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十五枚目の委任状

一 新静岡

その仕事は、雨の火曜日、二十二時十一分に届いた。

【急募】静岡鉄道静岡清水線・全十五駅山崎行政書士事務所ポスター掲出確認終電までに各駅一枚ずつ撮影報酬三倍依頼者:山崎行政書士事務所

真壁凪は、スマートフォンの画面を見ながら、コンビニの軒先で小さく笑った。

行政書士事務所の広告確認。しかも夜。しかも終電まで。

怪しいといえば怪しいが、凪は怪しい仕事で食べていた。看板の設置確認、閉店した店の撤去前撮影、事故物件の外観記録、イベント告知ポスターの貼り替え漏れチェック。人が見ていない場所を、人が見ていない時間に撮る。そういう隙間に金は落ちている。

雨は、街灯の下で白い針になっていた。

新静岡駅の改札近くに、問題のポスターはあった。

白地に紺の文字。右下に、茶色い木目の机と、湯呑みと、眼鏡。顔写真はない。事務所名だけが、やけに生真面目に掲げられていた。

山崎行政書士事務所相続・遺言・成年後見・各種許認可んなの「困った」を、書類にする。夜間相談可

凪は一枚撮った。

その瞬間、スマホが震えた。

依頼者からのメッセージだった。

一枚目、確認しました。赤い字を、順に読んでください。途中で降りないでください。ただし、桜橋だけは気をつけて。

凪は眉を寄せた。

「赤い字?」

見直すと、ポスターの本文の中で、たしかに一文字だけ、微妙に赤かった。

印刷ミスにしては、あまりに小さい。

改札の向こうで、二両編成の電車が入ってきた。銀色の車体が雨をまとい、蛍光灯の光をぬるりと返した。

乗り込む直前、凪は背中に視線を感じた。

振り向くと、柱の陰に灰色のスーツを着た男が立っていた。傘を持っていないのに、肩も髪も濡れていない。

男は凪のスマホを見ていた。

電車のドアが閉まった。

灰色の男は、ホームに残ったまま、音もなく唇を動かした。

読めなかった。

けれど口の形だけで、凪にはこう見えた。

——撮るな。

二 日吉町

日吉町で降りた客は、凪ひとりだった。

雨音が屋根を叩いている。ホームの端で、水たまりが蛍光灯を揺らしていた。

二枚目のポスターは、階段脇にあった。

山崎行政書士事務所家族でも、ならず本人の意思を。その署名、本当にご本人ですか。

凪は撮影した。

赤い字は、

み、か。

「みか……?」

そのとき、駅のスピーカーが鳴った。

本来なら発車案内のはずだった。だが、出てきたのは子どもの声だった。

「おかあさんは、まだ書類じゃない」

凪は息を止めた。

声は、女の子だった。小学校低学年くらい。雨音の奥から、口を押さえられたようにくぐもって聞こえた。

「おかあさんは、まだ……」

ブツッ、と音が切れた。

発車ベルが鳴り、何事もなかったように電車のドアが開いた。

凪は乗った。

車内には、疲れた会社員が二人、学生が三人、ベビーカーを押した若い父親が一人。

誰も、さっきの声に反応していない。

凪はスマホで「御門台 女児 行方不明」と検索しようとした。だが圏外だった。

静岡の街中で圏外になることなど、普通はない。

窓に自分の顔が映った。

その背後に、黄色いレインコートの小さな影が立っていた。

凪が振り返ると、そこには誰もいなかった。

三 音羽町

三枚目。

戸籍のこかに、消せない声が残ります。行方不明・相続・親族関係でお困りの方へ。

み、か、ど。

凪の指先が冷えた。

御門。

いや、御門台。

十一番目の駅名が、頭の中で勝手に浮かんだ。

「御門台のこと?」

ホームのベンチに、古い新聞が置かれていた。雨に濡れて、紙面が波打っている。

凪は何気なく見た。

地方面の小さな記事。

御門台駅近くで七歳女児が一時不明母親は交通事故で入院中親族間トラブルか

日付は、今日だった。

凪は新聞を拾おうとした。

すると、紙面の女児の顔写真が、じわりと滲んだ。

印刷された目が、凪を見た。

「下じゃない」

口が動いた。

「最後まで」

凪は新聞を落とした。

次の電車が、闇を割って入ってきた。

窓ガラスの向こう、さっきの灰色のスーツの男が座っていた。

新静岡のホームに残っていたはずの男が。

男は空いた座席に腰かけ、濡れていない傘を膝に置き、凪を待っていた。

四 春日町

凪は男のいる車両を避け、隣の車両に乗った。

春日町で降りると、すぐにポスターを探した。

日付ない委任状は、夜に消えます。押印よりも、本人の声を。

赤い字は、

み、か、ど、の。

御門の。

背後で、改札の柵が軋んだ。

凪は振り返った。

小柄な老女が、駅員室の窓からこちらを見ていた。制服ではない。紺色のカーディガンを着て、白髪をひとつにまとめている。

「そのポスター、見てるの?」

凪は身構えた。

「広告確認の仕事です」

老女は何度か瞬きをした。

「山崎先生の?」

「ご存じなんですか」

「ご存じどころじゃないよ。あの先生に、息子から家を守ってもらった」

老女は、震える手で窓を少し開けた。

「でもね、あのポスターを夜に追う人は、たいてい何かから追われてる。あんた、ひとりでやってるの?」

「仕事なので」

「仕事で済めばいいけど」

凪が返事をする前に、老女は小さな紙包みを差し出した。

「持っていきな。甘いものは、怖いときに効く」

中には、黒糖飴が二つ入っていた。

凪はなぜか泣きそうになった。

「ありがとうございます」

「最後まで読みなさい。山崎先生の書類は、最後の一行に本当のことがある」

電車が来た。

凪が乗り込むとき、老女はホームの端を見た。

凪もつられて見た。

灰色の男が、向かいの柱の陰に立っていた。

老女は低い声で言った。

「書類のふりをした人間が、一番怖いんだよ」

五 柚木

柚木駅のポスターは、雨で角が浮いていた。

そのどもを、書類だけで決めない。親権・養育・面会交流のご相談も。

みかどのこ。

御門の子。

凪は、スマホを握る手に力を込めた。

駅の外から、踏切の音が聞こえた。カン、カン、カン、と規則正しく鳴っているのに、どこか急かすようだった。

ホームの向こう側に、黄色いレインコートの女の子が立っていた。

小さな手で、何かを抱えている。

白い封筒だった。

凪は声を上げた。

「ねえ!」

女の子が顔を上げた。

新聞の写真の子だった。

口が動く。

「おかあさんの声、なくなっちゃう」

凪は線路を挟んで立ち尽くした。

次の瞬間、女の子の後ろに灰色の男が現れた。

男は女の子の肩に手を置いた。

凪が叫ぼうとしたとき、下り電車がホームに滑り込んだ。

車体が視界を遮る。

電車が停まり、ドアが開いた。

向こう側には、もう誰もいなかった。

六 長沼

本人、まだここにいます。成年後見・任意後見・死後事務委任。

みかどのこは。

凪は意味を理解し始めていた。

御門の子は——。

そこで文章は途切れている。

何が起きる。どこにいる。誰が連れていく。

続きを知らなければならなかった。

長沼のホームでは、電車の整備場の灯りが遠くに滲んでいた。雨に濡れた線路が、黒い川みたいに伸びている。

スマホが震えた。

依頼者からではない。非通知だった。

凪は迷ったが、出た。

「はい」

ザザッ、というノイズ。

それから、年配の女性の声。

「真壁凪さん?」

「誰ですか」

「山崎行政書士事務所の山崎一葉です」

凪はホームのポスターを見た。

「本物ですか」

「本物かどうかは、今夜の最後にあなたが決めてください」

「どういう意味ですか」

「小夜ちゃんを見ましたか」

凪の喉が鳴った。

「黄色いレインコートの子ですか」

「はい。御門台の海野小夜ちゃん。母親の真由さんは、うちに相談に来ていました。元夫が、偽の委任状で小夜ちゃんを連れていこうとしている、と」

「警察は?」

「証拠が足りない。真由さんは事故に遭って意識が戻らない。小夜ちゃんは、今日の夕方から行方がわからない」

雨音が強くなった。

「じゃあ、ポスターの赤い字は?」

「真由さんは印刷会社に勤めていました。山崎事務所の駅貼り広告を担当していた。彼女は最後の仕事で、十五枚のポスターに一文字ずつ赤い字を入れたんです」

「助けを求めるために?」

「ええ」

「どうして私に依頼を?」

電話の向こうで、山崎一葉は短く息を吸った。

「あなたのお母さまが、昔、同じことをしたからです」

凪は黙った。

母は、十年前に死んだ。

凪が静岡を出る前、母は小さな印刷所で働いていた。駅の広告、商店街のチラシ、選挙ポスター。夜遅くまでインクの匂いをまとって帰ってきた。

「母を知ってるんですか」

「山崎の初代所長が、あなたのお母さまの相談を受けていました。あなたを守るために」

「何から」

答えは返ってこなかった。

代わりに、電話口のノイズの奥で、子どもの声がした。

「最後まで読んで」

通話が切れた。

凪はしばらくスマホを見つめていた。

長沼のポスターの赤い  が、雨の湿気で滲んでいるように見えた。

七 古庄

古庄のホームに着くころ、車内の客は減っていた。

凪は灰色の男を見失っていた。

それがかえって怖かった。

相続の前に、よならを聞く。遺言は、残された人への手紙です。

みかどのこはさ。

背後で、黒糖飴の包み紙が鳴った。

春日町の老女がくれた飴を、凪は無意識に握っていた。

包みを開けて、ひとつ口に入れる。

甘さが舌に広がった瞬間、体の震えが少しだけ止まった。

ホームのベンチに、ランドセルが置かれていた。

ピンク色の小さなランドセル。

凪は近づいた。

名札には「うみの さよ」と書かれている。

中を開けると、ノートが一冊だけ入っていた。

一ページ目に、子どもの字でこう書かれていた。

おかあさんが、こえをかみにするっていった。かみはこわい。でも、おかあさんのこえなら、こわくない。

次のページには、ぐちゃぐちゃの赤いクレヨンで、電車が描かれていた。

二両編成。

窓の中に、たくさんの人の顔。

その全員が、こちらを見ている。

凪はノートを閉じた。

「小夜ちゃん」

声に出すと、線路の向こうから返事があった。

「はい」

凪は顔を上げた。

誰もいない。

けれど、雨の匂いの中に、かすかに子どもの石けんの匂いがした。

八 県総合運動場

苦しい時こそ、らしの手続きを。逃げる準備も、守る準備も。

みかどのこはさく。

県総合運動場のホームは、広く、暗かった。

遠くの照明が、雨でぼやけている。運動場のほうから風が吹き、ポスターの端をぱたぱたと鳴らした。

凪が撮影すると、またメッセージが届いた。

だんだん近づいています。彼は「書類」を持っています。書類だけでは、子どもを連れていけません。でも、周囲が黙れば、書類は刃物になります。

凪は返信した。

彼とは誰ですか。

すぐに返事が来た。

海野真由さんの元夫、加瀬司。山崎事務所の古い印影を偽造しています。小夜ちゃんを新清水で車に乗せるつもりです。

凪の胃が冷たくなった。

警察に言ってください。
言っています。でも、今夜はあなたが一番近い。

ホームの端で、誰かが笑った。

凪は振り向いた。

灰色の男が、下り階段のところに立っていた。

「近いんだって?」

男の声は、乾いていた。雨の中にいるのに、紙が擦れるような音がした。

凪は後ずさった。

男はゆっくり近づいてくる。

「余計な広告確認は、やめたほうがいい」

凪はホームの非常ボタンに目をやった。

男も見た。

「押してみるか? 止まるのは電車だけだ。人間は止まらない」

発車メロディが鳴った。

凪は走った。

電車のドアが閉まる寸前、凪は飛び乗った。

男の手が、ドアの隙間から伸びた。

指先が、凪のコートの袖を掴んだ。

その瞬間、車内の若い男が凪の腕を引いた。

スポーツバッグを持った高校生だった。

「大丈夫ですか!」

ドアが閉まり、男の指が外れた。

凪は床に座り込んだ。

高校生は、何も聞かずに自分のタオルを差し出した。

「顔、真っ青です」

凪はタオルを受け取った。

人の手の温かさが、こんなに怖さを削るものだと、凪は忘れていた。

九 県立美術館前

忘れた絵にも、くがきの証拠。写真・記録・記憶をつなぎます。

みかどのこはさくら。

駅名と広告の文字が、ひとつの文章になっていく。

御門の子は桜——。

凪は胸の奥で何かが軋むのを感じた。

県立美術館前のポスターには、ほかの駅と違うものがあった。

右下の木目の机の写真。

そこに置かれている湯呑みの横に、一枚の古い写真が写り込んでいた。

若い女性と、小さな女の子。

女の子は、五歳くらい。前髪を母親に切られたように不揃いで、笑うのが下手だった。

凪は、その子を知っていた。

自分だった。

「……嘘」

母の若いころの顔が、そこにあった。

凪の記憶の中の母は、いつも疲れていた。インクの匂いをさせて、爪の間を黒くして、夜遅くに帰ってきた。凪が高校を出て東京へ行くとき、母は何も引き止めなかった。

凪はそれを、愛されていなかった証拠だと思っていた。

ポスターの中の母は、笑っていた。

小さな凪の肩を、両手でしっかり抱いていた。

スマホが震えた。

山崎一葉からのメッセージ。

あなたのお母さまは、あなたを捨てていません。守るための書類を、山崎に預けました。でも今夜は、まず小夜ちゃんを。

凪は息を吸った。

涙は出なかった。

泣くのは、最後まで読んでからでいい。

十 草薙

刃ではなく、ことで守る。争いを、手続きでほどく。

みかどのこはさくらば。

草薙のホームは、雨で白く煙っていた。

凪は撮影しながら、駅名の並びを頭の中でたどった。

次は御門台。その次が狐ケ崎。そして桜橋。

文章はそこへ向かっている。

御門の子は桜橋——。

車内に戻ると、先ほどの高校生がまだいた。県総合運動場で助けてくれた少年だ。

「追われてるんですか」

凪は一瞬迷ったが、うなずいた。

「たぶん、女の子がさらわれる」

少年の顔が硬くなった。

「警察は」

「動いてる。でも間に合わないかもしれない」

少年はスポーツバッグを肩にかけ直した。

「俺、次で降りる予定でした。でも乗ってます」

「危ないよ」

「さっきのおっさんのほうが危ないです」

草薙を出た電車が揺れた。

窓に雨粒が走る。

その雨粒の間に、小さな指の跡がついた。

内側からではなく、外側から。

走っている電車の窓の外に、子どもの手形が浮かび上がっていた。

凪は息を呑んだ。

手形の下に、文字が現れた。

次の駅の赤い字を、先に告げるように。

十一 御門台

失くした印鑑より、失くしたるしを。本人確認は、命の確認です。

みかどのこはさくらばし。

御門台。

ここが、小夜の町。

ホームに降りた瞬間、凪は頭の奥で痛みを感じた。

幼いころ、ここに来たことがある。

母に手を引かれ、ホームの端で電車を待っていた。母は誰かに追われていた。凪の手を強く握りすぎて、痛かった。

「忘れていいから」

母はそう言った。

「凪は、忘れて生きていいから」

凪はその記憶を、いま初めて思い出した。

ポスターの下に、小さな靴が置かれていた。

白いスニーカー。

かかとに、狐のシールが貼ってある。

凪が拾おうとしたとき、背後から男の声がした。

「それは証拠品だ」

灰色の男、加瀬司が立っていた。

目が笑っていない。

手には、クリアファイルがあった。中に書類が何枚も入っている。

「勝手に触ると、あなたも面倒になりますよ」

凪は言った。

「小夜ちゃんをどこへやったんですか」

加瀬は首を傾けた。

「小夜? 私は正当な代理人です。母親から委任されています」

「真由さんは意識不明でしょう」

「だから委任状がある」

加瀬はファイルを軽く叩いた。

「世の中は紙で動くんですよ。あなたみたいな感情だけの人にはわからないでしょうが」

凪はポスターを見た。

本人確認は、命の確認です。

「紙は、人の声を残すためのものでしょう」

加瀬の顔から、笑みが消えた。

「山崎の受け売りか」

下り電車が来た。

凪はスニーカーを掴み、車内へ飛び込んだ。

ドアが閉まる直前、加瀬は低く言った。

「桜橋で降りろ。子どもを助けたいならな」

十二 狐ケ崎

嘘の書類は、ろい足跡を残す。印影・署名・日付の確認を。

みかどのこはさくらばしく。

狐ケ崎の駅名を見た瞬間、凪は小夜の靴の狐シールを思い出した。

ホームのポスター下に、赤いクレヨンで狐の顔が描かれていた。

その口元から、血のように赤い線が伸びている。

線は、ポスターの下から床へ、床から階段へ、階段からホーム端へ。

凪は追いかけた。

だが、赤い線は途中で消えていた。

スマホに通知が来た。

桜橋で降りないで。最後まで読んで。

山崎一葉からだった。

直後、別のメッセージ。

降りろ。子どもが死ぬ。

送信者不明。

凪の手が震えた。

どちらを信じればいい。

そのとき、車内にいた高校生が言った。

「最後まで読めって、最初にも言われてましたよね」

凪は彼を見た。

少年は照れくさそうに目を逸らした。

「俺、国語は苦手ですけど、途中までの文章で答え決めると、だいたい間違えます」

凪は、思わず笑った。

恐怖の中で、笑いはひどく場違いだった。

でも、その場違いな温かさが、凪を正気に戻した。

「ありがとう」

電車は桜橋へ向かっていた。

十三 桜橋

代理人には、本人の声がいじです。委任状は、沈黙の代わりではありません。

みかどのこはさくらばしくだ。

凪はそこで、判断を誤った。

文章はまだ終わっていない。

それでも、桜橋という駅名が目の前にあり、加瀬が「降りろ」と言い、小夜の靴が手の中にあった。

凪は降りた。

高校生も降りようとしたが、凪は首を振った。

「乗ってて。もし私が戻らなかったら、新清水で駅員さんにこれを見せて」

凪はスマホの写真一覧を彼に転送した。

少年は迷ったが、うなずいた。

「絶対戻ってください」

ドアが閉まった。

電車が去る。

ホームに残った凪は、すぐに後悔した。

桜橋の駅は、雨の夜に沈んでいた。

ポスターの  の文字だけが、妙に赤く浮いて見える。

加瀬の姿はない。

けれど、階段の下から子どもの泣き声が聞こえた。

「おかあさん……」

凪は階段を駆け下りた。

駅の外、橋の下へ続く細い道があった。雨水が流れ、足元で泥が跳ねる。

橋の下には、古い広告板や剥がされたポスターが積まれていた。

山崎行政書士事務所。

山崎行政書士事務所。

山崎行政書士事務所。

同じポスターが、何十枚も、濡れて、破れて、重なっている。

その紙の山の奥から、小さな声がした。

「ここだよ」

凪はスマホのライトを向けた。

黄色いレインコートが見えた。

「小夜ちゃん!」

近づいた凪は、足を止めた。

そこにいたのは、人間ではなかった。

子どもの形に丸められたポスターだった。

黄色いレインコートは、本物ではなく、雨合羽の切れ端を貼りつけたもの。顔の部分には、山崎行政書士事務所の文字が何重にも貼られている。

紙の顔が、雨でふやけながら笑った。

「途中で降りた」

背後で、足音。

加瀬だった。

「賢い人ほど、途中まで読んでわかった気になる」

凪は逃げようとした。

加瀬は凪の髪を掴み、橋脚に押しつけた。

「女児誘拐の目撃者になりたいですか。それとも、雨の夜に勝手に転んだ人になりたいですか」

凪は息ができなかった。

加瀬のクリアファイルが、凪の頬に当たる。

紙の角が、刃物のように冷たい。

「紙は便利ですよ。人の意思も、過去も、親子も、全部こちらの都合で作れる」

凪は、春日町の老女の言葉を思い出した。

書類のふりをした人間が、一番怖い。

凪の手の中で、黒糖飴の包みが潰れた。

母のインクの匂い。

山崎のポスター。

小夜のノート。

高校生のタオル。

老女の飴。

人の温度が、紙よりも確かなものとして、凪の中に戻ってきた。

凪は小夜のスニーカーを加瀬の顔に叩きつけた。

加瀬が怯んだ一瞬、凪は泥の中を転がって逃げた。

スマホが鳴った。

山崎一葉だった。

凪は震える指で通話を取った。

「下じゃない!」

電話の向こうで、山崎が叫んだ。

「桜橋の下じゃない。凪さん、下りです。下りホーム!」

凪の頭の中で、赤い文字がつながった。

みかどのこはさくらばしくだ——。

あと二文字。

り。

へ。

桜橋くだりへ。

御門の子は、桜橋下りへ。

橋の下ではない。

下り電車だ。

凪は走った。

十四 入江岡

凪が桜橋の下りホームに戻ったとき、終電一本前の電車が滑り込んできた。

ドアが開く。

凪は息も絶え絶えに乗り込んだ。

車内の前方、灰色のスーツの背中が見えた。

加瀬だ。

その隣に、フードを深くかぶった小さな子どもが座っている。

凪は叫びそうになるのをこらえた。

電車は発車した。

次は入江岡。

ホームに着いた瞬間、凪は窓越しにポスターを見た。

書類の向こうに、んじんがいる。隣人の証言も、大切な記録です。

みかどのこはさくらばしくだり。

凪は車内を進もうとした。

だが加瀬が立ち上がり、通路を塞いだ。

「しつこいな」

小さな子どもが、フードの中で震えている。

凪は大声を出した。

「その子、海野小夜ちゃんですよね!」

車内の乗客が顔を上げた。

加瀬は笑った。

「違います。親戚の子です。疲れて寝ているだけです」

「靴が片方ありません」

「子どもにはよくある」

「御門台で拾いました」

加瀬の目が細くなった。

「あなた、名誉毀損で訴えますよ」

「訴えてください」

凪の声は震えていた。

でも、引かなかった。

「その前に、その子本人に聞きます」

加瀬はクリアファイルを掲げた。

「母親からの委任状があります。第三者が口を出すことじゃない」

そのとき、後ろから声がした。

「本人の声を聞けって、ポスターに書いてありましたよ」

県総合運動場から乗っていた高校生だった。

彼はスポーツバッグを通路に置いた。

「俺、さっきから全部見てます」

別の座席から、春日町の老女が立ち上がった。

いつの間に乗っていたのか、凪にはわからなかった。

老女は黒糖飴の袋を握っていた。

「山崎先生の広告に、嘘は書いてないよ。本人が嫌だと言ったら、嫌なんだ」

若い父親が、ベビーカーのロックをかけて通路を塞いだ。

会社員が、スマホを構えた。

学生たちが、非常通報器の前に立った。

加瀬の顔が初めて歪んだ。

「何なんだ、お前ら」

老女が言った。

「隣人だよ」

凪は、フードの子に向かって手を伸ばした。

「小夜ちゃん。お母さんの声を、紙にしたんでしょう」

子どもが小さく震えた。

「その紙は、怖い紙じゃない。お母さんの声なら、怖くない」

長い沈黙。

そして、フードの中から声がした。

「……いや」

加瀬が子どもの肩を掴んだ。

「黙れ」

「いや!」

今度は、はっきり聞こえた。

「この人じゃない! おかあさん、たすけてって言った!」

車内の空気が変わった。

紙よりも小さな声。

だが、その声は電車の中の全員に届いた。

入江岡を出た電車は、新清水へ向かって走った。

十五 新清水

最後の駅。

新清水。

電車が止まる直前、凪は窓の外に十五枚目のポスターを見た。

海へ出る前に、行き先電話を。ひとりで抱えないでください。

みかどのこはさくらばしくだりへ。

御門の子は桜橋下りへ。

文章は、完成した。

ドアが開いた。

ホームには駅員が二人、警察官が三人、そして杖をついた女性が立っていた。

白髪交じりの髪をきちんと結い、濡れたコートの襟を片手で押さえている。

山崎一葉だった。

加瀬は逃げようとした。

だが高校生のスポーツバッグにつまずき、会社員に腕を掴まれ、駅員に取り押さえられた。

クリアファイルが床に落ち、中の書類が散らばった。

委任状。

親権者同意書。

身元引受書。

どれもきれいに整っていた。

きれいすぎるほど、整っていた。

山崎一葉は一枚を拾い、目を細めた。

「日付が、真由さんの事故後ですね」

加瀬は黙った。

「印影も違う。初代の印鑑は、十年前に廃棄しています」

警察官が加瀬を連れていく。

加瀬は最後に凪を見た。

「紙切れに負けると思わなかった」

凪は言った。

「紙切れじゃない」

彼女は十五枚の写真が入ったスマホを握った。

「これは、声です」

小夜は山崎一葉に抱きしめられていた。

泣き声は小さかった。

けれど、泣ける子は、生きている。

ホームのベンチで、春日町の老女が小夜に黒糖飴を渡した。

「甘いものは、怖いときに効くんだよ」

小夜は泣きながら、こくんとうなずいた。

県総合運動場の高校生は、照れたように頭をかいた。

若い父親は、ベビーカーの赤ん坊に「よかったな」と囁いた。

会社員は震える手でスマホを下ろした。

誰も英雄ではなかった。

誰も、特別強くはなかった。

ただ、誰かが声を出したとき、黙らなかった。

それだけだった。

けれど凪には、それが世界で一番あたたかい奇跡に思えた。

終章 十五枚目の裏

事件のあと、山崎一葉は凪を新清水駅の端にある広告掲示板の前へ連れていった。

十五枚目のポスターは、まだそこにあった。

「裏を見てください」

駅員が鍵を開け、フレームを開いた。

ポスターの裏に、封筒が貼られていた。

凪の名前が書いてあった。

真壁凪様。

見覚えのある字だった。

母の字。

凪は封筒を開けた。

中には、一枚の便箋と、古い写真が入っていた。

写真は、県立美術館前のポスターに写り込んでいたものと同じだった。若い母と、小さな凪。

便箋には、短い文章があった。

凪へ。 あなたを遠ざけたのは、あなたがいらなかったからではありません。あなたの父親が、書類で人を縛る人だったからです。私は山崎先生に頼んで、あなたを守る手続きをしました。でも手続きだけでは、心まで守れなかった。 ごめんね。 広告は、人に見てもらうために貼るものです。でも本当は、声のない人が、誰かに見つけてもらうための手紙にもなります。 もしあなたがいつか、山崎先生のポスターを見ることがあったら、思い出してください。あなたは一人で大きくなったんじゃない。あなたを守ろうとした人が、見えないところにいました。 十五枚目だけを信じないで。十五枚ぜんぶを読んで。人も、同じです。最後の一行まで読まないと、本当のことはわかりません。

凪は便箋を握りしめた。

山崎一葉が静かに言った。

「あなたのお母さまは、初代所長と一緒に、駅広告を使った見守りの仕組みを考えました。大げさなものではありません。困っている人が、言葉にできないとき、どこかに小さく印を残す。見た人が、無視しない。それだけです」

「それだけで、小夜ちゃんは助かった」

「ええ」

「でも、怖かった」

「怖いですよ。人を助けるのは、怖いです」

山崎は小さく笑った。

「だから、ひとりでやらないんです」

凪はホームを見渡した。

雨はやんでいた。

線路の向こうに、夜の清水の灯りが滲んでいる。

新清水駅のポスターは、もうただの広告に見えなかった。

十五枚のポスター。

十五文字の暗号。

一枚一枚は、たった一文字でしかない。

けれど、順番に読めば、誰かを救う文章になる。

凪はそこで、ようやく気づいた。

山崎行政書士事務所のポスターは、謎を解く鍵ではなかった。

それ自体が、委任状だった。

声を奪われた母親が、街に託した委任状。

「この子を助けてください」と、十五の駅に、十五の小さな赤い字で頼んだのだ。

凪は、母の手紙を胸に当てた。

遠くで、回送電車のライトが灯った。

窓に、一瞬だけ黄色いレインコートの女の子が映った。

その隣に、若いころの母が立っていた。

母は何も言わなかった。

ただ、凪に向かって、少しだけ誇らしそうに笑った。

次の瞬間、窓はただの黒いガラスに戻った。

凪は泣いた。

怖かったからではない。

怖さの底に、人の手の温度が残っていたからだ。

そして翌朝、静岡鉄道の十五駅に掲げられた山崎行政書士事務所のポスターは、すべて新しいものに替えられた。

白地に紺の文字。

右下に、湯呑みと眼鏡。

そして、一番下に、小さな一文。

あなたの声を、最後まで聞きます。山崎行政書士事務所

赤い字は、もうなかった。

必要なくなったからだ。


※実在の駅名・並びは、静鉄電車公式サイトの駅一覧にある「新静岡」から「新清水」までのS01〜S15を参考にしています。物語内の事件・人物・団体・広告内容はすべてフィクションです。

 
 
 

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