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劇物許可証に死体の署名

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事務所とは関係ありません。

 静岡市葵区、浅間通りから少し外れた細い道に、山崎行政書士事務所はあった。

古い二階建ての一階。曇りガラスの扉には、少し色褪せた金文字で、

山崎行政書士事務所許認可・法人設立・相続相談

と書かれている。

派手さはない。けれど、入ってくる人間の顔はいつも少しだけ切羽詰まっていた。

会社を始めたい人。亡くなった父の土地をどうしたらいいかわからない人。役所に提出する書類の一文字に人生を左右されそうな人。

山崎航平は、そういう人たちの話を聞くのが仕事だった。

三十七歳。静岡生まれ。父の代から続く小さな事務所を継ぎ、派手な成功とは無縁ながら、地元の業者や個人事業主からは妙に信頼されている。

理由は単純だった。

山崎は、人の話を最後まで聞く。

その日も雨だった。

五月の雨は、静岡の街を薄い灰色に沈めていた。窓の外では、濡れた電線にカラスが一羽止まっている。遠くで新静岡駅へ向かう車の水音が、何度も道路を撫でた。

午後四時二十分。

事務所の扉が開いた。

入ってきた男は、黒い傘をきっちり三回振り、水滴を落としてから中へ入った。

几帳面すぎる動作だった。

「山崎先生でいらっしゃいますか」

声は低く、滑らかだった。

年齢は四十代半ば。細身で、紺のスーツに銀縁眼鏡。髪は一本の乱れもない。顔立ちは穏やかなのに、目だけが異様に静かだった。

静かすぎる目。

山崎は、その目を見た瞬間、なぜか背中に冷たいものを感じた。

「はい。山崎です」

男は名刺を差し出した。

倉科玲二株式会社セイレーン・ラボ代表取締役

「毒物劇物販売業の登録申請をお願いしたいのです」

山崎は名刺を受け取り、軽く頷いた。

毒物・劇物。

薬品、試薬、工業用の化学物質などを扱う事業者が避けて通れない許認可である。もちろん、行政書士として珍しすぎる業務ではない。工場、研究所、販売会社。静岡にも依頼はある。

ただ、倉科の持ってきた書類は妙だった。

申請書の下書き、会社登記簿、設備図面、責任者の資格資料、保管場所の写真、取扱予定品目の一覧、管理体制の説明書。

すべてが、完璧すぎた。

通常なら、どこかに抜けがある。住所の表記揺れ。添付漏れ。図面の寸法不足。資格者の証明書の期限。業務内容と実態の不一致。

しかし、倉科の資料にはミスがなかった。

一枚ごとの紙質まで揃っている。角も揃っている。クリップの位置さえ、まるで測ったように同じだった。

「ご自身でここまで準備されたのですか」

山崎が尋ねると、倉科は微笑んだ。

「ええ。私は、間違いが嫌いでして」

その言葉のあと、事務所の空気が一瞬だけ薄くなった気がした。

「では、確認させていただきます。毒物劇物を扱う以上、保管設備や管理体制の審査が重要になります。現地確認が必要になる可能性もあります」

「承知しております」

「取扱予定品目については、用途を詳しく確認します」

「もちろん」

倉科は即答した。

速すぎる。

相手の言葉を聞いているというより、あらかじめ答えを用意していたかのようだった。

「ところで」

倉科はそこで初めて、少しだけ首を傾けた。

「山崎先生は、書類に魂が宿ると思いますか」

山崎はペンを止めた。

「魂、ですか」

「ええ。人間は嘘をつきます。しかし、書類は嘘をつきません。嘘をつくのは、書類を作った人間です」

「……仕事柄、それはよく感じます」

「でしょうね」

倉科は満足そうに笑った。

「だから先生にお願いしたい。先生は、書類の声を聞く方だと伺いました」

「誰からですか」

「亡くなった方からです」

その瞬間、カラスが窓の外で鳴いた。

山崎は、倉科の顔を見た。

冗談を言っている表情ではなかった。

「亡くなった方?」

「失礼。比喩です」

倉科は立ち上がった。

「必要書類はすべて置いていきます。報酬は通常の三倍お支払いします。急ぎではありません。ただし、ひとつだけお願いがあります」

「何でしょう」

「不備を見つけたら、必ず私に直接ご連絡ください。たとえ夜中でも」

「通常は営業時間内で——」

「夜中でも、です」

柔らかな口調なのに、命令だった。

倉科が去ったあと、山崎はしばらく書類を見つめていた。

雨の匂い。

紙の匂い。

そして、ほんのわずかに、錆びた鉄のような匂い。

山崎は顔を上げた。

事務所には誰もいない。

なのに、背後から誰かに見られているような感覚があった。

書類の束の一番下に、封筒が挟まっていた。

山崎は眉をひそめた。

倉科が説明していない書類だった。

封筒には、手書きでこう書かれていた。

山崎先生へ最初の不備です。

中には、一枚のコピー用紙が入っていた。

そこに印字されていたのは、何の変哲もない倉庫平面図だった。

ただし、右下の余白に小さく数字が書かれていた。

17-3-5-11-9

山崎はその数字を見た瞬間、胃の奥が重くなった。

行政書士の仕事で、謎の数字が出てくることはない。

山崎は書類を一枚ずつ確認した。

何度も。

そして気づいた。

取扱予定品目一覧の十七番目、三番目の文字。次は五番目、十一番目、九番目。

拾い出した文字は、こうなった。

シ タ イ ア リ

死体あり。

山崎は椅子から立ち上がった。

心臓が激しく鳴っていた。

悪質な冗談か。

それとも、脅迫か。

山崎はすぐに倉科の名刺にある電話番号へかけた。

三コール目で繋がった。

「見つけましたか」

倉科の声だった。

「これは何ですか」

「不備です」

「ふざけないでください。警察に——」

「警察に言えば、二人目が死にます」

山崎は息を止めた。

電話の向こうで、雨音のような雑音がしていた。

「一人目は、もう死んでいるのですか」

「先生は賢い。だから選びました」

「誰を殺した」

「殺した? いえいえ」

倉科は笑った。

「人は、自分の選択で死ぬのです。私はただ、選択肢を整理しただけです」

「何を言っている」

「先生、書類をよく見てください。申請書の中に、すべて答えがあります。あなたが見つければ、次は助かる。見つけられなければ、死ぬ」

電話は切れた。

山崎はすぐに警察へ通報しようとした。

だが、スマートフォンを握ったまま指が止まった。

警察に言えば二人目が死ぬ。

犯人の言葉を信じる理由はない。だが、信じなかったことで誰かが死ぬ可能性がある。

山崎は自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。

そのとき、事務所の奥から声がした。

「先生、顔が真っ青です」

補助者の望月沙耶だった。

二十八歳。元県庁職員。明るく気が強いが、人の弱さに敏感な女性だった。山崎事務所には半年前から勤めている。

彼女は買い出しから戻ったばかりで、手にコンビニ袋を提げていた。

「何かありました?」

山崎は一瞬迷った。

だが、隠せる内容ではなかった。

「沙耶さん、落ち着いて聞いてください」

山崎は事情を話した。

望月の顔から血の気が引いた。

「警察に言うべきです」

「僕もそう思います」

「でも迷ってる」

「はい」

「相手は、先生が迷うところまで読んでますね」

望月の言葉に、山崎は顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「この犯人、たぶん先生を試してます。法律家ではないけれど、書類に強い人間。慎重で、責任感があって、でも警察官ではない。つまり、最初に恐怖を背負わせるにはちょうどいい」

望月は書類を見た。

「最低です」

「同感です」

「でも、見つけましょう。警察に言うにしても、情報が必要です」

その言葉で、山崎は少しだけ冷静さを取り戻した。

二人は事務所のブラインドを下ろし、倉科の書類を机いっぱいに広げた。

外の雨は強くなっていた。

書類は完璧だった。

完璧だからこそ、異物が目立つ。

望月が最初に見つけた。

「先生、これ」

保管設備の写真。

棚、鍵付きキャビネット、換気口、床面。

その一枚だけ、写真の隅に壁掛け時計が写っていた。

時刻は、二時二十二分。

「偶然にしては気持ち悪いですね」

山崎は写真の日付を見た。

五月十二日。

そして、別の図面の余白に小さく「2-22」と書かれているのを見つけた。

二人は黙って文字を拾った。

二番目の書類、二十二行目。

そこにあった単語。

巴川

静岡市を流れる川の名だった。

次の暗号は、さらに複雑だった。

取扱品目一覧の品目番号、会社定款の条項番号、責任者経歴書の年数。数字を組み合わせると、住所らしきものが浮かび上がった。

清水区の古い倉庫街。

山崎はすぐに立ち上がった。

「行きます」

「一人で行かせません」

「危険です」

「だから一人で行かせません」

望月はレインコートを掴んだ。

山崎は何も言えなかった。

二人は車で清水へ向かった。

雨に濡れた国道一号を走る。ワイパーが激しく左右に動くたび、街灯の光が砕けた。山崎の手はハンドルの上で汗ばんでいた。

「先生」

助手席の望月が言った。

「怖いですか」

「怖いです」

山崎は即答した。

「僕は、争いごとが苦手です。血を見るのも苦手です。人が怒鳴る声も嫌いです」

「行政書士っぽいですね」

「それ、褒めてます?」

「褒めてます。人を怖がれる人のほうが、人を守れると思います」

山崎は黙った。

父のことを思い出した。

父も行政書士だった。頑固で、口数が少なく、依頼人に厳しい人だった。

十年前、父は過労で倒れた。最後に病室で山崎に言った。

「書類は紙じゃない。誰かの明日だ」

その言葉が嫌いだった時期もある。

重すぎると思った。

でも今は、その重さだけが山崎を前へ進ませていた。

清水区の倉庫街に着くころには、雨は霧のように細かくなっていた。

暗号が示した倉庫は、錆びたシャッターの前に雑草が伸びていた。

人の気配はない。

山崎はスマートフォンを握りしめた。

「やっぱり警察に——」

そのとき、中から音がした。

小さな、金属が床に落ちる音。

望月が息を呑んだ。

山崎はシャッター横の通用口に手をかけた。

鍵は開いていた。

中は暗かった。

埃と湿気の匂いがした。

スマートフォンのライトを点けると、奥に椅子が見えた。

椅子には、人が座っていた。

いや、縛られていた。

口に布を噛まされ、手足を結束バンドで固定されている。

若い男だった。

まだ生きている。

山崎は駆け寄った。

「大丈夫ですか!」

男は涙を流していた。

望月が布を外す。

「助けて、助けてください……」

「警察呼びます!」

山崎が通報しようとした瞬間、倉庫の天井スピーカーから声が流れた。

倉科の声だった。

「正解です、山崎先生」

山崎と望月は凍りついた。

「そこにいる彼は、私の社員だった男です。会社の金を横領しました。ですが、私は寛大なので、彼に反省の機会を与えました」

「倉科!」

山崎は叫んだ。

「出てこい!」

「私は出ません。知性とは、危険な場所に自分の身体を置かないことです」

スピーカーの声は楽しそうだった。

「さて、次の問題です。その倉庫には、一定時間後に通報される仕掛けがあります。警察は来ます。ですが、その前に先生には選んでいただきたい」

望月が周囲を照らした。

壁に、黒い封筒が貼ってある。

山崎が開くと、中に紙が入っていた。

彼を助ければ、女が死ぬ。女を助ければ、彼は犯罪者として裁かれる。書類の中に、女の居場所がある。

「女……?」

山崎の声が震えた。

倉科が言った。

「私の妻です」

その瞬間、縛られた若い男が叫んだ。

「あの人は悪くない! 奥さんは何も知らない!」

「黙りなさい」

倉科の声が冷たくなった。

「裏切り者に発言権はありません」

山崎は男の拘束を解こうとした。

だが結束バンドは固い。望月が車から工具を取りに走った。

山崎は男に尋ねた。

「あなたの名前は」

「松永……松永圭太です。セイレーン・ラボの経理をしていました」

「奥さんの居場所に心当たりは?」

「ありません。でも、社長は……奥さんをずっと監視していました。頭のおかしい人なんです。全部計算する。人の表情も、話す速度も、嘘をつく瞬間も」

「なぜこんなことを」

松永は泣きながら言った。

「社長の奥さんが、僕に相談してきたんです。逃げたいって。だから僕は、会社の金を少しだけ動かして逃走資金を作ろうとした。でも社長に全部バレた」

山崎の胸が痛んだ。

罪は罪だ。

けれど、その罪の奥には、人間の弱さと優しさがあった。

望月が戻り、結束バンドを切った。

遠くからサイレンが聞こえ始めた。

倉科の声が響く。

「先生、警察が来る前に次の答えを見つけなければ、妻は永遠に沈みます」

永遠に沈む。

水。

巴川。

山崎は倉庫の床に膝をつき、書類を広げた。

手が震えてページがめくれない。

望月が代わりに紙を押さえた。

「先生、深呼吸」

山崎は吸った。

埃っぽい空気が喉を刺した。

「犯人は、自分の知性を見せつけたい。だから答えは複雑だけど、美しいはずです」

望月が言った。

「美しい?」

「本人にとって、です」

山崎は書類を見つめた。

倉科の作った資料。

完璧な配列。

均等な余白。

異様な整合性。

ふと、違和感に気づいた。

「会社の所在地……」

「え?」

「登記簿の本店所在地と、申請書の営業所所在地。表記は合ってる。でも、建物名のカタカナだけ全角と半角が混ざってる」

望月が目を凝らす。

「本当だ。こんな几帳面な人が?」

「わざとです」

全角文字を一、半角文字をゼロとして読む。

山崎は二進数に変換した。

出てきた数字を文字コードに置き換える。

望月がスマートフォンで補助する。

現れた文字列は、短かった。

もちむね れいぞうそうこ

用宗。

冷蔵倉庫。

静岡市駿河区、海沿いの町。

「奥さんは用宗にいる」

山崎は立ち上がった。

そこへ警察官が倉庫へ踏み込んできた。

松永が保護される。

警察官が山崎に事情を聞こうとしたが、山崎は叫んだ。

「人質がいます! 用宗の冷蔵倉庫です!」

刑事の一人が顔色を変えた。

「倉科玲二か」

山崎は驚いた。

「知っているんですか」

「数年前から名前は出ていた。証拠がなかった」

刑事はすぐに無線を飛ばした。

だが、山崎は待てなかった。

「僕も行きます」

「民間人は下がってください」

「書類の暗号を解けるのは僕たちです」

刑事は一瞬だけ山崎を見た。

その目は鋭かった。

「邪魔をしたら逮捕する」

「構いません」

望月が隣で頷いた。

「私も行きます」

山崎は小さく笑った。

「沙耶さん、あなた本当に無茶ですね」

「先生ほどじゃありません」

用宗へ向かう道中、雨はやんだ。

夜の海が黒く広がっていた。

冷蔵倉庫は、使われなくなって久しい建物だった。潮風に削られた壁。白い外灯。閉ざされた鉄扉。

警察が周囲を固める。

山崎と望月は刑事に付き添われ、中へ入った。

冷気が漏れていた。

稼働していないはずの倉庫なのに、中は異様に冷たかった。

奥の部屋に、女性がいた。

ガラス越しの冷蔵室の中。

白いワンピース姿で、椅子に座らされている。意識はある。口元が震えていた。

倉科の妻、美緒だった。

扉には電子錠がついている。

横にモニターがあり、文字が表示されていた。

最後の不備を正せ。正せなければ、彼女は凍る。

刑事が業者を呼ぶよう指示した。

だが時間がない。

室内の温度表示は下がり続けていた。

望月がガラスに手を当てる。

「美緒さん! 聞こえますか!」

美緒はかすかに頷いた。

山崎はモニターの横に貼られた紙を見た。

それは、倉科が最初に持ってきた申請書の写しだった。

ただし、一箇所だけ赤丸がつけられている。

申請者氏名:株式会社セイレーン・ラボ代表取締役 倉科玲二

山崎は眉をひそめた。

「不備……?」

会社の申請者名としては問題ない。

代表者名も合っている。

添付書類もある。

何がおかしい。

モニターに残り時間が表示された。

06:00

六分。

望月が叫ぶ。

「先生!」

山崎は紙を凝視した。

不備を正せ。

申請者氏名。

代表取締役。

倉科玲二。

だが、書類上では完璧だ。

完璧すぎる。

そのとき、美緒がガラスの向こうで何かを言った。

声は聞こえない。

唇だけが動いている。

山崎は目を凝らした。

「れ……い……じ……じゃ……な……い」

玲二じゃない。

山崎の背筋に電流が走った。

「倉科玲二じゃない?」

美緒は涙を流しながら頷いた。

山崎は刑事を振り返った。

「倉科玲二の身元確認は?」

刑事が答える。

「戸籍上は存在する。だが本人確認資料は——」

山崎は叫んだ。

「違う! 申請者が違うんだ!」

望月が息を呑む。

「どういうことですか」

「倉科玲二は、もう死んでいる」

空気が止まった。

山崎は書類の束から代表者の身分証明関係を取り出した。

写真の男。

事務所に来た男。

同じ顔に見える。

だが、違和感があった。

写真が古い。

ほんのわずかに耳の形が違う。

「犯人は倉科玲二になりすましている。だから申請書の最大の不備は、代表者本人が存在しないことだ」

モニターの残り時間は三分。

「でも、それをどう正すんですか」

望月の声が震える。

山崎は赤丸の横にあるペンを見た。

犯人は「正せ」と言った。

山崎は申請書の写しに、震える手で訂正線を引いた。

倉科玲二

その横に書いた。

死亡者

次に、申請者欄の下に大きく書いた。

この申請は無効。本人確認不能。代表者死亡の疑いあり。

その瞬間、電子錠が音を立てた。

扉が開いた。

警察官が飛び込み、美緒を毛布で包んだ。

望月はその場に座り込んだ。

山崎も膝から力が抜けそうになった。

助かった。

そう思った瞬間、倉庫のスピーカーから拍手が聞こえた。

ぱち、ぱち、ぱち。

乾いた拍手。

「素晴らしい」

その声は、倉科のものではなかった。

もっと若い。

もっと柔らかい。

山崎は顔を上げた。

「誰だ」

モニターに映像が出た。

そこにいたのは、清水の倉庫で救出されたはずの松永圭太だった。

彼は涙など流していなかった。

穏やかに笑っていた。

「やはり先生は、私の期待以上でした」

望月が立ち上がった。

「松永……?」

刑事が無線で確認する。

「清水で保護された松永は?」

返答が飛んできた。

松永圭太は、搬送中に警察車両から姿を消した。

山崎は血の気が引いた。

「お前が……犯人なのか」

「犯人、という言葉は乱暴ですね。私は設計者です」

松永は微笑んだ。

「倉科玲二は五年前に死にました。正確には、私が死なせた。彼は天才を気取る凡人でした。会社も、妻も、社員も、すべて自分の所有物だと思っていた」

美緒が毛布の中で震えた。

「松永さん……どうして……」

松永の表情が一瞬だけ歪んだ。

「あなたを救いたかった」

「こんなの救いじゃない!」

美緒の叫びが倉庫に響いた。

松永は少し黙った。

その沈黙には、初めて人間らしい傷が見えた。

「そうですね。私は、救う方法を間違えた」

山崎は画面に近づいた。

「なら、なぜ僕を巻き込んだ」

「あなたのお父様に救われたからです」

山崎は動けなくなった。

「父に?」

「十五年前、私は少年でした。母が小さな薬品販売会社を営んでいた。父は亡くなり、会社は潰れかけていた。誰も助けてくれなかった。銀行も、取引先も、親戚も」

松永の声がかすかに震えた。

「そのとき、山崎行政書士事務所の先代が、母の書類を直してくれた。報酬もほとんど取らずに。母は泣いていました。『書類に命を助けられた』と」

山崎は父の背中を思い出した。

無愛想で、煙草の匂いがして、いつも万年筆を胸ポケットに入れていた父。

松永は続けた。

「だから私は知っていた。書類は人を救える。なら、人を裁くこともできるはずだと」

「違う」

山崎は低く言った。

「書類は人を裁かない。人が、人を裁くんだ。だから間違える。だから苦しむ。だから、法律がある」

「綺麗事ですね」

「綺麗事です。でも、綺麗事がなかったら、人間は恐怖だけで動く獣になる」

松永の笑みが消えた。

山崎は画面を見つめた。

「君は美緒さんを救いたかったんじゃない。君自身を救いたかったんだ。倉科玲二を殺した罪から。自分が怪物になった事実から」

沈黙。

倉庫の外で波の音が聞こえた。

松永は目を伏せた。

「先生は残酷ですね」

「行政書士ですから」

山崎は少しだけ笑った。

「書類の不備は、見逃せません」

松永は小さく笑った。

その笑いは、泣き声に近かった。

「最後の書類を、あなたの事務所に送りました。そこに私の全記録があります。倉科玲二の死体の場所も、偽装の方法も、会社の不正も、全部」

「なぜ」

「終わらせたかった」

「なら出頭しなさい」

松永は答えなかった。

画面の奥で、朝焼けのような光が見えた。

どこか高い場所にいる。

山崎は気づいた。

「まさか……」

映像の背景に、赤い鉄骨。

清水港のクレーン。

刑事が叫ぶ。

「清水港だ!」

松永は画面越しに、山崎へ深く頭を下げた。

「山崎先生。あなたのお父様に、よろしくお伝えください」

「父は死んだ」

「知っています」

松永は静かに言った。

「だから、書類に書いておきました」

映像が切れた。

その後、警察は清水港で松永圭太を確保した。

彼は飛び降りようとしていたが、寸前で刑事に取り押さえられた。

数日後。

山崎事務所に、一通の封筒が届いた。

差出人はなかった。

中には、分厚いファイルと、一枚の手紙が入っていた。

ファイルには、倉科玲二という男の過去が記されていた。

五年前の死亡偽装。

会社資産の横領。

妻への監視と暴力。

毒物劇物販売業登録を利用して、新たな犯罪の隠れ蓑を作ろうとしていた計画。

そして、その計画を知った松永が、倉科を殺害し、倉科の名を使って会社を動かし続けていたこと。

松永は天才だった。

複数の身分、偽造された記録、心理誘導、暗号、警察の動きの予測。

誰もが倉科という怪物を追っている間、真犯人は被害者のふりをしていた。

だが、山崎が最後に見つけた「不備」だけは、松永の計算外だった。

本人が死んでいるなら、申請は成立しない。

それは、法律上あまりに当たり前で、だからこそ誰も見ようとしなかった真実だった。

手紙には、短くこう書かれていた。

山崎先生へ。

私は人を救う書類を作りたかった。けれど、私が作ったのは、人を縛る書類でした。

あなたのお父様が母に言った言葉を、私は今も覚えています。

「書類は紙じゃない。誰かの明日だ」

私は、明日を間違えました。

どうか、私の最後の不備を正してください。

山崎は手紙を机に置いた。

望月が静かに言った。

「先生、どうしますか」

山崎はしばらく黙っていた。

窓の外には、久しぶりの青空が広がっていた。

静岡の街は何もなかったように動いている。自転車のベル。商店街の声。遠くの踏切。どこかの家の味噌汁の匂い。

事件のあと、美緒は保護され、少しずつ事情聴取に応じているという。

松永は逮捕された。

罪は消えない。

救いたかったという言葉で、人を傷つけた事実は消えない。

それでも山崎は、あの画面越しの松永の笑みを忘れられなかった。

怪物になりきれなかった男。

知性で世界を支配しようとして、最後に一枚の書類へ助けを求めた男。

山崎は父の古い万年筆を取り出した。

事務所の奥の棚に、父が残した業務日誌がある。

十五年前のページを開く。

そこに、小さな字で書かれていた。

松永薬品販売代表者、松永千春。資金繰り厳しい。息子あり。息子、母をよく見ている。賢い目。賢さだけで生きると、寂しくなる。

山崎の胸が詰まった。

父は、見ていたのだ。

あの少年の孤独を。

けれど、救いきれなかった。

山崎は目を閉じた。

「先生?」

望月が声をかける。

山崎は顔を上げた。

「僕たちの仕事は、たぶん事件を解決することじゃありません」

「はい」

「人の明日が、少しでもましになるように、今日の書類を整えることです」

望月は微笑んだ。

「行政書士っぽいですね」

「褒めてます?」

「今度は、本当に褒めてます」

山崎は苦笑し、松永の手紙を証拠資料として警察へ提出する準備を始めた。

そのとき、事務所の電話が鳴った。

山崎は受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

電話の向こうで、年配の女性の声がした。

「すみません。相続のことで相談したくて……何から話せばいいか、わからなくて」

山崎は静かに背筋を伸ばした。

「大丈夫です。最初からでなくて構いません」

窓の外の光が、机の上の書類を照らしていた。

白い紙。

黒い文字。

そこには、まだ誰かの明日が乗っている。

「ゆっくりでいいです。お話を聞かせてください」

山崎はそう言って、ペンを取った。

事件の恐怖は消えない。

倉庫の冷気も、雨の匂いも、画面越しの犯人の目も、忘れられない。

けれど、それでも街は続く。

人は迷い、間違い、傷つきながら、それでも誰かに話を聞いてほしくて扉を開ける。

山崎行政書士事務所の曇りガラスの扉は、今日も静かに揺れた。

そして山崎航平は、いつものように、最初の一行を書き始めた。

相談者氏名。

それは、どんな謎よりも重く、どんな事件よりも確かな、人間の始まりだった。

 
 
 

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