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古物商許可申請――申請者は、もう売られていた

※以下は完全なフィクションです。実在の人物・団体・事務所とは関係ありません。

静岡市葵区、雨の午後。

青葉通りのケヤキが濡れて黒く光り、遠くの信号が飴玉みたいに滲んでいた。山崎行政書士事務所の窓には、細い雨粒が何本も線を引いている。

山崎玲奈は、湯呑みに淹れた深蒸し茶を一口飲んでから、机の上の封筒を揃えた。

「次のご相談、古物商許可でしたよね」

補助者の佐伯湊が、パソコン画面から顔を上げた。二十代半ばの青年で、何でもすぐ検索する癖があるのに、人の表情だけは検索せずに読むところがあった。

「はい。お名前は白坂美澄さん。ドール関係の販売を始めたいそうです」

「ドール?」

「人形です。ビスクドールとか、球体関節人形とか。メールの文面、すごく丁寧でした」

その時、チャイムが鳴った。

入ってきた女性は、雨に濡れていなかった。

外は本降りなのに、黒いワンピースの肩にも、淡いベージュの手袋にも、水滴ひとつ見えない。三十代前半くらいだろうか。肌は白く、唇だけが熟れた椿のように赤かった。胸には古い革のケースを抱えている。

「白坂美澄と申します」

声は小さかったが、不思議によく届いた。

「山崎です。お待ちしておりました」

玲奈が席をすすめると、白坂美澄は椅子に腰かけた。革のケースを膝に置き、両腕で抱いたまま離さない。

「古物商許可の申請ですね。中古のドールを仕入れて販売されるご予定ですか」

「はい。母が遺した人形がたくさんあって……その子たちに、次の家を探してあげたくて」

「その子たち、ですか」

「すみません。癖で。人形を、物みたいに言うのが苦手なんです」

玲奈は微笑んだ。

「大丈夫です。大切にされてきたものには、そういう呼び方が似合うこともありますから」

白坂美澄の表情が、ほんの少しだけほどけた。

湊が申請書類の説明を始める。営業所の所在地、取り扱う古物の区分、管理者、略歴。古物商許可の申請は、手続きとしては珍しくない。だが、玲奈は目の前の女性から、書類では拾えない異物感を感じていた。

美澄は、質問には正確に答える。だが、時々、視線が事務所の隅へ飛ぶ。

まるでそこに、誰かが立っているかのように。

「販売はネット中心ですか」

「最初はそうするつもりです。店名は……眠り子堂」

「綺麗な名前ですね」

「眠っている子を、起こさないように売る店です」

湊の指がキーボードの上で止まった。

玲奈は聞き返した。

「起こさないように?」

美澄は瞬きをした。長い睫毛が、硝子細工のように影を落とす。

「すみません。変なことを言いました」

その時、革のケースの中から、かすかな音がした。

こつん。

机の木目を、爪で叩いたような音。

湊が顔を上げた。玲奈もケースを見た。

美澄は慌てて両腕に力を込めた。

「中に、人形が?」

玲奈が尋ねると、美澄は少し迷ってから、留め金を外した。

ケースの中には、一体のビスクドールが横たわっていた。

淡い金髪。青い硝子の瞳。白いドレス。唇には血のような紅。古いものなのだろう、頬の陶器には細いひびが一本走っている。けれど、そのひびさえ美しかった。

「名前は?」

「セイ、と呼んでいます」

「綺麗な子ですね」

玲奈が言うと、美澄は、初めて本当に笑った。

その笑顔は、人形のようではなかった。とても疲れた、人間の笑顔だった。

手続きの説明が終わるころ、雨はさらに強くなっていた。美澄は必要書類のリストを受け取り、深く頭を下げた。

「先生」

「はい」

「もし、許可が下りたら……人間も、売れてしまうのでしょうか」

湊が息を呑んだ。

玲奈は、目を逸らさなかった。

「売れません。人間は古物ではありません」

「でも、一度捨てられた人間は?」

「それでも人間です」

美澄は、泣きそうな顔をした。

「そう言ってくれる人を、探していました」

彼女は革のケースを抱え、事務所を出ていった。

その五分後、湊が叫んだ。

「先生」

応接椅子の横に、あのビスクドールが置かれていた。

美澄は、セイを忘れていったのだ。

いや、と玲奈は思った。

忘れたのではない。

置いていったのだ。

その夜、山崎行政書士事務所の電話が鳴った。

玲奈は残業していた。湊は帰した。雨は止んでいたが、事務所の中はひどく冷えている。古物商許可の申請書の下書きを確認していた時、固定電話が鳴った。

表示は非通知。

「山崎行政書士事務所です」

受話器の向こうで、しばらく沈黙があった。

そして、幼い女の子の声がした。

「わたしの目を返して」

玲奈は背筋が凍った。

「どちら様ですか」

「わたしの目を返して。返さないと、申請者が死ぬ」

電話は切れた。

その瞬間、応接の方で、こつん、と音がした。

昼間の音と同じだった。

玲奈はゆっくり立ち上がった。応接椅子の上に置かれたビスクドール、セイ。青い硝子の瞳が、蛍光灯を反射している。

ただし、昼間と違っていた。

右目が、なかった。

白い頬の上に、硝子の眼球が転がっている。玲奈は手袋をはめ、それを拾った。思ったより軽い。

眼球の裏側に、赤い糸が巻かれていた。

糸の先には、丸められた紙片。

玲奈は慎重に広げた。

そこには、細い字でこう書かれていた。

――この申請者は、すでに売却済み。

その下に、数字が並んでいた。

平成二十四年十一月三日。静岡市清水区。品名、白坂美澄。状態、良。仕入先、山崎行政書士事務所。

玲奈の手から、紙片が落ちた。

翌朝、静岡県警の望月伊織警部補が事務所に来た。

目つきの鋭い女性で、短く切った髪に雨上がりの湿気をまとっていた。名刺を置く動作に無駄がない。

「山崎玲奈さんですね」

「はい」

「白坂美澄という女性をご存じですか」

玲奈は湊と顔を見合わせた。

「昨日、古物商許可のご相談で来られました」

望月は、わずかに眉を動かした。

「昨夜、清水港近くの倉庫で女性の遺体が見つかりました。身元確認中ですが、所持品から白坂美澄と見られています」

湊が椅子を鳴らして立ち上がった。

「そんな。昨日、ここにいたんですよ」

「死亡推定時刻は、昨夜八時から十時の間」

「でも……」

玲奈は言葉を失った。

望月は茶封筒からコピーを出した。古物商許可申請書の写しだった。申請者欄には、白坂美澄の名前。営業所名は、眠り子堂。

そして代理人欄に、山崎行政書士事務所の名前があった。

ただし、玲奈はすぐに違和感を覚えた。

「これは、うちの書類ではありません」

「なぜ言い切れますか」

「印影が違います」

望月が目を細める。

「印鑑そのものは、似ていますが、朱肉の色が違う。うちは父の代から、少し暗い赤の朱肉を使っています。それに、ここ」

玲奈は代理人欄を指差した。

「山崎の崎が、異体字の『﨑』になっています。亡くなった父は昔、その字を使っていました。でも私は開業以来、ずっと普通の崎です。昨日お渡しした委任状にも、そう印字してあります」

望月は黙って玲奈を見た。

「つまり、犯人はあなたのお父様の時代の書式を知っている」

「可能性はあります」

湊が震える声で言った。

「先生、昨日の人は……誰だったんですか」

望月は答えなかった。

代わりに、もう一枚の写真を置いた。

倉庫で発見された遺体のそばに置かれていた荷札だった。

そこには、丁寧な筆文字でこう書かれていた。

――古物番号零番。申請者。

玲奈は、昨日の美澄の声を思い出した。

一度捨てられた人間は?

それでも人間です。

そう言った時の、あの壊れそうな表情を。

「警部補」

玲奈は静かに言った。

「昨日ここに来た白坂美澄さんは、生きています」

「根拠は」

「彼女は、セイを抱く時、指を一本だけ浮かせていました。人形の首のひびに触れないように。物を商品として扱う人の仕草じゃない。あれは、誰かを守っている人の手です」

望月は数秒、何も言わなかった。

やがて、低く言った。

「感情論ですね」

「はい。でも、書類の嘘よりは信用できます」

その日の夕方、美澄からメールが届いた。

件名は空白。

本文は一行だけ。

――許可申請を取り下げてください。許可が下りたら、私は棚に戻されます。

添付ファイルが一つあった。

開くと、古い倉庫の写真だった。壁一面に、人形、人形、人形。

その中央に、黒い帳簿が置かれている。

湊が画面を拡大した。

「先生、この表紙……」

そこには金色の文字でこう書かれていた。

古物台帳。

古物商は、扱った古物について台帳に記録することがある。品名、数量、取引日、相手方。盗品流通を防ぐための記録。

だが、写真の帳簿には、品名の欄に人の名前が並んでいた。

白坂美澄。遠野栞。深町莉子。相良千尋。山崎玲奈。

最後の名前を見た瞬間、湊が椅子から立ち上がった。

「先生、これ、脅迫です」

玲奈は画面を見つめた。

自分の名前の横に、日付が入っている。

五月十四日。

今日だった。

「警察に連絡します」

「その前に」

玲奈は写真の右下を指差した。

壁に貼られた古い地図。清水区馬走のあたりに赤い丸がついている。

「この倉庫、申請書に営業所として記載されていた住所と同じです」

望月警部補は、玲奈たちの同行に反対した。

当然だった。民間人が関わる事件ではない。だが玲奈は、一つだけ主張した。

「この場所は、古物商許可の営業所として記載されています。私は申請代理人として、現場の確認を頼まれていた。犯人は、私が来ることを前提にしています。行かなければ、次の手を打つはずです」

望月は睨んだ。

「あなたは刑事ではありません」

「はい」

「探偵でもない」

「はい」

「では、何ですか」

玲奈は少し考えた。

「書類の嘘を、人間の言葉に戻す仕事をしています」

望月は舌打ちした。

「勝手な行動はしない。警察の指示に従う。それが条件です」

倉庫は、山の匂いと海の湿気が混じる場所にあった。

古い茶箱が積まれた建物で、外壁は黒ずみ、入り口には錆びた南京錠がぶら下がっている。だが鍵は開いていた。

中に入った瞬間、湊が口元を押さえた。

樟脳の匂い。

古い布の匂い。

そして、甘ったるい香水の匂い。

懐中電灯の光が、無数の硝子の瞳に跳ね返った。

棚という棚に、人形が並んでいた。ビスクドール、日本人形、球体関節人形、抱き人形。大きいもの、小さいもの。綺麗なもの、壊れたもの。どれもが、こちらを見ている。

その中央に、写真と同じ黒い帳簿が置かれていた。

望月が手袋をはめて開く。

最初のページに、こう記されていた。

品名、遠野栞。仕入日、平成二十四年十一月三日。特徴、左頬に小さな黒子。状態、良。備考、よく泣く。

湊が顔を背けた。

玲奈はページをめくった。

品名、深町莉子。状態、やや難。備考、逃げ癖あり。

品名、白坂美澄。状態、未仕上げ。備考、許可取得後に展示。

望月が低く言った。

「連続失踪事件の被害者名と一致する可能性があります」

その時だった。

倉庫の奥から、女の声がした。

「せんせい」

全員が振り向いた。

人形の棚の間に、白い影が立っていた。

白坂美澄だった。

昨日と同じ黒いワンピース。だが顔色はさらに白く、唇の紅は滲んでいた。腕の中には、セイと同じ顔をした人形を抱いている。

「来ちゃ駄目だったのに」

望月が拳銃に手をかける。

「白坂美澄さん?」

美澄は首を振った。

「その名前は、売られました」

玲奈は一歩だけ近づいた。

「あなたは誰ですか」

美澄の目から、涙が落ちた。

「白坂美澄です。でも、書類の上では、もう違う。私は十年前に死んだことになっていて、今は……あの人の所有物です」

倉庫の照明が、突然消えた。

闇の中で、何百もの小さな声が重なった。

――わたしを買って。

――わたしを返して。

――わたしを、人間に戻して。

湊が叫んだ。

「録音だ!」

次の瞬間、入り口の扉が大きな音を立てて閉まった。

非常灯が赤く点いた。

人形の顔が、血の色に染まる。

美澄が震えながら言った。

「あの人が来る」

「誰ですか」

「鷲尾京介」

その名前を聞いた瞬間、望月の顔つきが変わった。

「人形修復師の鷲尾か」

湊が早口で言った。

「検索で出ます。鷲尾人形院。天才修復師。海外のオークションでも有名。子どもの頃に知能検査で測定不能とか、都市伝説みたいな記事が……」

「都市伝説ではありません」

美澄はかすれた声で言った。

「あの人は、何でも覚えます。誰がどんな嘘をついたか、誰がどこで泣いたか、どの書類にどの印鑑が押されたか。全部。だから、誰も逃げられない」

倉庫の奥のスピーカーから、男の声が流れた。

「逃げられない、ではない。逃げる必要がないんだよ、美澄」

柔らかい声だった。

聞く者を安心させるような、よく整えられた声。

「人間は不完全だ。裏切る。老いる。忘れる。だが、人形は完全だ。こちらが与えた意味を、永遠に失わない」

玲奈は暗闇の中で拳を握った。

「鷲尾京介さんですね」

「山崎玲奈先生。お会いしたかった。あなたのお父様にも、昔お世話になった」

「父はあなたに何をしましたか」

「拒んだんだよ」

声は少しだけ冷たくなった。

「完璧な申請書を。完璧な委任状を。完璧な身分証明を。彼は言った。『この字は、人が助けを求めている字だ』と。愚かな感傷だ。だが、その感傷のせいで、私は最初のコレクションを失った」

玲奈は父のことを思い出した。

寡黙な人だった。依頼者の前では穏やかで、家ではよく煎茶を淹れていた。玲奈が高校生の頃、一度だけ言ったことがある。

「書類はな、玲奈。人を隠すこともできるし、人を助けることもできる。だから怖いんだ」

鷲尾の声が続いた。

「今度は、あなたに完成してもらう。古物商許可申請を。眠り子堂を正式な店にする。人形たちに、正しい市場を与える」

望月が叫んだ。

「ふざけるな」

「ふざけてはいない。私は法律を尊重している。物を扱うには許可がいる。ならば、許可を取るべきだ」

玲奈は言った。

「人間は物ではありません」

「それはあなたの解釈だ」

「いいえ。社会の前提です」

「前提は、書き換えられる」

その瞬間、棚の一つが開いた。

奥に、小さな扉があった。

美澄が息を呑む。

「駄目。そこは」

扉の向こうには、階段が下へ続いていた。

望月が無線で応援を呼ぼうとしたが、電波が妨害されている。湊がスマートフォンを振った。

「圏外です」

鷲尾の声が響く。

「先生だけ、下へ。白坂美澄を人間として扱うか、古物として扱うか。あなたに選ばせてあげよう」

玲奈は迷わなかった。

「行きます」

「先生!」

湊が止めた。

玲奈は湊を見た。

「佐伯さん、覚えておいて。行政書士の仕事は、依頼者の言葉を最後まで聞くことよ」

「でも」

「この人は、まだ全部を言えていない」

地下は、白かった。

天井も壁も床も、すべて白い布で覆われている。中央には、巨大なドールハウスのような部屋が作られていた。窓も扉も小さく、家具も人形用のように華奢だった。

その真ん中に、鷲尾京介が立っていた。

四十代半ばに見えた。細身で、灰色のスーツを着ている。顔立ちは整っていたが、整いすぎていて表情が読めない。目だけが異様に明るい。

彼のそばに、美澄がいた。

いつの間にか地下へ連れてこられていたのだろう。手首を赤い糸で縛られ、椅子に座らされている。人形のように背筋を伸ばされ、顔には白粉が塗られていた。

玲奈は怒りで視界が赤くなるのを感じた。

「ほどいてください」

鷲尾は微笑んだ。

「先生、これは展示です」

「虐待です」

「言葉の選び方が荒い」

「あなたに丁寧な言葉を使う気はありません」

鷲尾は楽しそうに笑った。

「お父様に似ている」

玲奈は美澄に近づこうとした。

鷲尾が指を鳴らすと、周囲の棚の扉が一斉に開いた。中には十三体の人形が並んでいた。それぞれの胸に、小さな申請書が貼られている。

「鍵は一つだけ。正しい申請者を選べば、美澄は出られる。間違えれば、展示は完成する」

玲奈は十三体を見た。

どれも白坂美澄に似ている。髪の長さ、唇の形、指の細さ。まるで美澄という人間を十三通りに分解して、都合よく作り替えたようだった。

鷲尾は言った。

「あなたは書類を見る人だ。書類だけで真実を選んでみせなさい」

玲奈は一体ずつ胸の申請書を見た。

氏名、白坂美澄。住所、静岡市葵区――。生年月日、平成――。略歴、空白なし。管理者、本人。

完璧だった。

完璧すぎた。

玲奈は、ふと父の言葉を思い出した。

この字は、人が助けを求めている字だ。

玲奈は書類から目を離し、人形の手を見た。

一体目。綺麗すぎる。二体目。爪まで磨かれている。三体目。指紋がない。四体目。傷がない。五体目。手袋をしている。

十一体目の人形だけ、右手の人差し指に緑色のインクがついていた。

玲奈の事務所の受付ペンは、湊が買ってきた妙な緑色のボールペンだった。昨日、美澄は相談票を書く時、そのペンを使った。そして、セイの首のひびを避けるため、右手の人差し指を浮かせていた。

その指だけに、インクがついたはずだ。

玲奈は十一体目の人形に近づいた。

「これです」

鷲尾の目が細くなった。

「理由は」

「書類ではありません。手です」

「不正解だ。問題は申請者を選ぶことだ」

「申請者は、書類の中にはいません」

玲奈は振り返った。

「申請者は、そこで震えている白坂美澄さんです。あなたがどれだけ似せて作っても、人形は今日の日付を怖がらない。自分の名前を書いた時に、息を止めたりしない。大切なものを抱く時、傷に触れないよう指を浮かせたりしない」

鷲尾の笑みが消えた。

玲奈は続けた。

「それから、あなたは完璧ではありません」

「何?」

「偽造された死亡関係の書類。平成十六年の日付なのに、住所表記に『葵区』が使われていました。静岡市が政令指定都市になって区が設置されたのは、その後です。あなたは資料を覚えている。でも、その年に街で暮らしていた人の感覚を知らない」

地下室の空気が、凍った。

鷲尾が初めて、感情を見せた。

怒りだった。

「人間の感覚など、誤差だ」

「その誤差が、人を人間にしているんです」

鷲尾は美澄の肩に手を置いた。

「この女は私に売られた。親に捨てられ、戸籍を消され、誰も探さなかった。私だけが価値を与えた」

美澄の唇が震えた。

「違う」

小さな声だった。

だが、玲奈には聞こえた。

「白坂さん」

「違う……私は、売られてない」

美澄は顔を上げた。

白粉の下で、涙が頬を伝っていた。

「先生が言った。人間は古物じゃないって」

その瞬間、美澄は手首を動かした。

赤い糸が切れた。

いや、切ったのだ。

彼女の手の中には、セイの硝子眼があった。割れた硝子の鋭い端で、糸をこすり続けていたのだ。

鷲尾が美澄を掴もうとした。

玲奈はとっさに間へ入った。

「逃げて!」

地下室の扉が破られた。

望月警部補が飛び込んでくる。後ろには湊と、応援の警察官たち。

「鷲尾京介、殺人および監禁の容疑で逮捕する!」

鷲尾は抵抗しなかった。

ただ、玲奈を見て、静かに言った。

「あなたも、いつか分かる。人間は物になりたがっている。誰かに所有されれば、孤独でなくなるからだ」

玲奈は答えた。

「孤独な人に必要なのは所有者じゃありません。帰る場所です」

鷲尾は笑った。

その笑いは、もう整っていなかった。

事件後、倉庫からは数十体の人形と、複数の失踪者に関わる資料が押収された。

人形の中には、被害者の持ち物が隠されていた。髪留め、指輪、手紙、写真。鷲尾は人の人生を分解し、人形の由来として売ろうとしていた。

白坂美澄は、戸籍上死亡したことにされていた。

かつて母親が借金のために身元を売り、鷲尾がその空白を買った。彼は美澄の名前を、過去を、生活を、すべて「眠り子堂」の商品の由来として作り替えようとしていた。

美澄が山崎行政書士事務所に来たのは、偶然ではなかった。

玲奈の父が、かつて鷲尾の申請を拒んだ記録を、美澄は見つけていた。

「山崎という人なら、書類の奥にいる私を見つけてくれると思ったんです」

数週間後。

山崎行政書士事務所に、美澄が再び訪れた。

今度は雨に濡れていた。

髪の先から水滴が落ち、頬には薄い赤みがある。黒いワンピースではなく、柔らかな青いカーディガンを着ていた。腕の中には、修復されたセイがいた。

「先生」

「はい」

「古物商許可の申請、やっぱりお願いできますか」

湊が驚いた顔をした。

「でも、もう眠り子堂は」

「売るためじゃありません」

美澄はセイをそっと机に置いた。

「鷲尾が売ってしまった人形たちを、買い戻したいんです。持ち主や家族のところへ返したい。どうしても売買の形になるものがあるなら、正しい記録を残したい。今度は、人を消すためじゃなくて、人を戻すために」

玲奈は申請書を一枚取り出した。

「店名は?」

美澄は少し笑った。

「眠り子堂ではなく……帰り子堂にします」

湊が鼻をすすった。

「いい名前ですね」

玲奈はペンを差し出した。

いつもの緑色のボールペン。

「白坂さん。日付とお名前は、ご自分でお願いします」

美澄はペンを握った。

手はまだ少し震えていた。だが、字はまっすぐだった。

令和――年五月十四日。白坂美澄。

書き終えると、美澄は深く息を吐いた。

「人形は、日付を書かないんですね」

玲奈はうなずいた。

「人間だけが、今日という日を自分の手で書けます」

窓の外では、雨が上がっていた。

青葉通りの木々が光り、静岡の街に、洗われたような夕陽が差している。

セイの硝子の瞳が、その光を受けて輝いた。

もう、誰かを閉じ込めるための瞳ではなかった。

帰る場所を見つけた人間を、静かに見守る瞳だった。

 
 
 

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