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化審法ラボと新規分子の暗号


――山崎行政書士事務所事件簿

山崎行政書士事務所の午前十時は、たいてい平和である。

所長の山崎が湯飲みを置く。ゆいが法令チェックリストを整える。蓮斗がノートPCの画面に向かって、誰も頼んでいないのに事務所のクラウド権限を点検する。

「蓮斗さん、また複合機の管理画面を見ています?」

ゆいが言うと、蓮斗は真顔で答えた。

「複合機は、油断すると組織の最古参アカウントになります」

山崎が首をかしげた。

「複合機にも定年があるのかね」

「あります。廃棄手続という名の退職です」

その会話を遮るように、事務所の引き戸が開いた。

入ってきたのは、白衣姿のままの女性だった。

いや、正確には、白衣の上にスーツのジャケットを羽織っていた。

研究者の焦りと、総務担当者の諦めを同時にまとっている。

「助けてください。新規分子が、暗号を吐きました」

山崎は湯飲みを置いた。

「分子が?」

ゆいはすぐに椅子を引いた。

「まず、座ってください。合成前ですか、合成後ですか」

女性は息を整えた。

「合成前です。生成AIで設計した新規化学物質の候補リストです。まだ机上検討だけです」

ゆいの表情が少しだけ緩んだ。

「それなら、まだ人も環境も傷ついていません」

「でも、候補リストに、ひとつだけ妙な構造式が混ざっているんです」

女性の名は、篠原真澄。富士宮市の化学メーカー、白峰マテリアル研究所の研究企画課長だった。

白峰マテリアルは、樹脂添加剤の新素材候補を探索している。研究チームは生成AIを使い、文献情報、社内の既存候補、制約条件をもとに、42件の新規分子候補を出力させた。

ところが、そのうち一つだけ、研究員が見ても説明できない構造式があった。

候補番号、MOL-37

真澄はタブレットを差し出した。

ゆいは画面を見て、眉を寄せた。

そこには、構造式らしき図があった。

ただし、妙だった。

環が閉じているようで閉じていない。結合線が不自然な角度で重なっている。置換基のはずの記号が、化学記号ではなく人名のように見える。そして図の端には、小さくこう書かれていた。

GUEST-RD / OWNER-TEMP / EXPORT-0217

蓮斗が、ぴたりと動きを止めた。

「それ、化学ではありません」

ゆいも頷いた。

「少なくとも、構造式としては確認できません。原子価も置換基表記も不自然です。新規化学物質候補として扱う前に、リストの出所を確認した方がいいです」

山崎が画面を覗き込んだ。

「私は化学は詳しくないが、これは分子というより、書き置きに見えるね」

真澄は小さく言った。

「社内では、誰かが候補リストを改ざんしたんじゃないかと」

「犯人探しが始まりましたか」

蓮斗が尋ねると、真澄は沈黙した。

その沈黙が、答えだった。

1 合成前の取調室

白峰マテリアル研究所の会議室は、すでに小さな取調室になっていた。

研究部長の久能は、腕を組んで座っている。若手研究員の森野は、うつむいたまま。情報システム担当の小此木は、ノートPCを抱えて顔色が悪い。法務総務の西尾は、分厚いファイルを広げていた。

ホワイトボードには、赤字でこう書かれていた。

MOL-37混入事件

山崎はそれを見て、静かに言った。

「事件名が決まると、人は犯人を欲しがります」

ゆいはホワイトボードの赤字を消した。

代わりに、こう書いた。

MOL-37確認事項

一、候補リストの生成条件。二、候補物質の法令確認。三、研究データのアクセス権限。四、外部AI利用の範囲。五、合成・譲渡・委託前の手続。

久能が苛立った声を出した。

「しかし、改ざんなら大問題です。研究情報の流出かもしれない」

蓮斗は冷静に答えた。

「だからこそ、先にログを見ます。人の記憶より、アクセス記録です」

ゆいは候補リストを受け取り、一件ずつ確認した。

「まず、この42件はまだ候補段階です。実際に製造、輸入、譲渡、使用、委託試験へ進む前に、法令横断で確認します」

西尾がメモを取る。

「化審法だけでいいと思っていました」

「化審法は重要です。でも、それだけでは足りません。安衛法、毒劇法、消防法、PRTR、SDS、GHSラベル、作業者のリスクアセスメント、廃棄や委託試験の扱いまで見ます」

森野が顔を上げた。

「まだ作っていない物質でも?」

「作っていないからこそです」

ゆいの声は穏やかだったが、芯があった。

「合成してから慌てると、現場が危なくなります。候補の段階で、確認欄を作ります」

山崎が頷いた。

「料理でも、火にかける前に材料を見る。怪しい材料を鍋に入れてから悩まない」

蓮斗が小声で言った。

「先生、そのたとえは案外正確です」

ゆいは候補リストに新しい列を追加した。

化審法:既存/新規確認安衛法:名称公表・SDS・ラベル確認毒劇法:毒物・劇物該当性確認消防法:危険物性状確認PRTR:対象物質確認GHS分類・SDS案作業リスクアセスメント合成可否判断外部委託可否判断

そして、MOL-37の欄にだけ、大きく書いた。

化学物質として確認できません。出所確認。

久能が眉をひそめた。

「確認できない?」

ゆいはきっぱり言った。

「はい。現時点では、新規化学物質とも、毒劇物とも、危険物とも確認できません。なぜなら、そもそも化学構造として成立しているか確認できないからです」

会議室が静かになった。

誰かを疑う前に、分子そのものが容疑者から外れかけていた。

2 MOL-37は歌わない

蓮斗は、研究データ基盤のログを確認した。

候補リストは、クラウド上の研究フォルダに保存されていた。

作成者は、研究AIコネクタ。最終更新時刻は、午前2時17分。更新者表示は、lab-ai-runner。

しかし、蓮斗はすぐに言った。

「表示名だけでは判断しません」

小此木が震える声で尋ねた。

「AIが勝手に混ぜたんですか?」

「それもまだ確認できません。まず、実行ログ、入力データ、アクセス権限、出力ファイルのハッシュ、共有リンクを見ます」

山崎が感心したように言った。

「化学のミステリーが、急にクラウドの足跡になったね」

ログは、奇妙な時系列を示した。

午前1時43分、森野が候補生成ジョブを開始。午前1時46分、研究フォルダ内の既存候補データを参照。午前1時58分、外部AI連携用の一時領域へデータ送信。午前2時17分、候補リスト出力。午前2時18分、MOL-37だけ再生成。午前2時19分、アクセス権限一覧ファイルを参照。午前2時20分、候補リスト保存。

蓮斗の指が止まった。

「午前2時19分に、なぜアクセス権限一覧を参照しているんですか」

小此木の顔色が変わった。

「それは、研究フォルダの棚卸し用CSVです。分子候補とは関係ありません」

蓮斗はMOL-37の図を見た。

GUEST-RD / OWNER-TEMP / EXPORT-0217

「関係しています」

真澄が息を呑んだ。

「どういうことですか」

「これは化学構造ではなく、権限情報の断片です。GUEST-RD はゲスト研究者用グループ、OWNER-TEMP は一時所有者権限、EXPORT-0217 はエクスポート処理名でしょう」

森野が青ざめた。

「まさか……」

蓮斗は静かに言った。

「MOL-37は、分子ではありません。研究データのアクセス権限一覧が、生成AIの入力に紛れ込み、それをAIが構造式らしく整形したものです」

山崎が眉を上げた。

「つまり、分子が暗号を吐いたのではなく、権限表が分子のふりをした?」

「はい」

久能が立ち上がった。

「誰がそんな設定をした!」

森野が椅子から半分浮いた。

「ぼ、僕です。でも、違います。盗もうとしたわけではありません」

ゆいはすぐに言った。

「座ってください。今は責める時間ではありません」

森野は、泣きそうな顔で座り直した。

「生成AIに候補を出させるとき、研究フォルダの“関連資料”をまとめて読み込ませました。法令確認に必要かもしれないと思って。フォルダ内のCSVを全部……」

小此木が額を押さえた。

「権限一覧CSVまで読ませたのか」

森野は小さく頷いた。

「すみません。ゆいさんたちに相談する前に、候補を整えておきたくて」

会議室の空気が、少し変わった。

悪意ではない。だが、危険な善意だった。

3 暗号の中の三つの過剰権限

蓮斗は、権限一覧CSVを開いた。

そこには、研究データフォルダへのアクセス権限が並んでいた。

研究部正社員。法務総務。品質保証。外部共同研究者。委託分析会社。一時プロジェクトメンバー。退職済み研究者の旧アカウント。

蓮斗は、三つの行に赤い印をつけた。

一つ目、GUEST-RD。外部共同研究者グループに、候補リストへの閲覧権限だけでなく、ダウンロード権限があった。

二つ目、OWNER-TEMP。一時的に付与した所有者権限が、期限切れ後も残っていた。

三つ目、EXPORT-0217。AI連携用コネクタに、必要以上のフォルダ参照権限があった。

久能は声を失った。

蓮斗は、MOL-37の図を指した。

「この三つが、MOL-37の端に出ています。AIは、権限情報を理解せず、分子の注釈のように混ぜました」

山崎が低く言った。

「暗号は、犯人の名ではなく、会社の穴を指していたわけだ」

ゆいは頷いた。

「そして、化学面でも同じです。候補物質リストに法令確認欄がない。SDS案もラベル案も、リスクアセスメントの入口もない。ここにも穴があります」

西尾が言った。

「候補段階でSDSまで必要ですか?」

ゆいは慎重に答えた。

「正式な交付や表示の要否は、物質、用途、譲渡・提供の有無などで確認します。ただ、研究段階でも、作業者が扱うなら危険有害性情報を整理し、ラベルやSDSに相当する情報、保護具、保管、廃棄、緊急時対応を考える必要があります」

小此木が小さく言った。

「化学も権限も、後で整理すると危ないんですね」

山崎が微笑んだ。

「後で整理します、は山崎事務所の最多出没妖怪です」

その瞬間、会議室のプリンターが勝手に動き出した。

全員が振り向く。

紙には、こう印刷されていた。

MOL-37は分子ではない。しかし、危険ではないとは言っていない。

森野が悲鳴を上げた。

「分子が喋った!」

蓮斗がプリンターのジョブを確認した。

「違います。山崎先生がさっき印刷したメモです」

山崎は目をそらした。

「雰囲気を大事にしたくて」

ゆいは紙を拾った。

「でも、内容は正しいです。MOL-37自体は分子ではありません。ただし、それが現れた運用は危険です」

4 化審法ラボの七つの扉

ゆいは、候補リストを前に、法令横断チェックの流れを説明した。

「まず、化審法。候補が既存化学物質か、新規化学物質かを確認します。既存情報、J-CHECK、社内の過去届出、構造類似、ポリマー性などを確認します」

森野がメモを取る。

「次に安衛法。名称公表化学物質、SDS・ラベル、作業者のリスクアセスメント、ばく露防止措置を確認します」

西尾が言った。

「毒劇法は?」

「毒物・劇物に該当するか確認します。構造だけで断定せず、物質名、CAS番号、塩、濃度、製剤、指定令を確認します」

「消防法は?」

「危険物の類別や指定数量の問題です。引火性、自己反応性、酸化性など、性状を見ます。サンプル量でも運搬や保管のルールが関係することがあります」

「PRTRは?」

「対象物質なら、排出量・移動量の管理が必要になります。研究段階でも、将来の製造や廃棄、委託先処理を見越して、台帳を作ります」

山崎が感心した。

「扉が七つあるね」

ゆいは微笑んだ。

「はい。化審法、安衛法、毒劇法、消防法、PRTR、SDS・ラベル、リスクアセスメント。候補物質は、この七つの扉を通って初めて、研究現場に入れます」

久能は腕をほどいた。

「今までは、合成してから安全担当に回していました」

「これからは、候補リストの段階で安全担当と法務総務を入れてください」

ゆいは、MOL-37の欄に、さらに一文を追加した。

合成禁止。出力経路・アクセス権限の是正完了まで候補リスト凍結。

森野が顔を上げた。

「全部止めるんですか?」

ゆいは優しく言った。

「森野さんを止めるのではありません。危ない流れを止めます」

その言葉に、森野の目が潤んだ。

5 外部AIの小さな嘘

蓮斗は、AI連携の設定をさらに追った。

そして、もう一つの問題を見つけた。

森野が使った生成AIコネクタは、会社が承認したものだった。しかし、設定画面には、こう書かれていた。

入力データ保持:既定設定ログ保存:有効外部連携先:利用規約に従う

小此木は青ざめた。

「既定設定……」

蓮斗は言った。

「外部AIに何を送ったか、保持されるか、学習に使われるか、ログに何が残るか。契約と設定で確認する必要があります。ここが曖昧なまま研究データを入れるのは危険です」

真澄が小さく言った。

「でも、社内説明では“安全なAI環境”と聞いていました」

蓮斗は首を振った。

「安全という言葉は、設定を見ないとわかりません」

山崎が言った。

「カレーの“辛くない”と同じだね。人によって違う」

ゆいが微笑んだ。

「先生、そのたとえは少しだけ合っています」

蓮斗は、外部AIへの送信ログを確認した。

幸い、MOL-37を含む出力後の候補リストは外部へ再送信されていない。ただし、入力時に研究フォルダ内の複数CSVがまとめて参照されていた。アクセス権限一覧、候補名、社内プロジェクトID、委託分析会社名が含まれていた可能性がある。

「外部流出の有無は、この時点では確認できません」

蓮斗は正確に言った。

「ただし、研究データとアクセス権限情報が外部AIの入力に含まれた可能性はあります。契約、ログ、保持設定、削除依頼の可否を確認しましょう」

久能は森野を見た。

森野は震えていた。

久能は、しばらく黙ったあと、深く息を吐いた。

「森野、悪意ではないんだな」

「はい。本当に、早く候補を整えたくて」

「なら、責任は私にもある。AIを使えと言ったのは私だ。使い方を決めなかった」

会議室の緊張が、少しだけほどけた。

山崎は静かに言った。

「道具を使うな、ではなく、道具の通り道を決める。今日はその話ですね」

6 MOL-37の正体

夕方、蓮斗は最後の証跡を見つけた。

MOL-37だけが午前2時18分に再生成された理由。

生成AIが、最初に出した候補リストの37番目を「説明不能」と判定し、入力に含まれていた権限CSVの一部を“補助情報”として拾い、化学構造の注釈へ変換していたのだ。

その変換結果が、

GUEST-RD / OWNER-TEMP / EXPORT-0217

つまり、三つの権限穴だった。

真澄が呆然と言った。

「AIが、監査レポートを分子にした……?」

蓮斗は頷いた。

「正確には、区別できなかったんです。化学候補データと権限データの境界が、入力側で壊れていた」

ゆいは言った。

「化学でも同じです。物質名、構造式、ロット、SDS、ラベル、廃棄記録が混ざると、何を判断しているかわからなくなる。台帳の境界は大事です」

山崎は腕を組んだ。

「MOL-37は、会社の中の混線を見せてくれたんだね」

久能は苦笑した。

「生成AIに叱られた気分です」

「叱ったのはAIではありません」

蓮斗は言った。

「ログです」

ゆいはMOL-37の画像を閉じた。

「では、結論です。MOL-37は合成候補から除外します。候補リストは、法令確認欄を追加して再生成。研究データと権限CSVは入力対象から分離。外部AI利用規程を整備。アクセス権限は最小権限へ修正。外部委託先と共同研究者の範囲も棚卸しします」

西尾がメモを読み上げた。

「過剰権限三件を是正。AI連携設定を確認。候補リスト42件のうち、MOL-37を除外。残り41件について、化審法、安衛法、毒劇法、消防法、PRTR、SDS・ラベル、リスクアセスメントの確認欄を設ける」

ゆいは頷いた。

「はい。そして、確認できないものは“確認できません”と書く。空欄にしない」

山崎が満足そうに言った。

「今日もまた、空欄妖怪を退治しましたね」

7 ラボの新しい入口

一週間後、白峰マテリアル研究所には、新しい掲示が貼られた。

新規候補物質ゲート

一、候補生成前に入力データを分類する。二、外部AIへ入れてよい情報、入れてはいけない情報を分ける。三、候補リストには法令横断チェック欄を付ける。四、構造式が確認できないものは候補から除外する。五、合成前に安全・法務・研究の三者レビューを行う。六、研究データのアクセス権限は月次棚卸しする。七、委託先・共同研究者・退職者アカウントを確認する。

森野は、その掲示を見て言った。

「MOL-37、掲示の守護霊みたいですね」

真澄が笑った。

「守護霊にしては、初登場が怖すぎる」

小此木は、権限表を開いた。

GUEST-RD は閲覧のみ。OWNER-TEMP は削除。EXPORT-0217 は専用フォルダだけ参照。退職済みアカウントは停止。AI入力フォルダは、研究データ本体から分離。

久能は、ゆいと蓮斗に頭を下げた。

「研究を止めるのではなく、進めるための仕組みを作っていただいた」

ゆいは微笑んだ。

「新しい物質を作ることは、未来を作ることです。でも、未来は法令と安全と証跡の上に置いた方が、長く続きます」

山崎が静かに言った。

「よい言葉だね。湯飲みに刻みたい」

蓮斗が即答した。

「湯飲みへの機密情報刻印は禁止です」

「名言なのに」

「持ち出しリスクです」

会議室に笑いが広がった。

山崎行政書士事務所へ戻る車の中で、ゆいは窓の外を見ていた。

富士山の稜線が、夕方の光に少しだけ赤く染まっている。

山崎が尋ねた。

「ゆいくん、今日の犯人は誰だったと思う?」

ゆいは少し考えた。

「犯人はいません。境界がなかっただけです」

「境界?」

「化学物質候補と権限情報の境界。研究データと外部AIの境界。候補段階と合成段階の境界。法令確認前と確認後の境界です」

蓮斗が頷いた。

「クラウドでも同じです。境界がないと、必要な人にも、必要でない人にも、同じように見えてしまいます」

山崎は湯飲みを持っていない手で、空中に丸を描いた。

「分子の結合も、会社の権限も、つながり方が大事ということだね」

ゆいは笑った。

「はい。ただし、先生のたとえは構造式としては確認できません」

「また確認できないと言われた」

蓮斗が言った。

「でも、意味は通っています」

山崎は満足げに頷いた。

「なら、よし」

その後、山崎行政書士事務所には、白峰マテリアルから小さな額が届いた。

中には、MOL-37の画像ではなく、ゆいが作ったチェックリストの最初の一行が入っていた。

作る前に、たしかめる。

山崎はそれを事務所の壁に掛けた。

さくらが覗き込んで言った。

「おやつにも使えますね」

ゆいが首をかしげた。

「どういう意味ですか?」

「買う前に、賞味期限をたしかめる」

蓮斗が静かに言った。

「保存場所とアクセス権限も」

山崎は笑った。

「では、山崎事務所のおやつ台帳にもGHSラベルを……」

ゆいが即座に止めた。

「不要です」

「危険有害性は?」

「先生が食べすぎるリスクだけです」

事務所に、温かい笑いが広がった。

MOL-37は、新規分子ではなかった。

けれど、それは大切なものを知らせてくれた。

生成AIは便利だ。クラウドも便利だ。新しい化学物質の探索は、未来を近づける。

でも、便利なものほど、境界が必要になる。

何を入れるか。誰が見られるか。何を作ってよいか。何を確認できないか。どの法令の扉を通るか。

バックアップも、台帳も、ログも、構造式も、嘘はつかない。

ただし、人間が混ぜてはいけないものを混ぜたとき、真実は奇妙な形で現れる。

その日、山崎行政書士事務所の白い壁で、チェックリストの一行が静かに光っていた。

作る前に、たしかめる。

それは、化学にも、クラウドにも、人の仕事にも通じる、いちばん小さくて、いちばん強い安全策だった。

作中の実務背景

確認日:2026年5月13日。

化審法は、人の健康および生態系に影響を及ぼすおそれがある化学物質による環境汚染を防止することを目的とする法律です。経済産業省の化審法ページには、新規化学物質の届出・申出、対象物質一覧、J-CHECKなどへの案内が掲載されています。作中の「候補段階で既存/新規確認をする」という場面は、この制度を踏まえたフィクションです。

NITEの化審法連絡システム関連ページには、新規化学物質の届出・申出、J-CHECK、NITE-CHRIP、GHS総合情報提供サイトなどの関連情報への導線があります。作中のゆいが「候補リストに確認欄を作る」としたのは、物質名・構造・既存情報・GHS/SDSなどを横断して確認する実務を物語化したものです。

厚生労働省「職場のあんぜんサイト」には、GHS対応モデルラベル・モデルSDS情報、ラベル・SDS義務対象物質一覧・検索、リスクアセスメント支援ツールなどの情報が掲載されています。作中の安衛法、SDS、ラベル、作業リスクアセスメントの整理は、この公的情報を背景にしています。

PRTR制度は、人の健康や生態系に有害なおそれがある化学物質について、環境中への排出量および廃棄物に含まれる移動量を事業者が把握し、行政庁へ報告し、集計・公表される制度です。作中では、新規候補が将来の製造・廃棄・委託処理に進む前に、PRTR対象性や台帳化を確認する流れとして扱いました。

毒劇法では、毒物・劇物・特定毒物の定義が法別表や指定令に基づいて整理されています。厚生労働省は、濃度、製剤、塩、グループ名規制などに注意が必要で、法令も併せて確認するよう案内しています。作中の「構造だけで毒劇物と断定しない」という台詞は、この注意点を踏まえています。

消防庁は、消防法上の危険物について、第一類から第六類までの性質を示しています。作中の消防法確認は、候補物質が合成・保管・運搬へ進む前に、引火性、酸化性、自己反応性などの性状確認が必要になるという実務上の観点を物語化したものです。

 
 
 

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