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古物商許可の女

 山崎行政書士事務所に、その女が現れた瞬間、応接室の空気が少しだけ古くなった。

 白いブラウスに、黒いロングスカート。髪は肩のあたりで静かに揺れ、指には細い銀の指輪が一つだけ光っていた。美しい女だった。ただ、その美しさは華やかではない。古い硝子戸の向こうに置かれた人形のように、触れれば壊れそうで、それでいて近づく者を拒む冷たさがあった。

 女は名刺を差し出した。

 白石玲奈 白石古美術

「父の店を継ぎたいんです」

 声は低く、よく通った。

「古物商許可の申請ですね」

「はい。父が亡くなって、店は閉めたままです。倉庫の整理も終わっていません。でも、このままでは父の仕事が全部なくなってしまう気がして」

 山崎は名刺を机に置いた。

「古物商許可は、単に店を開くための紙ではありません。扱う品物の由来、取引記録、本人確認、帳簿管理。そうしたものをきちんと整えるための入口です」

「分かっています」

 玲奈はすぐに答えた。

 すぐに答える人間ほど、分かっていないことがある。

「父の古物台帳を持ってきました。先生に見ていただきたくて」

 彼女は革の鞄から、古びた帳面を三冊取り出した。

 革表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。頁を開くと、墨の匂いと黴の匂いが混じって立ち上った。

 古伊万里。

 蒔絵の硯箱。

 備前の壺。

 能面。

 刀装具。

 掛け軸。

 屏風。

 記載は丁寧だった。

 品名、特徴、取得日、相手方、金額。

 しかし、数頁めくったところで、山崎の指が止まった。

 同じ姓が、何度も出てくる。

 狭山家。 久瀬家。 朝比奈家。 深尾家。

 いずれも、この地域で戦前から続く旧家の名だった。

 しかも取得日は、奇妙に偏っている。

 昭和二十二年。

 昭和二十三年。

 昭和二十四年。

 戦後の混乱期。

 蔵が開かれ、家が傾き、名家が名を守るために品を手放した時代。

「白石さん」

「はい」

「この台帳の品々は、現在も倉庫にありますか」

「あるものと、ないものがあります」

「売却済みの記録がないものもあります」

「父は、几帳面な人でした。でも晩年は少し記憶が曖昧で」

「曖昧なまま、古物商許可の申請は進められません」

 玲奈の睫毛が、わずかに震えた。

「申請できないということですか」

「今の段階では、まず整理が必要です。山崎行政書士事務所では、古物商許可の申請書類作成だけでなく、営業所、管理者、略歴、誓約書、台帳整理、取引記録の確認まで丁寧に見ます。ただし、由来に疑いのある品を見ないふりして、店を開けるための書類を作ることはできません」

 玲奈はしばらく黙っていた。

 そして、少しだけ笑った。

「父も、同じようなことを言っていました」

「お父様が?」

「骨董品はね、玲奈。物じゃない。誰かの家の沈黙なんだって」

 その声は、懐かしさよりも、憎しみに近かった。

     *

 白石古美術は、旧東海道沿いの古い商店街にあった。

 木造二階建て。軒先には錆びた看板が掛かっている。

 白石古美術 茶道具・掛軸・古陶磁

 硝子戸の内側には、埃をかぶった茶碗や香炉が並んでいた。長く閉ざされていた店には、亡くなった男の息だけがまだ残っているようだった。

 奥の倉庫に入った瞬間、山崎は足を止めた。

 品物が多すぎる。

 箱、箱、箱。

 桐箱に包まれた茶器。油紙に巻かれた刀装具。古新聞にくるまれた仏具。天井近くまで積まれた木箱の間を、細い通路が迷路のように伸びている。

「父は、売らなかったんです」

 玲奈が言った。

「買い集めたのに、売らなかった。店はいつも資金繰りに苦しんでいたのに」

「なぜでしょう」

「私が知りたいです」

 山崎は一つの木箱を見つけた。

 蓋に、墨でこう書かれていた。

 狭山家 雪中椿図

「この品は台帳にありましたか」

 玲奈が顔を強張らせた。

「その箱は、見ていません」

 山崎は手袋をして、慎重に蓋を開けた。

 中には、掛け軸が納められていた。

 雪の中に、赤い椿が一輪咲いている。

 静かな絵だった。

 だが、その静けさの奥に、凍りついた血のような赤があった。

「綺麗ですね」

 玲奈が呟いた。

「綺麗すぎて、怖い」

 その時、店の外で激しい音がした。

 硝子戸が叩かれている。

「開けろ!」

 男の怒鳴り声だった。

 玲奈の顔色が変わった。

 山崎が店先に出ると、七十代ほどの男が立っていた。背筋は伸びているが、頬はこけ、目だけが異様に鋭い。

「狭山宗一郎さんですね」

 山崎が言うと、男は驚いたようにこちらを見た。

「誰だ、あんたは」

「山崎行政書士事務所の山崎です。白石さんの古物商許可申請の件で」

「許可?」

 狭山は笑った。

「盗人の娘が、今度は許可を取って堂々と売るのか」

 玲奈が奥から出てきた。

「父は盗人ではありません」

「なら、うちの掛け軸がなぜここにある!」

 狭山の声が震えた。

「雪中椿図。祖母が嫁入りの時に持ってきたものだ。戦後、蔵から消えた。白石の親父に何度聞いても知らんと言った。なのに、まだここに隠していたのか」

「私は知りませんでした」

「娘なら、知らぬで済むと思うな」

 狭山は玲奈の前に立った。

「お前の父親は、人の家が焼け、男が戦地から戻らず、女が米を買うために泣いている時に、蔵へ入り込んだ。骨董商なんて上品なものじゃない。死にかけた家から骨を抜く商売だ」

 玲奈は唇を噛んだ。

 反論しなかった。

 山崎は二人の間に入った。

「狭山さん。品の由来に疑義があるなら、確認が必要です。今日この場で売買や返還の結論は出せません」

「返せば済む話じゃない!」

 狭山は叫んだ。

「うちは、この掛け軸だけを失ったんじゃない。祖母はこれが消えた夜からおかしくなった。父は白石の名を聞くたびに酒を飲んだ。家は傾き、蔵は売られた。返せば済む? 四十年も五十年も黙っていたものが、紙一枚で清算できるのか!」

 山崎は黙っていた。

 できない。

 だが、紙一枚からしか始められないこともある。

     *

 玲奈の父、白石啓造は、この町では知られた骨董商だった。

 目利きだった。

 口がうまかった。

 貧しい家には高く買うと言い、旧家には「今売らなければ価値が下がる」と囁き、相続で揉める家には「形見を現金に替えれば争わずに済む」と入り込んだ。

 表の顔は、文化財を守る骨董商。

 裏の顔は、家の弱みに入り込む始末屋。

 古い噂は、商店街の奥からいくらでも出てきた。

「白石さんのところは、戦後からそういう店だったよ」

「旧家が没落すると、必ずあの親父が現れた」

「盗品かどうか? さあね。買ったと言えば買ったことになる時代だったから」

「ただ、あの人は妙だった。高く売れる品ほど、売らずに倉庫へ入れていた」

 山崎は、啓造が晩年に入っていた介護施設も訪ねた。

 そこで、元介護士の女性が一冊のノートを見せてくれた。

「白石さんは認知症が進んでいました。でも、時々はっきりする日があって、同じことを言っていました」

 ノートには、震えた字で記録があった。

 返せなかった。 売らなかったから許されると思った。 玲奈には渡すな。 でも玲奈しか返せない。

 山崎は、その一文を何度も読んだ。

 盗品を売らずに残した男。

 それは罪の保存か。

 贖罪の準備か。

 それとも、自分の悪事を娘に相続させるための、もっとも残酷な遺産か。

     *

 玲奈は、山崎に一つずつ箱を見せた。

 久瀬家の蒔絵箱。

 朝比奈家の能面。

 深尾家の古文書。

 狭山家の掛け軸。

 どれも高価だった。

 売れば、閉ざされた店を改装し、十分に開業資金を作れるほどだった。

「父は、私に店を継げと言いました」

 玲奈は倉庫の床に座り込んだ。

「でも、死ぬ前の半年は、毎日違うことを言いました。店を開け。店を開けるな。品を売れ。品を返せ。私を恨むな。私を忘れるな」

「白石さんは、店を継ぎたいのですか」

「分かりません」

「最初は、継ぎたいとおっしゃいました」

「あれは嘘です」

 玲奈は言った。

「店を継ぎたいんじゃない。父の人生が、本当に盗みだけだったのか知りたかったんです」

「お父様を許したい?」

「いいえ」

 彼女は首を振った。

「許せない理由が欲しかった」

 その言葉は、静かに倉庫へ落ちた。

「父は優しかったんです。私には。母が出ていったあと、父は私にご飯を作り、髪を結い、学校の参観日にも来ました。誕生日には必ず小さな古い硝子玉をくれた。世界で一つの宝物だって」

 玲奈は笑った。

「でも、その宝物は、誰かの家から消えたものだったかもしれない」

 山崎は何も言わなかった。

「私の思い出まで、盗品かもしれないんです」

     *

 数日後、山崎事務所に一人の男が来た。

 名は、鴇田修。

 東京のオークション会社の役員だという。

「白石啓造さんのコレクションには価値があります」

 鴇田は、磨かれた革靴を組み替えながら言った。

「娘さんは店を開きたいのでしょう? 資金化をお手伝いできます」

「由来に疑義のある品があります」

「疑義など、古物の世界では珍しくありません」

 鴇田は穏やかに笑った。

「戦前、戦後、震災、相続、蔵出し。すべてが完璧な品などありませんよ。むしろ、物語があるから価値が出る」

「盗品の可能性があっても?」

「先生」

 鴇田の目が細くなった。

「行政書士の先生は、許可申請を整えるのがお仕事では? 真贋鑑定や犯罪捜査は専門外でしょう」

「その通りです」

 山崎は答えた。

「だからこそ、疑義があれば申請を急がず、取引を止め、確認すべきところへ確認する必要があります」

「潔癖ですね」

「違います」

「では?」

「書類を作る人間の最低限です」

 鴇田は笑顔を消した。

「白石さんの店を開けさせないつもりですか」

「開けるかどうかを決めるのは白石さんです。ただし、盗品の疑いがある品を台帳に残したまま、営業を始めることは勧められません」

「綺麗事だ」

「古物商許可は、汚れた品を綺麗に見せるための免罪符ではありません」

 鴇田は立ち上がった。

「玲奈さんは美しい方だ。父親の罪など背負わず、上手に売ればいい。世の中、真実より値段です」

 山崎は静かに言った。

「値段がつかないものもあります」

 鴇田は鼻で笑った。

「それは、売ったことのない人間の言葉です」

     *

 山崎は、啓造の古い台帳をさらに調べた。

 台帳には、通常の取引記録とは別に、赤い印が押された品があった。

 丸の中に、小さく「戻」と書かれている。

 戻す。

 その印は、狭山家の雪中椿図にも、久瀬家の蒔絵箱にも、朝比奈家の能面にも押されていた。

 そして、台帳の最後の頁に、封筒が貼り付けられていた。

 中には、手書きのリスト。

 返すべき品

 数は、六十三点。

 品名、旧所有者、取得経緯、現在の保管場所。

 その横に、啓造の短い注記があった。

 盗んだもの。 買ったが、買ってはいけなかったもの。 預かったまま返さなかったもの。 借金の形に取ったもの。 泣いている女から安く買ったもの。 子どもの薬代と引き換えに奪ったもの。

 山崎は、しばらくその文字から目を離せなかった。

 盗品とは、鍵を壊して奪ったものだけではない。

 空腹。

 病気。

 相続争い。

 戦争未亡人。

 家名への執着。

 そうした弱さにつけ込んで手に入れたものもまた、誰かの人生から剥がされた品だった。

 リストの最後に、一つだけ品名ではないものが書かれていた。

 玲奈の硝子玉

 山崎はページをめくる手を止めた。

     *

 玲奈は、硝子玉の箱を見せた。

 小さな木箱に、色とりどりの硝子玉が並んでいる。

「父が毎年くれたものです」

 青、緑、赤、琥珀。

 どれも古い。

 光に透かすと、中に小さな気泡が閉じ込められていた。

「これは、どこから」

 山崎が尋ねると、玲奈は首を横に振った。

「分かりません。でも、リストにあるなら、返すべきものなんでしょう」

 山崎は木箱の裏を見た。

 そこに、薄く墨書きが残っていた。

 朝比奈家 雛道具

 玲奈の顔が青ざめた。

「私の誕生日も、誰かの雛祭りだったんですね」

 彼女は箱を閉じた。

 指が震えていた。

「先生。私は何を申請しようとしていたんでしょう」

「店を始める申請です」

「いいえ」

 玲奈は首を振った。

「父の罪を、私の商売に変える許可を取りに来たんです」

「そうならないように、今止まっています」

「止まっても、父は戻りません」

「はい」

「父が奪った人たちの人生も戻らない」

「はい」

「では、何ができますか」

 山崎は、台帳とリストを見た。

「少なくとも、品物を黙って売らないことはできます。由来を整理し、返すべき相手を探し、必要なら関係機関や専門家へつなぐこともできます。古物商許可の申請を急ぐ前に、あなたが何を扱う店にしたいのかを決める必要があります」

「何を扱う店……」

「骨董品ですか。それとも、お父様の記憶ですか」

 玲奈は顔を上げた。

 その目に、初めて涙が浮かんでいた。

     *

 狭山家へ雪中椿図を返す日、玲奈は黒い服を着ていた。

 喪服ではない。

 だが、何かを葬るための服に見えた。

 山崎は、返還に関する確認書の文案を整えた。所有権を断定する争いに踏み込むのではなく、白石側が由来に疑義のある品として任意に返還する趣旨を記録するものだった。必要な場面では弁護士や関係機関へ相談する前提で、行政書士として作成できる範囲に留めた。

 狭山宗一郎は、座敷で掛け軸を受け取った。

 開かれた雪中椿図を見た瞬間、彼の顔が崩れた。

「本物だ」

 声が震えていた。

「祖母が、死ぬまで探していた」

 玲奈は深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

「お前が盗んだわけではない」

 狭山は言った。

 だが、その声には許しはなかった。

「だが、お前の父親は盗んだ」

「はい」

「お前はそれを知って生きていくんだな」

「はい」

「苦しいぞ」

「はい」

 狭山は掛け軸を見つめた。

「それでも、返しに来たことだけは覚えておく」

 許しではない。

 だが、拒絶でもなかった。

 玲奈は、畳に額がつくほど深く頭を下げた。

     *

 その後、リストにある旧家を一軒ずつ回った。

 歓迎されることは少なかった。

 門前で怒鳴られた。

 水をかけられた。

「今さら持ってくるな」と箱を突き返された。

「父はこれのせいで首を吊った」と泣かれた。

「返すくらいなら金にして寄こせ」と言われた。

 ある家では、老女が玲奈の頬を叩いた。

「あんたの父親は、私の母の帯留めを持っていった。母はあれを嫁入り道具だと言って、毎晩泣いていた。あんた、父親に愛されて育った顔をしてるね」

 玲奈は叩かれた頬を押さえなかった。

 ただ、頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

 その言葉を、何十回、何百回と繰り返した。

 山崎は、必要な確認書を作り、受領記録を残し、話し合いが紛争化しそうな場合には専門家へつないだ。山崎行政書士事務所の仕事は、玲奈を免罪することではなかった。

 嘘を増やさないこと。

 記録を残すこと。

 返せるものを、返すための道筋を整えること。

 それだけだった。

 だが、その「それだけ」がなければ、玲奈は途中で壊れていたかもしれない。

     *

 最後に残ったのは、朝比奈家だった。

 硝子玉の持ち主。

 朝比奈家の当主はすでに亡くなり、孫娘の朝比奈沙代が一人で古い屋敷を守っていた。

 沙代は玲奈と同じくらいの年齢だった。

 痩せた女で、目の下に濃い影がある。

 玲奈が硝子玉の箱を差し出すと、沙代は笑った。

「それ、返されても困ります」

「申し訳ありません」

「謝らないでください。謝られると、こちらが許すか許さないかを選ばされる」

 玲奈は黙った。

「祖母は、その雛道具を盗まれたと言っていました。でも父は違うと言っていた。白石さんに売ったんだって」

「売った?」

「ええ。私の母の治療費のために」

 沙代は箱を開けた。

 硝子玉を一つ、指でつまんだ。

「でも祖母は、売ったとは言えなかった。家の恥だから。だから盗まれたことにした。母は、自分の薬代のために雛道具が消えたことを知って、ずっと自分を責めた」

 玲奈は言葉を失った。

「あなたのお父様が悪くなかったと言うつもりはありません。でも、うちの家も綺麗ではなかった。旧家なんて、外から見れば品があるように見えるだけ。中には、見栄と嘘と、女に押しつけた我慢が詰まっています」

 沙代は、硝子玉を玲奈の手に戻した。

「これは、あなたが持っていてください」

「できません」

「いいえ。これは、もうあなたのものです。あなたのお父様が盗んだ記憶ではなく、私の家が売った記憶でもなく、あなたがこれからどう持つかの問題です」

 玲奈の目に涙が溜まった。

「私は、父のことが分からなくなりました」

「分からないままでいいんじゃないですか」

 沙代は静かに言った。

「人間は、全部分かってからでないと生きられないわけじゃないでしょう」

     *

 古物商許可の申請書は、最後まで完成しなかった。

 営業所の図面も、管理者の略歴も、誓約書も、途中まで整っていた。

 だが、玲奈は提出しないと決めた。

 ある朝、彼女は山崎事務所に来て、厚い封筒を机に置いた。

「これを、被害者遺族や旧所有者の方々へ渡す準備をしたいです」

 中には、啓造の盗品リストと、玲奈自身が整理した補足資料が入っていた。

 品名。

 保管場所。

 取得経緯。

 返還済みか未返還か。

 所在不明のもの。

 売却済みの可能性があるもの。

 そして、それぞれに玲奈の手書きの一文が添えられていた。

 父が関わった品です。 事実確認をお願いしたく、記録としてお渡しします。

「店は開かないのですか」

 山崎が尋ねると、玲奈は小さく首を振った。

「今の私が店を開けば、父の罪を商売に変えてしまう」

「今の私が、ということは」

「いつか、別の形で開くかもしれません」

「どんな店を?」

 玲奈は少し考えた。

「売る店ではなく、返す店です」

 山崎は黙っていた。

「骨董品を売るのではなく、由来を調べる店。誰の家から来て、誰の手を渡り、どこで嘘が混じったのか。価値をつけるのではなく、記憶を戻す店」

「それは、簡単な商売ではありません」

「商売になるかも分かりません」

 玲奈は微笑んだ。

「でも、父の店よりはましです」

     *

 白石古美術の看板が外されたのは、秋の初めだった。

 商店街の人々は、いろいろなことを言った。

「あれだけの品があったのにもったいない」

「父親の罪を娘が背負う必要はない」

「綺麗事だ。売ればよかったのに」

「いや、あの子は立派だ」

 人々は、好き勝手に言う。

 だが誰も、玲奈が夜ごと倉庫で一つずつ箱を開け、父の字を読み、誰かの家の名前に頭を下げていたことを知らない。

 山崎は最後の日、店の奥で玲奈と一緒に台帳を確認した。

 六十三点のうち、二十七点が返還済み。

 十五点が旧所有者確認中。

 八点が関係機関や専門家への相談対象。

 十点が所在不明。

 三点が、玲奈の手元に残された。

 その一つが、硝子玉だった。

「それは持っていくのですね」

 山崎が言うと、玲奈は頷いた。

「朝比奈さんに、持っていろと言われました」

「そうですか」

「でも、見るたびに苦しいです」

「なら、持つ意味があります」

 玲奈は少し笑った。

「先生は、優しいことを言わないですね」

「優しい書類は、役に立たないことがあります」

「山崎行政書士事務所らしいですね」

「そうでしょうか」

「はい。店を開くために相談したのに、店を閉めるための書類まで一緒に整えてくれました」

 山崎は台帳を閉じた。

「開業支援だけが仕事ではありません。開けてはいけない扉を閉じる支援も、時には必要です」

     *

 その夜、玲奈は一人で倉庫に残った。

 最後の木箱を開ける。

 中には、父の古い眼鏡と、手紙が入っていた。

 山崎が台帳の最後に挟まっていた封筒とは別のものだった。

 宛名は、玲奈。

 震えた字で、こう書かれていた。

 玲奈へ。 お前に渡した硝子玉は、私が唯一、盗まずに手に入れたものだ。 朝比奈の家が売ったものを、私は買った。 だが、買ったことと奪ったことの違いが、年を取るほど分からなくなった。 私は盗人だった。 ただし、すべてを盗んだわけではない。 この言い訳を、お前にだけはしたくなかった。

 玲奈は手紙を読みながら、声を出さずに泣いた。

 父は悪人だった。

 だが、ただの悪人ではなかった。

 優しかった。

 卑怯だった。

 目利きだった。

 盗人だった。

 娘を愛していた。

 他人の人生を奪っていた。

 その全部が、父だった。

 人間は、一つの名前では片づかない。

 骨董品の箱書きのように、表だけ見れば由来が分かるわけではない。

     *

 数か月後。

 山崎行政書士事務所に、小さな封筒が届いた。

 差出人は、白石玲奈。

 中には、一枚の案内状が入っていた。

 記憶整理室 しらいし 古物の由来調査、返還相談、家財整理記録作成 売る前に、誰のものだったかを考える場所

 古物商の店ではなかった。

 骨董品を売る場所でもなかった。

 しかし、玲奈は自分の仕事を始めていた。

 山崎は案内状を読み終え、机の上に置いた。

 その下には、古物商許可申請の未提出ファイルがある。

 表紙には、山崎の字でこう書かれていた。

 白石古美術 申請保留 理由:取扱予定品の由来確認未了

 事務的な一文だった。

 だが、その一文がなければ、六十三点の品は再び市場に流れ、誰かの家の沈黙はもう一度売られていたかもしれない。

     *

 春になり、玲奈は狭山家を再び訪れた。

 雪中椿図は、床の間に掛けられていた。

 狭山宗一郎は、茶を出した。

「まだ父親を恨んでいるか」

 玲奈は少し考えた。

「はい」

「まだ愛しているか」

 玲奈は目を伏せた。

「はい」

 狭山は笑った。

「厄介だな」

「はい」

「人間の記憶は、古物より扱いにくい」

 玲奈は床の間の椿を見た。

 白い雪の中に、赤い花が一つ。

 奪われ、隠され、返されたもの。

 だが、返されたからといって、過去が消えるわけではない。

 それでも、そこに掛けられている。

 あるべき場所へ戻ったものとして。

「私は、店を開けませんでした」

 玲奈が言った。

「知っている」

「夢は消えました」

「そうか」

「でも、初めて父の娘ではなくなった気がします」

 狭山は、湯呑みを置いた。

「それは違う」

「え?」

「お前は父の娘だ。これからもずっと」

 玲奈の顔が強張った。

 狭山は続けた。

「ただし、それだけではない」

 その言葉に、玲奈はゆっくり息を吐いた。

 父の娘であることは消えない。

 盗人の娘であることも消えない。

 だが、それだけではない。

 返した者。

 記録した者。

 逃げずに頭を下げた者。

 そして、自分の人生を始める者。

     *

 山崎行政書士事務所の窓からは、駅前の交差点が見える。

 今日も、誰かが書類を抱えてやってくる。

 許可を取りたい人。

 契約を整えたい人。

 内容証明を送りたい人。

 相続を整理したい人。

 会社を作りたい人。

 店を開きたい人。

 だが、山崎は知っている。

 すべての申請が、前へ進むためのものとは限らない。

 ときには、立ち止まるための申請がある。

 出さないことで守られる人生がある。

 開業しないことで、ようやく始まる人生がある。

 古物商許可の女は、店を開かなかった。

 代わりに、父の盗品リストを遺族へ渡した。

 夢は消えた。

 だが、夢の代わりに、彼女は自分の名前を取り戻した。

 白石玲奈。

 盗人の娘。

 骨董商の娘。

 そして、もう誰の記憶も勝手に売らない女。

 山崎は、白石玲奈の未提出ファイルを棚に戻した。

 その背表紙には、小さくこう記した。

 古物商許可の女。 申請せず。 ただし、人生は開始。

 
 
 

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