十五時の不確認
- 山崎行政書士事務所
- 5月14日
- 読了時間: 13分

――届出書に埋められた殺意――
静岡市清水区草薙。
山崎行政書士事務所の朝は、いつも少しだけ早い。
東海道線の音が遠くから低く響き、事務所の窓ガラスに、五月の光が薄い青で差し込んでいた。コピー機が温まり、コーヒーメーカーが小さく唸り、ゆいが観葉植物に水をやる。
「今日、化審法の相談ですよね?」
ゆいが振り返ると、りなはすでに分厚い資料を机に並べていた。
「新規化学物質の届出。少量か、低生産量か、通常新規か。最初に見るべきは、物質の同一性と数量、用途、既存化学物質該当性」
「うわあ……名前からして、もう事件の香りがします」
「香りで判断しないで」
りなは冷静に言ったが、その目はいつもより鋭かった。
午前九時三分。
事務所のドアベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。薄いグレーのスーツ。整った髪。けれど、右手に持つ封筒だけが異様だった。
青い封筒。
封の部分には、赤いペンで一言だけ書かれていた。
――出したら、燃える。
山崎哲央は、その文字を見て眉を動かさなかった。
「まず、座ってください。お名前を」
女性は震える声で答えた。
「駿河湾ケミカル株式会社、研究開発部の三枝美沙です。新規化学物質の届出支援をお願いしたくて来ました。でも……その前に、これが届いたんです」
彼女は青い封筒を机に置いた。
中には、一枚のコピー用紙が入っていた。
そこには、化学物質の名称らしき記号と、構造式の一部を黒く塗りつぶした図、そして、手書きの文面があった。
――十五時までに届出を止めろ。――その物質は、人を殺す。――君たちは、また隠すのか。
事務所の空気が、ひとつ低く沈んだ。
ゆいは無意識に水差しを握りしめた。
「また、って……?」
三枝は唇を噛んだ。
「わかりません。弊社は新しい防汚コーティング材の中間体として、少量の製造を予定しています。試験データもあります。社内では問題ないと」
「届出予定の物質名は?」
りなが尋ねる。
「社内コードで、SC-417B」
その瞬間、山崎は資料の一枚に視線を落とした。
「いただいた事前資料では、SC-417βになっています」
三枝が固まった。
「え……?」
「Bとβ。アルファベットとギリシャ文字。似ていますが、同一性を確認する場面では、軽く扱えません」
りながすぐにノートPCを開いた。
「構造式ファイルはありますか?」
三枝はUSBメモリを取り出した。
「これに」
「直接は開きません。隔離環境で確認します」
山崎は淡々と言った。
行政書士事務所に似つかわしくない言葉だったが、山崎行政書士事務所では、それが普通だった。契約書、許認可、内容証明、ISMS、クラウド法務、Azure技術支援。書類の裏には、いつもシステムがある。システムの裏には、いつも人間がいる。
そして人間の裏には、時に、恐ろしい沈黙がある。
午前十時二十二分。
りなは隔離端末で構造式ファイルを確認していた。
「おかしいです」
「何が?」
「三枝さんの資料では、提出用の構造情報は一種類。でもUSBの中には、似た構造のファイルが三つあります。作成日時も、微妙にずれている」
ゆいが画面を覗き込む。
「SC-417B、SC-417β、SC-417B_old……?」
「oldが一番新しい」
山崎が言った。
沈黙が落ちた。
「古い、という名前を付けられたファイルが、一番新しい。これは単純な整理ミスではない」
三枝の顔色が変わった。
「社内では、資料は知財管理部がまとめています。研究開発部は、最終版しか見ていません」
「知財管理部の責任者は?」
「久能慎一郎です。元々、官庁対応に強い人で……」
その名前を聞いた瞬間、事務所の入口で再びベルが鳴った。
入ってきたのは、郵便配達員ではなかった。
黒いジャケットの男。
「三枝さん、勝手に外部へ出すのは困ります」
男は穏やかに微笑んでいた。
「久能さん……」
三枝の声が凍った。
久能慎一郎は、まるで最初から自分がこの場に来ることを知っていたように、自然に名刺を差し出した。
「駿河湾ケミカル、知財管理部の久能です。弊社の資料に関するご相談であれば、私を通していただかないと」
山崎は名刺を受け取った。
「本件の依頼者は三枝様ですか。それとも御社ですか」
久能の笑顔が一瞬だけ薄くなった。
「会社案件です」
「では、委任関係と窓口権限を確認します」
「そんな悠長な話ではありません。十五時に間に合わない」
その言葉を聞いて、ゆいの背筋に冷たいものが走った。
十五時。
青い封筒と同じ時刻。
久能は、封筒の中身を知らないはずだった。
「なぜ十五時と?」
りなが静かに聞いた。
久能はわずかに目を細めた。
「届出の締切は、通常その時間帯でしょう。業務上、知っています」
「今日の提出予定だとは、三枝さんはまだ言っていません」
山崎の声は低かった。
久能の表情は崩れない。
だが、右手の親指が、名刺入れの角を一度だけ強く押した。
それを、ゆいは見逃さなかった。
午前十一時四十八分。
山崎は顧問弁護士とセキュリティ専門家に連絡を入れた。行政書士として越えてはいけない一線を越えないためだった。刑事事件の可能性が出た時点で、単独で抱えてはいけない。
一方で、山崎事務所にできることはあった。
書類を見ること。
時系列を見ること。
矛盾を見ること。
人の言葉ではなく、残された痕跡を見ること。
りなは、三つの構造式ファイルのメタデータを照合した。
「作成者名が違います。SC-417Bは三枝さん。SC-417βは久能さん。SC-417B_oldは……空欄」
「空欄?」
「いえ、正確には削除されています。でもファイルのパスに一部残っています」
画面に表示された文字列を見て、三枝が息を呑んだ。
――Matsuba_Lab.
「松葉……?」
山崎が尋ねる。
三枝は震える声で答えた。
「松葉譲。五年前に亡くなった、弊社の元研究部長です」
ゆいが小さく言った。
「亡くなった人が、一番新しいファイルを作った……?」
空気が、ひび割れるように冷えた。
午後零時三十分。
三枝は、五年前の事故について話し始めた。
駿河湾ケミカルの旧工場で、小さな漏洩事故があった。公表対象に該当しないと判断され、社内処理で終わった。被害者はいない、とされた。
だが、松葉譲はその後、退職した。
そして半年後、海沿いの道路で事故死した。
「父です」
三枝は突然、そう言った。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「松葉譲は、私の父です。私は母方の姓で入社しました。父が何を調べていたのか、私は知らない。でも、父は亡くなる前に言っていました。『書類が正しすぎる会社は、いちばん危ない』って」
久能が立ち上がった。
「三枝さん、それ以上は社外秘です」
山崎が静かに手を上げた。
「久能さん。今ここで止めようとしているのは、営業秘密の保護ですか。それとも、別のものですか」
久能は笑った。
今度は、はっきりと冷たい笑みだった。
「行政書士が、探偵ごっこですか」
「いいえ」
山崎は言った。
「届出書の不備を確認しているだけです」
その一言で、久能の目つきが変わった。
書類。
たかが書類。
されど書類。
そこに嘘をつく人間は、必ずどこかで焦る。
午後一時十七分。
ゆいが、青い封筒をじっと見ていた。
「この封筒、変です」
「何が?」
「封筒の青、普通の事務封筒じゃないです。これ、たぶん社内便の古い封筒を裏返して使っています。内側に、薄く印刷が透けています」
ライトにかざすと、そこにはかすかに文字が浮かんだ。
――環境安全委員会――平成二十一年――松葉
三枝が口元を押さえた。
「父の……?」
その時、事務所の電話が鳴った。
弁護士からだった。
山崎は短く応答し、受話器を置いた。
「旧工場事故の件、当時の関係者の一人が所在不明になっています」
「誰ですか」
「元環境安全委員会の記録係。名前は、青島礼子」
三枝の目が大きく開いた。
「青島さん……父が最後に会っていた人です」
午後一時五十五分。
青島礼子は、清水区の古い倉庫で見つかった。
いや、正確には、自分から山崎事務所に電話をしてきた。
「青い封筒は、私が出しました」
彼女の声は、静かだった。
「でも、脅迫のつもりではありません。止めないと、人がまた黙らされると思った」
青島は、十五年前から駿河湾ケミカルの環境関連記録を担当していた。五年前の漏洩事故で、松葉譲はある事実に気づいた。
事故物質と、今回のSC-417Bは、同じではない。
だが、分解後に生じる副生成物の懸念が似ていた。
松葉は、それを社内で指摘した。
しかし当時、会社は大口契約を控えていた。事故は小さく処理された。松葉は黙らなかった。記録は差し替えられ、彼は会社を去った。
「では、久能さんが?」
りなが問う。
青島は電話口で沈黙した。
「久能さんは、差し替えを命じた人ではありません」
山崎は目を細めた。
「では、誰ですか」
青島は答えた。
「松葉さん本人です」
事務所の空気が止まった。
三枝の顔から血の気が引いた。
「嘘……父が?」
「松葉さんは、会社を守ろうとしたんです。正確には、社員を守ろうとした。事故が公になれば、当時の若い研究員たちが責任を負わされる。だから一度、記録を丸めた。でも、その後で後悔した。今回の物質が出てきて、同じことが繰り返されると思った」
「そんな……」
三枝の声は崩れた。
父は正義の人だった。
そう信じていた。
しかし正義の人も、間違える。
人を守ろうとして、別の未来を傷つけることがある。
山崎は静かに言った。
「青島さん。あなたが封筒を出した理由はわかりました。でも構造式ファイルの改変は?」
「私はしていません」
「では、誰が?」
電話の向こうで、青島は泣いていた。
「わかりません。でも、松葉さんの古い資料を持っているのは、私と……もう一人だけです」
午後二時二十分。
事務所に警察が到着した。
同時に、久能のスマートフォンが鳴った。
久能は画面を見た瞬間、初めて明確に動揺した。
山崎はその表情を見て、静かに言った。
「あなたではないんですね」
久能は唇を結んだ。
「何の話です」
「犯人です。あなたは隠していた。だが、作った人ではない」
りなが画面を回した。
三つの構造式ファイル。
そのうち、最も新しい「old」だけに、特殊な文字化けがあった。
通常の日本語環境では起きにくい文字化け。
「このファイルは、海外環境のPCで編集されています」
三枝が呟いた。
「海外……?」
山崎は、依頼資料の中から一枚のメールを取り出した。
共同開発先。
欧州の小規模素材メーカー。
担当者名。
――Reiko Aoshima.
ゆいが息を呑んだ。
「青島さん?」
「違います」
山崎は言った。
「同姓同名ではない。名義を使われています」
青島礼子の名前で、欧州企業に資料が送られていた。だが、青島本人は英語が苦手で、海外取引の担当歴もない。
では、誰が彼女の名義を使ったのか。
午後二時三十七分。
答えは、ゆいの一言から出た。
「久能さん、名刺入れ、見せてもらえますか」
「なぜ」
「さっきから、親指で同じところを押していますよね。そこに何か入っているんじゃないですか」
久能は黙った。
警察官が視線を向ける。
久能は諦めたように名刺入れを開いた。
中から出てきたのは、小さな写真だった。
写っていたのは、若い研究員たち。
五年前の旧工場。
中央に松葉譲。
端に三枝美沙。
そして、もう一人。
今よりずっと若い久能慎一郎が、白衣を着て笑っていた。
三枝は震えた。
「あなた、知財じゃなくて……研究員だったんですか」
久能は目を閉じた。
「私は、あの事故で研究を失った。松葉さんに救われたんです。責任を被るはずだった私を、あの人は守った」
「なら、なぜ今回止めなかったんですか」
「止めようとした!」
久能の声が初めて荒れた。
「でも、会社は進めた。三枝さん、あなたが父親と同じ目をして、この物質を信じていたからだ。私は……あなたを守りたかった」
りなが鋭く言った。
「守るために、資料を改変した?」
久能は首を振った。
「違う。私は、青島さんの警告を握りつぶしただけです」
握りつぶしただけ。
その言葉の軽さが、かえって重かった。
山崎はゆっくりと立ち上がった。
「では、本当の改変者は誰か」
午後二時四十九分。
三枝美沙のスマートフォンに、一通のメールが届いた。
差出人は、亡くなったはずの父。
件名は、ただ一言。
――美沙へ。
本文には、こうあった。
――十五時までに、机の下を見なさい。――父さんは、正しく間違えた。――だから、お前は、間違っても正しくありなさい。
三枝は崩れるように膝をついた。
山崎が、事務所の相談机の下を覗き込む。
貼り付けられていたのは、小さな封筒だった。
誰がいつ貼ったのか。
それは、三枝が来所した時ではない。
もっと前。
おそらく、青島が事務所に相談予約だけを入れ、来なかった日のこと。
封筒の中には、古いUSBメモリと、手紙が入っていた。
松葉譲の筆跡だった。
だが、日付は五年前ではなかった。
令和八年五月。
つまり、松葉譲は死んでいなかった。
午後二時五十五分。
警察の無線が鳴った。
清水港近くの古い貸倉庫で、身元不明の高齢男性が保護されたという。自ら名乗った名前は、松葉譲。
事故死したはずの男。
三枝の父。
そして、今回のすべての発端。
久能は呆然と呟いた。
「先生……生きて……」
山崎は目を閉じた。
見えた。
五年前、松葉は自分の過ちに耐えられなかった。会社を守るために記録を歪めた。若い研究員を守るために真実を隠した。その結果、別の誰かが同じ過ちへ進んでいく。
だから、彼は一度死んだことにした。
青島に記録を預け、身を隠した。
そして今回、娘が同じ会社で、同じような物質に関わっていると知り、止めようとした。
だが、彼は正面から名乗れなかった。
自分が過去に嘘をついた人間だから。
だから青い封筒を使った。
だから構造式ファイルに、わずかな矛盾を残した。
だから、久能を疑わせ、青島を疑わせ、会社を疑わせた。
すべては、届出を止めるためではない。
届出書を、正しく出し直させるためだった。
午後三時。
提出は、見送られた。
それは敗北ではなかった。
三枝は、涙をこぼしながら言った。
「父は、最低です」
誰も否定しなかった。
「でも……生きていてくれて、よかった」
それも、誰も否定しなかった。
夕方。
山崎行政書士事務所の窓に、清水の空が赤く映っていた。
三枝は正式に、届出前整理の再支援を依頼した。
物質の同一性確認。
数量と用途の再整理。
既存化学物質該当性の再確認。
社内承認フローの見直し。
環境安全委員会の記録保存。
弁護士、技術専門家、必要に応じた行政相談。
山崎は、依頼書を整えながら言った。
「書類は、人を裁くためだけにあるものではありません」
三枝が顔を上げる。
「では、何のために?」
「人が、次に間違えないためです」
ゆいが、少し泣きながら笑った。
「それ、事務所のポスターにしましょう」
りなは呆れたように言った。
「事件の直後に広告コピーを考えないで」
だが、誰も本気で止めなかった。
夜、三枝は父と再会した。
松葉譲は、痩せて、老いて、かつての研究者の威厳はほとんど失われていた。
それでも、娘の前に立つと、背筋を伸ばした。
「美沙」
「お父さん」
言葉は続かなかった。
三枝は父を責めたかった。
なぜ嘘をついたのか。
なぜ死んだことにしたのか。
なぜ自分を置いていったのか。
けれど、最初に出た言葉は違った。
「ちゃんと、届出し直すから」
松葉は顔を歪めた。
「そうか」
「だから、今度は逃げないで。私が間違えそうになったら、ちゃんと父親として怒って」
松葉は、子供のように泣いた。
その背中は、小さかった。
山崎は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
事件は解決した。
犯人はいた。
だが、悪人はいなかった。
いたのは、正しさに耐えられなかった父。
守ることと隠すことを取り違えた部下。
会社の空気に逆らえなかった人々。
そして、父の影を知らずに同じ道を歩きかけた娘。
十五時の不確認。
それは、役所の締切ではなかった。
人間が、自分の良心に提出すべき最後の時刻だった。
翌朝。
山崎行政書士事務所の机の上には、新しい相談予約が置かれていた。
化審法。
契約書。
内容証明。
ISMS。
クラウド法務。
人は今日も、書類を持ってやってくる。
その紙の端には、たいてい小さな不安が挟まっている。
山崎はコーヒーを一口飲み、静かにファイルを開いた。
そして、いつものように言った。
「では、まず事実関係から確認しましょう」







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