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十五時の不確認

――届出書に埋められた殺意――

静岡市清水区草薙。

山崎行政書士事務所の朝は、いつも少しだけ早い。

東海道線の音が遠くから低く響き、事務所の窓ガラスに、五月の光が薄い青で差し込んでいた。コピー機が温まり、コーヒーメーカーが小さく唸り、ゆいが観葉植物に水をやる。

「今日、化審法の相談ですよね?」

ゆいが振り返ると、りなはすでに分厚い資料を机に並べていた。

「新規化学物質の届出。少量か、低生産量か、通常新規か。最初に見るべきは、物質の同一性と数量、用途、既存化学物質該当性」

「うわあ……名前からして、もう事件の香りがします」

「香りで判断しないで」

りなは冷静に言ったが、その目はいつもより鋭かった。

午前九時三分。

事務所のドアベルが鳴った。

入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。薄いグレーのスーツ。整った髪。けれど、右手に持つ封筒だけが異様だった。

青い封筒。

封の部分には、赤いペンで一言だけ書かれていた。

――出したら、燃える。

山崎哲央は、その文字を見て眉を動かさなかった。

「まず、座ってください。お名前を」

女性は震える声で答えた。

「駿河湾ケミカル株式会社、研究開発部の三枝美沙です。新規化学物質の届出支援をお願いしたくて来ました。でも……その前に、これが届いたんです」

彼女は青い封筒を机に置いた。

中には、一枚のコピー用紙が入っていた。

そこには、化学物質の名称らしき記号と、構造式の一部を黒く塗りつぶした図、そして、手書きの文面があった。

――十五時までに届出を止めろ。――その物質は、人を殺す。――君たちは、また隠すのか。

事務所の空気が、ひとつ低く沈んだ。

ゆいは無意識に水差しを握りしめた。

「また、って……?」

三枝は唇を噛んだ。

「わかりません。弊社は新しい防汚コーティング材の中間体として、少量の製造を予定しています。試験データもあります。社内では問題ないと」

「届出予定の物質名は?」

りなが尋ねる。

「社内コードで、SC-417B」

その瞬間、山崎は資料の一枚に視線を落とした。

「いただいた事前資料では、SC-417βになっています」

三枝が固まった。

「え……?」

「Bとβ。アルファベットとギリシャ文字。似ていますが、同一性を確認する場面では、軽く扱えません」

りながすぐにノートPCを開いた。

「構造式ファイルはありますか?」

三枝はUSBメモリを取り出した。

「これに」

「直接は開きません。隔離環境で確認します」

山崎は淡々と言った。

行政書士事務所に似つかわしくない言葉だったが、山崎行政書士事務所では、それが普通だった。契約書、許認可、内容証明、ISMS、クラウド法務、Azure技術支援。書類の裏には、いつもシステムがある。システムの裏には、いつも人間がいる。

そして人間の裏には、時に、恐ろしい沈黙がある。

午前十時二十二分。

りなは隔離端末で構造式ファイルを確認していた。

「おかしいです」

「何が?」

「三枝さんの資料では、提出用の構造情報は一種類。でもUSBの中には、似た構造のファイルが三つあります。作成日時も、微妙にずれている」

ゆいが画面を覗き込む。

「SC-417B、SC-417β、SC-417B_old……?」

「oldが一番新しい」

山崎が言った。

沈黙が落ちた。

「古い、という名前を付けられたファイルが、一番新しい。これは単純な整理ミスではない」

三枝の顔色が変わった。

「社内では、資料は知財管理部がまとめています。研究開発部は、最終版しか見ていません」

「知財管理部の責任者は?」

「久能慎一郎です。元々、官庁対応に強い人で……」

その名前を聞いた瞬間、事務所の入口で再びベルが鳴った。

入ってきたのは、郵便配達員ではなかった。

黒いジャケットの男。

「三枝さん、勝手に外部へ出すのは困ります」

男は穏やかに微笑んでいた。

「久能さん……」

三枝の声が凍った。

久能慎一郎は、まるで最初から自分がこの場に来ることを知っていたように、自然に名刺を差し出した。

「駿河湾ケミカル、知財管理部の久能です。弊社の資料に関するご相談であれば、私を通していただかないと」

山崎は名刺を受け取った。

「本件の依頼者は三枝様ですか。それとも御社ですか」

久能の笑顔が一瞬だけ薄くなった。

「会社案件です」

「では、委任関係と窓口権限を確認します」

「そんな悠長な話ではありません。十五時に間に合わない」

その言葉を聞いて、ゆいの背筋に冷たいものが走った。

十五時。

青い封筒と同じ時刻。

久能は、封筒の中身を知らないはずだった。

「なぜ十五時と?」

りなが静かに聞いた。

久能はわずかに目を細めた。

「届出の締切は、通常その時間帯でしょう。業務上、知っています」

「今日の提出予定だとは、三枝さんはまだ言っていません」

山崎の声は低かった。

久能の表情は崩れない。

だが、右手の親指が、名刺入れの角を一度だけ強く押した。

それを、ゆいは見逃さなかった。

午前十一時四十八分。

山崎は顧問弁護士とセキュリティ専門家に連絡を入れた。行政書士として越えてはいけない一線を越えないためだった。刑事事件の可能性が出た時点で、単独で抱えてはいけない。

一方で、山崎事務所にできることはあった。

書類を見ること。

時系列を見ること。

矛盾を見ること。

人の言葉ではなく、残された痕跡を見ること。

りなは、三つの構造式ファイルのメタデータを照合した。

「作成者名が違います。SC-417Bは三枝さん。SC-417βは久能さん。SC-417B_oldは……空欄」

「空欄?」

「いえ、正確には削除されています。でもファイルのパスに一部残っています」

画面に表示された文字列を見て、三枝が息を呑んだ。

――Matsuba_Lab.

「松葉……?」

山崎が尋ねる。

三枝は震える声で答えた。

「松葉譲。五年前に亡くなった、弊社の元研究部長です」

ゆいが小さく言った。

「亡くなった人が、一番新しいファイルを作った……?」

空気が、ひび割れるように冷えた。

午後零時三十分。

三枝は、五年前の事故について話し始めた。

駿河湾ケミカルの旧工場で、小さな漏洩事故があった。公表対象に該当しないと判断され、社内処理で終わった。被害者はいない、とされた。

だが、松葉譲はその後、退職した。

そして半年後、海沿いの道路で事故死した。

「父です」

三枝は突然、そう言った。

誰もすぐには言葉を返せなかった。

「松葉譲は、私の父です。私は母方の姓で入社しました。父が何を調べていたのか、私は知らない。でも、父は亡くなる前に言っていました。『書類が正しすぎる会社は、いちばん危ない』って」

久能が立ち上がった。

「三枝さん、それ以上は社外秘です」

山崎が静かに手を上げた。

「久能さん。今ここで止めようとしているのは、営業秘密の保護ですか。それとも、別のものですか」

久能は笑った。

今度は、はっきりと冷たい笑みだった。

「行政書士が、探偵ごっこですか」

「いいえ」

山崎は言った。

「届出書の不備を確認しているだけです」

その一言で、久能の目つきが変わった。

書類。

たかが書類。

されど書類。

そこに嘘をつく人間は、必ずどこかで焦る。

午後一時十七分。

ゆいが、青い封筒をじっと見ていた。

「この封筒、変です」

「何が?」

「封筒の青、普通の事務封筒じゃないです。これ、たぶん社内便の古い封筒を裏返して使っています。内側に、薄く印刷が透けています」

ライトにかざすと、そこにはかすかに文字が浮かんだ。

――環境安全委員会――平成二十一年――松葉

三枝が口元を押さえた。

「父の……?」

その時、事務所の電話が鳴った。

弁護士からだった。

山崎は短く応答し、受話器を置いた。

「旧工場事故の件、当時の関係者の一人が所在不明になっています」

「誰ですか」

「元環境安全委員会の記録係。名前は、青島礼子」

三枝の目が大きく開いた。

「青島さん……父が最後に会っていた人です」

午後一時五十五分。

青島礼子は、清水区の古い倉庫で見つかった。

いや、正確には、自分から山崎事務所に電話をしてきた。

「青い封筒は、私が出しました」

彼女の声は、静かだった。

「でも、脅迫のつもりではありません。止めないと、人がまた黙らされると思った」

青島は、十五年前から駿河湾ケミカルの環境関連記録を担当していた。五年前の漏洩事故で、松葉譲はある事実に気づいた。

事故物質と、今回のSC-417Bは、同じではない。

だが、分解後に生じる副生成物の懸念が似ていた。

松葉は、それを社内で指摘した。

しかし当時、会社は大口契約を控えていた。事故は小さく処理された。松葉は黙らなかった。記録は差し替えられ、彼は会社を去った。

「では、久能さんが?」

りなが問う。

青島は電話口で沈黙した。

「久能さんは、差し替えを命じた人ではありません」

山崎は目を細めた。

「では、誰ですか」

青島は答えた。

「松葉さん本人です」

事務所の空気が止まった。

三枝の顔から血の気が引いた。

「嘘……父が?」

「松葉さんは、会社を守ろうとしたんです。正確には、社員を守ろうとした。事故が公になれば、当時の若い研究員たちが責任を負わされる。だから一度、記録を丸めた。でも、その後で後悔した。今回の物質が出てきて、同じことが繰り返されると思った」

「そんな……」

三枝の声は崩れた。

父は正義の人だった。

そう信じていた。

しかし正義の人も、間違える。

人を守ろうとして、別の未来を傷つけることがある。

山崎は静かに言った。

「青島さん。あなたが封筒を出した理由はわかりました。でも構造式ファイルの改変は?」

「私はしていません」

「では、誰が?」

電話の向こうで、青島は泣いていた。

「わかりません。でも、松葉さんの古い資料を持っているのは、私と……もう一人だけです」

午後二時二十分。

事務所に警察が到着した。

同時に、久能のスマートフォンが鳴った。

久能は画面を見た瞬間、初めて明確に動揺した。

山崎はその表情を見て、静かに言った。

「あなたではないんですね」

久能は唇を結んだ。

「何の話です」

「犯人です。あなたは隠していた。だが、作った人ではない」

りなが画面を回した。

三つの構造式ファイル。

そのうち、最も新しい「old」だけに、特殊な文字化けがあった。

通常の日本語環境では起きにくい文字化け。

「このファイルは、海外環境のPCで編集されています」

三枝が呟いた。

「海外……?」

山崎は、依頼資料の中から一枚のメールを取り出した。

共同開発先。

欧州の小規模素材メーカー。

担当者名。

――Reiko Aoshima.

ゆいが息を呑んだ。

「青島さん?」

「違います」

山崎は言った。

「同姓同名ではない。名義を使われています」

青島礼子の名前で、欧州企業に資料が送られていた。だが、青島本人は英語が苦手で、海外取引の担当歴もない。

では、誰が彼女の名義を使ったのか。

午後二時三十七分。

答えは、ゆいの一言から出た。

「久能さん、名刺入れ、見せてもらえますか」

「なぜ」

「さっきから、親指で同じところを押していますよね。そこに何か入っているんじゃないですか」

久能は黙った。

警察官が視線を向ける。

久能は諦めたように名刺入れを開いた。

中から出てきたのは、小さな写真だった。

写っていたのは、若い研究員たち。

五年前の旧工場。

中央に松葉譲。

端に三枝美沙。

そして、もう一人。

今よりずっと若い久能慎一郎が、白衣を着て笑っていた。

三枝は震えた。

「あなた、知財じゃなくて……研究員だったんですか」

久能は目を閉じた。

「私は、あの事故で研究を失った。松葉さんに救われたんです。責任を被るはずだった私を、あの人は守った」

「なら、なぜ今回止めなかったんですか」

「止めようとした!」

久能の声が初めて荒れた。

「でも、会社は進めた。三枝さん、あなたが父親と同じ目をして、この物質を信じていたからだ。私は……あなたを守りたかった」

りなが鋭く言った。

「守るために、資料を改変した?」

久能は首を振った。

「違う。私は、青島さんの警告を握りつぶしただけです」

握りつぶしただけ。

その言葉の軽さが、かえって重かった。

山崎はゆっくりと立ち上がった。

「では、本当の改変者は誰か」

午後二時四十九分。

三枝美沙のスマートフォンに、一通のメールが届いた。

差出人は、亡くなったはずの父。

件名は、ただ一言。

――美沙へ。

本文には、こうあった。

――十五時までに、机の下を見なさい。――父さんは、正しく間違えた。――だから、お前は、間違っても正しくありなさい。

三枝は崩れるように膝をついた。

山崎が、事務所の相談机の下を覗き込む。

貼り付けられていたのは、小さな封筒だった。

誰がいつ貼ったのか。

それは、三枝が来所した時ではない。

もっと前。

おそらく、青島が事務所に相談予約だけを入れ、来なかった日のこと。

封筒の中には、古いUSBメモリと、手紙が入っていた。

松葉譲の筆跡だった。

だが、日付は五年前ではなかった。

令和八年五月。

つまり、松葉譲は死んでいなかった。

午後二時五十五分。

警察の無線が鳴った。

清水港近くの古い貸倉庫で、身元不明の高齢男性が保護されたという。自ら名乗った名前は、松葉譲。

事故死したはずの男。

三枝の父。

そして、今回のすべての発端。

久能は呆然と呟いた。

「先生……生きて……」

山崎は目を閉じた。

見えた。

五年前、松葉は自分の過ちに耐えられなかった。会社を守るために記録を歪めた。若い研究員を守るために真実を隠した。その結果、別の誰かが同じ過ちへ進んでいく。

だから、彼は一度死んだことにした。

青島に記録を預け、身を隠した。

そして今回、娘が同じ会社で、同じような物質に関わっていると知り、止めようとした。

だが、彼は正面から名乗れなかった。

自分が過去に嘘をついた人間だから。

だから青い封筒を使った。

だから構造式ファイルに、わずかな矛盾を残した。

だから、久能を疑わせ、青島を疑わせ、会社を疑わせた。

すべては、届出を止めるためではない。

届出書を、正しく出し直させるためだった。

午後三時。

提出は、見送られた。

それは敗北ではなかった。

三枝は、涙をこぼしながら言った。

「父は、最低です」

誰も否定しなかった。

「でも……生きていてくれて、よかった」

それも、誰も否定しなかった。

夕方。

山崎行政書士事務所の窓に、清水の空が赤く映っていた。

三枝は正式に、届出前整理の再支援を依頼した。

物質の同一性確認。

数量と用途の再整理。

既存化学物質該当性の再確認。

社内承認フローの見直し。

環境安全委員会の記録保存。

弁護士、技術専門家、必要に応じた行政相談。

山崎は、依頼書を整えながら言った。

「書類は、人を裁くためだけにあるものではありません」

三枝が顔を上げる。

「では、何のために?」

「人が、次に間違えないためです」

ゆいが、少し泣きながら笑った。

「それ、事務所のポスターにしましょう」

りなは呆れたように言った。

「事件の直後に広告コピーを考えないで」

だが、誰も本気で止めなかった。

夜、三枝は父と再会した。

松葉譲は、痩せて、老いて、かつての研究者の威厳はほとんど失われていた。

それでも、娘の前に立つと、背筋を伸ばした。

「美沙」

「お父さん」

言葉は続かなかった。

三枝は父を責めたかった。

なぜ嘘をついたのか。

なぜ死んだことにしたのか。

なぜ自分を置いていったのか。

けれど、最初に出た言葉は違った。

「ちゃんと、届出し直すから」

松葉は顔を歪めた。

「そうか」

「だから、今度は逃げないで。私が間違えそうになったら、ちゃんと父親として怒って」

松葉は、子供のように泣いた。

その背中は、小さかった。

山崎は少し離れた場所で、その光景を見ていた。

事件は解決した。

犯人はいた。

だが、悪人はいなかった。

いたのは、正しさに耐えられなかった父。

守ることと隠すことを取り違えた部下。

会社の空気に逆らえなかった人々。

そして、父の影を知らずに同じ道を歩きかけた娘。

十五時の不確認。

それは、役所の締切ではなかった。

人間が、自分の良心に提出すべき最後の時刻だった。

翌朝。

山崎行政書士事務所の机の上には、新しい相談予約が置かれていた。

化審法。

契約書。

内容証明。

ISMS。

クラウド法務。

人は今日も、書類を持ってやってくる。

その紙の端には、たいてい小さな不安が挟まっている。

山崎はコーヒーを一口飲み、静かにファイルを開いた。

そして、いつものように言った。

「では、まず事実関係から確認しましょう」

 
 
 

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