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夕刻の国旗

2025年12月22日
読了時間: 5分

 港の夕刻は、いつも「終り」の匂いを先に運んでくる。潮と油と、魚の鱗の乾いた粉とが混じった匂いが、風に押されて防波堤の上を這い、街の側へ滲み出していく。クレーンの腕は空に突き出た骨のようで、空はそれに触れられても痛がらない顔をして、ただ西の端から赤く沈みはじめていた。

 幹夫は公共施設の前で立ち止まった。港湾関係の建物らしく、灰色の壁は無口で、窓ガラスには仕事の疲れだけが薄く貼りついている。その屋上の旗竿に、国旗が掲げられていた。白地は夕陽の裏光でわずかに黄ばみ、紅い円は、沈みかけた太陽と呼応するように濃く、濃く、まるで布の上に穿たれた傷口のように見えた。

 あの紅は、血を思わせる――というのは安易だ、と幹夫は自分を戒めようとした。だが、安易であることの力を、彼はこの頃よく知っている。安易な連想ほど、脳の奥を乱暴にこじ開ける。ひとたび血を思えば、布はただの布ではなくなる。旗は色ではなく「命令」になり、風に翻るのは布の端ではなく、世界の秩序の端になる。

 風が強くなった。旗は一瞬、ぴんと張り、次の瞬間にはたわんで皺を作り、その皺の陰影が、白を白のままにしておかない。白とは、いつも汚れの可能性を孕む色だ。汚れうる白だけが、純潔を名乗ることができる。幹夫は白い布の動きに、ひどく残酷な美を見た。

 建物の入口が開き、制服姿の男が二人出てきた。彼らは必要以上に無駄のない歩幅で旗竿の根元へ行き、手袋の指でロープを確かめた。儀式が始まる、と幹夫は思った。夕刻の「降納」。一日の終りに、国家の皮膚を畳んで眠らせる作法。彼らが何かに祈っているようには見えない。祈りではなく、手続きだ。手続きは祈りより強い。祈りは個人の胸の中にしかないが、手続きは世界を動かす。

 ロープが引かれ、滑車が鳴った。旗はゆっくり降りてくる。あの紅い円が、空から地上へ引きずり下ろされる速度は、妙に慎ましく、妙に官能的だった。天から降りる神が、最後に一度だけ自分の神性を確かめるような速度である。

 幹夫の喉が乾いた。彼は、なぜこの光景にこれほど惹かれるのかを、知りたくもあり、知りたくもなかった。

 旗は地上に触れる直前で止められた。男たちは布を汚さぬように手を添え、白地の角を揃え、紅い円を折り畳みの中へ消していく。紅が消える。紅が消えるということは、血が消えるということだ。血が消えるということは、死の可能性が一旦封じられるということだ。封じられる――その言葉が、幹夫には逆に誘惑として響いた。

 もし、と思う。

 もし自分が、ある日どこかで「死」を選ぶなら――その死が、個人の弱さや癇癪としてではなく、何か高い象徴として受け取られるなら。もし自分の肉体が、新聞の隅の事故記事のように擦り切れて消えるのではなく、旗に包まれて一度だけ美しく整列するなら。棺の上に白がかぶせられ、紅が胸のあたりで沈黙し、弔列の歩幅が揃い、誰かの号令で一斉に頭が下がるなら。

 その想像は、恐ろしく甘い。甘さは、危険の匂いを隠す香料だ。

 幹夫は自分の身体を意識した。鍛えた拳、浮き上がる腱、首筋の脈。これらは本来、何かを「決断」するために存在しているはずだ。だが現代の身体は、決断の代りに管理を与えられている。殴る相手のない拳は、どこへ行ってよいか分からない。差し出すべき首は、観光の角度でしか差し出されない。そこへ旗が現れる。旗は、行き先を与える顔をしている。生の空虚を、死の意味で満たしてくれる顔をしている。

 国家という巨大な象徴の中へ、個人の死が昇華される――その幻想が、幹夫の胸の中で一度だけ、完璧な結晶のように輝いた。

 しかし同時に、彼はその結晶の冷たさを知っていた。昇華とは、美しい言葉だが、要するに「消失」である。個が消えて、象徴だけが残る。残るのは旗であって、死んだ者ではない。死んだ者は、象徴の材料にされるだけで、象徴の持主にはなれない。しかも象徴は、しばしば自分の材料を喰い足りない顔をする。美しい旗ほど、次の血を欲しがる。

 幹夫は、自分がいま抱いた甘美が、勇気ではなく逃避であることを悟った。個として生きることの不安、矛盾、醜さ、それらを引き受ける代りに「国家」を借りて一挙に清められたい――そんな倒錯した欲望が、英雄の衣装を着て目の前に立っているのだ。

 彼はそれを危ういと知りながら、なお、その危うさに美を見てしまう自分を嫌悪した。危ういものは美しい。美しいものは人を動かす。動かされたとき、倫理は遅れてやって来て、いつも手遅れになる。

 男たちは旗を丁寧に折り終え、箱のようなケースに収めた。紅い円は最後まで外へ出てこなかった。国家の心臓は、白い折り目の奥へ隠されてしまった。屋上には旗のない旗竿だけが残り、夕風に突き立つ細い線が、妙に無防備に見えた。剣のない鞘のように。魂の抜けた姿勢のように。

 幹夫はその空虚を見て、ほっとし、同時に空虚に突き刺される思いがした。象徴が畳まれたあとに残るのは、個人の鼓動だけである。鼓動は国家にならない。鼓動はただ鼓動だ。だがその「ただ」の中に、逃げ場のない現実がある。

 彼はポケットの中で拳を握った。拳は何も掴まない。掴まないからこそ、自由に何にでも化ける。美にも、醜にも、正義にも、犯罪にも。

 幹夫は夕暮れの港を背にして歩き出した。空にはもう紅が薄く、風は相変らず潮の匂いを運んでいる。彼の目の奥には、翻る白と紅の残像が残り、それがいつか、別の形で彼の内部に侵入してくることを、彼は知っていた。知っているのに、追い払えない――そのこと自体が、国家と個の関係の縮図のように思えた。

 
 
 

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