top of page

団地の窓・朝の星座(舞台:静岡市清水区 御門台)


 幹夫青年は、御門台の朝の白さで目がさめました。

 白さといっても雪の白ではありません。御門台に雪はめったに降りません。

 白いのは、冬の朝の光と、冷えた空気の透明さと、どこかの家の湯気が混ざった白さでした。

 その白さは、地面の上に薄い紙を一枚敷いたみたいで、音も匂ひも、その紙の上をすべって来るのです。


 幹夫は布団の中で、ふうっと息を吐きました。

 白い息は見えません。けれど胸の中では、白い息がふくらんで、ほどけて、消えるのが分かりました。

 消えるのに、あたたかい。


 そのとき、いつもの裁判官が胸の中で机を叩きました。


 ――「遅い。」

 ――「いまさら。」

 ――「昨日の返事も、まだだ。」

 ――「朝から、どうする。」


 幹夫は、その机の音が嫌ひでした。

 けれど今朝は、窓の外の白さが、机の上に薄い紙を敷いて、音を鈍らせてゐました。

 鈍ると、裁判官の声は少し遠くなります。

 遠くなれば、起きられます。


 幹夫はコートを着て、手袋をして、外へ出ました。

 御門台の道は、朝になると夜より細く、そしてやさしく見えます。

 家々がまだ「急がない顔」をしてゐるからです。


 息を吐くと、白い息が見えました。

 白い息は、街灯の残りの光の中でいちどふくらみ、それから朝の光へ溶けて消えました。

 消えるのに、あたたかい。

 そのあたたかさが、幹夫の肩の角を少しだけ丸くしました。


 幹夫は、団地の方へ歩きました。

 御門台の団地は、朝になると先に目がさめるところがあるのです。

 階段の踊り場、並んだベランダ、規則正しい窓の列――それらが、朝の光の中で、急に「図」みたいになります。


 団地の前で立ち止まると、窓が幾つか光ってゐました。

 黄色い光。

 少し白い光。

 そして、まだ眠ったままの暗い四角。


 幹夫は、それを見て、ふいに星座を思ひ出しました。

 星は空の上に並ぶのに、窓は地面の上に並びます。

 けれど、並び方が似てゐるのです。

 点があって、点の間に見えない線が引ける。

 線が引けると、意味が生まれます。


 (朝の星座だ。)


 幹夫は、胸の中でそう言ひました。

 窓の灯は、だれかの台所の灯。

 だれかのやかんの湯。

 だれかの靴ひもの結び目。

 だれかの「今日を始める」合図。


 その合図は、長い説明をしません。

 ただ、ぽっと点く。

 点いたら、そこに人の暮しがある。


 幹夫は、理科のことを思ひ出しました。

 光には色があって、色には温度がある、と先生が言ったことがあります。

 黄色い光は、少し低い温度の光。

 白い光は、少し高い温度の光。

 つまり窓の灯は、家の「熱の気分」を、外へ出してしまふのです。


 (この窓は、やかんの星。)

 (この窓は、トーストの星。)

 (この窓は、まだ暗いけれど、もうすぐ点く星。)


 幹夫は、星座の中の暗い窓を見て、胸がきゅっとなりました。

 暗い窓は、悪い窓ではありません。

 ただ、まだ点いてゐないだけ。

 けれど幹夫の胸の裁判官は、すぐ暗い窓を「遅い」と呼びたがるのです。


 ――「ほら、点いてない。」

 ――「ほら、遅い。」


 そのとき、団地の入口で、箒の音がしました。


 さっ、さっ。


 年配の人が、階段の下を掃いてゐました。

 箒の音は短く、一定で、用水のさらさらの代りみたいでした。

 一定の音は、胸の裁判官の机の音を、すこしだけぼかします。


 幹夫は、反射で言ってゐました。


「おはようございます」


 声は小さかったのに、朝の空気はよく運びました。

 運ばれると、言葉は軽くなります。

 軽い言葉は、胸を冷やしません。


 箒の人は顔を上げて、にこっとしました。


「おはよう。寒いねえ。窓がきれいだよ」


 窓がきれい。

 そのひとことが、幹夫にはひどくうれしかった。

 星座を見つけたのが、自分だけの幻ではなかったからです。


 その瞬間、団地の上の方で、ひとつ窓が点きました。

 暗い四角が、ぽっと黄色くなりました。

 点いた、といふだけで、世界の形が少し変はります。

 星座の点が一つ増えたのです。


 そして遠くで、静鉄の音が短く来ました。

 御門台の朝の、あの短い合図です。


 ツン。


 幹夫は、その音を、叱りではなく、(よし)といふ合図みたいに受け取りました。

 窓が点く。

 ベルが鳴る。

 息が白く出る。

 それだけで、朝はちゃんと始まるのです。


 幹夫は、団地の窓の星座をもう一度見上げました。

 空の星座は遠い。

 けれど窓の星座は近い。

 近いから、こちらも混ざれます。

 混ざれるなら、自分も点いていい。


 幹夫はポケットからスマホを出しました。

 画面の白い光は正確で、少し厳しい。

 けれど今朝は、団地の窓の黄色と白が、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。

 にじむ白は叱りません。

 にじむ白は、短いものを通します。


 幹夫は長い文を書きませんでした。

 星座だって点だけで出来てゐる。

 点を結ぶ線は、心が勝手に引く。

 なら、言葉も一行でいい。


 幹夫は、たった一行だけ打ちました。


 ――「御門台の団地の窓が朝の星座みたい。おはよう。元気?」


 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。

 汽笛は鳴りません。

 でも、窓の灯が点くみたいに、ことばが一つ、外へ点いたのです。


 幹夫青年は、御門台の団地で大きな奇跡を見たわけではありません。

 ただ、窓の灯を星座と思ひ、「おはよう」を言ひ、一行を送っただけです。

 けれど、その“一行だけ”があると、朝はちゃんとあたたかい方へ進みます。

 御門台の窓の星座は、今朝も静かに並びながら、ひとりの胸の中の暗い四角を、そっと点けてゐたのでした。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page