古物商台帳に名前のない客
- 山崎行政書士事務所
- 5月13日
- 読了時間: 22分

草薙の街は、昼間だけなら平和に見えた。
駅前には小さなベーカリーがあり、古い喫茶店の窓際では老人が新聞を広げ、学生たちはイヤホンを耳に押し込んで改札へ流れていく。商店街のアーケードには、季節外れの七夕飾りが色褪せたまま揺れていた。
けれど山崎行政書士事務所の山崎には、街の平和がいつも薄い膜に見える。
膜の下では、金が腐る。
人が沈む。
誰かの生活が、誰かの利益に変換される。
それは悲鳴を上げない。血も飛ばない。駅前の明るい看板の下で、普通の顔をして進んでいく。
その日、山崎の事務所を訪れたのは、リユース店の店主だった。
「スマホとパソコンの中古販売をやってまして」
男は名刺を置いた。
株式会社リリンク・マーケット代表取締役 古沢慎二
四十代前半。細い眼鏡。白いシャツ。清潔そうな髪型。言葉遣いも丁寧だった。だが、目の奥だけが笑っていなかった。
「古物商許可の関係で、書類を整理したいんです。営業所も増やす予定でして。警察への変更届とか、台帳の整備とか、そういうのをお願いできれば」
山崎は名刺を見た。
草薙駅から歩いて十分ほどの場所にあるリユース店だった。中古スマホ、中古ノートPC、タブレット、周辺機器。若者向けの明るい看板には、こう書かれている。
あなたの不要品を、次の誰かの価値へ。
きれいな言葉だった。
きれいな言葉ほど、山崎は警戒する。
「古物台帳も確認します」
「もちろんです。少し記載漏れがあるかもしれませんが」
古沢は軽く笑った。
「現場が忙しくて。中古端末って、とにかく入れ替わりが早いんですよ」
山崎はうなずいた。
忙しい。
これもまた便利な言葉だった。
忙しければ、確認しなくていい。
忙しければ、記録が曖昧でも仕方ない。
忙しければ、誰かの名前が消えても、誰かの端末が流れても、誰かの人生が剥がれ落ちても、仕方ない。
リリンク・マーケットは、外から見れば優良店だった。
店内は明るく、棚にはクリーニング済みのスマホが整然と並んでいる。白い値札には、容量、状態、バッテリー最大容量、保証期間が丁寧に書かれていた。カウンターの後ろでは、若い店員が柔らかい声で客に説明している。
「初期化済みですので、安心してお使いいただけます」
安心。
その言葉が、蛍光灯の白い光の中で薄く光っていた。
山崎はバックヤードに通された。
表の清潔さとは違い、そこは物の死骸置き場のようだった。
段ボール箱に詰め込まれたスマホ。
液晶の割れたタブレット。
企業名のシールが剥がれかけたノートPC。
ACアダプターの山。
ビニール袋に入った充電ケーブル。
埃と金属と古い皮脂の臭いが混ざっている。
端末には、人間の手の跡が残る。
画面の端の細かい傷。
キーボードの光った文字。
スマホケースの内側に入り込んだ髪の毛。
それらは、前の持ち主がそこにいた証拠だった。
古沢は棚から古物台帳を取り出した。
「こちらです」
台帳は分厚かった。
紙の台帳と、表計算ソフトで出力された一覧表が混在している。古物の品目、数量、特徴、取引年月日、相手方の住所氏名、確認方法。
山崎はページをめくった。
最初はよくある記載不備に見えた。
住所の番地が抜けている。
本人確認書類の種類が空欄。
端末の製造番号が途中までしか書かれていない。
買受人の氏名欄に「不明」とある。
だが、十数ページを過ぎたところで、山崎の指が止まった。
氏名欄が空白の取引が、一定の間隔で出てくる。
それだけなら怠慢かもしれない。
しかし、その空欄の横に書かれた端末特徴の文字が、妙に整っていた。
別の日付。
別の担当者印。
別の取引番号。
なのに、同じ筆跡。
さらに、氏名が記載されている取引でも、住所の数字の癖が似ている。
七の横棒。
四の角度。
郵便番号のハイフンの長さ。
違う人間のはずの署名が、同じ手で書かれていた。
「このあたりの取引、担当者は誰ですか」
山崎が尋ねると、古沢は一瞬だけ視線を逸らした。
「複数です。うちはシフト制なので」
「筆跡が似ています」
古沢は笑った。
「山崎先生、筆跡鑑定じゃあるまいし」
「相手方の氏名が空欄です」
「現場の記載漏れです。注意しておきます」
「本人確認の控えは?」
「個人情報なので、店舗では厳重に管理しています」
「確認できますか」
古沢の笑みが薄くなった。
「そこまで必要ですか」
「古物台帳の整備を依頼されたので」
二人の間に、冷たい空気が落ちた。
店の表から、若い女性客の笑い声が聞こえた。
「この色かわいい」
「保証もついてますよ」
明るい声だった。
そのすぐ裏で、名前のない取引が紙の上に並んでいる。
山崎は、台帳のページを閉じなかった。
「この端末、確認してもいいですか」
空欄取引のひとつ。
中古ノートPC。
メーカー名、型番、色、傷あり。
管理番号だけが赤字で書かれていた。
A-17-4492。
古沢はわずかに眉を動かした。
「販売前のものですかね。少々お待ちください」
バックヤードの奥から持ってこられたノートPCは、薄いシルバーの筐体だった。天板には剥がされたシールの跡がある。角には落下痕。キーボードの隙間には細い埃。
店員が言った。
「初期化済みです」
山崎は電源を入れた。
起動した画面は、確かに初期化後の設定画面に近かった。だが、山崎は端末そのものより、底面に貼られた小さな管理シールを見ていた。
薄く削られている。
それでも一部の文字が残っていた。
KSG SYSTEMSASSET No. 03-1187
山崎は口に出さなかった。
草薙にある中堅企業、草薙システムズ。
地元の製造業向けに業務システムを作っている会社だ。
山崎は以前、その会社の許認可関係の相談を受けたことがあった。備品管理が厳しく、社員用PCには管理番号が貼られていたはずだった。
「このPCの仕入元は?」
古沢は台帳を見た。
「個人のお客様です」
「名前は空欄です」
「だから、記載漏れです」
「記載漏れで、企業の管理番号が削られた端末が入ってくるんですか」
古沢の目が、初めて冷えた。
「先生」
声が低くなった。
「書類の不備を直すのが、お仕事では?」
山崎はPCの天板に触れた。
金属は冷たい。
だがその冷たさの中に、使っていた人間の体温の残骸があるような気がした。
「不備が、ただの不備かどうかを確認するのも仕事です」
古沢は笑わなかった。
その夜、山崎は事務所に戻り、台帳のコピーを見返した。
古物台帳は、退屈な書類に見える。
品名。
特徴。
数量。
取引日。
相手方。
確認方法。
それは単なる事務ではない。
盗まれた物がどこへ流れたか、金がどこから来たか、誰が誰から買ったか、その痕跡を残すための紙だ。
だから、空欄はただの空欄ではない。
そこには、誰かがいる。
名前を書かれなかった誰か。
名前を書けなかった誰か。
あるいは、名前を書いてはいけなかった誰か。
山崎は同一筆跡らしき取引を抜き出した。
中古スマホ、二十七台。
ノートPC、十一台。
タブレット、八台。
ほとんどが夜間の取引として記録されている。
金額は一台あたり数万円。
合計すれば、かなりの額になる。
買取金額は相場より少し低い。
安すぎない。
安すぎれば怪しまれる。
だが十分に利益が出る額だった。
山崎は、端末特徴欄に書かれた傷や色の記述を見た。
「液晶左下欠け」
「背面に社名シール跡」
「管理番号跡あり」
「初期化済み」
「動作確認済み」
初期化済み。
その文字が、妙に生々しかった。
初期化とは、忘却の儀式だ。
前の持ち主の写真、メール、連絡先、仕事の資料、位置情報、生活の癖、秘密、失敗、欲望、恥。
それらを消したことにして、端末は商品に戻る。
だが人間の痕跡は、そう簡単には消えない。
翌日、山崎は草薙システムズに連絡を取った。
総務部長の大倉は、電話口で最初は戸惑っていたが、管理番号を告げると声色が変わった。
「その番号のPCは、半年前に紛失届が出ています」
「盗難ですか」
「社内では紛失扱いです。退職した社員の持ち出し端末で、返却されないまま連絡が取れなくなりました。ただ、揉めたくないという判断で……」
揉めたくない。
ここにもあった。
会社は揉めたくない。
店は深掘りしたくない。
警察は事件性を慎重に見る。
本人は生活に追われて黙る。
その隙間を、黒い流通だけがまっすぐ進む。
大倉は声を落とした。
「実は、別件もあります。古いスマホが外部に流れた可能性があって。取引先から、うちの内部資料らしきものがネット上で売られていると連絡がありました」
「データですか」
「はい。顧客リスト、見積書、保守契約情報。完全なものではありませんが、断片があるようです」
山崎は胃の奥が冷えるのを感じた。
中古端末は、物ではない。
記憶の入れ物だ。
誰かの生活だけでなく、会社の信用、顧客の住所、従業員の給与、取引先の弱みまで詰まっている。
それが、駅前の明るい店で、保証付きの商品として並ぶ。
「初期化済みです」
その言葉の下に、どれほどの情報の死骸が埋まっているのか。
午後、リリンク・マーケットの元アルバイトだという青年が、山崎の事務所に来た。
名前は森下涼。
二十二歳。
大学を中退し、しばらく店で働いていたという。
彼は何度も後ろを振り返りながら入ってきた。顔色が悪く、唇の皮が剥けている。安物のパーカーの袖口は、噛み癖でほつれていた。
「先生、古沢さんのこと調べてますか」
「依頼業務の範囲で確認しています」
山崎が慎重に答えると、森下は苦笑した。
「そういう言い方、役所みたいですね」
「あなたは何を知っていますか」
森下は椅子に座らなかった。
立ったまま、鞄からスマホを取り出した。
「これ、店の裏の写真です」
画面には、段ボール箱が写っていた。
スマホが大量に入っている。ビニール袋にまとめられ、輪ゴムで縛られている。箱には黒いマジックで「B品」「再生」「海外」と書かれていた。
次の写真には、見知らぬ男たちが写っていた。
夜のバックヤード。
顔ははっきりしない。
黒いキャップ。
太い腕。
首元に刺青の端。
「この人たちが、月に何度か来ていました。営業時間後に。古沢さんは、常連の卸だって言ってました。でも台帳には名前がない。あるとき、僕に書かせたんです。適当な名前を」
「適当な名前?」
「はい。住所も。免許証の確認欄も、見たことにしろって」
森下は喉を鳴らした。
「嫌だって言ったら、給料から研修費を引くとか、損害賠償だとか言われて。僕、借金があって。家賃も払えなくて」
山崎は、森下の袖口を見た。
噛みちぎられた布。
そこには若者の貧困があった。
反社会的な流通は、いきなり黒塗りの車で現れるわけではない。
コンビニで働く若者。
家賃を滞納した学生。
奨学金に潰れたアルバイト。
日雇いアプリで食いつなぐ男。
そういう人間の不安に、まず手をかける。
「少しだけでいい」
「名前を書くだけ」
「荷物を運ぶだけ」
「端末を受け取るだけ」
やがて戻れなくなる。
森下は震える声で続けた。
「端末の中身、消えてないことがありました。写真とか、会社のファイルとか。古沢さんは、見なかったことにしろって。でも別の人が、データだけ抜いてました」
「誰ですか」
「名前は知りません。店では松永さんって呼ばれていました。でも本名じゃないと思います。いつも手袋をしていて、すごく静かで」
「データはどうなるんですか」
森下は首を振った。
「分かりません。でも、リストになって売れるって。企業の情報は高いって。個人の写真も、脅しに使えるって」
山崎は黙った。
中古端末の棚に並んでいたスマホたちが、頭に浮かんだ。
画面の裏側に残る、子どもの写真。
病院の予約。
恋人とのメッセージ。
会社の認証情報。
家族の住所。
誰にも見せるつもりのなかった裸の生活。
それらが、グラム単位ではなく、リスト単位で売られていく。
情報は血より軽い。
だから簡単に運ばれる。
そして血より長く残る。
「森下さん」
山崎は静かに言った。
「これは警察に相談すべき内容です」
森下の顔がひきつった。
「無理です」
「なぜ」
「僕も書きました。台帳に嘘の名前を書いた。端末も運んだ。捕まるかもしれない」
「事情は説明できます」
「そんなの、通じますか」
森下は笑った。
若いのに、老人のような笑いだった。
「僕みたいなのは、使い捨てなんです。上の人は知らなかったって言う。店も知らなかったって言う。警察には僕の名前だけ残る。台帳には客の名前がないのに、僕の名前だけは残る」
その言葉に、山崎は返せなかった。
この社会は、弱い人間のミスだけを丁寧に記録する。
強い人間の指示は、口頭で消える。
森下は小さなUSBメモリを机に置いた。
「店のパソコンからコピーしました。台帳データと、裏の取引一覧。僕、怖いです。でも、もっと怖いのは、これが普通になることです」
彼はそこで初めて椅子に座った。
両手で顔を覆った。
「自分が、悪い側にいるって分かるんです。でも金がないと、善人でいる余裕もなくなる。正しいことをするには、家賃が必要なんです」
山崎はUSBメモリを見つめた。
小さな黒い棒。
その中に、街の暗い血流が詰まっている。
神崎弁護士に連絡したのは、その日の夜だった。
「山崎さん」
神崎の声はいつも通り冷静だった。
「古物商の書類整備から、ずいぶん深いところに入りましたね」
「入ったというより、穴が開いていました」
「穴ではなく、流通網でしょう」
「ええ」
山崎は資料を送った。
台帳の空欄。
同一筆跡。
盗難品らしき管理番号。
企業データ流出の疑い。
元アルバイトの証言。
神崎はしばらく黙っていた。
「個人情報保護、窃盗品等の流通、詐欺、恐喝の材料、資金洗浄。いくつもの線が絡んでいます。警察に持ち込むなら、生活安全だけでなくサイバーと組織犯罪の観点も必要です」
「森下さんが怖がっています」
「でしょうね。末端ほど捕まりやすい」
「守れますか」
「完全には無理です」
神崎は、いつも希望を安売りしない。
「ただ、証言の位置づけは作れます。自首的な協力、被害拡大防止、指示系統の記録。できることはあります」
できることはある。
できないことのほうが多い現実で、その言葉だけが山崎には支えだった。
翌朝、山崎の事務所に封筒が届いた。
差出人はない。
中には、写真が三枚入っていた。
一枚目。
山崎の事務所の入口。
二枚目。
山崎がリリンク・マーケットから出てくるところ。
三枚目。
森下が山崎の事務所に入るところ。
写真の裏に、赤いペンで書かれていた。
台帳に名前を残したくないなら、黙れ。
山崎はしばらくその文字を見ていた。
脅しとしては古典的だった。
だが古典的な脅しが効くのは、人間の恐怖がいつの時代も変わらないからだ。
山崎は怖かった。
自分が刺されることより、依頼者や証言者が潰されることが怖かった。
恐怖は胃の底に溜まる。
ぬるい泥のように。
それでも山崎は、封筒をクリアファイルに入れた。
証拠。
そう呼んだ瞬間、恐怖は少しだけ形を持つ。
形を持てば、提出できる。
午後、リリンク・マーケットから電話があった。
古沢だった。
「先生、うちの書類整備の件ですが、もう結構です」
「依頼を終了するということですか」
「はい。別の先生に頼みます」
「承知しました。ただ、確認した不備については」
「余計なことはしないでください」
古沢の声は静かだった。
静かすぎた。
「先生は、ただの行政書士でしょう。警察官でも探偵でもない。正義感で飯を食っている人間は、最後に自分の正義で喉を詰まらせますよ」
山崎は受話器を握った。
「古沢さん」
「何ですか」
「台帳の空欄には、誰の名前が入るんですか」
沈黙。
電話の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
「空欄は、空欄です」
「違います」
山崎は言った。
「そこには、盗まれた人の名前があります。売られた人の名前があります。脅された人の名前があります。あなたが書かなかっただけです」
古沢は低く笑った。
「きれいごとですね」
「ええ」
山崎は、机の上の写真を見た。
自分の事務所。
森下の背中。
赤い文字。
「でも、あなた方の汚い現実よりはましです」
電話は切れた。
その夜、森下が消えた。
電話に出ない。
メッセージも既読にならない。
アパートを訪ねると、部屋の電気は消えていた。郵便受けには督促状とチラシ。ドアノブには、コンビニ袋が掛かっていた。中には、弁当と栄養ドリンク。
昨日まで生きていた生活の気配が、そのまま残っている。
山崎は警察に連絡した。
神崎にも連絡した。
翌朝、森下は見つかった。
草薙川沿いの高架下。
殴られていた。
命に別状はなかったが、顔は腫れ、肋骨にひびが入っていた。救急病院のベッドで、森下は山崎を見ると泣いた。
「すみません」
また謝った。
悪いことをさせられた者は、なぜか謝る。
悪いことをさせた者は、謝らない。
「しゃべるなって言われました。僕の名前で借りた端末があるって。犯罪に使われてるって。全部僕のせいにできるって」
山崎は拳を握った。
「誰に」
森下は首を振った。
「分かりません。でも、松永さんがいました」
病室のカーテンの向こうで、点滴の管が揺れていた。
森下のスマホには、脅迫メッセージが残っていた。
お前の台帳はこっちにもある。
名前がある奴から沈む。
その言葉は、この事件の本質を突いていた。
台帳に名前のない客は守られる。
台帳に名前を書かされた末端だけが沈む。
犯罪の世界でも、書類は弱者の首にだけ縄をかける。
警察が動いたのは、森下の暴行と企業端末の流出が結びついた後だった。
生活安全課。
サイバー犯罪対策。
組織犯罪対策。
いくつもの部署が、ようやく同じテーブルについた。
山崎は資料提供者として事情を説明した。
古物台帳の不自然な空欄。
同一筆跡。
端末の管理番号。
削除されきっていない個人情報。
企業データの断片。
元アルバイトの証言。
脅迫写真。
森下への暴行。
若い刑事は眉間に皺を寄せてメモを取った。
年配の刑事は、台帳コピーを見て言った。
「こういう店、多いんですよ」
山崎はその言葉に反応した。
「多いなら、なぜ止まらないんですか」
刑事は苦い顔をした。
「全部は見られません。台帳があって、本人確認をしたと言われれば、まず形式は通ってしまう。端末の中身までは店頭検査で見ませんし、盗難届が出ていないものも多い。企業も評判を気にして被害届を出さないことがある」
全部は見られない。
ここにもあった。
制度は、全部を見るようには作られていない。
見ない部分があるから、社会は回る。
そして見ない部分で、誰かが食われる。
捜査は静かに進んだ。
リリンク・マーケットは、最初は営業を続けた。
店頭には「通常営業中」の貼り紙。
若い店員が、何も知らない客にスマホを勧めている。
「こちら、初期化済みで安心です」
その声を聞くたびに、山崎は喉の奥に苦いものを感じた。
安心という言葉が、こんなにも人を不安にさせる。
数日後、草薙システムズから追加の連絡があった。
流出したデータの一部が、闇の掲示板で売買されていたらしい。
そのデータには、取引先担当者の個人携帯番号、メールアドレス、保守契約の金額、社内メモが含まれていた。
社内メモには、顧客の弱みも書かれていた。
「担当役員、決裁遅い」
「競合比較に敏感」
「予算不足を隠している」
「社内不正調査中」
企業情報は、単なる数字ではない。
誰が困っているか。
誰が焦っているか。
誰が隠しているか。
それは、次の詐欺、恐喝、なりすまし、侵入のための地図になる。
情報を盗まれた者は、一度では終わらない。
知らない番号から電話が来る。
取引先を装ったメールが来る。
家族にまで連絡が及ぶ。
疑い始める。
眠れなくなる。
誰かを信用できなくなる。
データ流出は、人格の外側を剥がす暴力だ。
血は出ない。
だが生活が剥ける。
やがて、リリンク・マーケットに家宅捜索が入った。
朝の商店街は、まだパン屋のシャッターが半分しか開いていない時間だった。
警察車両が店の前に止まり、捜査員が段ボール箱を運び出す。
通行人が足を止める。
スマホで撮影する。
「何かあったの?」
「あそこ、安くてよかったのに」
「盗品?」
「怖いね」
人々の声は薄かった。
事件は、他人事である限り娯楽に近い。
昨日まで保証付きの中古スマホを買っていた人々が、今日は同じ店を汚物のように見る。
だが、そのスマホを安く欲しがったのも同じ人々だった。
安さは、どこかで誰かが泣いた分だけ生まれることがある。
それでも値札は、泣き声を表示しない。
古沢は任意同行された。
松永と呼ばれていた男は、別の場所で確保された。
その男の部屋からは、複数の端末、他人名義のSIMカード、企業データの保存媒体、暗号資産の取引履歴、そして複数のリユース店の台帳コピーが見つかったという。
黒い流通網は、リリンク一店では終わらなかった。
盗まれた端末。
返却されなかった企業PC。
生活に困った人間から買い叩いたスマホ。
特殊詐欺に使われた通信機器。
初期化が不完全な個人端末。
それらは草薙の小さな店に集められ、選別される。
売れるものは店頭へ。
データが残るものは抜き取られる。
足がつきそうなものは海外へ。
利用価値のある番号や名義は、別の犯罪へ。
金は、架空取引や買取記録で薄められる。
台帳には、空欄。
もしくは、嘘の名前。
帳簿上は古物。
実態は、人間の痕跡を燃料にした資金洗浄だった。
古沢は、取り調べでこう言ったらしい。
「自分は通常の商取引をしていただけです」
通常。
商取引。
その言葉ほど、何でも包める風呂敷はない。
盗品も、個人情報も、恐喝の材料も、反社会的勢力の金も、いったん請求書と領収書にくるめば、社会はそれを商取引と呼びたがる。
なぜなら、そう呼んだほうが安心できるからだ。
悪はスーツを着る。
犯罪はレジを打つ。
暴力は保証書を添付する。
ある日、山崎の事務所に一人の女性が来た。
三十代後半。
顔色が悪く、手には古いスマホを握っていた。
「ニュースを見ました」
彼女は言った。
「私、あの店にスマホを売ったんです。半年くらい前に」
山崎は事情を聞いた。
女性は離婚後、金に困り、古いスマホを売った。店では初期化すれば大丈夫と言われた。だが最近、知らないアカウントから連絡が来た。
「写真、残ってたんです」
声が震えた。
「子どもの写真です。住所が分かる写真も。元夫とのやり取りも。向こうは、それを送ってきて、お金を払えって」
彼女はスマホを机に置いた。
画面には、脅迫文が表示されていた。
払わないなら、全部ばらす。
山崎は、言葉を失った。
犯罪の被害者は、事件が報道された瞬間に救われるわけではない。
むしろそこから始まることがある。
流れた情報は戻らない。
削除されたはずの写真は、誰かの保存先で増殖する。
子どもの顔も、住所も、過去の失敗も、別れた相手への弱音も、知らない人間の手元で値段をつけられる。
女性は泣かなかった。
泣く余裕すらなかった。
「スマホを売ったのは私です。お金が必要だったから。自己責任なんでしょうか」
山崎は首を振った。
「違います」
「でも、ちゃんと消さなかったから」
「違います」
山崎は、少し強く言った。
「あなたの生活が苦しかったことと、誰かがあなたの情報を脅しに使ったことは、別です」
女性の顔が歪んだ。
「みんな、そう言ってくれません」
その言葉が、山崎の胸に刺さった。
社会は被害者に説明責任を求める。
なぜ売った。
なぜ確認しなかった。
なぜ安い店を使った。
なぜ写真を保存していた。
なぜもっと注意しなかった。
だが、奪った者への問いは薄い。
なぜ奪ったのか。
なぜ売ったのか。
なぜ脅したのか。
なぜ人の生活を商品にしたのか。
その問いは、いつも後回しになる。
山崎は神崎に連絡し、女性を被害相談につないだ。
やれることは限られていた。
流出した写真を完全に消すことはできない。
恐喝した者をすぐ捕まえられる保証もない。
子どもの不安を消すこともできない。
それでも、記録する。
相談する。
被害として扱う。
泣き寝入りを、紙にして残す。
紙は冷たい。
だが、沈黙よりはましだ。
数週間後、リリンク・マーケットの看板は外された。
白い壁には、看板の跡だけが残った。
長方形の日焼けしていない部分。
そこに、かつて「あなたの不要品を、次の誰かの価値へ」と書かれていた。
山崎はその前に立った。
不要品。
次の価値。
言葉は間違っていないのかもしれない。
物を再利用することは悪ではない。
古物商は、社会に必要な仕事だ。
だが必要な制度ほど、腐ると深い穴になる。
古物台帳は、本来なら物の履歴を守るためにある。
盗まれた物を追うためにある。
取引の透明性を保つためにある。
それが、嘘を書くための紙になった。
空欄を作るための紙になった。
末端を縛るための紙になった。
制度は、使う者の手が汚れていれば、汚れを隠す布になる。
草薙の街は、また平和そうな顔を取り戻していた。
ベーカリーには客が並び、喫茶店の老人は新聞を読み、学生たちはスマホを片手に笑っている。
そのスマホが、どこから来て、どこへ行き、何を残すのか。
誰も考えない。
考えていたら、生活ができないからだ。
考えないことで、社会は回る。
考えない部分で、闇も回る。
森下は退院後、神崎の支援を受けて警察に詳しく話した。
彼の罪が消えるわけではない。
台帳に嘘を書いた事実も、端末を運んだ事実も残る。
だが、彼は逃げなかった。
ある日、山崎の事務所に森下が来た。
顔の腫れは引いていたが、目の下の影は消えていない。
「働き口、決まりました」
「どこですか」
「倉庫です。中古品じゃないです。ただの食品倉庫」
森下は少し笑った。
「箱の中身が何か、分かる仕事がいいと思って」
山崎も小さく笑った。
森下は、机の上に一枚の紙を置いた。
それは、リリンク時代に自分が書いた偽名のリストだった。
「これ、覚えてる限りです。僕が書いた嘘の名前」
紙には、存在しない人名が並んでいた。
高橋修。
田村健一。
杉本亮。
井上剛。
どれも平凡な名前だった。
平凡だからこそ、どこにでもいる人間のように見える。
「名前って、怖いですね」
森下は言った。
「嘘でも書けば、誰かがいたことになる。本当にいた人は、空欄で消えるのに」
山崎は、その紙を受け取った。
「森下さん」
「はい」
「あなたの名前も、ちゃんと残ります」
森下は顔をこわばらせた。
「悪い意味で、ですよね」
「それだけではありません」
山崎は言った。
「何があったかを話した人間としても残ります」
森下は下を向いた。
しばらくして、鼻をすすった。
「それ、少しだけ救いですね」
「少しだけです」
山崎は答えた。
「でも、少しを馬鹿にすると、何も残りません」
夕方、山崎は事件資料をキャビネットに収めた。
表紙には、こう書いた。
リリンク・マーケット古物台帳調査資料。
その下に、小さく別の題名を書き足した。
古物商台帳に名前のない客。
ファイルを閉じると、紙の束が鈍い音を立てた。
その中には、空欄の台帳がある。
盗まれた端末の番号がある。
企業の失った信用がある。
脅された母親の震える声がある。
殴られた若者の謝罪がある。
安さを求めた街の無関心がある。
そして、名前を書かれなかった客がいる。
山崎は窓の外を見た。
草薙の街角に、夜が降りていた。
中古スマホの画面のように、街の光が黒いガラスに反射している。
人々はスマホを握りしめて歩いていく。
そこには、連絡先がある。
写真がある。
仕事がある。
欲望がある。
嘘がある。
弱みがある。
人生がある。
それを社会は、端末一台いくらで買い取り、売り直す。
「初期化済みです」
「安心です」
「保証つきです」
その言葉の裏で、消えなかったものが次の誰かを傷つける。
この社会では、物より情報のほうが高く売れる。
情報より沈黙のほうがもっと高く売れる。
そして沈黙を買う者たちは、決して自分の名前を台帳に書かない。
山崎はペンを置いた。
空欄は、ただの空欄ではない。
そこには、闇が座っている。
名前を書かれないことで、いちばん自由に動ける者たちの顔がある。





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