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在留カードの影

 山崎行政書士事務所の窓からは、駅前の交差点が見える。

 雨の日は、傘の群れが信号のたびに止まり、青になると一斉に流れていく。誰もが自分の行き先を知っているように見える。けれど、山崎は知っていた。世の中には、自分の足で歩いているように見えて、誰かの手に首輪を引かれている人間がいる。

 その日、事務所を訪ねてきたのは、日本語学校の事務長だった。

「白嶺国際日本語学院の三枝と申します」

 三枝千鶴は四十代半ばの女だった。淡いベージュのスーツに、整えられた髪。笑みは柔らかいが、目元には疲労の影がある。

「技能実習生だった学生の、在留資格変更をお願いしたいんです」

 山崎は名刺を受け取った。

「技能実習から特定技能への変更ですか」

「はい。本人は日本語もできますし、受入先も決まっています。書類はほとんど揃えていますので、先生には申請取次をお願いできればと」

 彼女は分厚いファイルを机に置いた。

 雇用契約書、支援計画書、住民票、納税関係、在留カードの写し、技能評価試験の合格証明書、日本語能力の証明書。

 書類はきれいだった。

 きれいすぎた。

 山崎はページをめくりながら、わずかな違和感を拾っていった。

 署名欄の筆圧がすべて同じ。

 雇用契約書の日本語版と母国語訳で、控除項目の表現が微妙に違う。

 受入企業の所在地は郊外の食品加工場になっているが、本人の住居からは片道三時間近い。

 そして、在留カードのコピーの端に、薄い影のようなものが写っていた。

 別のカードを重ねてコピーした時に残る、四角い輪郭。

 山崎は顔を上げた。

「本人との面談は、いつ可能ですか」

 三枝は一瞬だけ目を泳がせた。

「本人確認ですか」

「はい。山崎行政書士事務所では、在留資格の手続きでも、許認可でも、相続でも、書類だけで判断しません。本人の意思確認を大切にしています」

「もちろんです。ただ、彼は少し緊張しやすい子で」

「なおさら、本人と話します」

 三枝は口紅の端を引き上げて笑った。

「先生は、丁寧なお仕事をされるんですね」

「雑にできない仕事ですから」

 その時、山崎は気づいた。

 三枝の笑顔は、依頼者の笑顔ではない。

 何かに追われている人間が、追われていないふりをする時の笑顔だった。

     *

 青年の名前は、ファム・ディン・クアン。

 二十四歳。ベトナム出身。三年前に技能実習生として来日し、縫製工場で働いていた。実習先を離れた後、日本語学校の紹介で今回の受入先に移る、という説明だった。

 面談の日、クアンは三枝と、もう一人の男に連れられて来た。

 男は黒いジャケットを着ていた。名刺には、東亜人材サポート 城戸隆一とある。

「通訳が必要なら私が」

 城戸は椅子に座るなり言った。

「必要ありません。本人と二人で話します」

「彼は緊張すると日本語が出ません」

「では、ゆっくり聞きます」

 城戸の笑顔が消えた。

 クアンは痩せていた。頬がこけ、手の甲には細かい傷がある。爪の間には黒い汚れが残っていた。食品加工場へ移る予定の青年の手ではなく、夜の解体現場で鉄くずを拾った手だった。

 三枝と城戸が渋々退出すると、山崎は湯呑みを出した。

「クアンさん。ここでは、あなたの言葉で話してください。急がなくていいです」

 クアンは湯呑みに触れなかった。

「申請、お願いします」

「日本に残りたいですか」

「はい」

「受入先の会社で働きたいですか」

「はい」

「どんな仕事ですか」

「食品。弁当。夜勤もあります」

「契約書には日勤中心とあります」

 クアンの喉が動いた。

「たぶん、間違いです」

「住む場所は」

「会社の寮」

「書類には、今の学校寮の住所がそのまま残っています」

「あとで変わります」

 すべて、誰かに教え込まれた答えだった。

 山崎は在留カードのコピーを机に置いた。

「このカードは、いつコピーしましたか」

 クアンはそれを見た瞬間、顔色を変えた。

 カードそのものではない。

 端に写った、薄い影を見ていた。

「このままだと」

 クアンが小さくつぶやいた。

「はい?」

「このままだと、国へ帰れない」

 声はほとんど息だった。

「どういう意味ですか」

 クアンは唇を震わせた。

 その時、彼のスマートフォンが震えた。

 画面に、少女の写真が表示された。

 十代半ばの女の子。痩せた肩。怯えた目。背景には、古い木の壁と、赤土の道が見えた。

 メッセージは日本語だった。

 妹のこと、忘れるな。

 クアンは両手でスマートフォンを握りしめた。

「何でもないです。申請、お願いします。私は大丈夫です」

「妹さんですか」

 クアンはうなずいた。

「名前は」

「ハン」

「故郷にいるのですか」

「はい」

 返事が早すぎた。

 山崎は静かに言った。

「クアンさん。あなたが望まない申請なら、私は出しません」

 クアンは初めて山崎を見た。

 その目には、助けてほしいという叫びと、助けるなという恐怖が同時に浮かんでいた。

「先生」

「はい」

「正しいことをした人は、必ず助かりますか」

 山崎は答えられなかった。

 代わりに、正直に言った。

「必ずとは言えません」

 クアンは笑った。

 それは若者の笑いではなかった。

「じゃあ、嘘のほうが安全です」

     *

 山崎は受入企業を訪ねた。

 書類に記載された食品加工会社は、郊外の古い倉庫街にあった。看板は出ているが、錆びたシャッターは閉まっている。郵便受けにはチラシが詰まり、ガラス戸の内側には埃が積もっていた。

 隣の町工場の老人が言った。

「その会社? 人なんかいないよ。たまに黒い車が来て、外国の若い子を乗せたり降ろしたりするだけだ」

「工場として稼働している様子は」

「ないね。夜になると倉庫の奥で明かりが点くことはあるけど、弁当を作る匂いなんかしない。鉄と油の匂いだ」

 帰り際、山崎は白嶺国際日本語学院にも寄った。

 校舎は駅裏の雑居ビルの三階にあった。入り口には、笑顔の留学生たちの写真が貼られている。

 夢を日本でかなえる。

 そのキャッチコピーの下で、数人の若者が目を伏せて廊下を歩いていた。

 三枝が出てきた。

「先生、急に来られても困ります」

「確認したいことがあります」

「申請のことであれば、書類は揃っています」

「揃っているから気になります」

 三枝の顔が強張った。

 山崎は在留カードのコピーを出した。

「この端に、別のカードの影が写っています。何枚も重ねてコピーしましたね」

「事務作業ですから、そういうことも」

「影の部分に、名前の一部が見えます。グエン・ティ・ハン」

 三枝は黙った。

「クアンさんの妹さんですね」

「知りません」

「故郷にいるはずの妹さんの在留カードが、なぜ日本語学校のコピー機に写るのですか」

 三枝の唇から血の気が引いた。

 山崎は低く言った。

「ハンさんは、日本にいるのですね」

 三枝は廊下の奥を見た。

 そこには、城戸が立っていた。

 無言でこちらを見ていた。

     *

 その夜、山崎の事務所に非通知の電話が入った。

「深入りするな」

 男の声だった。

「誰ですか」

「外国人の人生を救った気になっても、あんたに責任は取れない。あいつらは借金して来てる。家族も納得してる。日本で稼ぎたい、国へ金を送りたい。きれいごとで止めたら、故郷で家を取られる」

「脅しですか」

「忠告だよ。クアンの妹は、可愛い子だな」

 電話は切れた。

 山崎は受話器を置いた。

 怒りよりも、胃の奥が冷えるような感覚があった。

 手続きの書類には、人生の全部は載らない。

 借金の利息。

 取り上げられたパスポート。

 故郷の家族に届く脅迫。

 眠る場所も、働く場所も、話す言葉も、笑い方さえも決められてしまう若者たち。

 在留カードは、日本で生きる資格を示す小さなプラスチックのカードだ。

 だが、そのカードの裏側に、どれだけの影が貼りついているかを、役所の窓口で見ることは難しい。

     *

 翌日、クアンが一人で事務所に来た。

 雨に濡れた髪のまま、彼は立っていた。

「先生、申請をやめないでください」

「なぜですか」

「私が困ります」

「誰に言われましたか」

「私の気持ちです」

「妹さんは日本にいますね」

 クアンの顔が壊れた。

 まるで、ずっと支えていた柱を一本抜かれたように。

「……どこで知りましたか」

「在留カードのコピーに影がありました」

 クアンは椅子に崩れ落ちた。

「ハンは、故郷にいると思っていました。動画も来た。村の家の前で、元気だと言った。でも三か月前、電話で泣いていた。後ろで、日本語が聞こえました」

「会ったことは?」

「一度だけ」

 クアンは震える声で言った。

「夜、車の中で。五分だけ。ハンは髪を切られていた。『お兄ちゃん、言うことを聞いて』と言いました。私が申請して、言われた会社に行けば、ハンも学校に入れると言われた」

「その会社は実体がありません」

「知っています」

「では、どこで働かされる予定だったのですか」

「解体。夜の工場。名前は変わります。会社も変わります。でも書類はきれいです」

「誰が仕組んでいるのですか」

「城戸さん」

「三枝さんは」

 クアンは目を伏せた。

「三枝先生は、悪い人じゃない」

「悪くない人が、人を売ることもあります」

 その言葉に、クアンは泣きそうな顔をした。

「先生、日本人はみんな同じことを言います。悪い人じゃない。仕方なかった。会社のため。学校のため。家族のため。私たちは、誰かの仕方ないの中で、いつも最後に捨てられます」

 山崎は何も言い返せなかった。

「クアンさん。私は、この申請を出せません」

 クアンは顔を上げた。

「出さなければ、ハンが」

「出せば、あなたもハンさんも、もっと深く縛られる」

「じゃあ、どうすればいいですか!」

 クアンの声が初めて荒くなった。

「警察に行けますか? 入管に話せますか? 私は失踪した技能実習生です。借金もあります。パスポートもありません。間違ったこともしました。嘘の仕事もしました。先生は、私を守れますか?」

 山崎は言った。

「完全には守れません」

 クアンの目から光が消えた。

「でも、あなたが自分の意思で話す場を作ることはできます。支援団体、通訳、関係機関。必要な人につなぎます。あなたが嘘の書類に署名する前に、できることがあります」

「話したら、私は日本に残れますか」

 山崎は沈黙した。

 クアンはそれだけで答えを理解した。

「そうですか」

 彼は笑った。

「日本に来る前、父が言いました。『日本では、まじめに働けば人間になれる』。でも私は、ずっと番号でした。実習生番号。在留カード番号。寮の部屋番号。借金の管理番号」

 クアンは自分の胸に手を当てた。

「私の名前を、誰も呼ばなかった」

「私は呼びます」

 山崎は静かに言った。

「クアンさん」

 その瞬間、青年の目から涙が落ちた。

     *

 三枝が崩れたのは、その二日後だった。

 山崎が関係機関への相談準備を進めていると、彼女が事務所に現れた。化粧は落ち、髪は乱れていた。

「私は、最初は助けるつもりだったんです」

 椅子に座るなり、三枝は言った。

「日本語学校を作った時、本当にそう思っていました。貧しい国の若い子たちに、日本語を教えて、夢を持たせる。そう言えば聞こえはいいでしょう?」

 山崎は黙っていた。

「でも、学生が来なければ学校は潰れる。紹介会社に頼る。紹介料が膨らむ。払えない学生は借金する。授業料が滞る。寮費も払えない。そこで城戸さんが言うんです。『働ける場所を紹介する』って」

「違法な就労先ですね」

「私は見ないふりをした」

 三枝は両手で顔を覆った。

「だって、見たら終わりだから。学校も、私も、あの子たちも。誰か一人を救えば、全員が沈むと思った」

「ハンさんはどこですか」

 三枝は震えた。

「知りません」

「三枝さん」

「本当に、今は知りません。でも、最初に連れてきたのは私です」

 山崎の表情が固まった。

「三か月前、ハンさんを留学生として入国させた。けれど授業には一度も出ていない。城戸さんが連れていった。私は、クアンさんを従わせるためだと分かっていました」

「なぜ今、話すのですか」

 三枝は鞄から一枚の写真を出した。

 若い女性の写真だった。三枝によく似ている。

「娘です」

「娘さん?」

「七年前、自殺しました。奨学金と、就職の失敗と、私の期待で潰れた。私は母親なのに、娘が助けてと言っていたことに気づかなかった」

 三枝の声はかすれていた。

「ハンが泣いているのを見た時、娘の顔に見えた。でも、また私は見ないふりをした。母親失格は、一度では終わらないんですね」

 山崎は写真を見つめた。

 善人と悪人の境目は、思っているほど太くない。

 人は弱さの中で一線を越え、越えたことに慣れ、やがて誰かを地獄へ送る手つきだけが上手くなる。

「城戸さんは、どこにハンさんを」

 三枝は小さな紙を差し出した。

「ここに、連れていかれた子たちがいるかもしれません」

 紙には、古いクリーニング工場の住所が書かれていた。

     *

 深夜、古い工場に明かりはなかった。

 山崎は単独で踏み込むことはしなかった。支援者を通じて関係機関に情報を渡し、通訳も手配された。山崎の仕事は捜査ではない。だが、嘘の申請を止めるために、事実を見ないふりはできなかった。

 翌朝、工場から数人の若者が保護された。

 その中に、ハンがいた。

 写真より痩せていた。

 髪は短く切られ、腕には火傷の跡があった。

 彼女は最初、誰の目も見なかった。

 クアンが駆け寄ると、ハンは一歩後ずさった。

「お兄ちゃん」

 その声は、再会の喜びではなく、恐怖だった。

「ごめん。ごめん、ハン」

 クアンは床に膝をついた。

「私、守れなかった」

 ハンは首を横に振った。

「守らなくていい」

 クアンが顔を上げた。

「私、お兄ちゃんのせいで日本に来たんじゃない。私も、村を出たかった。お金がほしかった。お母さんを楽にしたかった。だからサインした。だから、私も悪い」

「違う」

「違わない!」

 ハンの叫びが、工場の壁に跳ね返った。

「みんな、私たちを可哀想って言う。でも、私たちは欲しかった。お金も、スマホも、きれいな家も、誰かに見下されない人生も。欲しかったから騙された。欲しかったから借金した。欲しかったから嘘をついた」

 ハンは泣いていた。

「でも、だからって、こんなふうに人間じゃなくされていいわけじゃない」

 クアンは動けなかった。

 妹を守っていると思っていた。

 だが本当は、妹の苦しみを、自分の犠牲で包んで見ないふりをしていただけだった。

 その時、城戸が連行される姿が見えた。

 彼は山崎を見て笑った。

「先生、いいことをしたと思ってるんですか」

 山崎は黙っていた。

「この子たち、帰ったらどうなると思います? 借金は消えない。村では笑われる。家族は責められる。日本で失敗した人間として、一生言われる。あんたは書類を止めただけだ。人生は救えない」

「そうかもしれません」

 山崎は答えた。

「ですが、あなたが人生を握る理由にはなりません」

 城戸の笑みが歪んだ。

「偽善者が」

 山崎は何も言わなかった。

 偽善かもしれない。

 それでも、嘘の書類に判を押すよりはましだった。

     *

 数日後、山崎行政書士事務所にクアンが来た。

 支援者と通訳が同行していたが、クアンは自分の日本語で話すと言った。

「先生、私は申請しません」

「はい」

「日本に残る道も、あるかもしれないと言われました。いろいろな制度、相談、手続き。でも私は、まず証言します」

 山崎は彼を見た。

「怖くありませんか」

「怖いです」

 クアンは即答した。

「国へ帰ったら、借金があります。家族も困ります。村の人も笑うかもしれません。私の未来は、たぶん明るくないです」

「それでも?」

「はい」

 クアンは在留カードを机に置いた。

 小さなプラスチックのカード。

 そこに印字された名前、番号、期限。

 日本で生きるための証明。

 同時に、彼を縛ってきた鎖。

「私は、残るために嘘をつくのをやめます。帰ることになっても、本当のことを話します。城戸さんのこと、学校のこと、偽の会社のこと、妹のこと。私がした嘘も、全部」

「それは、自分にも不利になるかもしれません」

「はい」

「後悔するかもしれません」

「はい」

 クアンはうなずいた。

「でも、初めて自分で選びました」

 その言葉を聞いた時、山崎は胸の奥が詰まった。

 人を救うとは、未来をきれいに整えることではないのかもしれない。

 泥の中に立つ人間が、自分の足の感覚を取り戻す瞬間を、そばで見届けることなのかもしれない。

     *

 証言の日、クアンは青いシャツを着ていた。

 山崎が以前、事務所で貸した傘を返しに来た時と同じ、少し大きすぎるシャツだった。

 廊下にはハンがいた。

 兄妹はしばらく向かい合った。

 ハンが言った。

「お兄ちゃん、私も話す」

「ハンは、無理しないで」

「無理じゃない」

 ハンは小さく笑った。

「私も、番号じゃなくて名前で生きたい」

 クアンは泣きそうになりながら、妹の頭に手を置いた。

 その仕草は、遠い故郷の家の前で、幼い妹をあやしていた兄のものだった。

 だが、次に彼が歩き出した時、その背中は以前とは違っていた。

 怯えた実習生ではない。

 誰かに操られる申請人でもない。

 自分の言葉を持つ証言者だった。

 山崎は、その背中を最後まで見送った。

     *

 事件のあと、白嶺国際日本語学院は閉鎖された。

 三枝はすべてを話した。彼女が許されるかどうかは、山崎には分からなかった。彼女自身も、許されたいとは言わなかった。ただ一度だけ、山崎行政書士事務所に手紙を送ってきた。

 あの子たちの名前を、私はやっと覚えました。 遅すぎました。 でも、もう忘れません。

 城戸の背後には、さらに大きな人材ブローカーの網があった。偽装雇用、借金契約、寮費名目の搾取、家族への脅迫。すべてが一度に消えるわけではない。

 クアンとハンの未来も、簡単には明るくならなかった。

 帰国するのか、日本で別の形の保護や手続きを模索するのか。答えはすぐには出ない。山崎にできることは限られていた。必要な書類を整え、相談先へつなぎ、嘘ではない選択肢を一つずつ示すことだけだった。

 それでも、ある夕方、クアンから事務所に小さな封筒が届いた。

 中には、折り畳まれた紙と、古い在留カードのコピーが入っていた。

 コピーの端には、あの薄い影が残っている。

 妹のカードの影。

 彼の恐怖の影。

 そして、山崎が見逃さなかった、たった一つの手掛かり。

 手紙には、片仮名と漢字の混じった字でこう書かれていた。

 山崎先生。 私はまだ、どこで生きるか分かりません。 でも、誰の言葉で生きるかは決めました。 私の言葉で生きます。 ありがとうございました。

 山崎はその手紙を、在留資格申請の資料棚ではなく、机の一番上の引き出しにしまった。

 許可が下りた案件だけが、仕事の成果ではない。

 申請しないことで、守られる人生もある。

 山崎行政書士事務所の看板は、その日も駅前の雑居ビルの三階で、静かに灯っていた。

 その灯りは大きくない。

 だが、誰かが嘘の書類に人生を閉じ込められそうになった時、そこへ逃げ込めるだけの明るさはあった。

 
 
 

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