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喫茶の黒い珈琲・ミルクの銀河(舞台:静岡市清水区 御門台)

 幹夫青年は、御門台の駅から少しだけ離れた、住宅の灯が低く並ぶ道を歩いてゐました。 冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。

 (ことばも、白い息みたいならいい。  出て、消えて、でも少しあたたかい。)

 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。 机の上には、送られないままの短い文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。

 そのとき、道の角に、曇った窓の灯が見えました。 黄色い灯で、白い灯ほど厳しくなく、灯籠ほど遠くなく、ちょうど「ここで一息」と言ってゐるやうな灯です。 小さな看板に、控えめに「喫茶」とだけ書いてありました。

 幹夫が戸を押すと、ちいさな鈴が鳴りました。

 ちりん。

 短い音。短いから、言ひ訳が入りこめません。 店の中はあたたかく、空気の粒がふわっと膨らんでゐるやうでした。 珈琲の匂ひが、すうっと鼻の奥へ来ます。 匂ひは、ことばより先に、胸の鍵を回すものです。

「こんばんは」

 カウンターの向うの店の人は、年を取ってゐるのか若いのかよく分からない顔をしてゐました。 けれど声が落ち着いてゐて、火の世話をする人の声に似てゐました。

「こんばんは。寒かったろ。黒いの?」

 幹夫は、つい言ってしまひました。

「……黒いのを、ひとつ」

 店の人は、うなづいて、豆を挽き、湯を落としました。 湯気は白く、やわらかく、店の灯の中でいちどふくらみ、すぐ天井の方へほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、その消え方が好きでした。

 やがて、カップが来ました。 黒い珈琲が、底の見えない夜みたいに入ってゐます。 受け皿が、小さく鳴りました。

 こん。

 幹夫は両手でカップを包みました。 手のひらが、すぐ人間になります。 人間になると、胸の裁判官の机の音が遠くなります。

 黒い表面に、店の灯が細く映ってゐました。 その映りは、まっすぐなのに、ほんのすこし揺れてゐます。 揺れは、珈琲の中の熱い流れ――上と下で温度がちがふから起きる、小さな対流のせゐです。 幹夫は、そんな理科のことを思ひ出して、少しだけ安心しました。 世界が「ちょっと理科」になると、裁判官は議事録の取り方が分からなくなって黙ることがあるのです。

 店の人が、小さなミルクピッチャーを置きました。

「入れる?」

 幹夫は、しばらく迷ひました。 黒いものを黒いまま飲むのは、どこか潔い。 でも、潔い顔をすると、胸のことばがまた固くなります。 固いことばは、送れません。

「……少しだけ」

 店の人は笑ひもせず、ただ言ひました。

「少しがいちばん銀河になるよ」

「……銀河?」

 店の人は、カップの黒を指で示しました。

「黒いのは夜だろ。白いのは星だ。入れると勝手に回って、腕が出来る」

 幹夫は、胸の奥がぱちんと光るのを感じました。 腕。 銀河の腕。 あの渦巻の腕は、誰が描くのだらうと思ってゐました。 でも、ミルクなら勝手に描くのかもしれない。

 幹夫は、ピッチャーから、ほんの少しだけミルクを落としました。

 とろり。

 白い滴が黒の表面へ触れた瞬間、白はすぐ沈まず、いちどだけ薄い雲になって広がりました。 それから、ふしぎに回りはじめました。 白い雲は、黒い夜の中で、渦をつくり、細い筋になり、また雲になり、ぐるぐると腕を伸ばしてゐます。

 幹夫は、息をのむほど、じっと見ました。

 白い筋は、いちど太くなり、いちど細くなり、ところどころでちぎれて、点になりました。 点は、星みたいに散ってゐます。 散り方が、規則正しいのに、きれいに整列しません。 整列しないのに、ちゃんと全体で一つの形になる。

 (ほんとうの星座だ。) 幹夫は思ひました。 (いや、銀河だ。)

 幹夫の胸の中のことばも、いつもは黒い塊で重いのに、いまは不思議に分かれてゐました。 「遅い」も、「いまさら」も、黒い縁へ押しやられて、中心の方には、白いものだけが残ってゐるやうに見えました。

 白いもの――

 元気? ありがとう。 会へなくても、忘れてない。

 どれも、短くて、星みたいに小さい。 小さいから、風に乗る。 小さいから、胸を冷やさない。

 幹夫は、スプーンで一度だけ、そっとかきまぜました。 銀河の腕は、少し崩れて、また別の腕をつくりました。 崩れるのに、終わりません。 崩れるから、次の形が生まれます。 幹夫はその当たり前が、ひどくありがたく思へました。

 そのとき、店の外のどこかで、短い音がしました。 御門台の、あの一点の合図です。

 ツン。

 幹夫は、その音を、叱りではなく、(いま)といふ合図みたいに受け取りました。 銀河が出来るのは、準備が全部そろってからではない。 ミルクが一滴落ちた、その「いま」から始まるのです。

 幹夫は、ポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、カップの中の銀河の白い筋が、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 銀河は腕がいくつもあるのに、星は一つずつです。 一つずつだから、全部で銀河になります。 なら、ことばも一行でいいのです。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「御門台の喫茶。黒い珈琲にミルクを落としたら、銀河の腕みたいになった。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、ミルクの白い筋が黒い夜を通って広がるみたいに、ことばが一本、外へ通ったのです。

 幹夫は、カップをひと口飲みました。 苦さが先に来て、すぐ後から、やわらかい甘さが追ひかけて来ました。 追ひかけて来る甘さは、さっきの銀河の腕みたいに、黒の中へ静かに溶けて行きました。 溶けるのに、あたたかい。 溶けるのに、残る。

 店の人が、ぽつりと言ひました。

「黒も白も、混ざれば一つになる。 でも混ざる前は、どっちもちゃんと光ってる」

 幹夫は、うなづきました。 胸の中の裁判官の机の音は、いま、聞こえません。 机の上が、銀河の粉でいっぱいになって、叩く場所がなくなったのです。

 幹夫青年は、御門台の小さな喫茶で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、黒い珈琲にミルクを一滴落として、銀河の形を見て、ひとこと送っただけです。 けれど、その“一滴”と“一行”があると、夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 御門台の灯の下で、ミルクの銀河は消えても、胸の中の星は、しばらく消えずにゐるのでした。

 
 
 

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