八月のみどりの蜜柑
- 山崎行政書士事務所
- 5月15日
- 読了時間: 8分

昭和二十五年の八月、静岡県庵原郡蒲原町の朝は、海のほうから先に明けた。
駿河湾の水面はまだ夜の青を少し残していたが、波の上には薄い銀の粉がまかれはじめ、遠くの船の影が、眠たいまぶたをこすっているように揺れていた。山の斜面にはみかん畑が段々にひらけ、石垣のあいだから、昨夜の雨を含んだ草が、しっとりとした匂いを立てていた。
七歳の幹夫は、素足に草履をひっかけ、祖父の家の裏手から畑へ上がった。
幹夫は、何でも大きな声では聞こえないことを、よく知っている子どもだった。人が怒鳴る声や、蝉がいっせいに鳴く声よりも、土の中で小さな虫が向きを変える音や、青い葉の先から水滴が落ちる前の、あのためらうような静けさのほうが、幹夫の胸にははっきり届いた。
みかんの実は、まだ青かった。
冬になれば町の人々の手に渡り、甘く明るい香りをこぼすはずの実は、八月の今、硬く、つややかで、葉と同じ色をしていた。幹夫はそれを見るたびに不思議に思った。こんなに青くて、こんなに黙っているものの中に、どうして冬の陽だまりのような甘さが隠れているのだろう。
畑の上のほうに一本、幹の曲がった古いみかんの木があった。
祖父はそれを「ばあさまの木」と呼んでいた。幹夫の祖母が嫁いできた年に植えた木だという。祖母はもうこの世にいなかったが、その木だけは、毎年欠かさず実をつけた。曲がった幹は、まるで誰かを抱きしめるために、少し前へ身をかがめているようだった。
幹夫はその木の下に座った。
土は朝のうちはまだ冷たく、掌で触れると、すこし湿っていた。畑の向こうでは、父が腰に手ぬぐいを下げて働いている。母は家の土間で、昼に持ってくる麦飯の支度をしているだろう。戦争が終わって五年がたったとはいえ、大人たちの顔には、ときどき夕立の雲のような影が差した。幹夫はそれを、言葉では知らなかった。ただ、父が古い軍服を納屋の奥にしまうときの背中や、母が夜、破れた着物を繕いながら針の先をじっと見つめる横顔を見ていると、胸の奥に小石がひとつ落ちるような気がした。
その朝も、幹夫の胸には小石があった。
前の日、父が町から戻ってきたとき、少し疲れた声で言ったのだ。
「今年は雨の具合がなあ。実が落ちなければいいが」
その一言が、幹夫の耳の中で夜じゅう転がっていた。実が落ちる。まだ甘くなる前に。まだ冬を知らないうちに。幹夫は眠りながらも、青いみかんがぽとり、ぽとりと土に落ちていく音を聞いた気がした。
だから朝、誰にも言わずに畑へ来た。
「落ちちゃ、いやだよ」
幹夫は、ばあさまの木を見上げて、小さく言った。
返事はなかった。
ただ、葉の裏に残った雨粒が一つ、幹夫の額に落ちた。ひやりとして、幹夫は目をつぶった。
すると、そのひやりとしたところから、声がした。
「落ちるものを、みな悲しいと思うのかい」
幹夫は目を開けた。
誰もいない。父は下の畑にいて、麦わら帽子だけが葉のあいだにちらちら見えている。蝉は急に鳴きやみ、遠くの海が、ふうっと息を吐く音だけが聞こえた。
「だれ」
幹夫は息をひそめた。
「おまえが毎朝、膝を抱えて見ているものだよ」
声は、頭の上から降ってきた。いや、降ってきたというより、葉の一枚一枚が、風に触れた拍子に言葉の形をつくっているようだった。
「みかんの木なの」
「木でもあるし、土でもあるし、雨でもある。おまえがそう聞くなら、今日は木でいよう」
幹夫は驚いたが、不思議と怖くなかった。ばあさまの木の幹には、祖母の手のしわに似た筋があり、そのしわの奥に、長い年月のぬくもりが入っているように見えた。
「落ちたら、かわいそうだよ」
幹夫は言った。
「あの実は、まだ甘くなってない。まだ誰にも食べてもらってない」
木は、しばらく黙っていた。
その沈黙の間に、幹夫は畑の細かな音を聞いた。蟻が石の上を渡る足音。草の根が土の中で水を吸う、ごく小さな吸い込み。遠くの家で戸が開く音。蒲原の町を通る道のほうから、荷車の車輪がきしむ音。
「幹夫」
木が呼んだ。
幹夫は、はっとした。自分の名前を木に呼ばれると、それは父や母に呼ばれるよりも、もっと深いところに届いた。名前の「幹」の字が、ほんとうに自分の体の真ん中で木になったようだった。
「実は、甘くなるために大きくなるのではないよ」
「え」
「甘くなるのは、実が生きたあとに起こることだ。雨を受け、風に揺れ、暑さに耐え、夜の冷えを知る。その一つ一つを、実は小さな体にしまっていく。すると、ある日、しまっておいたものが香りになる」
幹夫は青い実を見つめた。
ほんの小さな実の皮に、朝の光が乗っていた。まだ硬く、酸っぱそうで、どれも同じように見える。だが、よく見ると、一つ一つの丸みが違った。風に強く当たる枝の実は少し横を向き、葉に隠れた実は、眠っている子どものように静かだった。
「でも、落ちたら」
「落ちた実も、土に帰る。土になれば、また根にのぼる。根にのぼれば、来年の葉になる。葉になれば、また実を守る」
幹夫は唇を結んだ。
「じゃあ、悲しくないの」
「悲しいことと、終わりであることは、同じではない」
その言葉は、幹夫には少しむずかしかった。けれど、胸の中の小石が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
そのとき、一陣の風が山から下りてきた。
風はみかんの葉を裏返し、幹夫の髪をくしゃくしゃにし、石垣の下の草を一度に傾けた。風の通ったあと、ひとつの青い実が枝から離れた。
ぽとり。
幹夫の膝のそばに落ちた。
幹夫は息をのんだ。落ちた実は、まだ小さく、片側に傷があった。昨日の雨か、虫か、強い日差しか、何かに耐えきれなかったのだろう。幹夫はそれを両手で拾い上げた。実は見た目より重く、冷たかった。
「助けてあげられなかった」
幹夫の目に涙がたまった。
すると、落ちた実が、幹夫の掌の中でかすかに震えた。
「ぼくは、ここまででよかった」
と、実が言った。
幹夫は涙を止めた。
「よかったって、どうして」
「昨日の雨を覚えている。朝の光も覚えている。君が下から見上げてくれたことも覚えている。ぼくの中には、もうそれが入っている」
青い実の声は、木の声よりもずっと若く、けれど妙に落ち着いていた。
「でも、甘くなれなかった」
「甘さだけが、ぼくの役目じゃないよ」
幹夫は、掌の中の実を見つめた。
その実の小さな傷から、青くさく、すこし苦い匂いがした。冬のみかんの明るい香りとは違う。けれどそれは、夏の草むらや、濡れた石垣や、父の汗の匂いと混じり合って、幹夫の胸にまっすぐ入ってきた。
幹夫は急に、母の針の音を思い出した。
夜、母が繕っている着物は、もう新品にはならない。けれど母の手を通るたび、破れたところには小さな布が当てられ、そこだけ別の色になった。それを幹夫は少し恥ずかしいと思っていたが、今は、その別の色も、着物が生きてきたしるしなのだと思えた。
父の背中もそうだ。
黙って畑に立つ背中には、幹夫の知らない重みがある。けれどその背中は、毎朝、山へ上がり、木に触れ、土を踏み、幹夫や母のために汗を流している。疲れも、悲しみも、そこで終わっているのではなく、何かを育てる力に変わっているのかもしれない。
幹夫は落ちた実を胸に当てた。
「ぼく、これを土に返す」
木が、葉を鳴らした。
「そうするといい」
幹夫は、ばあさまの木の根元に小さな穴を掘った。指のあいだに土が入り、爪が黒くなった。土は柔らかく、そこにいる虫たちは、幹夫の突然の訪問に驚いたように体を丸めた。
「ごめんね」
幹夫は虫たちにも言った。
青い実を穴に置き、そっと土をかぶせた。最後に、小さな掌で土の表面をなでた。
その瞬間、幹夫の耳の奥で、遠い鈴の音のようなものが鳴った。
目を上げると、みかん畑全体が、朝の光の中でゆっくり呼吸していた。葉の表は深い緑、裏は白みを帯びた銀。青い実は、まだ冬を知らないまま、枝にしがみついている。石垣の隙間からは名も知らぬ花が顔を出し、坂の下には蒲原の家々の瓦が、夏の陽を受けて鈍く光っていた。さらにその向こうで、海が大きな布のように広がり、波は畑に向かって、何度も何度も小さくうなずいていた。
幹夫は、そのうなずきが自分への返事のように思えた。
下の畑から父の声がした。
「幹夫、そこにいたのか」
幹夫は立ち上がった。膝に土がついていた。掌にも土がついていた。けれど、その汚れを払おうとは思わなかった。
父が坂を上がってきた。額には汗が光り、手には剪定鋏を持っていた。
「何をしていた」
「落ちた実を、土に返した」
幹夫がそう言うと、父は一瞬、目を細めた。叱られるかもしれないと幹夫は思ったが、父はただ、ばあさまの木を見上げた。
「そうか」
父は短く言った。
そして、幹夫の頭に大きな手を置いた。その手は硬く、日に焼け、ところどころひび割れていたが、木の幹と同じように温かかった。
「おまえは、よく見ているな」
幹夫は胸の中で何かがほどけるのを感じた。
褒められたからではなかった。父の手の重みの下で、自分がこの畑の中の小さな一本の若木になったように思えたからだった。まだ細く、風に揺れやすく、知らないことばかりの若木。けれど、土につながり、雨を受け、光を待つことはできる。
その日、昼に母が麦飯と梅干しを持って畑へ来たころ、夏の陽はすっかり高くなっていた。
蝉はまた激しく鳴きはじめ、空は白くまぶしかった。母は幹夫の爪の黒さを見て笑った。
「まあ、土まみれじゃないの」
幹夫は少し照れたが、手を洗う前に、もう一度ばあさまの木を見上げた。
葉のあいだの青いみかんたちは、風に揺れながら、何も言わなかった。けれど幹夫には、その沈黙が聞こえた。
急がなくていい。
落ちたものも、残ったものも、みな夏を生きている。
幹夫は麦飯をほおばった。米の少ない麦飯は少しぱさぱさしていたが、母の握った飯は、手のぬくもりの味がした。梅干しの酸っぱさに目を細めると、幹夫は青いみかんの実を思い出した。
酸っぱさも、いつか甘さになるのだろうか。
すぐにはわからなかった。
けれど、わからないままでもよい気がした。
八月の蒲原町では、海が光り、山が息をし、みかん畑の青い実たちは、冬の香りをまだ誰にも見せずに抱いていた。幹夫少年は、その秘密を少しだけ分けてもらったような心地で、父と母のそばに座っていた。
風が吹いた。
ばあさまの木の葉が、さらさらと鳴った。
それはまるで、まだ小さな幹夫に向けた、夏からのやさしい返事のようだった。





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