」「金気」という短い語が並ぶ。 井原は持ち時間の中で、数字と舌を同じ紙の上に並べる方法を考え続けた。 「角度は嘘をつく。金属は嘘をつかない。舌は嘘をつかない」 彼は、声に出して三度繰り返し、言葉の重さを体に馴染ませた。
***
A-3の前での搬出は、淡々と進み、封印の番号はまた「QL 908377」。白い手袋の係員がタブレットで確認のボタンを押す。 そのとき、神谷から短いメッセージ。 〈さっきの貸出欄、筆圧とストローク解析、左利き。訂正印は右。——昨日の修正痕と一致〉 〈桐生の親指、傷あり。位置が印の欠けと相関〉
海藤が、わずかに目を細めた。 「君たち、手に詳しいな」 「鍵の音は、手の角度で変わる」 遥は笑わずに言った。
***
午後の大学。外注から正式レポートが届いた。 〈No.10:AOF 118 μg F/L/回収率91%/ブランク問題なし〉 〈陰イオン:酢酸優勢、微弱なギ酸、塩化物増〉 白井は、データの端に「旧桟橋 21:35-42 音ピーク」と書いた付箋を貼った。音と数字の時間が重なる。重なるとき、紙の遅さは武器になる。
彼女は南へ電話をかけた。 「数字、出ました。『念のため』の延長を」 「わかりました。——住民説明会用の『舌の記録』、こちらでも配ります」 南の声は疲れているが、抑えた熱を含んでいる。
***
夕方、雲が低くなり、風向きがまた変わる。神谷の「死角マップ」には、扇形の灰色の縁に赤い点が増えていく。CAM-3、CAM-5——点検ログは、今日も短い「九分」を記録した。
港の保守部材保管庫の扉には、新しい擦り傷がさらに増えた。西根が白い手袋をせずに、その縁を指でなぞる。 「在庫、減ってる。五連番のうち、あと二つ」 「番号は?」 「……言わない。——言わない代わりに、手を見ておけ」
「貸出の手?」 西根は頷き、遠くの事務所棟の窓に視線を投げた。桐生の影が、電話の受話器を肩と頬で挟み、右手で朱肉を叩く姿が一瞬だけ見えた。
***
診療所では、大庭が壁の「町のカルテ」に新しい紙を追加していた。 老女が来て、静かに書く。〈おとは、きのうよりちいさい〉 若い父親が来て、短く書く。〈こどもはねむれる〉 大庭はペンを置き、言った。 「『直ちに』は、まだない。——でも、記録は、直ちに」
***
夜が近づく。港の空気は金属の薄い匂いを持ち、クレーンの赤い点が早く瞬く。 井原からメッセージ。 〈報告、明朝。——桐生の名前は出さない。手だけ出す〉 神谷から。 〈音のスペクトル、歯打ち七のパターン、昨夜と一致〉 白井から。 〈No.10のAOFと音、時間一致。——明日、旧桟橋直下+上流側も〉
遥は、紙を並べ直した。 ——左で書き、右で押す手。親指の窪み。 ——A-3のドレン、封水なし。薄い虹。 ——保管庫の鍵穴、擦り傷の増加。 ——死角マップの九分間。 ——音の指紋。AOFの数値。 紙は遅い。だが、遅い紙が積む高さは、やがて手を重くする。
ドアがノックされた。 開けると、海藤が立っていた。ネクタイは外し、顔に夜の色。 「明朝、委員会に『報告』が出る。死角と点検ログ。——『貸出の手』は、出ない」「出さないの?」 「出せない。……出すと、紙が先に倒れる」 「紙が倒れる前に、水が沈む」
海藤は、わずかに目を閉じた。 「だから、今夜、もうひとつ。——A-3の中、床ドレンの”封水”。入っていない理由の紙が、用意されている」
「どんな紙」 「『防塵清掃のため一時排水』。日付は空欄。——手が、埋める」
「貸出の手?」 「白い手袋の下の手」 海藤は、薄い封筒を一枚、机に置いた。 「君の紙に、間に合うように」
封筒の中には、コピーされた内部メモ。〈点検時の写真は角度統一〉〈封印再撮影手順〉〈貸出時刻の表記ルール:十一時基準〉 右下に、小さく「桐生」の電子署名。
遥は深く息を吸い、頷いた。 「角度は嘘をつく。——手は嘘をつく?」 「手は、訓練される。訓練は、嘘の形を整える。……だから、舌がいる。音がいる。数字がいる」
海藤は背を向け、ドアの取っ手に手をかけた。 「明け方、風が変わる。旧桟橋、もう一度。——音は、鍵より先に走る」
***
夜、港。 A-3のシャッターは閉まり、タグが外に揺れる。鍵穴の縁に、新しい擦り傷がひとつ増えた。 猫が戻ってきて、黄色い線をまたぎ、溝の上で止まる。鼻先を低くして、匂いをしばらく味わい、静かに去る。 遥はフェンス越しに、倉庫の床の薄い影を見た。封水は、まだ入っていない。 風が南に回り、金属の匂いが薄くなる。音は、低く太る。
彼女はノートを開き、最後に書いた。
——貸出の手。 ——親指の窪み。 ——訂正印の角。 ——封水という空欄。 ——音という証言。
紙は遅い。 だが、遅い紙に手の温度が移ったとき、言葉は少しだけ重くなる。 その重さで、鍵を回す前に、扉の隙間を指で押しとどめる。 朝は、手から始まる。 夜は、音で終わる。 そして、町は、舌で記憶する。
第十二章 封水の空欄
朝は、空欄から始まる。 市役所の小会議室。壁の時計は八時五十九分、秒針は十二の手前で小さく跳ねる。机には「委員会報告(臨時)」の薄い冊子。表紙の余白は広く、その白が今日埋まらないことを、既に知っている色をしている。
進行役が開会を告げ、井原が前に立った。 「三点、報告します」 スライドがめくられ、神谷の作った図が壁に映る。第一に「死角の地図」。監視カメラの視野と、九分間の“点検”ログ。第二に「封印の角度」。番号が同じでもワイヤの撚りとバリの欠け方が異なる比較図。第三に「音の指紋」。旧桟橋での接触マイクとジオフォンの波形、歯打ち七の間隔、時間は二十一時三十五分から四十二分。
井原は、言葉を短く、角を立てずに置いた。 「角度は嘘をつく。金属は嘘をつかない。——音もまた、嘘をつかない」
白井が続く。 「港CY末端のAOFは、背景(14±3 μg F/L)に対し、No.7:96、No.8:112、No.9:101、No.10:118 μg F/L。陰イオンは酢酸優勢の歪み。『直ちに』では測れないものが流れている。『念のため』の掲示は継続を」
水道局の南は短く頷いた。 「掲示は続けます。——粉末活性炭の追加も」
後方の傍聴席で、老女が小さく手を上げ、係員に制されながらも、ひとことだけ漏らした。 「おとは、まだする」
進行役が視線を横に送る。海藤は、報告者席の少し後ろで表情を整えていた。 「弊社は、地域とともに『計画』に基づき、見える化を——」 彼の言葉は滑らかだが、今日だけ、喉の奥でひとつ引っかかった。
井原が最後に言う。 「本日の報告に、『貸出の手』は含めません。——手の名は、紙の外に置きます。ただし、手が押した印の角(かど)は、記録しました」
拍手はない。紙が重なる音だけが、短く会議室を撫でた。
***
廊下に出ると、桐生が待っていた。胸の名札に「港湾管理課補佐」。右の親指の付け根の白い手袋が、やはり薄く沈んでいる。 「報告は拝見しました。——誤解のないように」 彼は笑いながら言い、帳面の複写紙と同じ薄さの語尾で続けた。 「点検は点検です。角度の統一は安全のため。封印の交換は規定どおり。貸出時刻は、運用上の『十一時基準』で記載します」
「『基準』は、白い手袋の人差し指で指される」 遥が言うと、桐生は笑顔の形を崩さず、ほんの一瞬だけ目の焦点を外した。 「お仕事、頑張ってください」
白い手袋は去り、廊下には紙の匂いだけが残った。
***
午前十時、北嶺大学。 白井は採水の準備を整え、東出と合流する時刻を遥に送った。今日の目的地は二箇所。「旧桟橋直下(再)」「河口上流五百メートル」。ラベル用の白いテープに〈No.11〉〈No.12〉の数字を手で書く。 机の端で「町のカルテ」をめくると、子どもの字で〈おとはちいさくなった〉、別の字で〈でもあじはおぼえてる〉。紙の白が、わずかに湿る気配を持つ。
白井はキャップを閉め、心のどこかで小さくつぶやいた。 「角度は嘘をつく。——舌は嘘をつかない」
***
正午前、A-3。 浦辺商事の男が「防塵清掃」の黄色い札をぶら下げ、白い手袋の係員がタブレットで“点検開始”をタップする。床のフロアドレンは相変わらず乾き、格子の隙間から冷たい空気が上がる。 「封水は」 遥が問うと、浦辺は笑顔の枠だけで答えた。 「清掃後に入れます」 「いつ」 「本日中に」 「時刻は」 「——本日中に」
言葉の中に、空欄が置かれる音がした。 海藤が倉庫の影に立ち、目で「紙」と言う。遥の手に渡った封筒には、「防塵清掃のため一時排水」のテンプレート。日付と時刻の欄が空白のまま、印影だけが鮮やかに準備されている。
床の隅で、猫が黄色い線をまたぎ、溝の上で止まった。鼻先を低くし、短くくしゃみをひとつ。匂いは薄い。薄いのに、正確だ。
***
午後、処分場。 田浦は、昨日切られた「D-1」のタグの代わりに、新しい赤いタグを付け、南京錠を再装した。工具箱の引き出しには、古い南京錠と、赤いプラスチックの予備タグが二つ。 若い同僚が顔を出す。 「県から電話。『夜間点検の際は柔軟に』」 田浦は指で机を二度叩いた。 「柔軟は、骨に来る」
机の上の匿名の封筒——昨日と同じ筆跡で、短いメモ。 〈B-7、今夜は“書類上”点検〉 〈D-1、工具持参〉 〈『音』に注意〉
「音」 田浦は窓の外を見た。黒い板の丘の縁が、わずかに呼吸する。
***
午後三時半、河口上流五百メートル。 白井と東出が堤の草をかき分け、浅い瀬の脇で採水瓶を満たす。白いテープのラベルに〈No.11〉時間〈15:34〉。匂いは薄い。導電率は簡易計で“いつもの川”に近い数値。 「ここは、舌が安心する場所だといい」 白井は瓶を冷却ボックスに収め、「旧桟橋直下」へ向かう。
夕刻、旧桟橋。 黒い水面は、濡れた鉄のように重い。白井は〈No.12〉のラベルに〈17:12〉と書き、瓶の口を水に触れさせる。薄い油膜が割れ、早く戻る。 東出が鼻を鳴らす。 「音が、今日は浅い」 「風が違う。——夜になれば、深くなる」
瓶の蓋を閉じる刹那、白い手袋の懐中電灯が遠くを横切った。 「点検でーす」 声は軽い。軽い声は、重いものの縁でよく響く。
***
地区センター。 井原は報告の補足を作り、掲示板に「舌の記録」の用紙を足した。 誰かが短く書いた。〈おと、きのうよりすくない〉 別の誰かは、ためらいながら書いた。〈でも、こわい〉 井原は紙の角を揃え、静かに言った。 「紙は遅い。——でも、遅い紙が、怖さを減らすこともある」
***
夕方、A-3。 浦辺商事の男が「防塵清掃」を終えたと告げ、白い手袋の係員がタブレットで“終了”をタップする。床のフロアドレンは、まだ乾いている。封水はない。 「封水は」 遥が問うと、男はテンプレートの紙を一枚見せた。今日の日付と時刻が、桐生の字で埋まっている。 「本日○時○分、排水——」 数字は正しい。——ただ、溝は乾いている。
「猫は、ここで水を飲まない」 東出が低く言い、綿棒でドレンの縁をそっと撫でた。ぬめりは、薄い。薄いが、ゼロではない。 白井に送るための小袋が、またひとつ増えた。
***
夜。風が変わった。 陸から海へ、短く鋭い。旧桟橋の鉄の骨が、さっきより低い音で息をする。 神谷が接触マイクを欄干に貼り、ジオフォンを脚の根もとに沈め、時刻を合わせる。 「二十一時二十五分」 海藤が囁き、視線を暗い水面に落とす。 「『書類上』点検が動くのは三十五分前後」
東出が背中を金網に預け、遠くの足音に耳を澄ます。白い手袋の光は見えない。代わりに、地面の奥から、古い咳のような律動が立ち上がる。 「来る」
欄干がふっと太り、低音が層を増した。 「三十七分」 神谷が記録機の針を指で押さえる。 「歯打ち——七。昨日と同じ」
海藤が短く息を吐き、顔を上げた。 「『書類上』点検は、音を知らない顔で通り過ぎる。——音は、紙の外で残る」
そのとき、遥のスマホが震えた。田浦からだ。 〈D-1、タグ再切断。南京錠交換。音、厚い〉 同時に、西根。 〈保管庫、在庫あと一。——番号は言わない。手を見て〉
欄干の震えが一段低く落ちた。 「四十二分」 神谷がメモの欄を埋める。 「ピーク、昨日と同じ」
白い手袋の懐中電灯が、今夜は一度も桟橋を舐めない。代わりに、遠くの倉庫棟の影で、鍵穴の光だけが短く走る。 「貸出の手」 遥の喉の奥で、言葉が沈んだ。
***
大学。 白井は〈No.11〉〈No.12〉の前処理を終え、導電率とpH、陰イオンのざっとした形だけを先に掴んだ。 〈No.11(上流):背景に近い〉 〈No.12(旧桟橋直下):歪み、継続〉 AOFの外注便を手配し、メールで南と遥に短い速報を送る。 〈『音』の時間に重なる歪み。——掲示の継続を〉
白井は窓の外を見た。遅い月が雲を薄く押す。机の上の「町のカルテ」には、今日の日付の欄が増え、〈おとはちいさくなった〉の横に小さな丸がいくつも並んでいる。 遅い紙の上に、遅い正しさが沈着していく。
***
夜半。 A-3のシャッターは閉まり、鍵穴の縁にまた新しい擦り傷が増えた。白い手袋は見えない。音だけが、隅々を撫でる。 東出はフェンスの影から短く呟いた。 「封水は、今日も空欄だ」
遥は、その言葉をノートに写した。 空欄は、音を吸う。 空欄は、匂いを延ばす。 空欄は、紙に優しい顔をして、町の舌には厳しい。
スマホが震えた。海藤だ。 〈明朝、港湾管理に『点検』の手順を再確認させる。——『封水』の欄を埋めさせる〉 〈ただし、欄が埋まっても、匂いはすぐには消えない〉 遥は返す。 〈欄が埋まるところを、舌が見ている〉
***
深夜、処分場。 田浦は、D-1の前で新しい赤いタグを指で押し、南京錠に手を掛けた。 「切られたという事実は残る」 彼は自分に言い聞かせ、引き継ぎ用の紙に短い行を書き足した。 〈D-1:切断痕二〉 〈B-7/C-2:厳禁、継続〉
事務所のドアが軋み、西根が入ってきた。素手。掌の擦り傷はもう薄い。 「保管庫、在庫は一。——数を言うのは、罪じゃない」 「番号は」 「言わない。番号は角度に負ける。——手を見てくれ」
二人は短く笑い、窓の外の黒い丘を見た。丘は静かだが、呼吸は止めない。
***
宿。 神谷から波形の第二報。 〈今夜も21:35–42にピーク。歯打ち七、一致〉 〈基底帯域の“厚み”、昨日より僅増〉 白井から。 〈No.11:背景範囲/No.12:歪み継続。AOFは朝〉 南から。 〈掲示、明日も。『直ちに』は避けるが、”舌の記録”を併記〉
遥は机の上で紙を並べ直した。 ——死角の地図/九分間。 ——封印の角度/交換用の球。 ——音の指紋/歯打ち七。 ——AOFの列/No.7〜No.12。 ——貸出の手/左で書き、右で押す。 ——封水の空欄/テンプレート。
最後に、短く書き足す。 〈空欄は、埋めるためにある。——誰が、何で、いつ〉
窓の外、堤の街灯が風に揺れ、光の円がゆっくりと重なっては離れる。猫が黄色い線をまたぎ、振り返って一度だけ鳴いた。音は小さい。小さい音は、長く残る。
夜は、空欄で終わる。 朝は、その空欄を埋める手から始まる。 角度は嘘をつく。 金属は嘘をつかない。 舌は嘘をつかない。 紙は遅い。 ——遅い紙に、手の温度が移れば、空欄はただの四角ではなくなる。 その四角が、鍵を回す前に。





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