匂いのしおり
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 7分

十一月の蒲原は、朝いちばんの空気が、薄い硝子の端みたいに冷たく澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ、白い道が一本すうっと通る気がします。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。みかん畑の葉は厚く、裏の白い粉が冷たい光を返し、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。
その朝、幹夫は縁側に出て、窓辺の並びを見ました。
青いガラスの星。 割れた貝の星座。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。
――匂いの星袋の瓶だけが、いない。
瓶がいないところは、空いているだけなのに、空きが、胸の奥の空洞と同じ形に見えて、幹夫は無意識に、その場所へ手を伸ばしました。触れられない空気を触ろうとする手は、いつも少し恥ずかしい。でも、恥ずかしいのにやめられない日があります。
台所から祖母が言いました。
「幹、今朝は富士が見えるよ」
幹夫はぱっと顔を上げ、縁側の端から海のほうを見ました。
富士の肩が、白くなっていました。
まるで、山が夜のあいだに白い手ぬぐいを額に巻いたみたいに。白はまだ薄いのに、薄いぶんだけ、よく目立ちます。白いところだけ、空の青さを吸って、すこし青白く光っていました。
「……帽子」と幹夫が言いました。
祖母は笑わずにうなずきました。
「初冠雪(はつかんせつ)だね。冬からのはがきだよ」
はがき――その言葉で、幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。はがきは返事の形。返事の形は嬉しい。でも同時に、返事が来ない日の重さを、いっそうはっきりさせることもある。
――瓶、割れてないかな。 ――父さんのところへ、ちゃんと着いたかな。
幹夫は思った瞬間、喉の奥が紙みたいに乾きました。乾くのは寒さのせいだけではありません。見えない途中が、胸の中で勝手に“怖い絵”になるからです。
祖母が、湯気の立つ茶碗を持ってきて言いました。
「怖いときは、湯気を見な。湯気は、まっすぐじゃないけど、ちゃんと上へ行く。道は曲がっても、行き先はある」
幹夫は湯気を見ました。湯気は、くるり、くるりと丸くなりながら、天井へ消えていきます。消えるのに、“行った”感じだけは残ります。
――道は曲がっても、行き先はある。
その言葉を胸の棚に置いて、幹夫は学校へ出かけました。
畦道に霜柱(しもばしら)が立っていました。土の表面から、小さな透明の針がびっしり生えていて、光を受けると、ほそい星の群れみたいに見えました。幹夫はしゃがんで、そっと指先で触れました。
こりっ。
針が折れて、音がしました。音は小さいのに、胸の奥まで届く音でした。折れる音はこわいはずなのに、霜柱の折れる音は、なぜだか怖くありません。折れても、土が痛むわけではなく、日が出ればまた溶けて戻るからです。
――折れても、戻るものもある。
幹夫はそのことを胸に入れて、歩きだしました。踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきます。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返します。音の地図が今日も胸の中でひらいて、幹夫の足をまっすぐにしました。
教室では、先生が言いました。
「寒くなってきたな。読書の季節だ。今日は本を貸すぞ。返すときは、しおりを挟んで返せよ。角を折るのはだめだ」
しおり。
その言葉は、幹夫の胸の奥に、すとん、と落ちました。しおりは“戻る場所”の印。戻る場所があると、迷子になりにくい。迷子になりにくいと、胸の中の寒さが少し減ります。
こういちが隣で、小さく言いました。
「幹夫、しおり、何にする?」「……短冊、ちぎるのはいやだ」 幹夫は言いながら、窓辺の短冊の“さらり”を思い出しました。ちぎると、風の声が減る気がしたのです。
こういちは、机の中から落ち葉を一枚出しました。銀杏の葉。黄色い扇みたいな形です。
「これ、挟む」「……きれい」と幹夫は言って、指で葉の筋をなぞりました。筋は白い道みたいに広がっていて、みかんの房の白い道にも似ています。
幹夫は自分の机の中を探しました。でも、手が止まりました。 探しているうちに、胸の奥で“瓶が割れたら”という怖い絵が、また立ち上がりそうだったからです。
こういちが言いました。
「しおりってさ、ページの間に置くだけなのに、安心するよね」「……うん」 幹夫は答えながら思いました。 ――父さんとの間にも、しおりがあればいいのに。 ――“ここまで来た”って印が。
そのとき、先生が窓の外を見て言いました。
「富士が白いな。冬のしおりだ」
冬のしおり。 幹夫は胸の奥が、こつん、と鳴るのを感じました。山がしおりなら、季節は本だ。季節の本は、めくられても、また戻るページがあるのだろうか。
放課後、家に帰ると、縁側に長い影が落ちていました。影は長いほうがやさしい。長い影は、痛い輪郭を丸くします。
そのとき、表の道で――
ちゃりん。
郵便屋の鈴が鳴りました。
幹夫の胸が、一度だけ、きゅっと縮みました。うれしいのに怖い。怖いのにうれしい。二つが同じ皿に乗ると、息が少し苦しくなります。
祖母が戸口へ出て、封筒を受け取りました。封筒は一枚。紙が少し厚い。角がきちんと立っている。
「幹。父さんだよ」
幹夫は封筒を受け取って、まず消印の黒い丸を撫でました。黒い丸は、今日も月みたいでした。遠いのに、紙に来ている月。
封を切る紙の音が、しゃっ、と短く鳴りました。 中から便箋と、もう一つ、薄い紙片が出てきました。
紙片は細長くて、端が少し丸めてあります。ほんとうに、しおりの形でした。
祖母が便箋を読んでくれました。
「……『みきお。星袋、無事に届いた。藁のゆりかごがよくできていて、瓶が眠っていた。ふたを開けたら、蒲原の黄色い匂いがした。工場のがちゃん、がちゃんの中に、一瞬だけ海が入った』……」
幹夫の喉の奥が、じん、と熱くなりました。涙の前の熱。熱いのに痛くない。胸の中で、硬いところがほどける熱でした。
祖母は続けました。
「……『同封の紙は、その匂いを一晩吸わせた“しおり”だ。本に挟め。挟んで開くたび、少しでも蒲原を思い出せるように。俺も、ここで匂いを開けた』……」
幹夫は、しおりを指先でそっと持ち上げました。紙は薄いのに、なぜだか重たく感じます。重たいのは紙の重さではありません。遠い町で父が“開けた”という事実の重さです。
幹夫は、鼻の先に近づけました。
ふわっ。
みかんの匂いがしました。 瓶ほど強くない。けれど、弱いぶんだけ、しみる匂いでした。弱い匂いは、胸の奥の空洞に、すうっと入りこんで、そこを冷たい穴ではなく“息の通る筒”にしました。
幹夫は、声に出さないで言いました。
――父さん、嗅いだ。 ――同じ匂いを。
こういちが門のところから入ってきました。祖母が呼んでいたのです。
「来た?」とこういちが言いました。
幹夫は、しおりを見せました。
「……匂いのしおり。父さんが、入れてくれた」
こういちは笑わず、しおりを遠くから覗いて、うなずきました。
「それ、すごいね。ページの間で、遠い町と蒲原が、くっつく」「……うん」 幹夫はうなずきながら、胸のちくりを確かめました。 ちくりはまだいます。父が今ここにいない現実は変わりません。 でも、ちくりの横に、匂いの小さな灯が置かれました。灯があると、痛みは針ではなく、縫い目の痛みに変わります。
夜、幹夫は学校で借りた本を机に置き、しおりをそっと挟みました。紙が紙を挟むだけなのに、挟んだ瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着きました。戻る場所ができたからです。
窓辺では、青いガラスの星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。
からり、きん。 短い会話。
幹夫は、その音と、しおりの匂いを胸の中で並べました。音の道と、匂いの道。道が二本あると、遠さは少しだけ薄くなります。
幹夫は父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「しおり もらいました」 「ほんに はさみました」 「においが ちいさく しました」 「ふじが しろい ぼうしを かぶりました」 「とうさんも みえますか」 「こっちは きょう からり と きん でした」
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声は少し細くなって、りん……りん……と、夜の布を小さな針で縫っていました。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――しおりは、戻る場所の印。 ――匂いは、遠い町と蒲原の間の、見えない糸。 ――冬の本をめくっても、戻るページがある。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。
その返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、匂いと音の通るあたたかい筒のままでした。







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