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午後の坂道

 幹夫が八幡山の麓へ来たのは、午後の二時を過ぎた頃であつた。空は薄青く、冬へ移らうとする季節の癖に日射しだけはまだ遠慮を知らない。路地の石垣は乾いて白く、電線の影は妙に鋭い線になつて、坂の途中まで斜めに走つてゐた。

 幹夫は別に八幡宮へ詣でる気でもなかつた。祈ることがないからである。祈ることがない、と云ふのは、願ひがないと云ふ意味ではない。願ひはある。併しそれは、いつも口に出す前に形を失ふ類の願ひであつた。幹夫はその願ひの曖昧さが耐へられぬので、曖昧さの代りに坂を選んだ。坂は曖昧でない。上があるからである。

 坂道は思つたより急であつた。道幅も狭い。両側に家が迫り、玄関先の植木鉢や、自転車や、干した布巾が、どれも坂の重さに押されてゐるやうに見えた。坂は物まで疲れさせる。幹夫はその疲れを、自分の胸のうちに感じた。

 彼は歩き始めた。歩けば、何かが片づくやうな気がした。片づく、と云ふ言葉は、机の上の紙屑を掃く時に使ふのが本当であらう。ところが幹夫は、心の中の紙屑――いや紙屑ですらない、粉のやうなもの――を、歩行で掃かうとしてゐた。掃ける筈がない。掃ける筈がないのに、掃かねばならぬ気がする。そこが幹夫の不幸であつた。

 一歩踏むと、靴底が微かにざらついた。細い砂利が残つてゐるのだ。ざらつきは確かである。確かなものに触れると、人間は一瞬だけ救はれる。幹夫も救はれた。併し救はれた瞬間、救はれたこと自体が気になつた。

 ――この救ひは、どこまで続く。

 幹夫は息を整へるために、わざと歩調を遅くした。遅くすれば楽になる。楽になれば、登る必要が薄れる。登る必要が薄れれば、登る理由が問はれる。問はれると、幹夫は苦しくなる。幹夫は結局、遅くすることも出来なかつた。彼は自分の胸の内が、理屈と反対に動くのを感じた。

 坂の途中で、少年が一人、下の方から駆け上がつて来た。短い息を吐き、額に汗を光らせてゐる。少年は幹夫を追ひ越すと、振り向きもせずに行つてしまつた。少年の背中には迷ひがない。迷ひのない背中ほど、人の目を刺すものはない。幹夫はその背中に刺され、ふと「自分は何をしてゐるのだ」と思つた。

 彼は答へを出さうとした。――坂を上つてゐる。上れば頂上がある。頂上へ行けば眺めがある。眺めを見れば気が晴れる。気が晴れれば……。幹夫はその「……」の先が作れなかつた。眺めを見た後に何があるのか。眺めは眺めで終るだけである。眺めの後に人生が始まる訳ではない。

 坂はそれでも続いてゐた。続いてゐることが、幹夫には不気味であつた。坂はただ物理的に続くのではない。幹夫の中の「努力」もまた、続いてゐる気がする。努力――と云ふ言葉を使ふのは、どこか道徳家の悪癖である。努力は善い、努力は美しい、と彼らは言ふ。幹夫は努力を善いとも美しいとも思はなかつた。努力はただ、止められない癖に似てゐる。止めれば罰が来るやうな気がする。罰の名が分らないまま、止められない。――その感じが努力だつた。

 ふと、石垣の切れ目に小さな空地があり、そこに古い石段が二、三段、半ば土に埋もれてゐた。石段の端には、誰かが積んだらしい小石が一つ、二つ、重ねてある。賽の河原の石積みのやうだ――幹夫は唐突に思つた。積んでも積んでも崩される、あの石積みである。崩すのは鬼だと教へられた。併し鬼などゐるものか。崩れるのは最初から積み方が拙いからだ。或は、積む場所が川原だからだ。――さう理屈では言へる。ところがその理屈は、石を積む子供の指の冷たさを説明しない。

 幹夫はその小石を一つ取つた。掌に載せると、意外に温かい。日射しが石に溜つてゐたのだ。温かい石は、どこか生き物に似てゐる。幹夫はその温かさが不愉快になつた。生き物に似ると、罪悪感が生れる。罪悪感は、意味の代りに出て来る。

 ――自分は何を積んでゐる。

 幹夫は手の中の石を見つめた。積み上げてゐるのは学問か。金か。名誉か。或は、ただ「まともであらう」とする姿勢か。どれも曖昧である。曖昧なものを積むほど徒労なことはない。徒労である、と知つてゐるのに、積む癖がやめられない。幹夫はその癖を「生」と呼ぶより他はなかつた。

 坂の上の方から、箒の音がした。かさ、かさ、と乾いた音である。見ると、老いた男が道端を掃いてゐた。掃く先から、また砂や枯葉が落ちて来る。男はそれを知りながら掃いてゐる。知りながら掃く――それが生活だと云はれれば、幹夫は返す言葉を持たない。併し返す言葉がないことが、幹夫には屈辱であつた。

 幹夫は再び歩き出した。歩いてゐると、息が熱くなつた。喉の奥が乾く。背中に汗が滲む。汗が滲むと、シャツが肌に貼りつく。その貼りつきが、まるで自分を誰かが掴んでゐるやうに感じられた。掴んでゐるのは外の誰でもない。幹夫自身の「やらねばならぬ」と云ふ声である。声はいつも正しい顔をしてゐる。正しい顔をしてゐるものほど、疑はしい。

 坂の中程で、幹夫は立ち止まつた。

 立ち止まると、急に周囲の音が戻つて来た。遠くの車の走る音、電線の微かな唸り、どこかの庭で鳴く鳥の声。鳥は坂を知らない。鳥は努力を知らない。知らない癖に、鳥は高い所へ行ける。幹夫は鳥を羨んだ。羨むことが、また恥づかしかつた。

 彼は膝に手を置いて、呼吸を整へた。整へながら、自分が「整へる」ことをしてゐるのが可笑しくなつた。呼吸まで努力である。努力は肉体の隅々に入り込んでゐる。努力がなくなれば、人間は倒れるのだらうか。倒れるなら、倒れた方が自然ではないか。自然――自然といふ言葉もまた、どこか道徳家の好物である。幹夫は自然も信じなかつた。信じられるのは、今、足の裏に伝はる坂の硬さだけである。

 幹夫は顔を上げた。坂の先に、石段が見える。石段の上には鳥居がある。鳥居の向うに、ほんの少し空が広くなつてゐる。そこが「頂上」なのだらう。頂上は近い。近いと分ると、幹夫は却つて足が重くなつた。頂上へ行けば、登る理由が終る。理由が終れば、次の理由が要る。次の理由を作るのが、幹夫には何より苦しい。

 幹夫はその場に立ち尽くした。立ち尽くしてゐると、影が足元で揺れてゐるのが見えた。午後の日射しはまだ強いが、影はどこか暮れかけの色をしてゐる。影は幹夫に似てゐる。併し影の方が幹夫より正直である。影は努力しない。ただ光があるから出来るだけである。幹夫は、影のその無責任が羨ましかつた。

 その時、上の方からまたあの少年が走つて来た。今度は下りである。少年は勢ひよく坂を下り、幹夫の脇をすり抜け、笑ひ声を残して去つた。笑ひ声は坂にぶつかり、ころころと転がつて行つた。幹夫はその転がり方に、妙な自由を感じた。自由はいつも軽い。軽いものほど掴めない。

 幹夫は一歩も動かなかつた。

 動けば石段へ行ける。行けば鳥居の向うへ出られる。出れば眺めがあるかも知れない。――「かも知れない」と云ふ言葉が、幹夫には致命的であつた。努力は「必ず」のために払はれる。しかし人生に「必ず」は少ない。少ないもののために、何故こんなに汗をかくのか。汗は理由を持たない。ただ出るだけである。理由のない汗ほど、侘しいものはない。

 幹夫は掌の中の小石を握り締めた。石の温かさはいつの間にか薄れ、ただ固い感触だけが残つてゐる。固さは確かである。確かなものが、これほど冷たいのは何故だらう。幹夫はその答へを探す代りに、石をそつと地面へ置いた。置いた石は、元の石積みの傍に転がつた。転がつても音はしなかつた。音のしない移動は、幹夫の生活に似てゐた。

 彼はふと笑ひさうになつた。笑ひは口元まで来て、そこで止まつた。笑へば楽になる。楽になれば登るだらう。登ればまた同じである。――幹夫は笑ひも努力の一種だと気づいた。

 幹夫は結局、坂を上がらなかつた。下りもしなかつた。ただ、午後の坂道の中程に立つたまま、石段の上の空と、自分の足元の影とを交互に見てゐた。坂は相変らず急である。空も相変らず青い。どれも幹夫に命令しない。しかし命令しないことが、最も厳しい命令である。

 やがて遠くで、どこかの時計が三つ鳴つた。三つ鳴つたと云ふことは、午後三時である。午後三時である、と云ふ事実だけが、幹夫の中へ沈んだ。

 幹夫はまだ立つてゐた。

 立つてゐることが努力なのか、努力を拒むことなのか、幹夫には分らなかつた。分らないまま、坂の影は少しだけ長くなつた。長くなつても、どこへも届かなかつた。

 
 
 

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