地域間の対立と協力〜 清水市・江尻町・入江町が一つになるまで 〜
- 山崎行政書士事務所
- 1月17日
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雨がしとしとと降りつづく薄暗い黄昏どき、かつての清水市役所の一室には微妙な緊張感が漂っていた。あの市町村合併の協議がいよいよ本格化しようとしている。その議論は現代に至る合併だけでなく、遠く大正時代にまでさかのぼる歴史が静かに関わっているのだ。
1. 三つの地域、その成り立ちと大正の合併議論
清水市(当時は清水町や江尻町から発展)、江尻町、入江町。この三つの地域はもともと駿河湾沿いに細長く位置し、それぞれが微妙に異なる文化や経済基盤を有していた。 大正時代、東海道本線の整備や港の拡張計画などに伴い、これら地域をひとつにまとめるか否かが初めて大きな論争となった。鉄道による物資と人の流れが加速し、“大きな自治体”として再編したほうが有利だという声が上がったのである。 しかし一方で、江尻町の宿場文化や入江町の農漁の営みは、それぞれの伝統を誇る住民たちのプライドの源(みなもと)だった。「地名や伝統を安易に変更されたら困る」との抵抗感が根強かったのも事実である。結局、この大正時代の合併議論は暗礁(あんしょう)に乗り上げ、長きにわたって棚上げされることになる。
2. 大正時代の争いと主要人物
大正半ば、清水市(当時はまだ清水町と呼ばれた時期)を代表する指導者に、信藤(しんどう)という人物がいた。地元の発展を信じ、「鉄道と港を連動させ、大きな行政体を作るべき」と情熱を持って合併を進めようとしていた。 対する江尻町では、由緒ある宿場町の名主の家柄から出た横山(よこやま)という青年が台頭し、「小さな自治体だからこそ守れる文化がある。大きな枠組みに呑まれれば、江尻の歴史ある町名が消える」と反論した。 さらに入江町のほうでは、浜辺や田畑をまとめる格好となる五十嵐(いがらし)という人物が「農漁民の暮らしを守るためには、むしろ独立を維持したい」と声を上げる。 こうして三地域の代表者たちの論争は熱を帯び、合併への機運は一時期マスコミを巻き込み盛り上がりを見せたが、最終的には名を巡る内紛や地元議会の否決などにより、あえなく流れは消沈した。
3. 歴史的対立の爪痕と協力の芽
大正期の合併論議は頓挫し、以後しばらくは互いに独自路線を保つことになる。清水町は港湾を生かして輸出入で栄え、江尻町は宿場文化を基盤に商業を発展させ、入江町は穏やかな農漁の地区として小さくとも確かな暮らしを続けた。 しかし、この時点での交渉の成果として「互いに利害を認め合う」土壌が生まれたともいえる。江尻の商店が清水港からの魚を扱い始め、入江町の米や野菜を清水の市場へ供給するなど、水面下で少しずつコラボレーションが進んでいったのだ。 この不完全な“協力とも独立ともいえない状況”が大正から昭和初期の経済変動・戦時体制に突入し、やがて戦後復興の局面を迎えるなかで新たな自治体再編へとつながっていく。
4. 戦後から昭和へ、合併再燃
戦後の高度経済成長期が始まると、清水市(時代を経て名を正式に改めた地域)は輸出入拠点としてさらなる発展を遂げる。だが、その裏では都市インフラの整備や防災対策が課題となり、小規模自治体の江尻町や入江町は財源不足に悩まされる。 ここで大正時代の合併論を思い出す者も多かった。「やはり一つにまとまるべきか」という意見が再浮上する。だが“江尻”や“入江”の名をどう扱うのか、伝統的行事や宿場文化をどう残すのか、といった懸念が再び大きく膨らんでいく。
5. 川をまたぐ衝突と、覚悟
三地域には、かつて“一本の川”が境界のように流れており、その両岸で互いをけん制する歴史があった。大正期の合併論を失敗に導いた要因の一つは、この川を超えられなかった人々の感情と言われる。 しかし戦後の世界で、インフラを統合した道路や橋が整備され、川が境界である必要性は薄れゆく。 そして昭和後期、ついに合併が最終決定された。大正時代、信藤や横山、五十嵐らが成し得なかった“大きな自治体”の誕生が実現しようとしているのだ。 住民投票や議会決議を経て、忸怩(じくじ)たる思いを抱える人も少なくない。だが、新しい時代の要請を受け入れる覚悟を決める人が増えていき、かつての衝突は徐々に解かれていく。
6. 余韻
こうして清水市・江尻町・入江町などが一つにまとまり、現代の大きな自治体へと吸収されていった歴史は、ひとつのドラマだったと言えよう。 大正期に一度失敗した合併論。それは“地域名を残すか否か”という表層を越えた、住民たちの誇りとアイデンティティの問題であった。しかし戦後の社会変動とともに、住民は自治体の垣根を乗り越えざるを得なくなる。 最終的に生まれた“新たな自治体”の看板のもとで、江尻の宿場文化や入江の農漁の営みが、名前こそ薄らいでもなお、変わらぬ形で人々の心を結びつける糸となっている。清水の港が拡張されても、昔の名残やまちの個性は人々の胸に刻まれているのだ。 ――ときに合併は強引に感じられる大きな流れだが、その裏側を照らしだせば、大正時代の激しい衝突や失敗の教訓、それを乗り越える人々の忍耐や譲り合いが確かに存在する。 まるで一本の大河が流れを変えるように、市町村合併の流れが地域を包み込む。しかし、その大河の下には、かつての名や姿を捨てることを拒みつつも、新しい形に馴染んでいく土地の誇りが、幾重にも積み重なっている。 この物語は、行政や地図の線引きを超えて、人の心がいかに地域を支えるかという問いを投げかけ続ける。そして、大正期に結ばれなかった“絆”が、次の時代で別の形で結実していく――そこにこそ、地域の真の力があるのだろう。
(了)





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