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剃刀の責任

消毒液の匂いは、清潔の匂いではない。あれは「生が弱い」という事実を、白い壁に塗り込めて隠す匂いだ。私はその匂いの中で、鍵束を鳴らしながら歩いていた。金属が鳴るたび、廊下の白さが薄く震え、私の胸の内のどこかが遅れて震えた。

鉄格子の向こうに、男が坐っていた。もう将軍でも大臣でもない男。けれど、その肩の角度だけが、まだ職名を記憶している。背骨が礼法のように正しい。

東条英機。

その名を心の中で呼んだ瞬間、私は自分の喉が乾くのを感じた。乾きは怒りに似ている。怒りに似ているが、怒りではない。私の怒りはもっと熱く、もっと雑に、もっと濁っているはずだ。いま胸にあるのは、むしろ奇妙な冷えだった。

彼は私を見た。眼鏡の奥の眼が、意外に澄んでいた。澄んだ眼は残酷だ。こちらの濁りを、いとも簡単に映してしまう。

「君、名は」

声は低く、乾いていた。乾いた声は、命令ではなく確認に聞こえる。命令が落ちぶれて確認になる瞬間、人間は急に「ただの肉」へ戻る。私はその戻り方に、嫌なほど親しみを覚えた。敗戦というものは、誰の肩書きも同じ速度で剥がしてしまう。

「……中村であります」

私は名を言い、敬礼の代わりに軽く頭を下げた。これもまた、型の残骸だ。型は残骸になっても人を縛る。縛られるのが嫌いではない。縛られぬ自由は、たいてい醜い。

「中村君」

彼は、そう呼んでから少し間を置いた。間(ま)が正しい。間が正しいと、言葉はそれだけで威厳を持ってしまう。私は腹が立った。こんな場所でさえ、この男は間を支配できるのか。

「剃刀を、借りたい」

その言い方が、まるで陸軍省の廊下で部下に言う調子のままだった。私は一瞬、彼の手が軍服のポケットへ伸びる幻を見た。だがそこにあるのは、灰色の囚人服のだらしない布だ。布のだらしなさが、現実だった。

「規則で……」

口に出しかけて、私はやめた。規則。規則は正しい。正しいものほど、状況に弱い。状況が変わると、規則は急に滑稽になる。滑稽な正しさほど、人を苛立たせるものはない。

「……安全なものを、用意します」

私はそう言って、看守長に小声で頼み、柄の短い剃刀を受け取って戻った。戻る道すがら、私は自分の掌の中の金属が冷たいのを感じた。冷たさは、いつでも刃の予告だ。

格子を開けて差し出すと、彼は両手で受け取った。両手で受け取る、という礼儀が、ここでなぜ必要なのか私は分からない。だが、その無駄な礼儀が、この男を「ただの死刑囚」にしない最後の薄皮なのだろう。

彼は鏡の代わりに、金属の湯呑の底を使った。湯呑の底に映る自分の顔は、きっと歪んでいる。歪みは、老いよりも罪に似ている。罪は、顔を歪ませる。

白い泡を頬に塗り、剃刀を当てる。刃が皮膚をなぞる音が、小さく、しかし確実に響いた。私はその音を聞きながら、胸の奥がむずがゆくなるのを感じた。刃の音は、美しい。美しいからこそ危険だ。美しいものは、いつもこちらの倫理を先に腐らせる。

彼の手は震えなかった。震えぬ手は、勇気の証ではない。癖の証だ。軍人というものは、死の前でも所作を崩さぬ癖を身につけてしまう。私はその癖に、なぜか嫉妬した。私は敗戦の日、何一つ所作を保てなかった。焼け跡で、ただ瓦礫の匂いにむせ、母の手を探して泣いた。泣いたことが恥だった。恥は、いまも私の皮膚の下で熱を持っている。

「……君は、戦地へは」

剃刀を動かしながら、彼が言った。視線は湯呑の底に固定されている。こちらを見ずに問いを投げる。見ずに投げる言葉ほど、こちらの腹を刺す。

「行っておりません」

「そうか」

その「そうか」は、軽蔑にも哀れみにも聞こえなかった。ただの確認だった。確認ほど残酷なものはない。確認は、逃げ道のない事実を差し出す。

私は唇の裏を噛んだ。この男は、私の父を戦地へ送り、私の町を焼いた側の名であるはずだ。私は憎むべきだ。憎めば、心は簡単になる。心が簡単になると、人は呼吸が楽になる。だが私は、呼吸が楽になることをどこかで恐れていた。呼吸が楽になる瞬間、人は他人を殺せるようになる。私はもう、誰も殺したくなかった。自分の中の「殺したがる血」を、戦後ずっと押し殺して生きてきた。

彼は剃刀を置き、泡を布で拭った。拭われた頬は、思いのほか白かった。白さは潔白ではない。白さは、血がまだ出ていないというだけのことだ。血の出ない白さほど不気味なものはない。私はその白さに、冬の朝の霜を思い出した。霜は触れれば溶ける。溶けた後には、土の汚れが残る。白は、汚れを際立たせるためにある。

彼は胸のあたりに指を当て、ゆっくり撫でた。そこに傷があるのを、私は知っていた。敗戦直後、彼が自分で終わりを選ぼうとして、それが叶わなかったことも。だが私は、その話を他人の噂としてしか知らなかった。噂はいつでも、罪を軽くする。罪を軽くして口に運ぶ。それが噂だ。

「……私は、あの時、終わるつもりだった」

彼は独り言のように言った。私は返事をしなかった。返事をすれば、会話になる。会話になると、私は彼と同じ高さの床に立ってしまう。同じ高さに立つことが怖かった。怖いのは、同情が生まれるからだ。同情は、最も美しい裏切りだ。

「終わり方というのは、選べると思っていた」

彼は笑わなかった。笑わないからこそ、言葉が重い。重い言葉ほど、こちらの胸に沈む。

「だが、選べなかった。選べぬ終わりほど、醜いものはない」

その「醜い」という単語が、私の胸を妙に撫でた。醜い。そうだ。醜いのだ。戦争も、敗戦も、裁判も、吊るされる死も——全部醜い。英雄譚の赤い光など、焼け跡の匂いの前では嘘になる。嘘を嘘として嗅ぎ分けるには、醜さの嗅覚が要る。

「醜さは……罰ですか」

私は、思わず言ってしまった。言った瞬間、自分が子どもじみた問いを発したことが分かって、顔が熱くなった。罰などという言葉を、私は誰に向けて言ったのか。彼にか。自分にか。国にか。

彼は少し首を傾けた。

「罰かどうかは、君が決めることだ。私は……責任というものを、いつも制服のように考えていた」

制服。その単語が、部屋の空気を一瞬だけ変えた。制服は、身体の輪郭を美しく見せる。美しく見せるために、制服はある。美しさは、いつだって危険だ。

「着ていれば、己が何者か分かる。脱げば、何者でもなくなる。だが——」

彼は、床の影を見た。影は薄い。薄い影は、死の影だ。

「責任というものは、脱げない。脱げぬまま、剥がされる」

剥がされる。その語感が、皮膚を剥がす音に似ていて、私は反射的に肩をすくめた。皮膚を剥がされるのは痛い。痛いからこそ、そこに真実があるように錯覚してしまう。

私は、焼けた東京の夜を思い出した。空が赤く、川が黒く、人が黒い影になって走り、誰かが笑い、誰かが叫び、誰かが黙って倒れた。火は美しかった。美しい火は、人間の倫理を焼き切る。焼き切られた倫理の上で、人は「仕方ない」を覚える。仕方ないは、最も便利な呪文だ。便利な呪文ほど、人を殺す。

私は息を吐いた。吐いた息が、消毒液の匂いに溶けた。

「……あなたが出した紙が、あの火を呼んだんじゃないですか」

私は、言ってしまった。言った瞬間、胸が痛んだ。痛みは正しい。正しい痛みは、言い訳を許さない。私は自分の言葉に救われるふりをしたかったのかもしれない。憎んで、断罪して、終わりにしたかったのかもしれない。

彼は、すぐには答えなかった。沈黙が長い。長い沈黙は、正解のふりをする。沈黙はいつでも卑怯だ。

やがて彼は、低く言った。

「紙は軽い。軽いものほど、よく燃える」

その言葉は、言い訳にも告白にも聞こえた。私は腹が立った。腹が立ったのは、その言葉が美しすぎるからだ。美しすぎる言葉は、現実を飾ってしまう。飾られた現実は、さらに残酷になる。

「燃えたのは紙じゃない」

私は言った。声が震えた。震えは、怒りではなく、涙の準備だ。私は泣きたくなかった。泣けば、私はここで職務を失う。職務を失えば、私はただの被害者になる。被害者は楽だ。楽な立場ほど、次の加害を呼ぶ。

「人が燃えた」

私は言い終えると、歯を食いしばった。自分の声が、少年の声に戻っていくのが分かった。戻ることが恥だった。恥は熱い。熱い恥は、生きている証拠だ。私はその証拠が欲しかったのかもしれない。

彼は、目を閉じた。閉じた瞼の裏で、何かを見ているようだった。焼け跡か。軍服の行列か。天皇の御前か。私はそこへ踏み込む気にはなれなかった。踏み込めば、彼の記憶に居場所を与えてしまう。居場所は、時に免罪符になる。

「……そうだな」

彼はそれだけ言った。それだけの肯定が、妙に重かった。重い肯定は、こちらの胸の奥に沈んで、後から腐る。腐った肯定は、やがて夢になる。夢は人を眠らせる。眠りは、次の悲劇の準備になる。

廊下の先で、金属が鳴った。時間が動く音だ。時間は誰も待たない。待たない時間ほど公平なものはない。公平は冷たい。冷たい公平の中で、人間の善悪はみな同じ温度にされる。

私は立ち上がった。

「……時間です」

彼は頷いた。頷き方が、あまりに静かだった。静けさは潔さに似ている。似ているから危険だ。私は、ここで彼が潔い死を得てしまうのが嫌だった。潔い死は物語になる。物語は、人を甘く酔わせる。酔った人々は、また火を欲しがる。

彼は立ち上がり、囚人服の襟を指で整えた。襟を整えるという行為が、ひどく美しかった。美しい行為は、罪を薄める。私は薄まるのが嫌だった。

廊下を歩く。白い壁、白い灯、白い空気。足音が、私の足音と彼の足音を区別しない。区別しない音の中で、私はふと、奇妙な感情に襲われた。——この男もまた、どこかで「ただの息」をしていたのだ、と。家で湯を飲み、子の声を聞き、夜に眠れず、朝に剃刀を当て、そして今、白い廊下を歩いている。あまりに普通だ。普通さが、恐ろしく残酷だ。普通な者が、国を動かしてしまう。普通な者の指先が、紙の上で世界を燃やしてしまう。

私は、突然、胸が締め付けられた。締め付けは同情ではない。同情と呼べるほど清らかなものではない。これは、もっと汚い。自分も同じ穴へ落ち得るという恐怖だ。恐怖は、最も深い感情移入の形をしている。

扉の前で、彼は立ち止まった。振り返りはしない。振り返ると、背中が物語になる。彼は物語を知っているのだろう。知っているからこそ、振り返らない。振り返らない背中ほど、周囲を興奮させるものはない。

扉が開く直前、彼が小さく言った。

「中村君」

私は息を止めた。

「君は、生きろ。生きて、忘れるな。忘れぬまま、生きる方が、たぶん地獄だ」

地獄。その言葉が、妙に柔らかく耳に入った。柔らかい地獄ほど恐ろしいものはない。硬い地獄なら抵抗できる。柔らかい地獄は、こちらを包んで眠らせる。

扉が閉まった。閉まる音が、驚くほど静かだった。静かすぎて、私はそれが「終わりの音」だと認めたくなかった。

私は廊下に残された。白い壁に向かって立ち尽くし、消毒液の匂いを嗅いだ。匂いは何も裁かない。裁かない匂いだけが、世界に残る。

ふと、先ほどの房の床に、小さな白いものが落ちているのを思い出した。剃刀の刃で削られた、ほんの少しの泡の乾き跡だ。泡は白い。白い泡は、潔白のふりをしている。しかし泡は、剃り落とされた髭の黒を包んでいた。白と黒が混じる。混じったものは、決して元に戻らない。

私はその白い跡を、心の中で何度も踏んだ。踏むたび、足の裏が冷たくなった。冷たさは、逃げ場のない現実だ。

——感情移入してしまったのか。私は自分に問いかけた。

違う。私が移入したのは、彼の正しさでも、彼の悲劇でもない。ただ、**「普通の手が世界を燃やし得る」**という事実の方だ。その事実に、私はどうしようもなく自分を重ねてしまう。だからこそ、胸が痛む。

外へ出ると、冬の空気が冷たかった。空には雪は降っていない。だが私は、どこかで白いものが静かに積もっていく気配を感じた。白は、赦しではない。白は、見えない血を際立たせるための背景だ。

私はポケットの中で、鍵束を握りしめた。金属の冷たさが、掌の皮膚を確かに生かした。生きるとは、こういう冷たさを持ち続けることだ。美しくもなく、潔くもなく、ただ、忘れぬまま歩くことだ。

 
 
 

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