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呉服町のセロ弾き茶屋

 幹夫青年は、夜の静岡のまちなかを、用もないのに歩いてゐました。

 呉服町のアーケードの天井の灯りは、昼より白く、昼より冷たく、まるで「ここはまちです。まちはまちです」と、しつこく念を押すやうに光つてゐます。

 靴の底の下でタイルが「こつ、こつ」と鳴るたび、幹夫の胸の底の重たい石も「こつ、こつ」と鳴るやうに思へました。

 ――ぼくの心臓は、いま、どんな拍子(ひやうし)で鳴つてゐるんだらう。

 幹夫はときどき立ち止まつて、胸へ掌を当てました。

 どく、どく。

 どく、どくどく。

 どく。

 リズムが揃はないのです。

 揃はないのに、止まりもしない。

 止まらないのに、どこへも行けない。

 そんな鼓(つづみ)を、胸の中に抱へてゐるやうでした。

 そのとき、アーケードの端の細い横丁から、ふしぎな音がしました。

 ぼううん……。

 ぼろん。

 ぶうん……。

 それはギターの音でもありません。ピアノの音でもありません。

 もっと木の匂ひがして、もっと腹の底へ沈んで来る音――まるで大きな蜜柑(みかん)の箱の中で、黒い蜂が羽を震はせてゐるやうな音でした。

 幹夫は横丁へ入りました。

 横丁は狭く、古い飲み屋の提灯が赤く滲み、雨上がりの石畳が黒く光つてゐます。

 どこかの厨房から、だしの匂ひが湯気と一緒に「ふわっ」と流れて来て、幹夫の鼻の奥をくすぐりました。

 音は、そのいちばん奥の、小さな木の戸の向うから出てゐました。

 戸の上に、古い板が掛かつてゐます。板には白い字で、かう書いてありました。

 「セロ弾き茶屋」

 幹夫は思はず、板を二度見ました。

 セロ――チェロのことです。

 茶屋――お茶の店です。

 ――こんなところに、そんなものがあるはずがない。

 けれども、音がまた鳴りました。

 ぶうん……。

 ぼろん。

 ぶううん……。

 その音は、「嘘」よりも確かな顔をしてゐました。

 確かなものは、入り口を持ちます。

 幹夫は戸を、そつと押しました。

 戸は、思ひのほか軽く、

 「からん」

 と、小さな鈴を鳴らして開きました。

 中は狭い部屋でした。

 土間の端に七輪があり、鉄瓶が「しゅう」と薄い湯気を吐いてゐます。

 壁には茶箱が積まれ、硝子の瓶に乾いた茶葉が入つてゐました。茶葉は暗い緑で、ときどき金いろの芽が混じり、まるで小さな昆虫の羽のやうに薄く光ります。

 そして奥の畳の上に、ひとりの人がゐました。

 白い前掛けをした、背の高い痩せた人です。顔はよく見えません。

 その人が膝に抱へてゐるのが、セロでした。

 セロの胴は、夜の蜜のやうに黒く艶があり、弓(ゆみ)が動くたび、木が深く息をするやうに鳴りました。

 幹夫が立ち尽くしてゐると、その人は弓を止めずに言ひました。

 声は低く、湯気の中から出るやうでした。

 ――ミキオ青年。

 ――入ツテオイデ。

 ――胸ガ、テンポ、バラバラ。

 幹夫はびつくりしました。

 なぜ名前が分かるのか。

 なぜ胸のテンポが分かるのか。

 けれども幹夫は、いまそれを訊く気になれませんでした。

 胸の中の石が、セロの音に触れて「ころり」と向きを変へたからです。

 幹夫は畳の端に座りました。

 すると鉄瓶の湯気が、ふいに形を持ちました。

 湯気がただ立ちのぼるのではなく、細い線になり、五本並び、まるで五線譜(ごせんふ)のやうになつたのです。

 湯気の線の上を、茶葉のかけらみたいな小さな粒が、ぽつ、ぽつ、と跳ねました。

 「……音符だ」

 幹夫が呟くと、セロ弾きは、弓をすこし強く引いて、

 ぶうん……っ

 と鳴らしました。

 すると湯気の線の上の粒が、一斉に「たたた」と走り、鉄瓶の口から出る湯気が、まるで曲の冒頭のやうに、整列したのです。

 セロ弾きは言ひました。

 ――オ茶ハ、湯(ゆ)ト葉(は)ト息(いき)デ鳴ル。

 ――セロモ、木ト弓ト息デ鳴ル。

 ――心臓モ、肉ト血ト息デ鳴ル。

 ――ダカラ、ココ、学校。

 幹夫は、なぜだか胸が熱くなりました。

 学校――。

 巴川で「夜の水の学校」があつたやうに、ここにも学校があるのです。

 しかもそれは、いちばん近いところ――自分の胸のすぐ隣の学校でした。

 セロ弾きは、鉄瓶の蓋を指さしました。

 ――ミキオ青年。

 ――宿題。

 ――蓋(ふた)、少シ開ケロ。

 ――少シダケ。

 ――開ケスギルト、湯気、逃ゲル。

 ――閉ヂスギルト、湯、荒レル。

 ――拍(はく)ニ合セテ、隙間(すきま)。

 幹夫は立ち上がり、鉄瓶へ手を伸ばしました。

 蓋は熱く、指先が「ひやっ」としました。熱いはずなのに、ひやっとするのです。

 それは怖さの冷たさでした。

 幹夫は息を吸ひました。

 そして、セロの音を聴きました。

 ぶうん……

 ぼろん。

 ぶううん……

 音は、どこまでもゆつくりで、どこまでも確かでした。

 その確かさに合わせて、幹夫は蓋をほんの少し――紙一枚ぶんだけ持ち上げました。

 すると鉄瓶の湯気が、

 「しゅう……」

 と細くなり、五線譜の線がまつすぐに揃ひました。

 茶葉の粒の音符が、湯気の線の上に「とん、とん」と落ち、落ちたところで小さく光りました。

 幹夫の胸の中で、どく、どく、と鳴つてゐたものが、ふいに「たん、たん」と言ひ換へたやうに思へました。

 どく、どくどく、どく、ではなく、

 たん、たん。

 たん、たん。

 と、二つずつ揃ふのです。

 幹夫は驚いて、思はず胸へ掌を当てました。

 胸の鼓は、まだ鳴つてゐます。

 けれども鳴り方が、少しだけ「整つた」のでした。

 セロ弾きは、弓を止めずに言ひました。

 ――ホラ。

 ――心臓ノ振動数(しんどうすう)ハ、毎分七十前後。

 ――ダガ、考ヘゴト多イト、勝手ニ跳ネル。

 ――跳ネル拍ハ、悪イ拍ジャナイ。

 ――拍ガ、仕事ヲ欲シガツテヰル。

 幹夫は、蓋の隙間を保ちながら、湯気を見ました。

 湯気の線は、セロの音に合わせて、少しずつ波を打ち、波の頂点に、茶葉の音符が「きらり」と乗ります。

 五線譜が、部屋の中に浮かび、天井の低い空間が、いつの間にか小さな音楽堂になつてゐました。

 そのとき、戸の隙間から、黒い猫が一匹入つて来ました。

 毛は少し濡れてゐて、耳の先が冷たさで尖り、しつぽが細く震へてゐます。

 猫は土間の端で「にゃ」とも言はず、じつと鉄瓶の湯気を見上げました。

 そして、湯気の五線譜の下へすうつと座り、目を細くしました。

 セロ弾きが、少しだけ笑つたやうに言ひました。

 ――アノ猫、雨ノ拍、拾ツテ来タ。

 ――ミキオ青年、茶、注イデヤレ。

 ――湯気ノ拍、分ケロ。

 幹夫は蓋をそつと置き、湯呑みを探しました。

 棚に小さな湯呑みが並んでゐます。

 幹夫は一つ取り、茶葉を少し入れ、鉄瓶の湯を注ぎました。

 湯が落ちるとき、

 「とととと」

 と音がしました。

 その音が、セロの低い音と重なつて、ちやうど「曲の真ん中の橋」みたいに、部屋の空気を渡しました。

 湯呑みの中で茶葉が「くるり、くるり」と開き、緑がふわりとひらきました。

 匂ひが立ちました。青い匂ひ。苦い匂ひ。けれどもその苦さは、胸の底の石を洗ふやうな苦さでした。

 幹夫は湯呑みを猫の前へ置きました。

 猫は鼻を近づけ、

 「ふう」

 と、小さく息を吐きました。

 すると猫の息が湯気に混じり、湯気の五線譜の線が、また少しだけまつすぐになりました。

 その瞬間、幹夫ははつきり気づきました。

 この店の音楽は、セロだけではない。

 湯気も、茶葉も、猫の息も、そして幹夫の胸の鼓も、みんな一緒に曲を作つてゐるのです。

 セロ弾きは、曲の終りのやうに弓を静かに引いて、

 ぶうん…………

 と長く鳴らし、それから音を止めました。

 止まると同時に、湯気の五線譜はふわりと崩れ、ただの湯気に戻りました。

 茶葉の音符も、湯呑みの底へ沈んで、普通の葉になりました。

 けれども幹夫の胸の中の拍だけは、まだ「たん、たん」と続いてゐました。

 セロ弾きは、棚から小さな紙片を取り出して、幹夫へ渡しました。

 紙片には鉛筆で、丸い点が並び、ところどころに長い線が引いてあります。

 まるで電信のやうでもあり、楽譜のやうでもありました。

 ――コレ、ミキオ青年ノ拍子紙(ひやうしがみ)。

 ――迷ツタラ、胸ニ当テロ。

 ――遠イ銀河ヲ探ス前ニ、近イ鼓ヲ揃ヘロ。

 ――近イ鼓ガ揃フト、手モ揃フ。

 ――手ガ揃フト、誰カノ糸ヲ解ケル。

 幹夫は紙片を握りました。

 紙は軽いのに、胸の石が少しだけ「役に立つ重さ」になつたやうに感じられました。

 重さが消えたのではありません。

 重さが「拍を取る重さ」になつたのです。

 拍を取る重さは、歩く足を揃へます。

 幹夫が立ち上がると、猫も一緒に立ち上がり、しつぽを一度だけ

 「ぱたん」

 と振りました。

 それは見送りの合図みたいでした。

 戸を出ると、呉服町の横丁の空気が冷たく、

 「すう」

 と頬を撫でました。

 遠くで車が走り、誰かが笑ひ、ネオンが滲んでゐます。

 けれども幹夫には、さつきほどその光がうるさくはありませんでした。

 幹夫青年は歩きました。

 胸の中で、

 たん、たん。

 たん、たん。

 と、拍が続いてゐます。

 その拍に合わせて、靴の音も、

 こつ。

 こつ。

 と揃ひました。

 揃つた音は、どこへでも行ける音です。

 行ける音は、近いところの仕事を見つけます。

 幹夫青年は、ポケットの拍子紙をそつと押さへながら、小さく言ひました。

 「……あしたは、胸のとなりの拍で、ひとつだけ、近いところを整へてみよう」

 風が「すう」と通り、

 横丁のどこかで、セロの残り香のやうな低い音が、もう一度だけ、

 ぶうん……

 と鳴つたやうに聞こえました。

 
 
 

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