内容証明の差出人は消えた
- 山崎行政書士事務所
- 5月13日
- 読了時間: 21分

助けを求める声は、いつも大きいとは限らない。
むしろ本当に危ない声ほど、小さい。
震えていて、遠慮していて、相手を怒らせないように、社会の迷惑にならないように、自分の恐怖にさえ謝りながら出てくる。
その女性が山崎行政書士事務所に来たのは、冬の始まりの夕方だった。
草薙駅前の街路樹は葉を落とし、濡れたアスファルトの上に黒い枝の影を伸ばしていた。事務所の窓ガラスには、向かいの薬局の看板がぼんやり映っている。
女性は、入口の前で一度立ち止まった。
ドアを開けるまでに、三十秒ほどかかった。
山崎はその時間を見ていた。
迷っているのではない。
誰かに見られていないか確認している。
その人は、もう日常生活の中に監視の影を感じている人間の動きをしていた。
「内容証明を、送りたいんです」
女性はそう言って、椅子に座った。
名前は、桐谷美沙。
三十四歳。
市内の福祉関連会社で事務職をしているという。
化粧は薄く、髪はきちんとまとめていた。服装も地味で、目立つところは何もない。だが両手だけが落ち着かなかった。バッグの持ち手を握り、離し、また握る。その爪は短く切られていて、端が少し割れていた。
「誰に送る予定ですか」
山崎が尋ねると、美沙は唇を湿らせた。
「同じ職場の人です。元交際相手でもあります」
よくある相談に見えた。
交際終了後の連絡。
つきまとい。
SNSへの書き込み。
職場での嫌がらせ。
内容証明で、接触をやめるよう通知したい。
よくある、という言葉ほど危ういものはない。
よくあるから、軽く見られる。
よくあるから、窓口で流される。
よくあるから、本人の怯えが「気にしすぎ」に変換される。
そして、よくある相談の中に、人が壊れる前の最後の声が混じっている。
「相手の名前は」
「篠田圭介です」
美沙はそう言って、小さなノートを開いた。
ページには、びっしりと日付と出来事が書かれていた。
十一月二日。退勤後、駅前で待っていた。十一月四日。社内チャットで「昨日の服、似合ってた」と送信。十一月六日。自宅近くのコンビニにいた。偶然だと言われた。十一月八日。上司に相談。「男女のもつれ」と言われる。十一月十日。SNSに私の後ろ姿らしき写真。十一月十三日。会議中に「最近寝不足?」と発言。前夜、非通知着信五件。十一月十五日。机の引き出しに、私が捨てたはずのレシート。
山崎は文字を追いながら、背中に冷たいものを感じた。
一つひとつは、事件になりにくい。
駅前にいただけ。
服を見ただけ。
コンビニにいただけ。
心配しただけ。
レシートが置かれていただけ。
だが線で結ぶと、そこには檻が現れる。
本人だけが、その檻の中で息苦しさを知っている。
外から見る者は、鉄格子一本一本を見て「細いですね」と言う。
「警察には?」
「行きました」
美沙はすぐに答えた。
その即答が、すでに何度も説明させられた人間の疲労を含んでいた。
「緊急性があるなら一一〇番してください、と。証拠を残してください、と。相手に直接言わないほうがいい、とも言われました」
「職場は?」
美沙は笑った。
笑いではなかった。
唇の形だけが笑いに似た。
「会社は、私に休むように言いました」
「相手ではなく?」
「はい」
彼女の会社は、福祉施設向けの人材派遣と請求事務代行を行う中小企業だった。
会社名は、ライフケアリンク。
社内では、篠田が営業主任。美沙は事務担当。交際していたことは、社内でも知られていたらしい。
別れを切り出したのは美沙だった。
理由は、束縛。
スマートフォンの通知を見る。
誰と昼食に行ったか尋ねる。
業務チャットの既読時間を問い詰める。
「心配だから」と言って、居場所を確認する。
最初は恋人の嫉妬だった。
やがて、それは管理になった。
管理は、会社の中ではなぜか自然に見える。
誰がどこで何をしているか。
誰が何時に出社し、何時に退勤し、どの端末でログインし、どのファイルを開いたか。
仕事のためなら、監視は合理化される。
篠田は、その合理化の言葉をよく知っていた。
「証拠はありますか」
山崎は慎重に聞いた。
美沙はバッグから小さなUSBメモリと、スマートフォンを取り出した。
「録音があります。メモもあります。SNSのスクリーンショットも。写真はクラウドに保存してあります」
「クラウド?」
「スマホを壊されたら怖いので」
美沙は目を伏せた。
「一度、画面を割られました。偶然、肩がぶつかったと言われました。でも、駅の階段で、あの人が後ろにいて」
彼女の声が止まった。
山崎は急かさなかった。
事務所の時計が、かち、かち、と音を立てていた。
こういうとき、時間は被害者を追い詰める。
早く話さなければならない。
分かりやすく話さなければならない。
矛盾なく話さなければならない。
泣いてもいけない。
怒ってもいけない。
冷静すぎると疑われる。
取り乱すと信用されない。
助けを求める人間は、助けを求める瞬間にまで、社会に見栄えのよい被害者であることを要求される。
「通知文案は作れます」
山崎は言った。
「ただ、私は行政書士です。紛争の代理交渉はできません。危険がある場合は、警察や弁護士につなぐ必要があります」
「分かっています」
美沙は小さくうなずいた。
「でも、まずは紙にしたいんです」
「紙に?」
「私が嫌だったことを、なかったことにされないように」
その言葉は、事務所の空気に沈んだ。
紙にする。
それは冷たい作業だ。
日付を並べる。
事実を整理する。
感情を削る。
要求を明確にする。
過剰な表現を避ける。
証拠と照合する。
だが、紙にしなければ、この社会は人の恐怖を見ない。
「怖かった」
それだけでは弱いと言われる。
「気持ち悪かった」
それでは主観だと言われる。
「助けて」
それでは事情が分からないと言われる。
だから人は、自分の恐怖を時系列にし、番号を振り、証拠番号を付け、受忍限度を超えていると説明しなければならない。
山崎は、美沙のノートを預かった。
「一緒に整理しましょう」
美沙は、その日初めて少しだけ息を吐いた。
通知文案の作成は、翌日から始まった。
山崎と、事務所のりなは、美沙のメモを時系列表にした。
一件ごとに、日時、場所、行為、証拠、相談先、影響を分ける。
十一月二日、草薙駅南口、待ち伏せ疑い、本人メモあり。
十一月四日、社内チャット、私的内容の送信、スクリーンショットあり。
十一月八日、上司相談、録音あり。
十一月十日、SNS投稿、スクリーンショットあり。
十一月十五日、机内レシート、写真あり。
りなが録音を聞きながら、眉をひそめた。
録音の中で、篠田の声は怒鳴っていなかった。
むしろ穏やかだった。
「美沙、俺は心配してるだけだよ」
「そんなに怖がるなら、やましいことがあるんじゃないの」
「会社に迷惑をかけるのはやめよう」
「俺を悪者にしたら、君も困るよ」
「みんな知ってるんだから。君がどんな人か」
大声の脅迫なら、分かりやすい。
だが篠田は声を荒げない。
怒鳴らない。
手を上げた証拠も、ほとんど残さない。
相手が恐怖を感じるぎりぎりの距離に立ち、言葉の意味を二重にし、周囲には「心配している元恋人」に見える顔を作る。
それが一番厄介だった。
りなはヘッドホンを外した。
「気持ち悪いですね」
山崎はうなずいた。
「暴力の前に、言葉で逃げ道を塞いでいる」
「会社の対応も、ひどいです」
録音には、上司との面談も入っていた。
上司の声は、眠そうだった。
「桐谷さんさ、二人の関係の問題を会社に持ち込まれると困るんだよね」
「でも、業務中にも接触があります」
「篠田くんも悪気はないと思うよ。営業成績もいいし」
「私が怖いんです」
「怖いというのは主観だからね。客観的な被害がないと」
「写真を撮られています」
「それ、本当に篠田くんが撮った証拠ある?」
「SNSに」
「本人が君だと書いているわけじゃないでしょう」
りなは机を軽く叩いた。
「こうやって削られるんですね」
山崎は、通知文案の冒頭を書いた。
通知書
貴殿は、令和〇年〇月以降、当職の依頼者に対し、勤務先および通勤経路上における待ち伏せ、私的連絡、SNSへの投稿、私物への接触を含む行為を継続しています。
本通知書をもって、以下の行為の中止を求めます。
ただし、山崎は「当職の依頼者」と書いてから、手を止めた。
行政書士として書類作成を支援する範囲。
代理人としての表現との線引き。
職域の壁は、いつも現場に立ちはだかる。
制度は、専門家の役割を分ける。
それ自体は必要だ。
だが助けを求める側から見れば、その壁は時に迷路になる。
警察。
会社。
行政書士。
弁護士。
相談窓口。
女性支援センター。
それぞれが「ここから先は別の窓口」と言う。
逃げている人間にとって、窓口が多いことは支援の厚さではない。
迷子になる通路が多いということだ。
山崎は、通知の差出人を美沙本人にし、作成支援として裏方に回る形に整えた。
必要に応じて弁護士へ連携する。
警察相談の記録も残す。
勤務先には、別途、職場環境と安全配慮の観点から事実確認を求める文案を検討する。
翌日、美沙は再び事務所に来る予定だった。
通知内容を確認し、差出準備をするためだ。
しかし、彼女は来なかった。
十五時。
約束の時間。
十五時十分。
電話は鳴るが出ない。
十五時三十分。
メッセージは既読にならない。
十六時。
山崎の胸の奥に、重いものが落ちた。
「りなさん、美沙さんから何か来ていますか」
「メールはありません。クラウド共有のフォルダは……」
りなが画面を見た。
「更新されています」
「いつ」
「今日の十二時四十二分です」
共有フォルダには、新しいファイルが三つ追加されていた。
写真。
録音。
テキストメモ。
写真には、会社の休憩室が写っていた。
テーブルの上に、美沙の私物らしきポーチが置かれている。その横に、白い封筒。
封筒には、手書きでこう書かれていた。
これ以上騒ぐなら、全部出す。
二枚目の写真は、会社の掲示板。
美沙の勤怠表のコピーらしき紙に、赤いペンで丸がついている。遅刻、早退、有給。個人情報であるはずのものが、誰でも見える場所に貼られていた。
三枚目。
社用スマートフォンの画面。
位置情報共有アプリらしき表示があり、複数の社員の現在地が地図上に出ている。
美沙の名前もあった。
りなの顔色が変わった。
「これ、職場の監視じゃないですか」
山崎は録音ファイルを再生した。
雑音。
椅子を引く音。
誰かの声。
篠田ではない。
上司の声だった。
「桐谷さん、こういう外部相談は会社としても困るんだよ」
美沙の声。
「でも、私は怖いんです」
「怖い怖いって言うけどね、会社の評価にも関わるんだよ。篠田くんは重要な営業担当なんだから」
「私が我慢すればいいんですか」
「そうは言ってない。ただ、大人として落としどころを考えようって話」
別の女性の声。
「美沙ちゃんもさ、別れ方が悪かったんじゃない?」
別の男性の声。
「篠田も傷ついてるんだよ」
上司の声。
「内容証明なんか送ったら、もう職場にはいられないよ」
そこで録音は切れていた。
最後のテキストメモを開く。
件名はなかった。
本文には、短い文章が並んでいた。
もし私と連絡が取れなくなったら、今日の面談の後です。会社には行きました。篠田さん、部長、総務の三人がいました。私のスマホを見せろと言われました。通知書を出すなら、私の写真と社内でのことを全部出すと言われました。私は恋愛トラブルではありません。私は働きたかっただけです。私は逃げたいです。でも証拠を持って逃げるのが怖いです。
最後に、こう書かれていた。
助けを求める人ほど、証拠を残せない。
山崎はしばらく画面を見つめた。
その一文は、事務所の空気を変えた。
助けを求める人ほど、証拠を残せない。
スマホを取り上げられる。
写真を消される。
録音を責められる。
相談したことを裏切りと呼ばれる。
日記を見つけられる。
クラウドのパスワードを知られる。
震えているから、スクリーンショットを撮る手が動かない。
泣いているから、日時を覚えられない。
逃げるだけで精一杯だから、証拠保全まで考えられない。
それなのに社会は言う。
証拠はありますか。
山崎はすぐに神崎弁護士へ連絡した。
警察にも相談した。
美沙の緊急連絡先には、姉の名前があった。
姉に電話すると、最初は警戒されたが、美沙の名前と事務所名を告げると、声が震えた。
「やっぱり……何かあったんですか」
「美沙さんと連絡が取れません」
「昨日、変なことを言っていました。私が消えたら、会社に聞いてって」
姉は泣き出した。
「でも、うちの家族も、ちゃんと聞いてあげなかった。別れ話くらいで大げさだって。仕事は辞めるなって。生活があるでしょって」
生活がある。
それもまた、檻の鍵だった。
家賃がある。
奨学金がある。
親の介護がある。
子どもの学費がある。
だから辞められない。
だから逃げられない。
だから嫌がらせをされても、明日の出勤時間を考える。
社会は、被害者にまず生活の継続を求める。
壊れながらでも、働け。
怯えながらでも、通勤しろ。
眠れなくても、勤怠を守れ。
助けを求めるなら、業務に支障が出ない範囲で求めろ。
その偽善が、人を静かに殺す。
夜になっても、美沙は見つからなかった。
翌朝、会社から連絡があった。
ライフケアリンクの総務課長を名乗る男だった。
「桐谷の件で、そちらに何か相談があったようですが」
声は丁寧だった。
丁寧すぎた。
「本人の同意なく詳細はお答えできません」
山崎が言うと、男は少し笑った。
「いえ、こちらも心配しておりまして。ただ、桐谷は精神的に不安定なところがありましてね。事実と異なる相談を外部にしている可能性があります」
山崎は受話器を握り直した。
「連絡は取れていますか」
「昨日から欠勤しています」
「警察には?」
「大人ですので。無断欠勤は困りますが、会社として事件扱いする段階ではありません」
事件扱いする段階。
どの段階なら、事件になるのか。
殴られたら。
血が出たら。
死んだら。
死んでも、事件性がないと言われることさえある。
山崎は静かに尋ねた。
「昨日、面談をされましたか」
「通常の人事面談です」
「その面談で、本人のスマートフォンを見せるよう求めましたか」
沈黙。
「会社の機密情報の持ち出しが疑われたため、確認しただけです」
「位置情報共有アプリについては?」
「業務上必要な安全管理です」
「社員の個人情報を掲示板に貼りましたか」
「事実確認中です」
事実確認中。
責任を先送りにするための、腐った毛布のような言葉だった。
電話を切った後、山崎はりなと顔を見合わせた。
「会社ぐるみですね」
りなは言った。
「篠田個人の問題じゃない」
山崎はうなずいた。
会社は、篠田を守ったのではない。
会社自身を守った。
営業成績のいい社員。
顧客を持つ社員。
社内の問題を外へ出したくない管理職。
評判を気にする経営者。
そこに、美沙の恐怖が入る余地はなかった。
職場の沈黙は、ただ黙っているだけではない。
被害者に「騒ぐな」と言い、加害者に「今は大人しくしろ」と言い、周囲に「個人間の問題だ」と言い、外部には「事実確認中」と言う。
それは沈黙という名の共同作業だった。
三日目の夜、美沙のSNSが更新された。
山崎がりなから知らされたのは、午後十一時過ぎだった。
投稿には、夜の海の写真が添えられていた。
本文は一行。
全部、私が悪かったです。
りなは青ざめていた。
「本人が書いたんでしょうか」
山崎は画面を見た。
美沙のこれまでの投稿と、文体が違う。
句読点の使い方。
言葉の硬さ。
何より、美沙は「全部」という言葉を使わない人だった。
彼女は、出来事を一つずつ記録する人だった。
全部、とまとめる人ではない。
「神崎先生へ連絡します」
山崎は言った。
警察にも追加で伝えた。
姉は半狂乱になった。
だが翌朝、さらに奇妙なことが起きた。
美沙の会社が、社内向け文書を出した。
桐谷美沙氏について
本人の私的事情および体調不良により、当面の間、休職扱いとします。なお、社内外への不確かな情報の発信は、会社および関係者への迷惑となるため、厳に慎んでください。
文書の最後には、こうあった。
当社は、全従業員が安心して働ける職場環境づくりに努めています。
安心して働ける。
山崎はその一文を読んだとき、初めて机を叩いた。
紙が跳ねた。
りなも、ゆいも、言葉を失った。
人が消えている。
その人が恐怖を訴えていた。
その人の証拠が残っている。
それでも会社は、安心して働ける職場だと言う。
偽善は、いつも美しい言葉で塗装される。
その下にある腐敗臭を、広報文は消毒液の匂いで覆い隠す。
数日後、美沙は見つかった。
海ではなかった。
隣県の古いビジネスホテルだった。
自分で宿泊していた。
命に別状はなかった。
ただ、彼女は誰にも連絡できずにいた。
スマートフォンは壊れていた。
財布には現金が少しだけ。
服は会社に行った日のまま。
警察から姉を通じて連絡があり、山崎は病院の面会室で美沙と再会した。
彼女は別人のようだった。
髪は乱れ、頬は落ち、目だけが妙に大きい。
「すみません」
彼女は最初に謝った。
山崎は首を振った。
「謝らなくていいです」
「内容証明、出せなくて」
「それも、今は考えなくていい」
美沙は膝の上で手を握った。
「会社で、囲まれました」
声はかすれていた。
「部長が、篠田さんが傷ついていると言いました。総務が、私のせいで職場の空気が悪くなったと言いました。女性の先輩が、昔はもっと大変だった、これくらいで騒ぐなと言いました」
彼女は笑おうとして、失敗した。
「私、だんだん分からなくなったんです。私が悪いのかもしれないって」
山崎は黙って聞いた。
「スマホを見せろと言われました。録音してるんだろうって。クラウドのパスワードも聞かれました。会社の情報を持ち出してるなら懲戒になるって。篠田さんはずっと黙っていました。黙って、私を見ていました」
「その後は」
「帰れと言われました。でも篠田さんが駅まで送ると言って。私は断ったんです。そしたら、会社の人たちは笑って、まだそんなこと言ってるの、って」
美沙の呼吸が浅くなった。
「駅に行く途中で、逃げました。電車に乗って、知らない駅で降りて。スマホは途中で落としたのか、捨てたのか、覚えていません。ホテルに入って、ずっとカーテンを閉めていました」
「SNSの投稿は?」
美沙は首を横に振った。
「知りません」
その瞬間、山崎の中で何かが固まった。
本人ではない。
誰かが投稿した。
美沙のアカウントに入った者がいる。
それが篠田なのか、会社関係者なのか、あるいは別の誰かなのか、今は断言できない。
だが、少なくとも美沙の「謝罪」は、本人の声ではなかった。
社会は、被害者の口を奪う。
そして、奪った口で謝らせる。
山崎は、その事実に吐き気を覚えた。
神崎弁護士が本格的に入った。
警察にも、SNS不正投稿の可能性、スマートフォンへの接触、職場での囲み面談、位置情報共有、勤怠情報の掲示、脅迫的封筒の写真が提出された。
会社は最初、全面否定した。
篠田は「心配していただけ」と言った。
部長は「通常の人事面談」と言った。
総務は「機密保持上の確認」と言った。
女性社員は「そんな深刻な雰囲気ではなかった」と言った。
全員が、少しずつ嘘をついた。
大きな嘘ではない。
自分だけは責任を負わない程度の小さな嘘。
その小さな嘘が重なって、美沙一人を押し潰していた。
だが、クラウドに保存された写真と録音は残っていた。
美沙が必死で残した欠片。
震える手で撮った写真。
途切れた録音。
意味の切れたメモ。
完全な証拠ではない。
穴だらけだった。
だが、その穴だらけの証拠が、逆に現実を語っていた。
助けを求める人間は、整った証拠など残せない。
残せるのは、恐怖の途中で掴んだ破片だけだ。
そして、その破片を「不十分」と切り捨てる社会は、加害者の側に立っている。
やがて、会社内部から一人の社員が証言した。
若い女性社員だった。
彼女は匿名を条件に、面談の前後で何があったかを話した。
「篠田さんは、桐谷さんの居場所を知っていました。社用端末の位置情報だけじゃなく、個人スマホの情報も知っているみたいでした」
「なぜ止めなかったんですか」
神崎が尋ねた。
女性社員は泣いた。
「怖かったんです。篠田さんは部長に気に入られていたし、逆らうと仕事を回してもらえなくなる。桐谷さんのことも、最初は大げさだと思っていました。でも、本当は分かっていました。あの人、ずっと怯えていた」
「なぜ今、話す気に?」
「桐谷さんが消えたとき、会社が最初に言ったんです」
女性社員は唇を震わせた。
「これで静かになるな、って」
その言葉を聞いたとき、山崎は背筋に氷を差し込まれたような感覚を覚えた。
これで静かになる。
人間が消えたことを、問題の消滅と見る職場。
恐怖を訴えた人の不在を、空気の正常化と呼ぶ組織。
そこにいる者たちは、怪物ではない。
普通の会社員だ。
給料をもらい、昼休みに弁当を食べ、子どもの写真を見せ合い、健康診断の予約をし、年末調整の書類を書く。
その普通の人々が、職場の秩序を守るために、一人の恐怖を黙殺する。
社会の闇は、特別な悪人だけでできているのではない。
普通の人間の保身でできている。
内容証明は、最初の文案から大きく変わった。
差出人は、美沙本人ではなく、弁護士が代理人として入る形になった。
通知先は篠田だけではなく、会社も含まれた。
接触禁止。
監視行為の停止。
私的情報の削除。
社内情報の不当利用に関する説明。
面談経緯の記録開示。
安全配慮義務に関する回答。
不正なSNS投稿の調査。
山崎は、当初の文案をファイルに残した。
差出人欄には、桐谷美沙の名前が入っている。
だが、その通知は出されなかった。
差出直前に、差出人は消えた。
正確には、消されたのだ。
本人が逃げたからではない。
恐怖が彼女の住所を奪い、職場が彼女の声を奪い、加害者が彼女の言葉を奪い、社会が彼女に「証拠を出せ」と言い続けた結果、彼女は差出人でいることさえ危険になった。
数か月後、篠田は会社を去った。
自己都合退職と発表された。
会社は、外部に向けて短いコメントを出した。
「一部従業員間の不適切なコミュニケーションについて、社内規程に基づき適切に対応しました」
一部。
不適切。
コミュニケーション。
その三つの言葉が、美沙の恐怖をどれだけ小さく切り刻んだか。
山崎はその文書を読んで、しばらく声が出なかった。
監視は、コミュニケーションではない。
脅しは、行き違いではない。
沈黙の強制は、職場秩序ではない。
だが組織は、言葉を薄めることで責任を薄める。
薄められた責任は、やがて誰のものでもなくなる。
美沙は、会社を辞めた。
しばらく姉の家に身を寄せ、その後、別の街へ移った。
山崎事務所に最後に来たとき、彼女は以前より少しだけ顔色が戻っていた。
「先生」
「はい」
「私、まだ怖いです」
「当然です」
「何も終わっていない気がします」
「終わっていないこともあります」
美沙はうなずいた。
「でも、私が悪かったわけじゃないって、少しだけ思えるようになりました」
山崎は、机の上に一冊のファイルを置いた。
そこには、最初のメモ、録音のリスト、SNSのスクリーンショット、クラウド写真の一覧、通知文案が綴じられている。
美沙は表紙を見た。
桐谷美沙氏 通知書作成関連資料。
その下に、山崎が小さく書き足していた。
内容証明の差出人は消えた。
美沙は、苦く笑った。
「私は、消えたんでしょうか」
山崎は少し考えてから答えた。
「消えかけました」
美沙は黙った。
「でも、残りました」
山崎はファイルを軽く叩いた。
「ここに。あなたの言葉として」
美沙の目に涙が浮かんだ。
「紙って、冷たいですね」
「ええ」
山崎はうなずいた。
「でも、冷たいから残ることもあります」
美沙は両手でファイルに触れた。
まるで、自分の骨を確かめるように。
外では、草薙の街に夕暮れが落ちていた。
駅へ向かう人々が、スマートフォンを見ながら歩いている。誰かが誰かを待ち、誰かが誰かにメッセージを送り、誰かが誰かの位置を確認している。
便利な社会だった。
人と人がつながる社会だった。
だが、つながりは時に縄になる。
通知は鎖になり、既読は監視になり、位置情報は檻になる。
そして職場は、秩序という名でその檻を見ないふりをする。
山崎は窓の外を見た。
この社会は、助けを求める人に証拠を求める。
だが、証拠を残すには安全がいる。
安全がないから助けを求めているのに、安全がなければ証拠も残せない。
その矛盾の中で、多くの声が消える。
内容証明は、ただの紙だ。
人を守る盾ではない。
魔除けでもない。
郵便局の消印が押されたからといって、恐怖が消えるわけではない。
それでも、紙にしなければならないことがある。
「やめてください」
「怖いです」
「私は悪くありません」
「これは恋愛トラブルではありません」
「これは職場の問題です」
「これは監視です」
「これは沈黙の強制です」
声に出せなかった言葉を、紙にする。
消されそうになった人間の輪郭を、文字でなぞる。
山崎は、美沙が帰った後、ファイルをキャビネットにしまった。
扉を閉めると、金属の音が小さく鳴った。
冷たい音だった。
だが、その冷たさの中に、わずかな抵抗があった。
差出人は消えた。
けれど、差出人の声は消えなかった。
この社会の闇は、人を一瞬で飲み込むとは限らない。
少しずつ名前を奪う。
少しずつ信用を奪う。
少しずつ証拠を奪う。
少しずつ居場所を奪う。
最後に本人が黙ったとき、周囲は言う。
本人の意思です。
山崎は机の上のペンを取った。
次の相談予約票が置かれている。
件名は、職場での嫌がらせ。
相談者は、まだ来ていない。
山崎は予約票の空欄を見つめた。
そこに、また誰かの声が入る。
消える前に。
消される前に。
紙にするために。





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