凧糸の白道
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 9分

正月二日目の蒲原は、朝の空気が硝子の縁みたいにひんやりして、息を吸うと胸の奥へ、白い道が一本すうっと通る気がしました。富士は白い帽子をかぶったまま、何でもない顔で空に座り、駿河湾は黒い硝子の皿になって、波が低い声で、しゅう……ざあ……を繰り返しています。薩埵峠の影はまだ長く、町の端を静かに撫でていました。
幹夫は八つ。 床の間の鏡餅の橙を、まだ少し眠たい目で見上げていました。
橙は「待つ実」。落ちない実。譲り葉も落ちない葉。 そう祖母に教わったばかりなのに、胸の奥のどこかに、まだ硬い字が残っていました。
――ショウガツ カエレズ。
短い電報の字は、削られているぶん、白い余白が長くて、その余白が冬の冷たさを連れてきます。冷たさは痛い針になりそうで、幹夫は無意識に、胸の内側のポケットへ指を入れました。
そこにあるのは、父から来た匂いのしおり。 みかんの匂いに、焦げの冬が少し足された紙片。
指先で端を触ると、紙が体温で少しやわらかくなって、匂いが丸くなる気がしました。丸くなると、胸の冷たさも角が取れて、「冬」になっていきます。
台所から祖母が言いました。
「幹、今日は風がいい。凧を揚げよう」
凧――その言葉は、幹夫の胸に、ぴん、と糸を張りました。嬉しい糸です。けれど嬉しい糸ほど、張りすぎたら切れるのを知っています。糸電話のぷつん。藁のぷつっ。松葉のぷち。 切れる音を知っているから、嬉しいと同時に、怖い。
「……凧、飛ぶ?」 幹夫は言いながら、窓の外の風を見ました。見えないのに、庭の砂をさらりと撫で、しめ縄の譲り葉をさわさわ揺らしている風。
「飛ぶさ」祖母は何でもない声で言いました。「飛ぶにはね、“引く”だけじゃなくて、“ゆるめる”も要る。凧は、息をするものだよ」
息をする。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすっと入って、喉の奥の乾きが少しほどけました。
凧は、古い新聞紙と、竹ひごと、米糊で作りました。 新聞紙は少し薄くて、指で撫でると、紙のざらりが手の腹に残ります。字が並んでいるのに、幹夫にはそれが「紙の海」みたいに見えました。字の波。見えない声の波。
祖母が、炊いた飯粒をつぶして糊を作り、木の匙で、ぬらり、と竹に塗りました。糊の匂いは、米の匂いです。新米の小包の匂いと、どこか同じ。米の匂いは、遠くへ行ける匂いでした。
「幹、模様はどうする?」 祖母が聞きました。
幹夫は一瞬、霜の星図のことを思い出しました。硝子に咲いて、消えた白い星座。炭で写して、父へ送った黒い空と白い道。
幹夫は、炭のかけらを持って、凧の紙にそっと線を引きました。 ごしごしではなく、さらり、と。
黒の中に、白い道を残すみたいに、星座の形を作っていきます。 舟でもなく、犬でもなく、幹夫にしか分からない形。
――父さんの町へ行く道。
そう胸の中で言いながら描くと、胸の奥の硬い字が、少しだけ角を落としました。角が落ちると、冷たさは刺さりません。
尻尾には、細く裂いた紙を結びつけました。紙の帯が長いほど、風が話しやすい。祖母はそう言いました。 幹夫はその紙の帯に、鉛筆で小さく字を書きたくなりました。
――とうさんへ。
書きかけて、手が止まりました。 “へ”の次に、何を書けばいいのか分からなかったのです。
「帰って」 と書くと、糸が張りすぎる気がする。 「元気で」 と書くと、言い訳みたいな気がする。 「待ってる」 と書くと、胸が痛くなる。
言葉が喉の奥でひっかかって、幹夫は紙の帯を見つめたまま、固くなりました。
そのとき、門のほうで、ぱたぱた、と足音。 こういちでした。袖をまくった手首が赤く、でも目はいつもどおり慎重で、踏みこみすぎない目でした。
「凧、作ってる?」「うん……字、書けない」
“書けない”と口に出した瞬間、幹夫の胸の奥がひゅっと冷たくなりました。書けない、と言うと、書けない自分が立ち上がってしまう。でも、立ち上がった自分を見ないと、手は勝手に乱暴になります。
こういちは尻尾の紙をのぞきこんで、少し考えてから言いました。
「じゃ、ひとつだけ。短いの。電報みたいに」「……電報」
短い。削る。余白。 祖母の言葉が、胸の棚から出てきました。
こういちは言いました。
「“息”って書けばいい」「息?」「うん。幹夫が、いま息してるってこと。父さんも息してるってこと。言葉より先に、息は同じだし」
幹夫は、その二文字を紙の帯の端に、小さく書きました。
息。
書いた字は幼くて、少し歪んでいました。けれど歪んでいるのに、ちゃんと“いま”がそこにいました。霜の星図と同じ。歪んでも星は星。
祖母が、うなずきました。
「いい。凧はね、空の返事を聞くものだ。息の字があれば、風が通る」
昼前、三人で浜のほうへ行きました。 冬の海は黒く、黒いのに光の筋を持っています。波は低い声で、しゅう……ざあ……。踏切のほうからは、カン、カン、と鳴って、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきました。
浜には、もう子どもが何人もいました。竹の骨の凧、紙の凧、布の凧。 凧は空へ向かって顔を上げていて、どれも「飛びたい顔」をしています。
そして、父親の肩がところどころに見えました。大きい背中。笑い声。手が糸を渡す動き。
それを見た瞬間、幹夫の胸の奥が、すとん、と底へ落ちました。底は冷たい。 冷たさはすぐ「いない」を大きくしようとします。
――父さんがいない。
その言葉が立ち上がりそうになったとき、こういちが、幹夫の袖をちょん、と引きました。押すのではなく、道を指す引き方。
「幹夫、息して」
幹夫は息を吸いました。 海の匂い。砂の匂い。風の乾いた匂い。 肺に入ると、胸の中の熱い石が少し丸くなります。丸くなると、冷たさが針になりにくい。
祖母が糸巻きを渡して言いました。
「引くときは、肩じゃなくて腹で引くんだよ。腹で引くと、息が切れない」
腹で引く。 幹夫は糸を持ち、凧を風に向けました。
風は強い。 強い風は、凧を持ち上げようとする。 持ち上げようとする力は嬉しい。 嬉しいと、すぐ「もっと」をしたくなる。 もっとをすると、糸が張りすぎる。
幹夫は、足を少しだけ砂に埋めて、体を風に預けました。 預けるのは、任せること。任せるのは、怖いけれど、凧には必要。
「いくよ」 幹夫が言うと、こういちが凧を放しました。
凧は、一瞬、地面に迷いました。紙がぱたぱたと震え、尻尾の紙帯が、さらり、と風の文字みたいに揺れます。
そして、
ふわっ。
凧が浮きました。
浮いた瞬間、幹夫の胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、息の通る筒になりました。 筒の中を、風が一本通ったのです。
糸が、すうっと伸びていきます。 伸びる糸は、白い道です。 月の道みたいに掬えないのに見える道。
「飛んだ!」 こういちが言いました。
幹夫は声を出そうとして、喉が少しつまるのを感じました。声がつまるとき、嬉しさの隣に、ちくりがいる。 ――父さんにも見せたい。 そのちくり。
けれど今日は、糸が空へ伸びている。 伸びている道を見ると、ちくりは針になりにくい。縫い目の痛みに変わります。
凧は上がりました。 上がると、凧の骨が風に鳴らされて、かすかに、ぶうん、と音がしました。 その音は、電線の風琴のぼおんより細く、松葉笛のひいより太い。
糸が、歌っている。
幹夫は、そう思いました。 糸は見えない風を「見える音」にする。 音は、胸の中の道になる。
そのとき、風が一段強くなりました。
凧が、ぐい、と引っぱりました。 幹夫の腕が引かれ、糸が指の間に食い込みました。
痛い。
痛いと、反射で引っぱり返したくなる。引っぱり返すと、糸はもっと張る。張ると、切れる。 切れる音を、幹夫は知っている。
幹夫の胸が、ひゅっと冷えました。
――落ちる。 ――切れる。 ――いなくなる。
怖さが一度に立ち上がりそうになった瞬間、こういちの声が、いつもの二文字を投げました。
「幹夫、息して!」
幹夫は息を吸いました。吸うとき、胸の奥で熱い石が丸くなります。丸くなると、指がほどける。
祖母が言いました。
「ゆるめろ。凧に息をさせろ」
ゆるめる。
ゆるめるのは負けじゃない。 守るためのゆるめ。 藁のゆりかごのゆるめ。 結び目のちょうどいい張り。
幹夫は、糸をほんの少し、すうっと出しました。 出すと、凧は風の上で、ぐらり、と揺れて、それからふっと姿勢を戻しました。
戻った。
戻った瞬間、幹夫の胸の奥がじん、と熱くなりました。涙の前の熱。熱いのに痛くない。ほどける熱でした。
凧の尻尾の紙帯が、はためきながら、細い字を一瞬だけ見せました。
息。
風がその二文字を読んだみたいに、紙帯が、さらり、と揺れました。
幹夫は胸の中で言いました。
――父さん。 ――ぼく、いま息してる。 ――糸は切れてない。 ――ちょうどいい張りで、空につながってる。
空につながる、という感じは、父につながるのと少し似ていました。似ているだけ。でも、似ているだけで、胸は息をしやすくなります。
しばらくすると、凧は高く高く上がって、富士の白い帽子の少し横に、紙の星座みたいに浮かびました。黒い海、白い富士、青い空、その間に、新聞の紙の凧。
幹夫は糸を握りながら、ふと気づきました。
糸の振動が、指に伝わっている。 ぶうん、ぶうん、と、糸が細く震えて、指先がその震えを受け取っている。
これは、返事だ。
銀の輪のきん、青い星のからりほどはっきりしない。 でも、糸の震えは、糸の震えで確かな返事でした。 風が「いる」と言っている。 空が「受け取った」と言っている。
こういちが、隣で松葉笛を短く鳴らしました。
ひい。
その音は、凧糸の震えに混ざって、風へ溶けました。 幹夫は、銀の輪を凧に結ぶようなことはしませんでした。大事なものは、飛ばして失くすのが怖い。 でも、胸の内側に銀の輪の冷たさがある。匂いのしおりの甘さがある。 それで十分でした。
凧は、空でしばらく揺れながら、冬の光の中にいました。
夕方、風が少しだけ落ち着いて、子どもたちは凧を降ろし始めました。 糸を巻き取るとき、幹夫は急ぎませんでした。急ぐと、紙が裂ける。裂ける音は、余計に胸を刺します。
ゆっくり、ゆっくり。
凧が手元へ降りてくると、紙帯の「息」の字が、少しだけ汚れていました。砂がついたのか、炭がこすれたのか。汚れは旅の印でした。焦げたしおりの端みたいに。
祖母が言いました。
「いい凧だった。よく息をさせたね」
幹夫は、うなずきました。うなずくと、胸の奥の硬い電報の字が、まだあるのに、刺さらなくなっているのが分かりました。 刺さらないのは、凧糸の白道を一度通ったから。 道を通ると、胸の空洞は穴ではなく筒になるのです。
家へ帰ると、窓辺で、
青いガラスの星が、からり。 銀の輪が、きん。 松葉が、ひゅう。
三つの短い会話が、いつもどおりありました。 幹夫は、その音に、凧糸のぶうんをそっと混ぜました。
机に向かって、父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「きょう たこを あげました」 「いとが ぶうん と ふるえました」 「たこの しっぽに 『いき』 と かきました」 「かぜが よんだ きがしました」 「いとを ひっぱりすぎると きれるから」 「ゆるめました」 「こっちは からり と きん と ひゅう と ぶうん でした」
“早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。 でも今日は、その書けなさが、凧糸のちょうどいい張りのように思えました。
張りすぎない。 切れない。 でも、たしかにつながっている。
夜、布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。
幹夫は目を閉じて、凧糸の白道を思い浮かべました。 掬えないのに見える道。 見えるから、胸が息をする道。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。 松葉が、ひゅう。
その返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、空へ伸びた糸の震えが通っていく、あたたかい筒のままでした。







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