外商の掟 ―VIPルームの微笑―
- 山崎行政書士事務所
- 7月6日
- 読了時間: 39分

序章「静かなる顧客」
1
その朝、東京・銀座四丁目交差点には、春の陽が斜めに差し込んでいた。
高層ビルのガラスに太陽が反射し、老舗百貨店「光陽百貨店」の正面玄関には、開店を待つ顧客の列が静かに伸びていた。シャネルやブルガリを掲げた巨大フラッグが風に揺れる中、その列の先頭には、黒いロングコートを纏った男が一人、無言で立っていた。
年齢は五十代後半。髪は短く整えられ、靴には土ひとつ付いていない。だが、その男の名は、名札も制服も身に着けることなく、百貨店の全フロアマネージャーが頭を下げて記憶していた。
日下部 隆造(くさかべ りゅうぞう)日下部総業グループ会長、推定資産150億円。財界の中でも“目立たぬ王”と呼ばれる存在だった。
しかし、この男が百貨店の表玄関から入ってくるのは、極めて異例だった。
2
一方、同時刻。光陽百貨店の7階「外商部・迎賓室」では、三人の女性が朝礼を終えていた。
「本日午前十時、日下部会長がご来店予定です。例の新作時計の入荷を確認済み、ラウンジAに配置済み。担当は玲子さんでお願いします。」
その声を発したのは、外商部アシスタント・長谷部である。だが、その視線は、正面に立つ女性に自然と吸い寄せられていた。
七瀬 玲子(ななせ れいこ)、34歳。光陽百貨店 外商部チーフ。元はANAの国際線CA。今では外商売上年間トップを維持する「顔」となっていた。
彼女の姿には、一種の静謐なオーラがあった。黒のタイトスーツに、露出を抑えた深紅のインナー。化粧は淡いが、目元には確信の力が宿る。
「了解しました。日下部様の好みは今月からブルガリ寄りに変わっています。香水はナイルブルーで統一。スタッフは最小限で。」
玲子は端的に言ったあと、後方の一人を見やった。
「……あかねさん、今日は見学じゃなく実務に入ってもらうわ。」
指名された女性が、小さく反応した。
「はい……!」
一ノ瀬 あかね(いちのせ あかね)、23歳。新卒でこの世界に飛び込んだ、希望と緊張のかたまり。地方大学出身。両親が営む呉服屋が廃業し、学費の奨学金を抱えたまま、背伸びして選んだ「舞台」だった。
3
午前九時五十七分。迎賓室に入ってきたのは、あの男だった。
玲子はほんのわずかに息を止め、あかねに目配せを送った。「いってらっしゃい」ではなく、「出番よ」とでも言うように。
――それは、デパートの最上階にだけ存在する「静かな戦争」の始まりだった。
4
「お久しぶりでございます、日下部様。今朝は表からお入りでしたね?」
玲子が微笑みながら声をかける。
「いや、たまにはな。下界の空気も吸わねば、鼻が鈍る。」
そう言って、ソファに座った日下部は、背中を深く預けた。その仕草のすべてが、選ばれた者のそれだった。
玲子がそっと目配せする。あかねが、茶器を持って進み出る。震える指先を抑えるように、湯を注ぎ、膝を折って差し出す。
「……どうぞ、お口に合うか分かりませんが。」
日下部は受け取ると、茶には一口も触れず、ただあかねの顔を見て言った。
「名前は?」
「い、一ノ瀬あかねと申します。」
「良い名前だ。もう売ったか?」
「……いえ、まだです。」
「じゃあ、今日売ってみろ。君の“顔”で。」
あかねは一瞬、時が止まったように見えたが、すぐに背筋を正した。
「承知いたしました。」
玲子は後ろで静かに頷いた。顧客は“商品”を買うのではない――“顔”と“誠意”を買うのだ。
5
同時刻、百貨店本部では、営業部長の**槙野 亮(まきの りょう)**が、不機嫌な顔で報告書をめくっていた。
「またか……また外商部だけが利益を独占している。」
槙野は、旧来型の営業組織の象徴だった。自ら動かず、部下に押し付け、成果だけを手柄とする男。だがその槙野の目には、七瀬玲子の存在が脅威でしかなかった。
「……外商部はもはや“百貨店”ではない。彼女らは“別の商売”をしている。」
その言葉は、遠くから玲子たちの背中に、鈍く重い陰を落としていた。
6
一方、迎賓室の空気は、まるで舞台だった。
高級時計・ブルガリの限定品を手にしたあかねが、震える手でディスプレイ台に置く。
「……こちらが、本日ご覧いただける最後の一点でございます。」
日下部は手を伸ばす。時計ではなく、あかねの手の震えに。
「――恐れるな。」
その言葉は、静かな檄だった。
玲子が心の中でつぶやいた。
(今、この空間には、金と人間の境界がある。彼女がそれを越えられるか、それだけだ。)
日下部は時計を眺め、やがて言った。
「これ、いただこう。」
あかねの目に、涙が滲んだ。
だが玲子は、あえて笑顔を見せなかった。
それは「プロになった証」だった。
第1章「招かれざる者」
1
東京・恵比寿の坂道を、ひとりの若い女性が、夜明け前に歩いていた。
黒いウールのスーツ、手には薄い書類鞄。コートの中には名札がしまわれている。風は冷たかったが、彼女の頬は火照っていた。緊張の熱である。
一ノ瀬あかね、23歳。今日から、光陽百貨店の「外商部」に正式配属される。
同期のほとんどが化粧品売場や食品部に回る中、なぜ自分が選ばれたのか、あかねにはいまだに実感が湧いていなかった。
人事課長から言われた言葉が頭に残る。
「……一ノ瀬さん。あなたは“表情”で得をする人です。商売の現場に、それは大きな力なんですよ。」
表情――。
自分のどこに、そんなものがあるというのか。だが、事実として今日から自分は「選ばれた」のである。問題は、何のために、誰の都合で。
2
光陽百貨店――
百貨店という言葉は、もはや一種の幻想だ。現実の売上はECに押され、フロアは閑散としている。しかし「外商部」だけは、例外だった。
売場を持たず、広告も打たず、ひたすら限られた顧客に“接待”と“献上”を繰り返す。1日1人の客と、数百万円の売買が成立する。それが、「外商」という名の仮面舞踏会だった。
7階・迎賓室。
そこには、他の売場とは別格の空気が流れている。暖かく香る紅茶の香り、控えめなクラシック、呼吸さえ計算された接客。
ドアを開けたあかねの前に立っていたのは、ひとりの女性だった。
七瀬玲子(34)――外商部のチーフ。
「ようこそ、外商部へ。」
玲子は一礼し、すぐに背を向けた。
「ここでは、言葉の多さは軽さとみなされます。今日から、あなたも“売る側”の人間よ。」
3
オリエンテーションはなかった。研修もなければ、マニュアルもない。代わりに渡されたのは、1枚のカードだった。
「――これは、日下部様のスケジュールカード。住所・年齢・好きなブランド・着用香水・ご家族の名前・趣味・健康状態まで、すべて書いてあるわ。」
「……これって、個人情報では?」
「外商は“信頼”と“記憶”で成り立っている。信頼されなければ情報は得られず、記憶できなければ売上にはならない。」
その日の午後、あかねは百貨店の応接室で、あるVIP顧客の“返品”対応に同行した。
80代の資産家女性。3ヶ月前に購入した800万円のダイヤのネックレスを「もう気が変わった」と返しにきた。
受付では「返品はお断りしております」と言った係員が、迎賓室から玲子が出てくると一瞬で態度を変えた。
「この度は誠に申し訳ございません。ご希望の新作ジュエリーをご案内いたします。」
嘘とおもてなしは、紙一重だった。
4
その夜。玲子がタクシーに乗る姿を、あかねはエントランスで偶然見かけた。
「……あの、七瀬さん!」
玲子は後部座席から顔を出した。
「どうしたの?」
「あの、今日……私、役に立てていたでしょうか……?」
玲子は一瞬だけ黙ったあと、微笑んだ。
「“価値”は、こちらが決めることじゃない。顧客が、あなたを選んだときに初めて生まれるのよ。」
「でも、怖いです。お客様の言葉に、正解が分からなくて……」
玲子は扉に手をかけながら、こう言った。
「“正解”を探す限り、あなたは永遠に売れない。“覚悟”を見せたとき、相手は財布を開くわ。」
あかねは、まだ理解できなかった。だがその夜、自宅のノートにこう書き留めた。
《私は、“売れる人間”になりたいのか、それとも、“選ばれる人間”になりたいのか――》
5
三日後。あかねに、初めての指名が入った。
顧客の名は、新島 佳乃(にいじま よしの)、47歳。
高級スキンケアブランド「ナヴァロ」の年間契約顧客。都内で5つの美容クリニックを経営する“ミセス起業家”である。
予約時間、午後二時。迎賓室には佳乃が現れた。
黒のワンピースに、濃い目の口紅。見るからに「勝ち組」の香りをまとう女性。
「あなたが、新人さん? ふふ、緊張してる顔ね。」
あかねは頭を下げる。
「はい……精一杯、対応させていただきます。」
佳乃は微笑みながら言った。
「じゃあ、あなたにひとつだけ、質問させて?」
「どうぞ。」
「――あなたがこの百貨店の社長なら、どんな商品を私に売る?」
あかねは一瞬、言葉に詰まった。
が、玲子の言葉が蘇った。
“正解を探すな。覚悟を見せろ。”
「……私なら、“この時間”をお売りします。」
「……ほう?」
「私たちがいる空間、そして佳乃様の時間が、商品です。商品は、それを完成させる“素材”にすぎません。」
沈黙。
だが、次の瞬間、佳乃は静かに拍手をした。
「いいわ。じゃあ、時計とバッグを合わせて見せてくれる?」
――その日、あかねは初めての契約を取った。合計435万円。玲子はその報告を聞き、何も言わずにメモ帳に記録した。
だがそのペン先は、わずかに震えていた。
(あの子は“売った”。なら、次は――“選ばれる番”ね)
第2章「微笑の奥」
1.“指名”という名の戦場
外商部における最も重要な言葉、それは「指名」である。
顧客が来店予約を入れた際、どの担当者を「指名」するかによって、インセンティブ率も、実績ランキングも、ひいては“生存”そのものが決まる。
百貨店内で売上が年間1億円を超える外商部員はごく一部――だが、そのほとんどが“指名”から成り立っていた。
そして、その指名が――時として“賄賂”によって決まることを、新人・一ノ瀬あかねはまだ知らなかった。
2.澤村茉莉という女
「お疲れさま。いい笑顔だったわね、あの新島佳乃様との応対。」
その声に、あかねは立ち止まった。
廊下の突き当たり。書類を抱えたまま微笑むその女性は、澤村茉莉(28)。
外商部歴6年、玲子に次ぐ売上実績。だが、その営業スタイルは極端であり、時に倫理の線を越えていた。
「ありがと……ございます。」
「緊張しなくていいのよ。私も、新人の頃はお客様の前で泣いたものよ。」
その笑顔は柔らかかった。が、あかねの背に冷たいものが走った。“微笑”が、あまりに計算されていたからだ。
「……ところで。」
茉莉はポケットから、封筒を取り出した。
「これ、次のイベントご招待状。あの佳乃様、今度の“桜の夜会”にもいらっしゃるから、あなたから渡してくれる?」
封筒は漆黒で、金の箔押しがされていた。
「……これ、私が?」
「そうよ。せっかく“売った”のだから、“繋げる”のもあなたの役目。」
“売った”だけでは生き残れない。“囲い込む”こと。それが、茉莉のスタイルだった。
3.指名の正体
同日午後、外商部内では非公式の会議が開かれていた。名目上は「ブランド別対応方針の調整会」――だが、実態は「指名客の奪い合い」だった。
玲子は一歩引いた席に座っていた。その視線の先では、茉莉が静かに“提案”していた。
「今期、ブルガリのVIP指定枠を3件増やせます。ただ、担当は“顧客希望”があれば優先するとのブランド側意向です。」
「茉莉さん、それ……具体的に“誰”を希望してるの?」
「それは……現場の判断にお任せしたいわ。」
誰もが知っていた。
“顧客希望”という名の推薦には、“袖の下”が動く。
ブランド担当者への贈答品、接待、時には裏での“成功報酬”。それらが渦巻く「闇のインセンティブ市場」が、この百貨店の地下に潜んでいた。
玲子は、黙って議事録を閉じた。
(……また、始まったわね)
4.玲子の記憶
夜。玲子はひとり、デパートの外階段で煙草を吸っていた。
灰皿のそばに、スーツ姿の影が立った。
「……変わってないな、君。」
その声に、玲子は一瞬だけ動きを止めた。
「……吉見結花。」
現れたのは、税理士・吉見結花(42)。玲子の大学時代の親友であり、かつて光陽百貨店の“裏帳簿”を仕組んだ張本人でもあった。
「どう? まだ“あのファイル”使ってる?」
「あれは捨てた。」
「……ほんとに?」
玲子は煙を吐きながら答えた。
「“裏の数字”を使えば、数字は上がる。でも、誰かが“表”を汚す。私はもう、その代償を払いたくない。」
「理想論ね。あの子――あかねちゃんだった? 彼女がもし、数字に苦しみ始めたら。あなた、それでも“正道”だけで守れる?」
玲子は何も言わなかった。
結花は笑った。
「じゃあ言わせて。――“正しさ”だけでは、人は救えない。“汚れ”を知った上で、それでも尚、微笑める奴だけが“現場の神”になるのよ。」
その言葉は、玲子の中に、かつての“記憶”を呼び起こしていた。
5.数字の矛盾
次の週、外商部内で月例の「ランキング」が掲示された。
1位 澤村茉莉 ¥21,660,0002位 七瀬玲子 ¥20,800,0003位 小山田 ¥12,300,0007位 一ノ瀬あかね ¥4,250,000(※新人では異例)
ざわめきが走った。
だが、玲子は掲示板を見ずに、顧客ファイルを整理していた。
「抜かれましたね。」
そう話しかけたのは、事務担当の長谷部だった。
「……あの数字、帳尻が合わないんです。返品率、客単価。全て逆計算しても、あの数値にならない。」
玲子はファイルを閉じ、言った。
「“合わない”と思ったら、もうアウトよ。“合ってるように見せてる”のが、彼女のやり方。」
「告発しますか?」
「しない。私たちは、まだ“見抜ける側”でいるだけでいい。」
玲子の目は鋭かった。彼女は、澤村茉莉が「裏から買い取った指名枠」の数字操作を、すでに見破っていたのだ。
だが、それでも黙っていた。
外商部は――“真実”を語る場所ではなかった。
6.微笑の奥
その夜、あかねは迎賓室の鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。
化粧が少し濃くなった。声が少し低くなった。口角の角度が、微笑を形作るようになった。
それは、“なりたくなかった誰か”に近づくことだった。
そのとき、玲子が後ろから言った。
「その笑顔、どこで覚えたの?」
「……見よう見まねです。」
「やめなさい。“誰かの微笑”をなぞると、必ず壊れる。」
「でも、“売れたい”んです。」
玲子は少しだけ考えたあと、言った。
「売れる人は、“売ろうとしない”。相手の心に、売りたいという気持ちが自然に生まれるのを、ただ待つだけ。」
「……それじゃ、遅い。」
玲子はうなずいた。
「遅くていい。“正しく遅い売上”が、最後に会社を救う。」
あかねは黙っていた。
その静寂の中、二人の“距離”だけが、少しだけ縮まった。
第3章「贈与の真実」
1.「また来るよ」
土曜日の午後――光陽百貨店・迎賓室には、久しぶりに“重たい空気”が流れていた。
「……また来るよ。」
日下部隆造が、グレージャケットを羽織りながら呟いた。その声は、あえて周囲に聞かせるような含みを持っていた。
玲子は首を下げる。
「いつでもお待ちしております。新作のアリゲーターレザー、次回には揃います。」
あかねはソファの奥で、緊張を押し殺しながらお茶の後片付けをしていた。だが、彼女の目は日下部の指先にあった。
――茶托の裏。白い封筒が、一枚だけ、逆さに置かれていた。
誰も何も言わなかった。それが「贈与の儀式」であることを、あかねは直感で理解していた。
2.税抜きで1,800万円
その日、外商部の売上記録には、時計1点・バッグ3点・アート小品1点、計5品目が記載された。
合計:¥18,260,000(税込)※税抜:¥16,600,000※現金決済。領収書分割3枚。
「おかしいです。」
帳簿を確認していた長谷部が、玲子にささやいた。
「アート小品、原価割れしています。通常ならこの仕入れではセットに入りません。」
玲子はファイルを閉じた。
「“セット”じゃないのよ。“運び代”なの。」
「……裏金用ですか?」
「断定はしない。でも、これは“モノに化けたカネ”ね。」
3.贈与税の抜け道
夜。玲子は、銀座の一角にある個室ダイニングで、ある人物と会っていた。
吉見結花――税理士。かつて玲子と組んで、“非課税贈与”を合法的に捌いていた“影の女”。
「……あのアート小品。作家は架空ね。」
「やっぱり。」
「どこから回ってきた?」
「横浜の画廊。“贈答用アート”専門。」
玲子はため息をつく。
「相変わらず、法の穴は広いのね。」
「税法は“道”よ。まっすぐも曲がるも、歩き方次第。でも、玲子――あなた、本当にこれ、止めたいと思ってるの?」
玲子は黙って、グラスの赤ワインを見つめた。
「止めたい。でも、“私だけ”が止めたら、誰かが潰れる。」
「日下部のカネは、どこに流れてるの?」
「内閣官房参与。名前は伏せるけど、毎年同じ“文化支援寄付”のルート。」
「つまり、洗浄された政治献金。」
玲子は頷いた。
「私たちは、モノを売ってるフリをして、ルートを通してるのよ。」
4.あかね、疑念を抱く
翌週、あかねは「偶然を装って」、返品処理済みの台帳を確認していた。
――そこに、あのアート小品の返品処理が、既に“入力済”になっていた。
「……まだ10日も経ってないのに?」
返品のルールは14日以内・未使用・本人持参。だが、その作品は既に倉庫に戻り、次の“顧客”への配達待ちになっていた。
「……リース化されてる……?」
あかねは震えた。つまり、高額商品を“循環させて”、実体のない「売上」を作り、その中で「封筒」が移動している――
顧客は“現物”など最初から求めていない。求めていたのは、「経路」だったのだ。
5.玲子の迷い
玲子は夜のオフィスで、管理画面を見つめていた。
目の前には、今月の売上1億2千万。そのうち、約4割が「政治関連顧客」によるもの。
「……やってられないわね。」
玲子は、過去に一度だけ、“通報寸前”までいったことがある。
だが、そのときに上層部から言われたのは一言だった。
「あなたは“売れすぎている”。潰したいなら、まず自分の成績をゼロにしてから言って。」
以来、玲子は“売れながら耐える”という最も困難な道を選んできた。
(でも、もう限界かもしれない)
そのとき、ドアをノックする音がした。
「あの……失礼します。」
――あかねだった。
6.告白と葛藤
「……玲子さん。」
「なに?」
「私、あのアート作品、返品処理がされているのを見てしまいました。日下部様の“セット”が、どうやら……」
玲子は目を伏せた。
「それ以上は、聞かないほうがいい。」
「でも、私――知ってしまったんです。“売上”って、“嘘”なんじゃないかって。」
玲子は立ち上がった。
「嘘じゃない。これは、“真実の仮装”よ。」
「仮装……?」
「本当に必要なのは、“信じる顔”で売ること。その仮面を、私たちは外せないの。」
あかねの目に、涙が浮かんだ。
「私は、何のために働いてるんですか……?」
玲子はゆっくりと答えた。
「あなたは、あなた自身の“真実”を守るために、ここにいるのよ。」
7.そして「封筒」が燃えた
数日後。日下部からの次回予約が入り、VIPラウンジの準備が整った。
だが、その席には――玲子の姿はなかった。
代理で応対したのは、澤村茉莉。
応接が終わったあと、あかねは控室で、机の上に置かれた1通の封筒を見つけた。
白無地。手書きの「玲子様へ」。
――開けた瞬間、そこには現金ではなく、薄い紙が一枚。
「この道が嘘でも、あなたの微笑は、本物だった。」
あかねは、その封筒を持って、廊下の非常階段に出た。
そして、ライターを取り出した。
――炎が、静かに封筒を焼いた。
夜の風が、焦げた灰を吹き飛ばした。
第4章「指名と嫉妬」
1.月曜朝の違和感
週明け月曜、光陽百貨店7階――
迎賓室の空気は、ほんの少し、張り詰めていた。スタッフの間で交わされる挨拶もどこかぎこちなく、コピー機の音が妙に響く。
「……おかしいわね、今日は玲子さんが見当たらない。」
あかねは、出勤したばかりの長谷部に声をかけられ、慌てて応えた。
「えっと……昨日の時点では、特に何も……」
だが、受付カレンダーには、玲子の名がすべて「―」で消されていた。
代わりに、澤村茉莉の名が“赤”で書き込まれている。ブルガリ、ロレックス、ベルルッティ、そして――日下部隆造。
「……指名変更?」
あかねは心の奥で、何かが“裏返った”ような感覚を覚えた。
2.そのとき、上司は笑った
「ちょっといいかしら?」
澤村茉莉が、あかねを控室に呼んだ。
そこは普段、玲子が休憩する場所だった。今は机の上が綺麗に整理され、壁際には新しいポプリの香りが漂っている。
「玲子さん、どうしたんですか?」
「休暇よ。ちょっと疲れたみたい。」
その口ぶりに、何の感情も宿っていなかった。むしろ“意図的な無感情”――冷たさすら演出されていた。
茉莉は続けた。
「で、あなた。今日の午後、日下部様にご挨拶してもらうわ。付き添いとして。」
「私が……?」
「そう。あなた、玲子さんに気に入られてたでしょ? でも今後は、私が“間”に入るわ。誤解のないように言っておくけど――玲子さんのような“正しさ”では、この場所は守れないの。」
その笑顔は、圧倒的だった。まるで、勝者が敗者を見下ろすように。
あかねは、小さく頭を下げた。だが、腹の奥に冷たい氷が広がっていた。
3.データの裏を読む者
その晩。営業部長・槙野亮は、茉莉からの「営業報告書」を読みながら、口元をほころばせていた。
「……さすがだな。玲子と違って、君は“従順”だ。」
「従順というより、合理的なだけです。玲子さんのやり方は、“正義の顔をした遅延行為”でしたから。」
「で、例の件。VIPプロモーション枠の“補填”は?」
「予定どおり、ブルガリとフェラガモ側に処理済み。指名料の按分も報告通りに。」
槙野は頷いた。本部とブランド、外商部の一部営業は、“指名料”という裏制度でつながっている。
たとえば、ブランドのノルマ達成を支援する代わりに、営業側には“指名成約インセンティブ”が現金または裏経費で支払われる。
玲子はこの構造を知りながら、手を出さなかった。だが、茉莉は“割り切った”。
(玲子、お前は美しかったが、時代遅れだった――)
槙野はそう考えていた。
4.玲子、戻らず
3日が経っても、玲子は現場に戻らなかった。
電話にも出ず、メールは未読のまま。誰も何も言わなかったが、部内には空洞が生まれていた。
その空洞を、茉莉が自信と効率で埋めていく。
顧客の連絡には3秒以内に返信。返品処理は“事前返品”で即対応。売上データは即時入力し、ランキング上位を維持。スタッフの“愚痴”にも丁寧に対応する――だが、あかねは気づいていた。
「すべてが“演技”だ……」
その演技は、見事すぎた。茉莉は“好かれるために好かれ”、そして“選ばれるために指名される”。
しかし、どこかに“人間”がいなかった。
5.ある夜、玲子からの封筒
金曜の夜、あかねのロッカーに、白い封筒が差し込まれていた。
差出人の名前はない。だが、中の手紙を見た瞬間、それが玲子からのものだと分かった。
「あなたは、“顔”で売ったのではなく、“揺らぎ”を売った。澤村さんは“正解”を売る人。あなたは、まだ“問い”を持っている人。どちらが長く顧客に信頼されるか、それは“時”が決める。どうか、自分で“答え”を決めないで。 ――七瀬 玲子」
あかねは、目頭が熱くなるのを感じながら、ロッカーをそっと閉じた。
6.公開処刑
月末会議――全館売上ランキングの発表日。
光陽百貨店では、社内報告とは別に、館内ディスプレイでも“外商部ランキング”が表示される日だ。
画面には、堂々とこう出ていた。
第1位 澤村茉莉 ¥32,840,000第2位 小山田 ¥20,100,000第3位 一ノ瀬あかね ¥14,500,000第5位 七瀬玲子 (欠勤)¥0
その画面の前で、数名の社員が囁いた。
「玲子さん、もう戻らないのかな……」「なんか、切ないわね……」「澤村さんは完璧だけど、何か“違う”のよね」
あかねは、画面を背にしながら思った。
――玲子さんは、“数字”じゃないものを残していった。
数字は積み上がる。だが、信用は“染み込む”。あの微笑は、確かに自分の中に“染み込んで”いた。
第5章「消された伝票」
1.税務署は“春”にやってくる
4月。世間が新生活や入学式の華やかさに包まれるころ――外商部には、“もうひとつの春”がやってきていた。
税務調査通知書。
それは、静かに、しかしたしかに、迎賓室の裏口から差し込まれる。
「光陽百貨店 外商営業部門に対し、過去3年間にわたる売上及び棚卸資産、返品、割引処理に関する調査を実施する――」
担当は、東京国税局・特別査察部門第5課。俗に「マルサ」と呼ばれる、最も“本気の調査”だった。
2.指名料の矛盾
「澤村さん。こちらの返品記録、3月15日に処理済みとありますが、実際の物品はまだ倉庫にあるようです。」
「それは……お客様のご都合で、取り置き状態に――」
「返品とは、“所有権の返還”を前提に記録されるべきです。物が倉庫にあるのに、返還処理が済んでいるというのは、“仮装返品”とみなされかねません。」
税務調査官の言葉は、柔らかいが切れ味があった。
茉莉は内心、冷や汗をかいていた。
「……担当ブランドとの委託契約が複雑でして。」
「では、契約書を提出してください。」
「はい……(まずい)」
返品操作によって「月次売上」は一時的に膨らむ。その後、数か月後に返品処理すれば、「帳簿上は成立」する。
だが、マルサは“時系列”を見抜く。そのカラクリに、茉莉は今、追い詰められ始めていた。
3.玲子の“置き土産”
調査の3日前。営業部長・槙野亮のもとに、1通の内部告発メールが届いていた。
差出人:不明件名:「第3帳簿」の存在について
添付されたPDFには、外商部の売上記録と微妙に数値の異なる「裏伝票」が記録されていた。
そこには、「返品前売上」「返品後補填」「セット再流通」などの注釈付き。しかも日付、伝票番号、顧客名、倉庫番号――すべて一致していた。
槙野は顔をしかめた。
「……誰が、こんなものを……」
だが、気づいていた。この帳簿を作れるのは一人しかいない――七瀬玲子。
(やつは、すべてを分かったうえで、“残して”いった)
玲子の静かな逆襲が始まっていた。
4.あかね、調査対象に
調査2日目。あかねが呼び出された。
「すみません。こちら、“新島佳乃様”の一連の購入記録について、説明をお願いできますか?」
「はい……こちらは、バッグ2点と時計1点のセット購入です。私が担当いたしました。」
「その時計、同月内に“他の顧客”にも販売されていませんか?」
「……え?」
帳簿を見ると、同じ商品コードの時計が、わずか1週間後に“別顧客”へ販売済みと記録されていた。
つまり、1本の時計が、2回“売れた”ことになっている――。
あかねは震えながら言った。
「私……この記録、知りませんでした……!」
調査官はうなずいた。
「あなたが直接関与したとは考えていません。ただし、これらの“二重伝票”は、“上の指示”がないとできない仕組みです。」
あかねの手から、ボールペンが落ちた。
5.外商部会議室の沈黙
翌日、急遽開かれた「営業調整会議」。
部長・槙野、澤村茉莉、長谷部、そして本社コンプライアンス室長が顔をそろえた。
「……現時点で、仮装返品・二重伝票・架空顧客による循環取引が、13件確認されています。」
「澤村さん、あなたはこの件に関して、何か……?」
「……私は、現場での処理が正当であったと信じております。ですが、もし私の確認不足があったなら……すべての責任を……」
「その前に。」
声を発したのは、コンプラ室長だった。
「七瀬玲子さんが、昨年8月から“社外独自に帳簿監査”を行っていた記録が確認されました。彼女は、最終的にこの証拠を弊局に提出するつもりだったようです。」
「なんですって……?」
「この“記録”は、査察と民間調査会社との二重保管で、すでに提出済みです。あなたの処分は、すでに“外”の判断に委ねられています。」
茉莉は、言葉を失った。
6.消された伝票の山
調査最終日。地下倉庫にて――税務署が確認したのは、廃棄寸前だった大量の伝票群だった。
焼却予約が入っていたが、玲子の匿名通報によって“保管指示”が出されていた。
その中に、“記憶されていなかった売上”が埋まっていた。金額にして、およそ1億5,000万円。
全てが、「再販売」「仮返品」「架空顧客」由来だった。
それは、光陽百貨店が長年にわたり積み上げてきた“外商の虚構”の、地層だった。
7.玲子、復帰の報せ
数日後、館内に静かに通達が出た。
七瀬玲子、営業再任・特命顧問として復帰コンシューマー倫理部門責任者 兼任
外商部に衝撃が走った。
茉莉は、退職勧告を受けたが、最終的に「自己都合退職」での処理に落ち着いた。槙野部長も“配置転換”という名の左遷で、系列の静岡支店へ。
迎賓室は再び、玲子の“手”に戻った。
8.あかねの選択
玲子の復帰初日。
「……おかえりなさい。」
あかねがそう言うと、玲子は笑った。
「“行ってきます”も言ってないのに、“おかえり”は変ね。」
「ずっと、待ってたからです。」
玲子はふと、カウンターの上に置かれた時計を手に取った。
「これ、日下部様が置いていったわ。」
「売らずに、置いて……?」
「“戻す場所がある”ってこと。誰かが“壊す”だけでなく、“残す”ことを決めてくれた。」
「誰が?」
玲子は、あかねを見て言った。
「――あなたよ。」
第6章「顔で売れ」
1.“指名”なき営業
七瀬玲子が“特命顧問”として外商部に復帰してから、迎賓室の空気は静かに変わり始めていた。
玲子は「売る」よりも、「守る」を優先しはじめた。取引先との関係も見直し、裏帳簿や非公式な割引制度の排除を進めた。
結果、売上は一時的に落ち込んだ。だが、帳簿は明瞭になり、返品率も激減した。
そんななか、あかねには明確な変化が訪れていた。彼女は、**“指名なき接客”**で売上を積み始めていた。
つまり――「誰が担当でもいいけど、あの子が良い」と言われるようになっていたのだ。
2.ブランド側の“本音”
「最近、売上が伸び悩んでいるわね。光陽百貨店さん。」
そう口にしたのは、イタリア高級バッグブランド“DALMERI”の日本支社営業統括、白川だった。
玲子とあかねは、青山のカフェで、白川と面談をしていた。
「一時的な調整です。“返し”や“帳尻”をやめましたので。」
白川は苦笑いを浮かべる。
「正義感は嫌いじゃない。でも、我々は“売上”がほしいんです。“顔”では帳簿は動かない。」
玲子がゆっくりと言った。
「“顔”で売れたときこそ、そのブランドは生き残ります。お客様は、バッグではなく“物語”を買っている。」
白川は鼻で笑った。
「物語? そんなもの、もうAmazonで終わったよ。」
だが、あかねは黙っていなかった。
「でも、“わざわざ足を運ぶ時間”に、お金を払う方がいます。その方に、“この場所に来てよかった”と思ってもらえるかが、私たちの“本当の価値”です。」
白川はそのとき初めて、彼女をじっと見た。
「君……名前は?」
「あかねと申します。」
「“指名する価値がある顔”だ。」
玲子は、ふっと目を伏せた。あかねが“顔で売れる人間”に、なりはじめていた。
3.試される誠実
その週末、VIP顧客・奥泉隆志(製薬会社オーナー)から、あかね宛に来店予約が入った。
だが、来店予定時間の2時間前、ブランドから電話が入った。
「すみません……その商品、在庫ゼロです。今日お見せできるのは、サンプルのみとなります。」
玲子は一瞬考え、言った。
「あかね、今日“売らない”勇気、ある?」
「……はい。」
午後、迎賓室。
奥泉はふだんよりもピリピリしていた。メガネの奥で目を細めながら、あかねを睨む。
「で? 商品は?」
「申し訳ございません。本日、お届けできる状態の品がございません。私の準備不足です。」
「……君、わざと遅らせたんじゃないだろうな?」
「いえ、決してそのようなことは……ただ、“不誠実な売り方”はしたくなかった。それだけです。」
沈黙。
だが次の瞬間、奥泉は笑った。
「誠実な顔ってのは、“断るとき”に出るもんだな。いいよ、来週もう一回来る。」
あかねは、深く頭を下げた。
4.玲子の研修
4月末、玲子は“営業研修”を実施した。テーマは――「売らない営業」。
「いい? “売るための言葉”は、すぐに腐るの。でも、“売らない理由”に納得してもらえたら、お客様は帰ってくる。」
社員は戸惑った。
「じゃあ、どうやって実績出せば……」
「それは、“売らないこと”を続けた人にしか、分からない。」
あかねが、静かに挙手した。
「私……“売らなかったことで、指名された”ことがあります。」
会場がざわつく。
玲子は言った。
「そう、それが“顔で売る”ということ。」
「顔って……見た目のことじゃないんですか?」
「違う。“その人が、その場にいて、正直に話した”という痕跡。それが、“顔”よ。」
5.日下部、再登場
ゴールデンウィーク明け――日下部隆造が、再び予約もなく、迎賓室に現れた。
「今日は買い物じゃない。」
「……では、何を?」
「“顔を見に来た”。それだけだ。」
日下部は、あかねをじっと見つめた。
「君、前より強くなったな。微笑みに“痛み”が入ってきた。」
「……私、まだ答えを持てていません。」
「答えを持たずに立ってる奴は、信用できる。」
彼はそう言い残し、何も買わずに帰っていった。
それを見届けた玲子は、少しだけ笑った。
「売れなかったけど、今日が一番売れた日ね。」
6.売らない勇気、売れる誇り
その週、あかねはブランドサイドの推薦で「若手営業大賞」にノミネートされた。
だが、彼女は受賞を辞退した。
「私はまだ、売っていません。“売る”とは、“その人の人生の中で、長く残るものを渡すこと”だと思っているから。」
報道は取り上げなかったが、外商部内ではその話が静かに伝わった。
“あかねは、売らないことで信用を積んでいる”
7.玲子のひとこと
夜。玲子は、あかねに一冊のノートを渡した。
「なにこれ……?」
「私が新卒の頃から書いてた“売らなかった記録”。売った記録じゃなくて、売らなかった理由ばかり。」
あかねはページを開いた。
《2006年9月15日:顧客が離婚調停中。エンゲージリングの提案を中止。沈黙で寄り添う》
《2010年3月:バッグを買いに来た老夫婦。主人の医療費を理由に、何も買わずに帰ってもらう。》
《2021年11月:外国人顧客に無理な在庫押し付け案。反対して退ける。クレームになるが、結果的に感謝された。》
あかねの手が止まった。
「……全部、“売らなかった栄光”ですね。」
玲子は言った。
「売った栄光なんて、請求書に書けばいい。でも、“売らなかった誇り”は、ここにしか残らない。」
第7章「経営会議」
1.通達は突然に
6月のある水曜朝。光陽百貨店の全館営業部門に、突然の通達が届いた。
「外商部門の今後の在り方について、経営会議にて審議予定。売上構造の見直しおよび、販促部との統合を視野に入れた再編案を検討。」
あかねがそのメールを見たとき、背筋が凍った。
(……外商部門を“たたむ”ということ?)
迎賓室の静寂が、一瞬で重たくなった。ソファに座るアテンダントたちも、誰ひとり口を開こうとしなかった。
玲子は、そのメールを見ても動じなかった。淡々とカップに紅茶を注ぎ、一言だけ言った。
「……来たわね。」
2.数字ではなく、存在が問われる
会議の議題は明確だった。
「外商部門は、リスクが高い上に、業績への貢献が見えづらい。廃止または、売場との“合併吸収”によって簡素化を図るべきではないか――」
経営戦略室室長・**桐島卓司(45)**は、まるで仕分け人のように外商部を切り捨てにかかった。
「この部門は“顔”で物を売る、という非論理的な手法に依存しており、組織再編とデジタル販売戦略に逆行している。」
玲子は、営業顧問の立場として、初めて会議に出席していた。
「桐島さん。“顔”が非論理的だと仰るのなら、御社が長年かけて積み上げた“信頼”は、どこから来たとお考えですか?」
「……それは“サービス品質”の結果です。」
「違います。“個”の記憶です。顧客が名前ではなく、誰と話したかを覚えている限り、この迎賓室は、商品ではなく“関係”を売る空間なんです。」
一瞬、場が静まり返った。
3.デジタルでは測れない価値
会議では次々と、「コスト削減」「効率化」「EC転換」の言葉が飛び交った。
そのたびに、あかねは胸を締めつけられた。
だが、玲子は静かに話し出した。
「私たちは、ECでは買えない時間を売っています。『家族が亡くなった』『離婚した』『再婚した』『子どもが進学した』そんな顧客の“節目”に、一人の担当が“寄り添う”ために存在してきた。」
桐島は笑った。
「だが、それは“物語”でしょう。経営は物語では動きません。」
玲子は、用意していたファイルを出した。
「では、“数字”を出しましょう。これは、私たちが返品率を20%から2%に下げた記録です。その方法は、過剰提案の撤廃と、個人履歴に基づく提案戦略です。すべて、顔と関係で得た“データ”です。」
桐島はファイルを黙って見つめた。
4.あかねの一言
そのとき――会議室の端にいたあかねが、静かに立ち上がった。
「ひとつだけ、私からお話させてください。」
一瞬、空気が動いた。
「私が初めて売れたのは、“売らなかった日”でした。商品がなかったのに、誠実に“ありません”と伝えたことで、お客様は次の週も来てくれました。それが、私の“最初の指名”でした。」
「今の私は、ECでは代替できません。この百貨店が、数字でしか判断されない場所になれば、“売られたくない人”は、もうここに来なくなると思います。」
桐島は唇を結んだ。
「……それは“感情論”です。」
玲子が言った。
「違います。“信用”は感情から始まり、“数字”に変わるのです。」
5.救いの一声
会議の終盤。会長職にある創業家の老婦人――**遠山絹子(78)**が口を開いた。
彼女はかつての外商第一世代であり、玲子の“教育係”でもあった。
「私は、売られるのが嫌いだった。でも、“この子たち”と話す時間だけは、いつも心地よかった。」
「百貨店の価値は、“モノ”じゃない。“誰から買ったか”という記憶よ。」
「……この迎賓室は、“買うことに疲れた金持ち”が、唯一、心を休める場所なの。」
その言葉に、場の空気が変わった。
桐島は、それ以上反論しなかった。
6.議決結果
その日、経営会議での最終決定はこうだった。
・外商部の廃止案は否決。・代わりに、「顧客パートナー部門」として新設、従来の迎賓室を“リレーション・ルーム”として継続使用。・七瀬玲子は、初代「顧客関係最高責任者(CCRO)」に就任。・外商データを活用したCRMシステムの設計にも携わる。・一ノ瀬あかねは、最年少営業エグゼクティブとして正式任用。
迎賓室は、“売る部屋”から“信じさせる部屋”へと名を変え、残された。
7.変わらぬ日常
ある日、あかねが新人に言った。
「……お客様に何か言われたら、正解を探すより、“誠実に黙る”方がいい時もあるわよ。」
新人は戸惑いながらも、うなずいた。
ラウンジの壁には、新しいプレートが掲げられていた。
RE: ROOMRelationship Executive Room――信頼が、顔を持つ場所。
玲子はそのプレートを見ながら言った。
「名前が変わっても、やることは同じよ。“顔で売る”。それだけ。」
第8章「落札と破綻」
(長編 約1万字・全文)
1.帝国ホテルの夜
6月某日。東京・帝国ホテルのバンケットルームでは、年に一度の**「プライベート・アートオークション」**が行われていた。
国内外の資産家・政財界人・著名人・美術商が集まり、公開されない“密室価格”で、現代アート・宝飾品・限定時計などが競り落とされる場。
今年は光陽百貨店が「ホスト協賛」として関わり、あかねと数名の若手が、ブランド側から“指名接客”として同行していた。
「VIPルームの微笑は、ここでも通じるかしら?」
そう言ったのは、七瀬玲子だった。彼女もCCRO(顧客関係最高責任者)として参加していたが、今夜は“観察者”に徹すると決めていた。
2.現れた競売屋
19時10分。最初の大物来訪者が現れた。
伏見 一誠(ふしみ・いっせい)、48歳。国際競売会社「VORRE JAPAN」代表取締役。元ヘッジファンド運用者であり、現在は都内の高級資産家クラブを取り仕切る謎多き男。
黒いスーツに、ブランドのロゴが一切見えない。ただ、その所作と目の動きが、「値札に従わない者」であることを物語っていた。
伏見は、最前列に座ると、あかねを見て言った。
「あなた、“売らない顔”の人だね。」
「……え?」
「いい目をしてる。今日は“売られる側”じゃなく、“試される側”だよ?」
その言葉が、何を意味するのか――あかねはまだ知らなかった。
3.一つ目の落札
競売が始まり、最初に出品されたのは、日本人陶芸家による現代オブジェ作品。市場価値は500万円と予想されていたが――
伏見は、開口一番で言った。
「3,800万。」
会場がどよめいた。
「冗談か?」「何者だ……」
司会者も戸惑いながら、形式的な“再確認”を行ったが、他に応札者は現れず、作品はそのまま落札された。
その瞬間、玲子が小さく呟いた。
「……これは、“見せ金”だ。」
4.伏見の狙い
あかねは、伏見の控室へ“案内役”として招かれた。
「先ほどは、驚きました。」
「驚いた? いやいや、まだ驚くには早い。」
伏見は、グラスに注がれたウイスキーを揺らしながら言った。
「光陽百貨店は、“物語”で売る。それは素晴らしい。でも、“物語”が経済を超えると、誰かが困るんだよ。」
「……何の話ですか?」
「このオークション、来年から“VORRE”が主催を持っていく予定だ。つまり、君たちの“迎賓室”は、この種のイベントから外れる。」
「それは……決定事項ですか?」
「いや。まだ“交渉中”。でも、玲子さんはもう知ってるはずだ。」
その言葉の裏にある“脅し”に、あかねは戦慄した。
5.玲子の沈黙
その夜遅く。ホテルの廊下にて――
「伏見さんに会ったのね。」
玲子があかねに声をかけた。
「……はい。“来年からはあなたたちの席がなくなる”って。」
玲子は微笑んだ。
「それが、彼の“やり方”。権威と関係の間に“経済”を差し込む。」
「止められないんですか?」
「経済は止められない。でも、“関係”は守れる。」
玲子は、バッグから名刺を取り出した。
「明日、1人の人物に会いなさい。“この構造”を知る人よ。」
6.訪れた旧邸
翌日。あかねは世田谷の閑静な住宅街にある、かつての茶道家元の邸宅を訪れていた。
迎えてくれたのは、和服を着た70代の女性。
宗田 芙美(そうだ・ふみ)、元文化財団理事。
「伏見君とは、10年前までは“同じ方向”を見ていたの。でも、今は違う。彼は“売ること”が目的になってしまった。私たちは、“遺すこと”が目的だったのに。」
「……“遺す”?」
「そう。人が何かを買うとき、それは“物”じゃない。“未来の記憶”を買っているのよ。百貨店は、それを受け止める場所だったはず。」
あかねは頷いた。
「私、その“記憶”のような接客を、迎賓室で学びました。」
「では、あなたは――それを“外”に持ち出しなさい。」
7.伏見の破綻
1週間後。国税庁が、VORRE JAPANへの“利益隠しと海外送金不正”を理由に、家宅捜索を行ったという報道が入った。
伏見の一連の「高額落札」は、自己資金ではなく、“迂回献金の装飾”である可能性が浮上していた。
光陽百貨店は、その直前に協賛契約の見直しを表明していた。タイミングは、玲子が伏見に渡した“1通の書面”の翌日だったという。
8.そして迎賓室へ
翌週、迎賓室では平常どおりの営業が続いていた。
応接ソファには、かつてあかねが売らなかった“アート小品”を買った老婦人が座っていた。
「ねえ、あの子は?」
「はい。今、すぐお呼びします。」
玲子は、その顧客が“記憶を買いにきた”のだと理解していた。
ドアが開く。あかねが深く一礼する。
「お待たせしました。」
迎賓室は、商品も、価格も、競売も超えた“関係”で再び繋がっていた。
第9章「黒革の手帳」
1.その手帳は偶然に
7月のある雨の日。あかねは、迎賓室裏の収納庫で書類の整理をしていた。棚の最上段。備品リストにない薄い黒革の手帳が、ホコリをかぶって置かれていた。
開いて、すぐに息を呑んだ。
そこには、“実名”と“価格”のリストが並び、脇に赤ペンでこう記されていた。
「推薦インセンティブ:未申告」「返品時“価値保全枠”適用」「政治向けブロック:ルートB」「信頼値:◎、△、×」
あかねは、その手帳が玲子の字で書かれていると気づいた。
(これは……)
百貨店全体の“顧客取引の実態”が、まるで“カルテ”のように整理されていた。
2.「それ、読んだわね?」
その夜。迎賓室に戻ると、玲子がソファに座っていた。
「……読んだわね?」
あかねは、何も言えず、ただ手帳を返した。
玲子は受け取ると、膝に置き、しばらく何も言わなかった。
「……あれは、“忘れるため”に書いたの。」
「……記録じゃないんですか?」
「“見逃したことを、自分で忘れないように”記すもの。あの手帳は、私にとって“責任の墓場”だった。」
3.◎の意味
「“信頼値”って何ですか?」
玲子は微笑んだ。
「それは、“その人に真実を伝えられるか”の指標よ。◎は、“何があってもついてきてくれる人”△は、“物で判断する人”×は、“価格しか見ない人”」
「じゃあ……私は?」
玲子は、迷わず言った。
「――まだ、空白。でも、それが一番難しい。」
4.構造の壁
翌週。あかねは研修資料作成のために、コンプライアンス室の記録管理ログにアクセスしていた。
すると、“一部の顧客名がブラックリスト化されている”事実を知る。
・B-CLASS 顧客:推薦指名不可・過去に政治資金との関連指摘・過剰リベート要求履歴あり
「……これって、“売ってはいけない人”のリスト……?」
彼らは表では“最上位客”であり、迎賓室で最も多くの購入履歴を持つ。だが、裏では“信用不能”と判定されていた。
(私たちは、“見せかけの信頼”のために、ずっと取引していたのか――)
あかねは、震えた。
5.玲子の告白
その晩、あかねは玲子を問い詰めた。
「私たちは……“売ってはいけない人”に、“売ってきた”んですね?」
玲子は頷いた。
「でも、“誰かが売る”。だったら、“誠実に売る”人間が必要だった。」
「正義じゃない。責任だったのよ。」
「私は、“売る資格のある人間”でありたかった。」
あかねは、泣きそうになった。
「私は、いつか“空白”に名前を入れてほしい。◎じゃなくてもいい。“売るに値する”と、あなたに思われたい。」
玲子は、はじめて少しだけ泣いた。
6.黒革の手帳の“継承”
数日後。玲子は、あかねに“もう一冊”の黒革手帳を渡した。
「これは、あなただけの“記録”にして。」
中は空白だった。だが、表紙の内側にこう書かれていた。
「売った責任は、相手が忘れたあとに始まる。」――七瀬玲子
あかねは、ページを開いて、そっと書いた。
《7月3日。日下部様の再来店。購入なし。でも、“信頼値”は、たしかに上がったと感じた。》
7.名簿ではなく、記憶で
あかねはその後も、“記録”より“記憶”を信じて接客を続けた。
誰が何を買ったか、ではなく――「何を言わずに帰ったか」を記憶した。
迎賓室は、伝票の上では静かだった。だが、“記憶”は豊かに積もり続けていた。
それが、玲子が遺した“文化”であり、あかねが継いだ“構造の超越”だった。
最終章(第10章)「VIPルームの微笑」
1.夏の迎賓室
8月上旬。光陽百貨店の迎賓室は、いつもより少し静かだった。
照明は落ち着いた色に調整され、カサブランカの花が涼やかに香っている。
その中央に立つのは、あかね。今や、若手ながら“常指名率トップ”となり、誰もが一目置く存在になっていた。
彼女の前には、ひとりの若い新人が立っていた。
「……よろしくお願いします、今日から研修でお世話になります!」
あかねは微笑んで頷いた。
「“売ろう”としないで。“覚えて”ください。お客様が何を買ったかじゃなく、何を“黙っていたか”を。」
2.玲子、退任
CCRO(顧客関係最高責任者)を務めていた七瀬玲子は、この8月末での“退任”を決めていた。
理由は、“次の世代へ譲るため”。
記者会見などは行われず、社内だけに静かに伝えられた。あかねは、どうしても最後に言葉をもらいたくて、休憩時間に迎賓室奥の控室へ向かった。
「……玲子さん。退任、されるんですか?」
「ええ。“役割”を降りるだけよ。」
「……何か、伝えていただけませんか? 私に。」
玲子は、しばらくあかねを見つめたあと、静かに言った。
「“売ること”は、誰にでもできる。でも、“残ること”は、誰にでもできない。」
「あなたはもう、残れる人になった。だから、もう私はいらないの。」
3.最後の“売れない接客”
退任当日、玲子に最後の“指名”が入った。
それは、10年前に1度だけ来店し、以来一切連絡を絶ったはずの顧客――唐澤敬三(からさわ・けいぞう)、元政治家。
当時、外商部に政治的圧力をかけていた男であり、玲子が“売るのを拒んだ”数少ない人物だった。
「まさか、あなたが対応してくれるとは。」
「“売らない”のが私の仕事でしたから。」
唐澤は苦笑した。
「今日はね、何も買いに来たわけじゃない。“売らなかった相手”の顔を、今の自分で見直したかった。」
玲子は紅茶を差し出しただけで、何も言わなかった。
沈黙の10分間。唐澤は深く頭を下げて、帰っていった。
4.“あの椅子”に座る
夕方。迎賓室の一番奥、革張りの接客椅子。
それは、七瀬玲子が“最後に指名されたときだけ”使っていた席だった。
その椅子に、あかねがはじめて座る日が来た。
「……少しだけ、緊張します。」
新人がそう呟いた。
あかねは笑った。
「私も、昔この椅子の前に立ってた。“何をしたら売れるか”じゃなくて、“どうしたら傷つけないか”を、ずっと考えてた。」
「今も、答えは出てないですけどね。」
5.VIPルームの微笑
9月最初の週末。
迎賓室に、80代の女性客が訪れた。名前は伏せられたが、顔つきからして文化人だと分かった。
予約はしていなかったが、あかねは手帳を見ずに対応した。
「お久しぶりです。……お花、お好きでしたよね?」
「あら。よく覚えてくれたわね。」
「椿の香りがお似合いだったのを、私、忘れられませんでした。」
老婦人は小さく頷いた。
「今日は何も買わないわ。ただ、“顔を見に来た”の。」
あかねはゆっくりと微笑んだ。
「――それが、いちばん嬉しいご来店です。」
その瞬間、迎賓室は音を立てずに祝福していた。
“物語”は、また新たな章を迎えていた。
6.玲子の去り際
玲子はその翌週、百貨店を離れた。送別会もなく、挨拶も最小限。ただ一通、あかねにだけ手紙を残していた。
あかねへ 売上より、記憶を大事にしなさい。間違えてもいい。ただし、黙るな。 微笑は、武器じゃない。“約束”よ。 あなたは、もう“迎賓室そのもの”になった。 七瀬玲子
最後のページ
迎賓室のカウンターに、小さな黒革の手帳が置かれている。表紙には、手書きでこう記されている。
【VIP ROOM LOG:記憶のノート】記録ではなく、理由を書くこと。誰が来たかより、“なぜ来たか”を忘れないこと。
あかねは今日も、誰かの“沈黙”を迎える。売らない日にも、接客は続く。
百貨店の最奥――商品でも、サービスでもない“関係”が売られている空間。そこには、今日も静かに微笑む一人の外商担当がいた。
完
番外編「色気営業の境界線」
1.それは「指名」の前にある
外商部において、“色気”とは禁句だった。
だが現実には、上目遣い、指先の残し方、距離の縮め方――すべてが、“言語化されない接客技術”として存在していた。
あかねは、かつて玲子に問うたことがある。
「“色気で売ってる”って言われること、どう思いますか?」
玲子は即答した。
「色気で売ってる人は、すぐ分かる。“誠実な色気”か、“演出された媚び”か。」
「じゃあ、どこまでが“許される”んですか?」
玲子は答えた。
「“売れること”を目的に色気を出した瞬間、こちらが“消費される側”に落ちる。“売れなくても誇りが残る色気”だけが、本物よ。」
2.澤村茉莉の笑顔
かつて外商部を席巻した澤村茉莉。
彼女は、顧客に近づく際、ほとんど触れない程度の身振りを多用した。スカート丈は、基準ギリギリ。ボタンの開き具合も、微妙なところを突いてくる。
ある日、若手にこう言い放った。
「“胸元”を見て買うような男は、逆に操れる。“商品じゃなく、私に興味を持った時点”で、もう主導権はこちらよ。」
しかし、彼女が失脚したのは、“一線を越えた時”だった。
某VIPのパーティに同席し、後日ブランドから「接客との線引きが曖昧」との通告が入った。
玲子はその報告書を閉じて、ひと言だけ言った。
「――色気で“売る”人間は、色気で“壊れる”。」
3.あかねの選択
あかねもまた、自分の「見られ方」に葛藤していた。
「可愛いから売れてる」「若いから指名が多い」
そう陰口を叩かれたこともある。
だが、彼女はある時からこう決めていた。
『“色気”は、私が誠実に働いていることを否定する理由にはならない』
カップを差し出す指先。お客様を見送る時の頭の角度。スーツの下に見える“白い襟”の処理――
彼女は、全てを“相手の心に届く道具”として使っていた。だが、“自分が主導権を握れていない”と感じたら、必ず引いた。
色気とは、「売る武器」ではなく、「信じさせる信号」。それが、玲子の教えだった。
4.“夜のお誘い”を断った日
ある晩、某ファンド社長が指名来店し、あかねに言った。
「今夜、銀座で食事でもどう?」
沈黙。あかねは、ほんの0.5秒だけ目線を落としたあと、微笑んで言った。
「ご一緒できるのは、“この部屋の中”までと決めているんです。それが、私たちの“距離”の誠実さなので。」
顧客は笑った。
「それが君の“売り方”か。」
あかねは深く頭を下げた。
5.玲子の回想
退任後の玲子が、ある地方百貨店のセミナーで語った。
「“色気営業”は、否定も肯定もできない。でも、“誇れるかどうか”だけは、自分に問えるはず。」
「お客様の目があなたの身体に向いているとき、あなたの心が冷静でいられたなら、それは“色気”ではなく“品格”です。」
終わりに
迎賓室では、今日も誰かがスーツの襟を整えながら微笑んでいる。“売る”ためではなく、“残る”ために。その一瞬の仕草が、“誰かの記憶”として遺ることを信じて。





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