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噛みしめた言葉

 最近、よく眠れない。枕元にはハーブティーやアロマディフューザーが鎮座しているのに、朝が近づくと必ず目が覚めてしまう。原因はわかっている。仕事のこと、そして“カスハラ”のことだ。

 私は高橋彩香(たかはし あやか)、33歳。都内に本社を置く通信販売会社〈オモイビト〉のカスタマーサポート部に勤めている。とはいえ、カスタマー“サポート”なんて聞こえはいいけれど、実態はクレーム対応の最前線に立つ部署だ。毎日、契約内容や返品ポリシーに納得のいかないお客様とのやり取りに追われている。

 それでも私は、会社という舞台でちゃんと輝きたいと思っていた。だから、どんなに強いクレームや不機嫌そうな声が電話越しに飛んできても、笑顔を忘れず、丁寧な言葉遣いで対応してきた。 

 ……だけど最近、その“笑顔”が私をじわじわと苦しめているのを感じる。エスカレートするクレーム、理不尽な要求。私だって人間だから、ときには言い返したくもなる。いや、それどころか――怖くて声が震えることさえあるのだ。

 会社もこの現状を放ってはおけなかったのか、つい先日「カスタマーハラスメント対応マニュアル」を制定した。マニュアルには「不当な要求や長時間の拘束、暴言や侮辱、暴力行為などを『カスハラ』と定義し、社員を守るためにしっかり対応する」とあった。私の部署にも厚さ数センチの冊子が配られ、これから本腰を入れて運用していくという。

 だけど、声を大にして言いたい。「そんなに上手くいくのかな?」と。やっぱり会社はお客様第一。「お客様は神様です」なんて言い回しは令和の時代にそぐわないはずなのに、現場ではまだまだ根強く残っている。私だってわかっている。お客様あっての売上、会社の成長、私たちの給与。だから“お客様を怒らせるわけにはいかない”と、つい遠慮してしまう。

 そんなもやもやを抱えたまま、ある日私は、顔面偏差値がちょっと高めな――でも自意識も高めな――同僚の山下くんと一緒に、新マニュアルの研修を受けることになった。講師は総務部から来た藤沢さん。スーツ姿がびしっと決まっていて、私より年下なのにとても自信に満ち溢れている。正直、羨ましい。

「皆さん、今日の研修ではカスハラへの具体的な対応手順を学びます。まずは冷静に受け止め、相手の言い分を整理する。それから理不尽な要求には毅然とNOを突きつけてください」

 藤沢さんがそう力強く言うたびに、山下くんは「そうですよね!」と乗り気の相槌を打つ。私はといえば、「そんなにカッコよく進むかなぁ」と半ば他人事のように思いつつ、うんうんと頷いていた。

 ところが――その研修の翌日、私は“最悪の電話”を受けることになる。

 午前10時。まだコーヒーの香りがほんのり残るオフィスで電話が鳴った。出てみると、低く圧のある男性の声が聞こえてくる。 「昨日頼んだ商品が届いてないんだけど、どういうつもり?」 「申し訳ございません。ご注文番号を伺えますか?」 「番号? そんなの知らねえよ。とにかく今すぐ調べろ。無料で追加配送しろよ」

 鼻を鳴らすような乱暴な口調。私の心臓はドクンと鳴る。カスハラを意識すると、余計に緊張してしまうのが正直なところだ。

「すぐに確認いたします。恐れ入りますが、こちらの配送規定によれば……」 「規定? そんなもん知るか! 客に恥かかせやがって、お前らの会社どうなってんだ!」

 激しい怒号に、思わず息が詰まる。研修で教わった“冷静な対応”なんて、頭の中でバラバラに砕け散りそうになる。でも、ここで引いたら何も変わらない。意を決して、私は口を開いた。

「ご期待に添えず申し訳ありません。ただ、弊社のポリシーでは、現状を確認してからの再配送となります。無料での再発送は契約外となりますので、正式な手続きを……」

 すると相手は、さらに声を荒げ、私の人格を否定するような言葉を投げつけてきた。胸がえぐられるような感覚で、一瞬何も聞こえなくなりそうになる。しかし、ここで私は深呼吸をする。マニュアルにあった「限度の設定」を思い出したのだ。

「申し訳ありませんが、ただいまの発言は行き過ぎた表現かと存じます。サービス向上のため、通話を記録させていただいております。この後も同様のご発言が続きますと、対応を中断せざるを得ません。どうかご了承ください」

 ――自分で言っておいて、心臓がバクバクする。今にも泣きたくなるが、さすがに電話口では泣けない。案の定、相手は怒りをあらわにしながらガチャンと電話を切った。

 切れた途端に呼吸が乱れ、私は受話器を持ったまま数秒かたまってしまった。そこへ山下くんが気づいて、「大丈夫?」と声をかけてくれる。彼の顔はいつになく真剣だった。

「これ……きっと、さっきのがカスハラだよ。上司に報告しよう。マニュアルにもそう書いてあっただろ?」 「え、でも……お客様が離れてしまったら困るし、そんな大事にするのも……」

 私が尻込みすると、山下くんは首を振る。 「いや、だからこそだよ。対応を明確にしておかないと、君みたいに無理をしてしまう人が続出する。それで体調を崩す人もいるんだよ。『従業員の安全と健康を最優先』って、あの研修で散々言ってたじゃないか」

 そうだった。私のために用意された“盾”を、使わないでどうするのだろう。私は決心し、すぐに上司へ報告した。

―――――

 上司の部長が総務部や法務部を巻き込み、迅速に動いたのは意外だった。彼らは「こんな暴言は許されない。必要があれば警察や弁護士に相談する」とまで言ってくれた。さらに、私のメンタルケアとして産業医や外部カウンセラーの利用も勧められる。普段は怖いと思っていた部長が、こんなにも頼りになって見えるなんて。

 その翌週には、社内で「カスハラ事例報告会」というミーティングが開かれた。私は気乗りしなかったものの、同じような被害に苦しんだ同僚たちが、顔を合わせることで少し安心感を得られた。その場で法務の担当者から、「法律的にも暴言や脅迫は犯罪にあたる可能性があり、企業としては従業員保護の義務がある」という話を聞き、私の中で何かがストンと納得した。

「お客様だからといって、何を言っても許されるわけではない。そう言い切っていいんだ……」

 そう呟くと、隣に座っていた広報部の先輩がうなずく。「そうよ。私たちの気持ちを踏みにじる権利は誰にもないの。だから、泣き寝入りしなくていいの。今回のマニュアルは、そのために作られたんだから」

―――――

 その後も会社は、私たちカスタマーサポート部に対して定期的な研修を用意してくれた。私たちの配属先には、警察OBの方が防犯や暴力対策の講習に来ることもあった。正直、まだまだ緊張しながら電話応対をしているけれど、それでも以前よりは心に“支え”を感じる。

 かつては、あるお客様が少し声を荒らげただけで胃がキリキリしていた。でも今は、「これは不当な要求なの? それとも、ちゃんと誠意をもって解決できる問題?」と、客観的に考えるクセがついてきた。理不尽を理不尽だと知っただけでも、随分と気が楽になる。

 もちろん、連日鋼のような精神で対応できるほど、私は強くない。落ち込むときは落ち込むし、夜眠れなくなることだってある。それでも私が今、こうして朝の電車に揺られて会社に向かい、デスクに座ってヘッドセットをつけられるのは、“会社も私を守ろうとしてくれている”という実感があるからだ。

 先日、総務部の藤沢さんが「今回の件で改めて従業員を守る仕組みを強化できたのは、大きな前進です」と嬉しそうに言っていた。山下くんは「次は僕が頑張りますよ」と張り切っている。なんだかちょっぴり頼もしいじゃない。

 あれから、あの“最悪の電話”の相手からの連絡はない。おそらく二度とかけてこないだろう。でもいいの。私たちの仕事を真っ当に評価してくれるお客様に、しっかりと向き合えばいいだけだ。大切なのは、私たちが“働き続けられる”環境を整えること。それが巡り巡って、お客様にもいいサービスを提供できるって、やっとわかったから。

 朝のバス停を降りて、少し汗ばむ陽気のなか、会社のビルに向かう。ミントグリーンのカーディガンを羽織った私がガラスの自動ドアに映っている。どこか表情が柔らかい気がして、思わず微笑んでしまった。

「よし、今日も頑張ろう。理不尽には理不尽だと伝えながら、でも誠実に――」

 噛みしめるように独り言を呟き、私はうっすらと薄化粧した自分に勇気を送り込む。まだ完璧には遠いけれど、“私を守るための盾”があるのだと思えるだけで、こんなにも気持ちが違う。 

 会社のエレベーターに乗り込むと、ゆっくりと閉じるドアの奥に、これから向き合ういくつもの声が浮かんだ。たとえどんな声が待ち受けていても、私はもう大丈夫。 ――そう、心の底でしっかりと言い聞かせるように、ボタンを押した。

 
 
 

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