八十八夜と銀河のあいだ
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 14分

八十八夜という言葉には、夜が八十八枚、薄い紙のように重なっている気がした。
幹夫は、祖母が古い暦をめくるたび、その言葉の響きに耳を澄ませた。立春から数えて八十八日。春というものが、ただ花の咲く一日ではなく、寒さの底から少しずつ積み重なってくるものなのだと、その数は教えているようだった。
一夜、また一夜。
霜の夜。 雨の夜。 風の強い夜。 母のいない家で、ふと目を覚ました夜。 窓の外の星を見上げ、胸の奥が静かに痛んだ夜。
そうした夜が八十八枚重なって、ようやく茶の若葉は摘まれるのだと、幹夫は思った。
五月のはじめ、茶畑は明るい緑に満ちていた。
山裾に続く畝は、朝日に照らされると柔らかな波のように輝いた。若葉はまだ薄く、指で触れれば傷ついてしまいそうだったが、その一枚一枚に、冬を越えてきた強さがしまわれている。露を抱いた芽先は、まるで夜の星が朝まで帰りそびれて、茶畑の上に宿ったようだった。
幹夫は十二歳だった。
胸の中に、いつも小さな水面を持っているような少年だった。人の声が少し強くなると、その水面は揺れた。友だちの笑い声の中に、誰かを置き去りにする響きを感じると、さざ波が立った。夕暮れの空があまりに赤い日は、胸の水があふれそうになった。
父は言った。
「八十八夜を過ぎれば、茶も本番だ」
父にとって八十八夜は、暦の上の合図だった。畑の支度を整え、人手を頼み、天気を読み、若葉の状態を見極める日々の節目だった。
祖母は、同じ言葉を少し違う声で言った。
「八十八夜はね、春がようやく大人になるころだよ」
「春も大人になるの?」
幹夫が尋ねると、祖母は笑った。
「なるとも。初めの春は、まだ寒さにおびえている。けれど八十八の夜を越えると、少し腰が据わる」
幹夫は茶畑を見た。
春が大人になる。
けれど若葉は、まだ赤ん坊のように柔らかい。大人になった春の中に、こんなに幼い緑が生まれるのが不思議だった。
その日の夕方、父が畑から戻ってくると、顔が少し険しかった。
「今夜、冷えるかもしれん」
祖母が手を止めた。
「霜かい」
「山の上が白かった。風も変だ」
八十八夜の別れ霜。
祖母がそう呟いた。
幹夫は、その言葉を知っていた。八十八夜のころにも、最後の霜が降りることがある。せっかく伸びた茶の若葉が、ひと晩の冷えで傷むことがあるのだ。
霜。
その白い言葉を聞くだけで、幹夫の胸は細く縮んだ。霜は美しい。朝の草に降りると、銀の粉をまいたように光る。けれどその美しさは、若い葉には冷たすぎる。きれいなものが、やさしいとは限らないのだと、幹夫はいつも思った。
夜、父は遅くまで畑を見回った。
幹夫もついて行きたかったが、父は「子どもは寝ていろ」と言った。幹夫は布団に入ったものの、眠れなかった。家の柱は冷え、障子の向こうからは、いつもより澄んだ夜の気配が入ってくる。
幹夫はそっと起き上がった。
机の上には、母が生前使っていた小さな暦があった。母は几帳面な人で、立春の日に小さな丸をつけ、それから日ごとに印をつけていた。八十八夜の日には、薄い鉛筆の字でこう書いてある。
――新茶の星がひらく夜。
幹夫はその文字を指でなぞった。
母らしい言葉だった。母は茶の芽を星にたとえる人だった。茶畑で空を見上げ、「地上にも銀河があるのね」と笑ったことがある。
幹夫は窓を開けた。
外には、澄みすぎた星空が広がっていた。寒さのせいか、星はいつもより硬く光っている。山の上には、淡い銀河が流れていた。遠い光の川。その下に、茶畑は闇に沈んでいる。
八十八夜と銀河のあいだ。
そのあいだに、今夜の茶の若葉がある。 そのあいだに、父が畑を見回っている。 そのあいだに、眠れない幹夫の胸がある。
幹夫は上着を羽織り、家を出た。
夜道は冷たかった。草にはもう露が降りていて、足元が湿った。田んぼの蛙の声も、今夜はどこか遠慮がちだった。坂を上るにつれて、新茶の香りがかすかに強くなった。冷たい空気の中では、その香りはいっそう青く、いっそう痛いほど澄んでいた。
茶畑に着くと、父の姿があった。
畝の端に立ち、空を見上げていた。作業着の背中が暗闇の中で大きく見えた。けれどその大きさは、頼もしさだけではなく、何かを背負っている重さにも見えた。
「幹夫」
父は振り返った。
「寝ていろと言っただろう」
「眠れなかった」
父は叱ろうとして、やめたようだった。幹夫の上着の襟を見て、少しだけ息を吐いた。
「寒いぞ」
「うん」
「なら、そばにいろ」
幹夫は父の隣に立った。
茶畑は暗く、若葉の色は見えなかった。ただ、畝の曲線が星明かりでかすかに浮かび、ところどころの露が小さく光っていた。
「霜、降りる?」
幹夫が尋ねた。
「分からん」
父は短く答えた。
分からない。
その言葉は、夜の中でとても大きく聞こえた。
父はいつも分かっている人に見えた。どの芽を摘むべきか、雨の前に何をするべきか、畑のどこが弱っているか。けれど今夜の父は、空と畑のあいだで、ただ分からないものを見つめている。
幹夫は父も不安なのだと気づいた。
不安なのに、声を荒げない。 不安なのに、畑から離れない。 不安なのに、若葉のそばに立っている。
それは、幹夫の知っていた強さとは少し違っていた。
「お父さん」
「なんだ」
「茶の葉は、怖いかな」
「霜がか」
「うん」
父はしばらく黙った。
それから、畑へ目を向けたまま言った。
「怖いかもしれんな」
幹夫の胸が痛んだ。
「でも、逃げられない」
「ああ」
「かわいそうだね」
父は幹夫を見た。
以前なら、そんなことを言うなと困った顔をしたかもしれない。けれど今夜の父は、静かだった。
「だから、できるだけ守る」
父は言った。
「全部は守れん。天気には勝てん。それでも、見回る。風を読む。できることをする」
幹夫は、その言葉を胸の中で受け止めた。
全部は守れない。
その言葉は悲しかった。けれど、悲しいだけではなかった。守れないものがあるから何もしないのではなく、守れないものがあるからこそ、できることをする。
幹夫は、ふと母のことを思った。
母が病気になったとき、父も祖母も、きっと同じように思ったのではないか。全部は守れない。それでも看病し、湯を沸かし、病院へ通い、声をかけた。幹夫は当時、そのことに気づけなかった。ただ母がいなくなる恐ろしさだけで胸がいっぱいだった。
今夜、茶の若葉を前にして、幹夫は初めて父の無力さと優しさを同時に見た気がした。
風が吹いた。
若葉が暗闇の中で小さく揺れた。幹夫には、その揺れが寒さに耐える震えのように見えた。自分の心の震えと、茶の葉の震えが重なった。
「僕の心も」
幹夫は思わず言った。
「霜に弱い葉みたいだ」
父は何も言わなかった。
幹夫は続けた。
「ちょっとした言葉で、すぐ冷たくなる。人が笑っただけで、傷ついたりする。自分でも嫌になる」
夜の空気が、二人の間で白く冷えていた。
父はゆっくりと言った。
「弱い葉が、悪い葉とは限らん」
幹夫は父を見た。
「新芽は弱い。霜にも虫にも日差しにも弱い。だが、その弱いところに香りがある」
父の声は不器用だった。
けれど幹夫には、その不器用さがかえって胸に沁みた。父は幹夫を慰めるのが上手ではない。けれど畑の言葉でなら、少しだけ心へ近づいてくれる。
「強い葉だけでは、新茶にならん」
父はそう言った。
幹夫の目が熱くなった。
父は空を見上げた。
「母さんも、似たようなことを言っていた」
「お母さんが?」
「ああ。お前が小さいころ、よく泣く子でな。俺は心配していた。すると母さんが言った。泣く子は、水を知っている子だって」
幹夫は息を止めた。
水を知っている子。
それは、母らしい言葉だった。幹夫の胸の中に、母の手の温度が戻ってきた。熱を出した夜、額に置かれた冷たい掌。泣いたあと、背中を撫でてくれた指。
「水を知っている子は、いつか人の渇きにも気づくって」
父は少し照れたように、咳払いをした。
「俺には、よく分からんかったが」
幹夫は涙をこらえなかった。
涙は頬を伝い、夜の冷気ですぐに冷たくなった。父はそれを見ても、何も言わなかった。ただ、幹夫の肩に大きな手を置いた。その手は重かった。けれど今夜は、その重さが温かかった。
そのとき、祖母の声がした。
「二人とも、ここにいたのかい」
坂道から、祖母がゆっくり歩いてきた。手には小さな包みと魔法瓶を持っている。
「こんな夜に、お茶を飲むのか」
父が少し呆れたように言った。
「こんな夜だから飲むんだよ」
祖母は畑の端に腰を下ろし、包みを開いた。中には去年の茶葉が少し入っていた。新茶ではない。冬を越した茶だった。
「新茶の前に、去年のお茶に挨拶しようと思ってね」
祖母は湯を注いだ。
湯気が白く立ち上る。その白さは、霜にも似ていた。けれど霜と違って、温かかった。幹夫はその違いが不思議だった。同じ白でも、冷たく命を傷つけるものと、温かく心をほどくものがある。
祖母が幹夫に湯呑みを渡した。
「八十八夜は、待つ夜だよ」
「待つ夜?」
「春を待つ。霜が行ってしまうのを待つ。若葉が香りになるのを待つ。人の悲しみが、少しずつ別の形になるのを待つ」
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
お茶は新茶ほど鮮やかではなかった。香りも落ち着いていて、深く、少し丸かった。一口飲むと、苦みの奥からゆっくり甘みが戻ってきた。
「去年の茶は、夜みたいだね」
幹夫が言うと、祖母は微笑んだ。
「どんな夜だい」
「泣いたあとの夜」
父が幹夫を見た。
幹夫は湯呑みを見つめたまま言った。
「最初は苦いけど、あとから少しあたたかい」
祖母は何も言わなかった。ただ、目を細めた。
空には銀河があった。
幹夫は湯呑みの水面に、それが映らないかと見つめた。実際には、暗くて何も映らなかった。けれど幹夫には、そこに見えない銀河が沈んでいるような気がした。
八十八夜という地上の暦。 銀河という空の時間。
八十八夜は、人が春を数えるための言葉だった。立春から一夜ずつ、地上の寒暖を感じながら数える。銀河は、人の数をはるかに超えた遠い時間の流れだった。星の光は、幹夫が生まれるずっと前から旅をしている。
その二つのあいだに、今夜の幹夫がいる。
短い命の少年。 母を失った少年。 若葉の震えに胸を痛める少年。 父の言葉に初めて少し救われた少年。
幹夫は思った。
人の心は、八十八夜と銀河のあいだにあるのかもしれない。
日々を一つずつ数えるほど近く、星の光を受け止めるほど遠い。今日の霜を恐れながら、何年も前の言葉に慰められる。目の前の若葉を守りたいと思いながら、空の彼方に消えた母を思う。
心は小さいのに、近さと遠さの両方を抱えている。
そのことが、幹夫には少し怖く、少し誇らしかった。
夜はさらに冷えた。
父はもう一度畑を見回った。祖母は湯呑みを片づけながら、空を見上げた。
「星がよく見える夜は、冷えるねえ」
「きれいなのに」
幹夫は言った。
「若葉にはつらいんだね」
「そうだね」
祖母は頷いた。
「美しいものが、いつも優しいとは限らない。でも、美しいものを憎まなくてもいい」
「どうして?」
「憎むと、心まで霜になる」
幹夫は黙った。
母を奪った冬を、幹夫は長いあいだ憎んでいた。白い病室、冷たい廊下、雪も降らない乾いた空。けれど冬を憎むと、母が冬の中でくれた笑顔まで冷たくなってしまう気がした。
霜の美しさを憎まない。 冷たい星を憎まない。 別れのあった季節を、全部閉ざさない。
それは難しいことだった。
けれど幹夫は、いつかできるようになりたいと思った。
やがて、東の空がごくわずかに薄くなった。
父が戻ってきた。
「霜は、たぶん降りない」
祖母が安堵の息をついた。
幹夫も、胸の中で何かがほどけるのを感じた。茶畑の若葉たちは、今夜を越えたのだ。
もちろん、すべてが無事かどうかは朝にならなければ分からない。それでも、夜の底はもう過ぎつつあった。
幹夫は茶畑を見渡した。
闇の中で、若葉はまだ色を持たない。けれど星明かりと夜露の間で、小さく光っている。八十八の夜を越えて、さらにこの冷たい一夜を越えて、若葉は朝へ向かっている。
幹夫は自分の胸にも、そんな小さな芽があるように思った。
弱く、薄く、霜におびえる芽。
けれど、香りを持っているかもしれない芽。
家へ帰る道、空の銀河は少しずつ薄れていった。
朝が近づくにつれ、星は消えていく。けれど幹夫は、もう消えたとは思わなかった。見えなくなるだけで、そこにある。母の言葉と同じように。父の不器用な優しさと同じように。祖母が淹れた去年のお茶の温かさと同じように。
翌朝、茶畑は無事だった。
朝露は葉先に残り、霜にはならなかった。若葉は淡い光を透かし、昨日より少しだけ伸びているように見えた。父は畑を見て、深く息を吐いた。祖母は手を合わせた。
幹夫は畝の端にしゃがみ込んだ。
一枚の若葉に、そっと触れた。
「よかったね」
小さく言うと、葉は風に揺れた。返事のようだった。
その日、茶摘みが始まった。
村の人々が畑に入り、白い手ぬぐいが五月の光の中で輝いた。指先が若葉を摘む音は、かすかな雨のようだった。籠の中に、緑の星くずが少しずつ集まっていく。
幹夫も手伝った。
若葉に触れる指は、まだ震えた。けれどその震えを、幹夫は前ほど恥ずかしいとは思わなかった。震えるから、力を入れすぎずに済む。震えるから、葉の柔らかさを感じられる。
弱さの中にも、役に立つものがある。
昼過ぎ、摘んだ葉は製茶場へ運ばれた。
蒸気が白く立ちのぼり、若葉の香りが一気に広がった。それは昨夜の冷たい星空を、温かい湯気に変えたような香りだった。幹夫はその香りを吸い込みながら、胸の奥に昨夜の銀河が静かにほどけていくのを感じた。
夜、祖母が新茶を淹れた。
八十八夜を越えた茶だった。
湯呑みの中の緑は淡く澄み、香りは若く、明るく、少しだけ切なかった。幹夫は両手で湯呑みを包み、一口飲んだ。
舌の上に、初めは清い苦みが広がった。 そのあと、春の光のような甘みが戻ってきた。
幹夫は目を閉じた。
昨夜の冷え。 父の大きな手。 祖母の白い湯気。 母の「水を知っている子」という言葉。 霜にならなかった露。 消えても消えない銀河。
それらがみんな、新茶の中に入っていた。
「おいしいか」
父が尋ねた。
幹夫は頷いた。
「うん」
「どんな味だ」
父がそんなことを尋ねるのは珍しかった。
幹夫は少し考えた。
「八十八夜の味」
父は困ったように笑った。
「分かるような、分からんような」
幹夫も少し笑った。
「あと、銀河の味もする」
「それは分からん」
父はそう言ったが、声はやわらかかった。
祖母が静かに笑った。
その夜、幹夫は机に向かい、白い便箋を出した。誰に宛てるかは決めていなかった。町に引っ越した沙耶へ送ってもいい。母へ書いて仏壇の引き出しにしまってもいい。あるいは、未来の自分へ残してもいい。
幹夫は鉛筆を持った。
字は少し震えた。
けれど、その震えの中に、昨夜の冷たい風と、若葉を守ろうとした祈りが入っている気がした。
――八十八夜と銀河のあいだに、僕はいました。 ――そこは、春を数える地上と、数えきれない星の空が出会う場所でした。 ――茶の若葉は霜を怖がっているように見えました。 ――僕の心も、霜に弱い葉みたいだと思いました。 ――でも父が、弱い葉が悪い葉とは限らないと言いました。 ――新芽の弱いところに香りがあると言いました。
幹夫は一度、窓の外を見た。
空には雲があり、銀河は見えなかった。けれど気にならなかった。見えないものが消えたわけではないことを、幹夫は知っていた。
続きを書いた。
――母は、僕を水を知っている子だと言ったそうです。 ――泣くことは、弱いことだけではないのかもしれません。 ――水を知っているから、若葉の露にも気づける。 ――寒さを知っているから、湯気の温かさが分かる。 ――寂しさを知っているから、誰かの小さな沈黙にも耳を澄ませられる。
幹夫は、封筒の中に新茶をほんの少し包んで入れた。
八十八夜を越えた香り。
銀河の見えない夜にも、胸の中で光る香り。
便箋の最後に、幹夫はこう書いた。
――八十八夜と銀河のあいだには、人の心があります。 ――一夜ずつ数えるほど小さく、星の光を受け止めるほど遠くまで広がる心です。 ――僕の心はまだ弱くて、すぐ震えます。 ――でも、その震えの中に香りがあるなら、僕はこの心を少しだけ大切にしてみようと思います。
書き終えると、幹夫は便箋を畳んだ。
外では、茶畑が夜の中で静かに香っていた。銀河は雲に隠れていたが、空の奥で流れているはずだった。
八十八夜は過ぎた。
けれど、八十八の夜が消えたわけではない。
それらは新茶の香りになり、湯気になり、幹夫の胸の奥にしまわれている。霜を恐れた夜も、父の言葉も、母の記憶も、祖母の温かいお茶も、すべてが幹夫の中で静かに重なっていた。
幹夫は灯りを消し、布団に入った。
眠りに落ちる前、彼は思った。
春は、八十八の夜を越えて香りになる。 星の光は、長い時間を越えて目に届く。 人の悲しみも、いつか何かを越えて、誰かを温めるものになるのだろうか。
答えはまだ分からなかった。
けれど、窓の外から新茶の香りが流れ込んできた。
それは、言葉ではない返事のようだった。
幹夫は目を閉じた。
胸の中で、八十八夜の茶畑と、雲の向こうの銀河が、静かに重なっていた。





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