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外商のインセンティブ




序章──デパート外商が動くとき

 十二月初旬。都心の老舗デパート「丸園(まるぞの)」では、年に一度の外商イベントを控え、社内がざわついていた。 このイベントは、百年以上の歴史を持つ「丸園」の威信をかけ、VIP顧客たちを一堂に集める特別企画。芸能人を招いたトークショーや海外ブランドの新作お披露目、さらには限定オーダー会など、多彩なコンテンツを用意し、ひと晩で億単位の売上を狙う。 そこには、外商部のエースたちが血眼になって駆け回る理由がある。――売上上位の営業には、国内トップクラスのリゾートホテル宿泊や海外研修の特典が与えられるのだ。俗に言う、インセンティブレース。 この夜の大舞台で、誰がどれだけ稼ぎ、そしてどんな報酬を手にするのか。外商部員たちの感情は熱気を帯び、絡み合っていた。

第一章──若き“ハゲタカ”の野望

 外商部の新鋭・**甲斐沼(かいぬま)**は、入社五年目にして異例の躍進を遂げている若手営業マンだった。高額商品を的確に顧客へ勧める手腕は、まるで金融商品を扱うトレーダーのよう。 生家は地方の零細商店で、幼い頃から「モノを売る」という行為が生活の一部だった。その経験から身につけた洞察力と行動力は、デパート外商というフィールドで存分に力を発揮する。 今期のインセンティブ争いでも、甲斐沼は堂々1位につけていた。しかしライバルは多い。特に中堅の実力者・**森島(もりしま)**は、VIP客の信頼を得る“誠実営業”で長年にわたりトップ争いをしてきた男だ。 甲斐沼はあくまでクールを装いつつも、喉から手が出るほど「今回のインセンティブ」を取りたいと願っていた。なぜならその報酬は、欧州の超一流百貨店への視察権。 「海外の百貨店の現場を見られるなら……俺はもっと上へ行ける」 強い眼差しでPC画面の受注リストを見つめる彼に、森島が声をかける。 「調子がいいみたいだな、甲斐沼」 「おかげさまで。森島さんはどうですか?」 森島は穏やかな笑みを浮かべ、淡々と答えた。 「まだ逆転のチャンスはあるさ。イベント当日で大口を決めるのが、ここ“丸園”の外商の腕の見せ所だからな」

第二章──顧客という未知の投資先

 外商が扱う顧客はさまざまだ。大手企業のオーナーや、一代で財を成した実業家、歴史ある華族の流れをくむ一族……。どれも一筋縄ではいかない。 甲斐沼がアプローチしていたのは、ITベンチャーを創業したばかりながら、既に時価総額数百億円を誇る企業の社長、矢部(やべ)。三十代半ばにして億単位の資産を持つ“新興成金”は、いわゆる老舗デパートの常連客層とは一線を画す。 矢部は無類のブランド好きでありつつ、飽きやすい性格でもあった。コレクションするだけして、翌月には別のものに興味を移すこともしばしば。甲斐沼はそんな矢部の購買意欲が「一気に沸騰する瞬間」を狙っていた。 「矢部さん、今回のイベントで特別お披露目するスイスの時計ブランドは、ご存知でしたか? 創業以来、ロイヤルファミリーから強い支持を受けていて……」 都内のタワーマンション最上階、まるでラウンジのように整然とした部屋で、甲斐沼はパンフレットを開きながら矢部に語りかける。 「興味あるね。で、値段はいくらくらい?」 「今回輸入された限定品は五千万円ほどです。世界で十本しか作られていません」 矢部の目が輝いた。 「いいね。ちょうど誰も持ってない時計が欲しかったんだよ。イベント当日までに在庫を押さえておいてくれ」 甲斐沼は確信する。これだけで一挙に数千万円の売上。現状トップの自分が、このまま大幅リードを守り切れるかもしれない。 「承知しました。矢部さんのお好みに合わせて、もう一つ面白い提案がありますので、当日までに資料を用意しておきます」 「へえ。楽しみにしてるよ」

 甲斐沼は一礼して部屋を出ると、唇の端をわずかに上げた。――勝利の感触をかみしめるかのように。

第三章──底知れぬ“信用”の世界

 一方、森島は長年の顧客である財前(ざいぜん)に会うために、高台に立つ洋館へ向かった。財前は伝統工芸品や美術品に造詣が深く、また政治や経済界に強いパイプを持つ大物だ。 その応接室で、森島は静かに提案を口にする。 「財前様、今年のイベントでは特別に京都の老舗呉服屋と協力し、雛人形の原型にもなったとされる江戸時代の姫人形を展示いたします。非常に珍しい品で、実は我が社で買い取りのお声がかかっておりまして……」 財前は銀縁眼鏡の奥で目を細める。 「なぜ私にその話を? 美術館に収めるという選択肢もあるだろうに」 「おっしゃる通りです。しかし、この人形には“作者不詳”という経緯があります。興味のある方の手元で引き継がれ、大切にされる方がふさわしいと考えまして。……財前様ほど、文化の価値を理解される方はいないかと」 「ふむ……」 財前は数秒の沈黙を置いたのち、ほう、と小さく息を吐く。 「森島君。君は私を“財布”として見ていないか?」 森島はピクリと眉を動かすが、すぐに冷静を取り戻す。 「いえ、決してそんなつもりは。私は財前様がどのような美術史的価値に重きを置かれるか、日頃から拝見してきました。このお人形も、きっと財前様の眼鏡にかなうものと確信しております」 財前は苦笑しながらも、「まあ、君がそこまで言うなら一度見てみよう」と応じた。 森島の手がかりとなるのは、顧客との深い関係性と信用。一見地味な商材でも、愛好家にとってはかけがえのない逸品になる。それがこの世界の奥深さだった。 ――ゴールはただの「購入」ではない。外商と顧客の間に存在する“信頼”こそが価値なのだ、と森島は再認識する。

第四章──カネ、コネ、そしてプライド

 イベント当日まで残り三日。外商部全体がざわつきを増す中、甲斐沼の耳にある噂が飛び込んできた。 「森島さん、財前家から一億円近い美術品の注文をもらうらしい」 甲斐沼は一瞬、呼吸が止まる感覚を覚える。矢部社長との時計取引も相当な額だが、“一億”という数字にはなかなか届かない。 (まさか、森島さんがこれほどの金額を動かすとは……) 一方、森島も甲斐沼が矢部社長の大口注文を押さえたことを知っていた。 (やはり甲斐沼は侮れない。だが、当日になってどう転がるかは分からない。それがこの商いの面白さだ)

 外商イベントの前日は、VIP顧客向けに会場を一部プレオープンする習慣がある。事前に内覧させることで、商品への関心を高め、本番での購入を後押しする狙いがある。 そこで森島は、財前をそっと案内し、人形だけでなく他の美術品や骨董を見せた。順調に検討を進める財前。 だが、財前がひとつのケースの前で立ち止まり、小さく眉をひそめた。 「あの絵は……?」 「ええ、戦前の画家が描いたとされる油彩です。来歴が少々曖昧でして、オークションには出回らない珍品です」 「うむ、悪くない。だが、やはり絵画に興味を惹かれる客も多いだろう」 森島は財前の表情を見つめ、その微妙な変化を読み取ろうとする。 「お気に召しましたか?」 財前は言葉を選ぶようにしばらく黙る。そして、口角をわずかに上げながら答えた。 「まあ、もう少し考えるとしよう。私はあくまで当初の人形が気になっている。明日、正式に見極めさせてもらう」

第五章──運命のイベント開幕

 翌夕刻。華やかな照明とオーケストラの生演奏が流れる中、VIP顧客たちが続々と会場へ足を運んでいた。特設ステージでは芸能人ゲストのトークショーが華々しく始まり、会場の熱気は高まる。 甲斐沼は矢部の到着を待つ。ところが、予定時刻を過ぎても姿を現さない。 (まさか“ドタキャン”じゃないだろうな……?) 苛立ちを隠せないまま、スマートフォンに何度も連絡を入れるが、矢部は応答しない。一方、森島は落ち着いた様子で財前の到着を出迎えようとしていた。 ちょうどその時、大きな拍手とともに会場の入口がやや騒がしくなる。 「矢部社長がいらっしゃいました!」 スタッフの声を聞き、甲斐沼は胸をなでおろした。が、矢部の隣には、同じくIT業界の新興ベンチャー社長らしい人物が数名ついている。 「甲斐沼くん、遅れて悪かったな。ちょっと仲間内で会食をしていて。ところで、せっかくだからみんなに“派手な買い物”を体験させたいんだよ。俺が今夜のおごりにしてやるから、いろいろ案内してくれ」 矢部はそう言い放ち、取り巻きたちは歓声を上げる。 (つまり、時計だけでなく他の高額商品もまとめ買いする可能性がある……!) 甲斐沼は胸の高鳴りを抑え、笑顔で案内を始めた。

第六章──交錯する思惑

 同じタイミングで、財前が到着した。タキシード姿の森島が迎える。 「お待ちしておりました。先日ご覧いただいた人形を、改めてチェックいただきましょう」 森島は財前を専用の応接スペースへと誘導する。そこには厳重にガラスケースに納められた姫人形が鎮座していた。金襴の衣装と繊細な彩色が見事に照明に映える。 財前は何度か角度を変えて見た後、小さく頷く。 「確かに素晴らしい逸品だ。だが、先日の絵画も含めて両方となるとかなりの金額になるだろう?」 「そうですね。合計で一億二千万円ほどに……」 「なるほど」 財前は静かに微笑んだ。気軽に払える金額ではないが、財前の資力を考えれば十分可能ではある。しかし、わずかな逡巡が森島には感じ取れた。 「森島君。私が両方を手に入れると、他の顧客の目にはどう映ると思う?」 森島は一瞬、言葉を探す。「財前様がそれだけ文化への造詣を――」と返しかけたが、財前は手を制す。 「いや、これは私の一存では決められない問題だ。ここに集まる客の目線、そして丸園というデパートの立場。私は世間に対して“見せる買い物”も意識せねばならん。……しばし時間をくれ」

第七章──苛立ちと予感

 一方、甲斐沼は矢部と取り巻きたちを宝飾コーナーへ連れて行った。目を輝かせる若き経営者たち。「こんなダイヤ初めて見た」「派手だな、でも欲しい!」と口々に言う。 矢部は次々と高額商品を指さし、「全部買おう」と言う勢いだ。 (これはとんでもない売上になる……!) 顔には出さないが、甲斐沼は胸の奥で歓喜を叫んでいた。ただ一方で、矢部の取り巻きの中に奇妙な空気が漂っているのも気になる。 一人の男が小声で矢部に耳打ちしている。どうやら「最近業績が落ちているのに、こんなに買って大丈夫か」という趣旨の進言をしているらしい。矢部の会社は上場を目指し、資金調達の真っ最中という噂もある。 だが、矢部はその男を一蹴するように手を払う。 「細かいこと言うなよ。俺にとってははした金だ」 まるで豪遊を誇示したいかのような態度。甲斐沼は少しだけ嫌な予感を覚えながらも、「金を出す客は正義」だと割り切る。 (今は余計なことを考えてる場合じゃない。確実に締めるんだ)

第八章──決着のとき

 夜も更け、イベントは佳境を迎える。甲斐沼は矢部の注文書を作成しながら、心臓が高鳴るのを感じていた。 「確定金額は……八千五百万円。これに時計の五千万円を合わせたら、一億三千五百万円です」 矢部は満足そうにサインを入れ、周囲の拍手喝采を浴びる。 (これだけの金額ならば、森島さんにも負けはしない) 甲斐沼は確信した。この瞬間、欧州への視察権は自分のものになった――。

 一方、森島は財前と最後のやりとりを終え、静かに頭を下げる。人形と絵画、合わせて一億二千万円。財前は支払い方法や輸送手配を確認しながらも、最後にこう告げた。 「森島君。今回ばかりはかなり大きな買い物だ。君の熱意に応えよう。だが、これはただの消費ではなく、文化を守る行為だということを忘れないでほしい」 「承知しております。私どもも誇りをもってお手伝いさせていただきます」 森島は厳かな面持ちで礼を尽くし、財前もゆっくりと応接室を後にした。

第九章──華やかな後ろ側で

 イベント終了後。店内が片付けられ始めても、外商部のスタッフたちは売上集計に追われていた。 大半の社員が疲れと安堵でソファにへたり込む中、甲斐沼は達成感を胸に大きく息を吐く。隣の席で、森島も静かに端末の数字を見つめていた。 「お互い、大口を取れましたね」 甲斐沼が声をかけると、森島は穏やかな目を向ける。 「結果を待つのみ、だな。今回は君に軍配が上がるかもしれない」 甲斐沼は無言でうなずきつつ、わずかな優越感を覚える。

 そこへ部長が集計結果を携えて駆け寄る。 「やあ、よく頑張った。特に甲斐沼、お前の数字はすごいぞ……だが、ちょっと問題が出た」 「問題?」 甲斐沼の胸に不安が走る。 「矢部社長の会社だが、融資トラブルで銀行口座を差し押さえられるという噂が。クレジット決済が承認されない可能性があるそうだ」 「……まさか……」 甲斐沼の頭から血の気が引く。もし支払いができないとなれば、“売上”は虚数に終わる。インセンティブどころか、会社としての信用にも関わる。 一方、森島の財前案件に問題はない。財前は財閥系の強固な資産を持つ人物で、支払いについての不安要素は皆無だ。 「本部長がすぐに矢部さんと連絡を取ると言っている。どうなるか分からんが……もしダメだったら売上から除外だ。金が入らない取引を成立とは言わんからな」 部長の言葉が重く響く。

第十章──“リアル”な帰結

 数日後。甲斐沼は心ここにあらずのままデスクに向かっていた。矢部との契約は案の定、保留となり、売上は大幅に下方修正。欧州視察権の座は、森島のものとなった。 「人生、甘くはないか……」 唇を噛みしめる甲斐沼に、森島が静かに声をかける。 「お疲れさん。残念だったな。でも、今回の件で君は大きな教訓を得たはずだ。顧客の“カネの流れ”を見るのも外商の仕事。俺たちはモノだけを売ってるんじゃない。信用という土台を扱っているんだ」 「……わかりました。次こそは、もっと確かな取引を成立させます」 悔しさをにじませながらも、甲斐沼は森島の言葉を正面から受け止める。

 その日の夕方、外商部を出る森島は、携帯電話を耳にあてていた。財前から新たな依頼がきたのだろうか。 「ああ、はい。来週お伺いします。ええ、ご安心を……」 短い会話の中にも、確固たる信頼関係がにじみ出る。 一方、甲斐沼はまだデスクに残り、翌月の営業計画を練っていた。彼は敗北感と共に、新たな闘志を燃やしている。 (インセンティブを逃した。だが、それだけだ。俺はまだここで終わるわけじゃない。今度こそ信用と結果を両立してみせる)

 そして、年に一度の外商イベントは、そうして“勝者”と“敗者”を分かち、同時に次なる挑戦へのスタートラインを刻むのだった。 華やかな照明とバイオリンの音色の裏には、駆け引きとリスク、そしてプライドが渦巻いている。これが、デパート外商インセンティブ・バトルのリアルな姿なのかもしれない。

 
 
 

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