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喫茶の窓、カードは一行で十分

 幹夫青年が「カードを書かう」などと思ひ立つたのは、もともと筆まめな性分からではない。筆まめどころか、彼は言葉が胸の中で育ちすぎて、育ちすぎた言葉を出すのが怖くなる男である。 怖くなると黙る。黙ると遅れる。遅れたのを取り返さうとして、立派な長文を考へる。長文は言ひ訳の巣になる――この循環を、彼はもう散々くり返して来た。

 それでも今夜は、クリスマスである。 世間は「特別」を強ひて来る。強ひられると、人はかへつて平凡を恥ぢる。幹夫は、その恥ぢ方が厭で、だからこそ、特別を「生活の大きさ」に戻したかつた。

 生活の大きさ――つまり、一行で済む程度のこと。

 呉服町のアーケードは、いつもより灯りが多かつた。 店先の小さなリース、窓硝子に貼られた紙の雪、赤いリボン。雪の降らぬ静岡で雪の飾りを見ると、いつも少しだけ白々しい気分になるのに、今夜は白々しさに噛みつく気力がなかつた。白々しいなら白々しいで据ゑ置きにして、ただ歩けばいい。 据ゑ置き――日本平の夜景で覚えた、あの便利な言葉が、胸の奥で小さく働いた。

 七間町の角を曲がると、古い喫茶店の窓が見えた。 外の灯りを受けて、窓の内側がぬるく光つてゐる。光つてゐるのに叱らない。叱らない光のところには、湯気がある。湯気があるところには、言ひ訳が育ちにくい――幹夫は最近、その程度の生活の知恵を覚えかけてゐた。

 戸を押すと、鈴が鳴つた。 ちりん、と短く鳴つて消える。短い音は、迷ふ暇を与へない。 幹夫は、反射で先に言つた。

「こんばんは」

 カウンターの男が、コーヒーカップを拭きながら顔を上げた。 年齢は分からぬが、声が落ち着いてゐる。落ち着いた声は、こちらの肩の角を勝手に取る。

「こんばんは。寒いね。空いてるよ」

 幹夫は窓際の席に腰を下ろした。 窓の外では、紙袋を提げた人が行き交ひ、どこかの店から甘い匂ひが漏れて来る。信号の赤が濡れた路面に反射し、細い光の筋になる。 その光の筋を見てゐると、胸の中の裁判官が、机を叩くのを少し忘れる。裁判官は、筋のやうなものが嫌ひなのだ。筋は、こちらの生活の方へ話を引つ張つてしまふから。

 幹夫は、メニューも見ずに言つた。

「ブレンド、ひとつ」

「はいよ。砂糖とミルクは?」

 幹夫は、少し迷つてから答へた。

「……砂糖は、なしで」

 砂糖が欲しくないわけではない。むしろ、今夜は甘さが欲しい。 だが、甘さを足すと、何だか言葉まで増やしてしまひさうな気がした。増えた言葉は、いつも言ひ訳に変はる。 今夜は言葉を増やさない夜にしたかつた。

 コーヒーが来た。湯気が立つ。 湯気が立つと、胸の石の角が丸くなる。丸くなると、喉が少し開く。 幹夫はひと口飲んだ。苦みが舌の上でほどけ、あとから香が鼻へ抜ける。叱る苦みではない。目を覚ます苦みだ。

 カウンターの端に、小さな棚があり、そこにポストカードが並んでゐるのに気づいた。 雪の絵、ツリーの絵、そして、なぜか富士山に赤い帽子を載せた絵。静岡らしい冗談である。冗談は、祝ひの日にいちばん似合ふ。立派な言葉より、冗談の方が生活に近い。

 幹夫は立ち上がり、棚の前へ行つた。 カードの紙は厚く、指先に少しざらつく。ざらつきは、書くことの入口だ。書くことは、画面を叩くのとは違ふ重みがある。 幹夫は一枚、富士山の赤帽子のカードを取り、カウンターへ持つて行つた。

「これ、ください」

「はい。……書くの?」

 男がさらりと言つた。 さらりと言はれると、さらりと頷ける。

「……書いてみます」

 男は、言葉を足さずに、ペンを一本差し出した。 言葉を足さない親切は、こちらの胸を重くしない。幹夫はこの頃、言葉の少ない親切がどれほどありがたいかを、やつと覚え始めてゐた。

 席へ戻り、カードを机の上に置く。 白い余白が、急に「どうする」と迫つて来る。余白は、机の上の未返信の通知に似てゐる。 幹夫はペン先を持つたまま、動けなくなつた。ここでいつもの癖が出る。 ――いまさら何を書けばいい。 ――遅れてゐるのに「元気?」は軽薄ではないか。 ――軽薄に見られたくない。 ――見られたくないなら、立派に書けばいい。 ――立派に書くなら、謝らねばならぬ。 ――謝るなら、説明が要る。 説明、説明、説明――。

 説明は、すぐ巣を作る。 巣を作ると、カードは書けないまま机の引き出しへ入る。引き出しへ入れば、今度は引き出しが重くなる。 幹夫は、その重くなり方をもう知つてゐた。

 窓の外で、誰かが笑つた。 笑ひ声は短く、すぐ車の音に溶けた。 短い。短いから、残る。 七間町で聴いた鈴の音のことが、ふと蘇つた。――鈴は短い。だから、言葉も短く。 それから浅間さんの一言みくじ。――先に言へ。

 幹夫は、息を吐いた。白い息は店内では見えないが、胸の中でだけふわりとほどける。 ほどけたところへ、言葉を一つだけ置けばいい。 立派でなくていい。説明もいらない。 祝ひの日は、言葉を増やす日ではなく、言葉を腐らせない日でいい。

 幹夫はペンを動かした。 行は一つ。たつた一つ。

  メリークリスマス。元気で。幹夫。

 書き終へた瞬間、拍子抜けするほど胸が軽くなつた。 一行は、短い。短いのに、嘘が入りにくい。 嘘が入りにくいから、こちらも「書いた顔」をしなくて済む。書いた顔をしなくて済むのが、何よりありがたい。

 幹夫はカードを裏返し、宛名を書く手が少し迷つた。 相手の住所を書くことは、相手の生活の場所を肯くことだ。肯けば、こちらも自分の生活の場所を肯かねばならぬ気がする。 だが、今夜は「肯く」程度でいい。立派に近づかなくていい。

 書けた。 書けたといふだけで、今夜は十分だと思へた。十分は、立派より長持ちする――港のサンタ帽が言つてゐたやうな気がする。

 幹夫が立ち上がると、カウンターの男が見て、微かに笑つた。

「書けた?」

「……一行だけ」

「一行がいちばん届くよ。コーヒーもそう。濃すぎると残る」

 残る。 残るのは悪くないが、残り方が悪いと胸が腐る。 濃すぎない一行なら、残り方がきれいだ。幹夫はその言ひ方が好きだと思つた。説教ではなく、湯気のやうな実用だ。

 店を出ると、夜気が頬に冷たい。 だが手の中のカードは、さつきまでの白い余白ではない。もう「書いてある」重みになつてゐる。書いてある重みは、厭な重みではない。歩ける重みだ。

 青葉の方へ少し歩くと、赤い郵便ポストがあつた。 赤いポストは、クリスマスの赤に負けない。負けない赤は、昔から働いてゐる赤である。 幹夫はカードを投入口へ差し込み、軽く押した。

 がちゃん。

 乾いた音が鳴つた。 鈴でもベルでもない、生活の音である。生活の音は、妙にあたたかい。

 幹夫はポケットに手を入れ、スマホを確かめた。 返信の通知は、まだ並んでゐる。並んでゐるが、さつきほど白々しくない。白々しくないのは、問題が消えたからではない。こちらが一つ、動いたからである。 一つ動けば、次も動ける。前向きとは、たぶんその程度の連鎖だ。

 幹夫青年は、喫茶の窓辺で立派な手紙を書いたのではない。 ただ、一行だけ書いて、投函しただけである。 だが一行は、十分に夜を明るくする。 クリスマスの特別は、豪華な箱の中より、こうした小さな音の中にある――幹夫は今夜、やつとその置き場所を見つけたのである。

 
 
 

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