夢の安倍奥鉄道
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 17分

その切符は、濡れた落ち葉の下に隠れていた。
幹夫少年がそれを見つけたのは、夕暮れの安倍川沿いを、ひとりで歩いていた時だった。秋の終わりの風は冷たく、川原の石は昼の光をもう忘れかけていた。遠くの山々は、青と灰色のあいだに沈み、空には薄い雲が流れている。
幹夫は、その日、胸の中に小さな疲れを抱えていた。
誰かにひどいことを言われたわけではない。大きな失敗をしたわけでもない。ただ、学校の教室で聞いた笑い声や、急いで書き写した黒板の文字や、友だちの何気ない返事の短さが、少しずつ心に積もっていた。
幹夫は、いつもそうだった。
人が気にしないようなことを、いつまでも気にしてしまう。 窓際に置かれた枯れかけの花。 誰にも拾われない消しゴムのかけら。 帰り道ですれ違った老人の、ほんの一瞬の寂しそうな目。
そういうものが、幹夫の胸の中に静かに入ってきて、出ていかなくなる。
強くなりたいと思うこともあった。
けれど、強くなるということが、感じないふりをすることなら、幹夫には少し怖かった。感じない心になってしまったら、自分の中の大事な灯まで消えてしまうような気がした。
その灯が何なのか、幹夫自身にもまだわからない。
だから幹夫は、答えを持たないまま、安倍川の上流へ向かう道を歩いていた。
梅ヶ島へ続く山の奥は、夕方になると早く暗くなる。町の灯りはだんだん少なくなり、代わりに木々の影が深くなる。道の脇には、湿った土の匂いがあった。川の音は、近くなったり遠くなったりしながら、幹夫の歩く速さに合わせて流れていた。
ふと足もとの落ち葉が、風もないのに揺れた。
幹夫がしゃがみこむと、その下に小さな紙片があった。
切符だった。
けれど普通の切符ではなかった。紙は古いのに破れておらず、薄い青色をしていた。端には銀色の線が走り、文字は夜明け前の霧のように淡く光っている。
そこには、こう書かれていた。
安倍奥鉄道 片道 終点まで
幹夫は首をかしげた。
安倍奥鉄道。
そんな鉄道を、幹夫は聞いたことがなかった。山へ向かう道に列車が走っているはずもない。けれど切符の文字は、冗談のようには見えなかった。
裏を見ると、小さく三つの駅名が書かれていた。
霧の駅。 鹿の駅。 星の湯駅。
その下に、さらに小さな文字があった。
疲れた心を持つ者のみ乗車可。
幹夫は、胸の奥を見透かされたような気がして、切符を両手で包んだ。
その瞬間、遠くから汽笛が聞こえた。
ぽう。
それは本物の汽笛とは少し違っていた。もっと柔らかく、もっと遠く、山の霧を震わせるような音だった。幹夫は顔を上げた。
川沿いの道の向こうに、いつの間にか小さな駅が現れていた。
さっきまでは、そんなものはなかったはずだった。古い木造の待合室があり、細いホームが山の影に沿って伸びている。駅名標には、白い字で「安倍川の入口」と書かれていた。
線路は、川のほうへではなく、山の奥へ向かっていた。
鉄の線路ではなかった。 月の出る前の空の色をした、青い線路だった。
幹夫は、逃げようとは思わなかった。
怖さはあった。けれどその怖さは、知らない物語の表紙を開く時のような怖さだった。踏み出せば戻れないかもしれない。でも、踏み出さなければ、今の胸の重さを抱えたまま帰るだけだ。
駅のホームに、小さな列車が入ってきた。
一両だけの列車だった。車体は深い緑色で、窓枠は古い木でできている。屋根には苔のようなものが薄く生え、前灯は山の湧き水のように澄んだ光を放っていた。
列車の側面には、金色の文字でこう書かれていた。
夢の安倍奥鉄道。
扉が、音もなく開いた。
中には誰もいなかった。
幹夫は切符を握りしめ、そっと乗り込んだ。
座席は木でできていたが、不思議に柔らかかった。窓の外では、川の音が近くに聞こえる。扉が閉まり、列車はゆっくり動き出した。
がたん。 ことん。
その音は、線路を走る音というより、心臓の奥で眠っていた記憶が少しずつ目を覚ます音に似ていた。
列車は山へ入っていった。
窓の外に、安倍奥の景色が流れていく。川の白い筋、黒く濡れた岩、杉の林、細い山道、ぽつりぽつりと灯る家の明かり。やがて人家は見えなくなり、森が窓いっぱいに広がった。
幹夫は、膝の上に切符を置いて、窓に額を近づけた。
木々の間に霧が出ていた。
最初は薄い布のようだった霧が、しだいに濃くなっていく。窓の外の景色は白く滲み、木の幹も、川も、空も、境目を失っていった。
列車が速度を落とした。
やがて、ホームが見えた。
駅名標には「霧の駅」とあった。
扉が開いた。
幹夫は、誰かに呼ばれたようにホームへ降りた。
霧の駅には、音がほとんどなかった。
足もとの板も、遠くの木々も、列車の車体も、すべて霧に包まれている。見えるものは少ないのに、見えないものの気配が多かった。幹夫は、自分の息まで白い霧の一部になってしまうように感じた。
ホームの端に、白い髪の駅員が立っていた。
年を取っているようにも、子どものようにも見える不思議な人だった。制服は薄灰色で、霧と同じ色をしている。顔は穏やかで、目だけが深く澄んでいた。
「ここでは、見えないものを休ませます」
駅員が言った。
幹夫はたずねた。
「見えないものって、何ですか」
駅員は、霧の中へ手を差し入れるようにした。
「言えなかった言葉。泣けなかった涙。気にしないふりをした痛み。誰にも見せずに折りたたんだ心です」
幹夫は黙った。
胸の奥に、今日一日の小さな痛みが浮かんできた。
友だちの短い返事。 先生に当てられた時の、教室の視線。 うまく笑えなかった昼休み。 帰り道、空がきれいだったのに誰にも言えなかったこと。
どれも、他の人に話せば「そんなこと」と言われそうなものばかりだった。幹夫自身も、そう思おうとしていた。たいしたことではない。忘れればいい。気にしすぎだ。
けれど霧の駅では、それらが小さな白い粒になって、幹夫の胸からゆっくり出てきた。
幹夫は驚いて胸に手を当てた。
白い粒は霧に混じり、消えるのではなく、優しく薄まっていった。
駅員が言った。
「痛みは、すぐに捨てなくてもよいのです。濃すぎる時だけ、霧に預ければよい」
「預けたら、なくなるんですか」
「なくなりません。ただ、抱えられる重さになります」
幹夫は、霧を見つめた。
たしかに胸が少し軽くなっていた。けれど、何もなかったことになったわけではない。今日の出来事は、まだ幹夫の中にある。ただ、棘の先が少し丸くなったようだった。
「ぼくは、気にしすぎなんでしょうか」
幹夫が小さく聞いた。
駅員は、首を横に振った。
「霧が見える者は、晴れた日の光も深く見ることができます」
幹夫は、その言葉をすぐには理解できなかった。
けれど、胸の中にそっと置いておきたい言葉だと思った。
列車の汽笛が鳴った。
ぽう。
霧の駅のホームが、少しずつ薄れていく。
幹夫は列車に戻った。扉が閉まる。窓の外で、白い駅員が静かに手を振っていた。やがて霧がすべてを包み、駅は見えなくなった。
列車はさらに山奥へ進んだ。
霧を抜けると、夜が深くなっていた。
窓の外には、杉林が黒く続いている。ところどころに谷が開け、下のほうで川が銀色に光った。列車はありえないほど急な斜面を、音もなく登っていく。線路は木の根をよけ、岩をくぐり、沢の上を細い橋で渡った。
やがて、窓の外にいくつもの光る目が見えた。
幹夫は息をのんだ。
鹿だった。
一頭ではない。二頭、三頭、もっとたくさん。森の暗がりから、鹿たちが静かに列車を見ていた。角のある大きな鹿もいれば、細い脚の若い鹿もいる。小さな子鹿は、母鹿の腹の近くに隠れていた。
列車がゆっくり止まった。
駅名標には「鹿の駅」とあった。
ホームは、木の根でできていた。根が地面から盛り上がり、まるで自然に駅の形を作ったようだった。灯りは提灯ではなく、茸の笠が淡く光っている。
幹夫が降りると、一頭の鹿が近づいてきた。
その鹿は、以前どこかで見たような気がした。井川の森で木の葉の手紙を運んでいた鹿に似ていた。けれど、この鹿は郵便袋を持っていない。かわりに、角の先に小さな星のような露を宿していた。
鹿は幹夫の前で立ち止まり、静かに頭を下げた。
幹夫も頭を下げた。
すると、森全体が少し揺れたように感じた。
鹿の駅では、言葉は少なかった。
鹿は幹夫を森の道へ導いた。道といっても、人間が作った道ではない。獣たちが何度も通ってできた、細く柔らかな道だった。落ち葉が積もり、ところどころに小さな足跡が残っている。
幹夫は、鹿の後を歩いた。
森の奥で、幹夫はたくさんの気配を感じた。
眠る鳥。 木の穴に隠れた小さな獣。 土の中でじっとしている虫。 水音の下で息づく沢蟹。 倒れた木の中で進む、目に見えない命の仕事。
みな静かだった。けれど、その静けさは空っぽではなかった。
鹿は、一本の大きな木の前で立ち止まった。
幹は太く、根は地面の上に広がっていた。根の間には、雨水が小さく溜まり、そこに夜空が映っている。
鹿はその水を鼻先で示した。
幹夫が覗き込むと、水面に自分の顔が映った。
けれど、それはいつもの顔ではなかった。
水面の中の幹夫は、少し疲れていた。目の下に影があり、口元は強がるように結ばれている。幹夫は、思わず目をそらしたくなった。
鹿の声が、森の風の中で聞こえた。
「山では、弱ったものを隠しすぎない」
幹夫は鹿を見た。
「どうして」
「隠しすぎると、どこを休ませればよいかわからなくなる」
幹夫は、水面の自分をもう一度見た。
弱っている自分を見るのは、恥ずかしかった。 でも、見ないままでいることのほうが、もっと苦しかったのかもしれない。
幹夫は、そっと言った。
「ぼく、疲れていたんだね」
その言葉を口にした瞬間、水面の幹夫の顔が少し和らいだ。
鹿は、角を低く下げた。
すると角の先の露が一粒、根の間の水に落ちた。小さな波紋が広がり、水面の顔が消えた。かわりに、森の夜空が深く映った。
「疲れた者は、まず自分を責めるのをやめる」
鹿の声がした。
「それが、山の休み方」
幹夫の胸に、静かなあたたかさが広がった。
疲れているのに、自分を責める。 そんなことは、幹夫にもよくあった。
もっと平気でいればよかった。 もっと明るく返事をすればよかった。 もっと強い子なら、こんなことで傷つかなかった。
けれど、鹿は責めなかった。
山の動物は、疲れたら休む。寒ければ丸くなる。傷つけば隠れて眠る。誰かに説明するためではなく、生きるためにそうする。
人間も、本当はそうしてよいのかもしれない。
列車の汽笛が鳴った。
ぽう。
鹿たちが森のあちこちから顔を上げた。
幹夫は鹿に向かって言った。
「ありがとう」
鹿は答えず、ただ黒い目で幹夫を見た。
その目には、慰めよりも深いものがあった。 生きるもの同士が、同じ山の夜を分け合った時の、静かな理解だった。
幹夫は列車に戻った。
鹿の駅は、動き出す列車の窓から少しずつ遠ざかった。鹿たちの目は、森の暗がりに小さく光っていた。やがてそれも木々に隠れ、夜の奥へ消えた。
列車は、さらに高い場所へ向かった。
空が近づいてきたようだった。
山の稜線が窓の外に黒く浮かび、その上に星が増えていく。町で見る星とは違っていた。ひとつひとつが強く、静かで、冷たいのに優しい。
列車の中の灯りが少し暗くなった。
窓ガラスに幹夫の顔が映り、その向こうに星空が重なる。まるで自分の心の中に星が点っているようだった。
やがて列車は、三つ目の駅に着いた。
駅名標には「星の湯駅」とあった。
ホームは、岩と湯気でできていた。
地面のあちこちから白い湯気が立ちのぼり、星明かりの中でゆっくりほどけている。硫黄のような匂いは強くなく、むしろ濡れた石と草の根が温まったような、やわらかな匂いがした。
駅の奥には、小さな足湯があった。
誰もいない。 けれど湯は静かに満ち、縁の石には月光が乗っていた。
幹夫は靴と靴下を脱ぎ、足を湯に入れた。
あたたかかった。
その温かさは、ただ皮膚を温めるだけではなかった。足の指から、膝へ、胸へ、喉の奥へと、ゆっくり上ってくる。幹夫の中で固まっていたものが、少しずつほどけていく。
星の湯駅の湯面には、空の星が映っていた。
足を動かすたび、星が揺れた。けれど消えなかった。幹夫はそれを見ながら、今日までの自分の心を思った。
小さなことで揺れる。 人の言葉で波立つ。 自分でも扱いに困る。
でも、揺れるからといって、星がなくなるわけではないのだ。
揺れる水にも、星は映る。
幹夫は、胸の中でその言葉を何度も繰り返した。
足湯の向こうに、湯守のような人が現れた。
顔は湯気に包まれてよく見えない。年寄りにも、若者にも見える。手には木の柄杓を持っていた。
「湯は、傷を消すものではありません」
その人は言った。
幹夫は顔を上げた。
「消えないんですか」
「消さなくてよい傷もあります」
湯守は、湯面を柄杓でそっと撫でた。
「傷があるから、そこから温もりが入ることもあります。痛みがあった場所は、いつか誰かの痛みに気づく窓になることもあります」
幹夫は黙った。
傷を窓にする。
それは美しいけれど、少し怖い言葉だった。傷ついたことに意味があると言われると、痛みまで美談にされてしまうようで嫌だった。けれど湯守の声は、そんなふうに軽くはなかった。
傷は傷のままでいい。 でも、そこに温もりが入る日もある。
そう言っているようだった。
幹夫は湯に足を浸したまま、星を見上げた。
自分は、癒やされたいのだろうか。
そう思って、少し恥ずかしくなった。
癒やしという言葉は、どこか大人のもののように感じていた。疲れきった人や、深く傷ついた人が求めるもの。自分のような子どもが、そんな言葉を使ってはいけない気がしていた。
けれど、子どもの心も疲れる。
小さな胸にも、誰にも見えない荷物が積もる。 うまく泣けない夜がある。 自分を励ます言葉さえ、重く感じる日がある。
幹夫は、初めてそれを認めた。
湯守は、幹夫のそばに小さな湯呑みを置いた。中には透明な湯が入っていた。幹夫が飲むと、少し甘いような、石の奥から出てきたような味がした。
「終点は、この先です」
湯守が言った。
「終点にも駅があるんですか」
「駅というより、空に近い湯です」
「空に近い温泉……」
幹夫は、切符の裏に書かれていた言葉を思い出した。
終点には、空に近い温泉がある。
汽笛が鳴った。
ぽう。
幹夫は足を湯から出した。足先はぽかぽかと温かく、体全体が少し軽くなっていた。靴下を履く時、なぜか自分の足が前より大切なものに思えた。
今日も歩いてくれた足。 疲れを運んでくれた足。 知らない駅まで連れてきてくれた足。
幹夫は、小さく「ありがとう」と思った。
列車は、星の湯駅を出た。
ここから先は、線路が空へ向かっているようだった。
山腹を回り込み、谷の上を渡り、雲の切れ間を進む。窓を開けると、冷たい風が入ってきた。風には雪の匂いが少し混じっていた。けれど凍えるほどではない。むしろ、熱を帯びた心を静めてくれる冷たさだった。
幹夫は、窓の外を見た。
下のほうに、梅ヶ島の温泉地らしい灯りが見えた。小さな宿の灯、湯気の立つ屋根、川沿いの道。けれど列車はそこを通り過ぎ、さらに上へ、さらに奥へ向かっていく。
人間の地図に載っている梅ヶ島の奥に、もうひとつの梅ヶ島があるのだと思った。
山に知っている場所。 霧と鹿と星だけが道を覚えている場所。 疲れた心が、誰にも説明しなくても迎えられる場所。
やがて列車は、終点に着いた。
駅名標はなかった。
ただ、広い露天の湯があった。
湯は岩に囲まれ、山の頂近くに静かに満ちていた。湯気が空へ上がり、その向こうに星が広がっている。星は近かった。手を伸ばせば湯気の間から取れそうなほど近い。
幹夫は列車を降りた。
誰もいない。
けれど、孤独ではなかった。
霧の駅で預けた痛み。 鹿の駅で認めた疲れ。 星の湯駅で受け取った温もり。
それらが、幹夫の後ろを静かについてきているようだった。
幹夫は服を脱ぎ、湯に入った。
湯は、体をふわりと包んだ。
熱すぎず、ぬるすぎず、まるで幹夫の心の温度を知っているようだった。岩にもたれると、空が見えた。星々が湯気の向こうで瞬いている。
幹夫は、深く息を吐いた。
その息が白くなり、湯気に混じって空へ上がっていった。
胸の奥に残っていた疲れが、全部なくなるわけではなかった。明日になれば、また教室がある。人の声がある。うまくいかないことも、傷つくこともあるだろう。
けれど今、この湯の中で、幹夫は思った。
それでも帰れる場所がある。
現実の地図には載っていなくても。 誰かに説明できなくても。 心が深く疲れた時、霧の駅へ行き、鹿の駅へ行き、星の湯駅へ行き、空に近い温泉へたどり着ける。
それは逃げることではない。
自分の心をもう一度あたためて、また明日へ戻るための旅だった。
湯の中で、幹夫は目を閉じた。
すると、今まで出会ったたくさんの場所の気配が胸に浮かんだ。
日本平の茶畑の露。 巴川の水音。 三保の松原の白い羽。 久能山の石段。 清水港の青い機関車。 登呂の田んぼの泥。 駿府城のお堀の月。 井川の森の木の葉の手紙。
どれも、幹夫の心の中に静かに残っていた。
感じすぎる心は、ときどき重い。 けれど、その心があったから、幹夫はそれらの声を聞くことができた。
湯気の中で、誰かの声がした。
声というより、山全体の息のようだった。
――おまえの心は、壊れやすいのではない。
幹夫は目を開けた。
空には、星があった。
――水を映しやすいだけだ。
幹夫の目に涙がにじんだ。
それは悲しい涙ではなかった。嬉しいとも少し違った。長いあいだ自分でもうまく抱けなかった心を、山の奥の湯が静かに受けとめてくれたような涙だった。
壊れやすいのではない。 映しやすい。
川も、霧も、月も、人の寂しさも、動物の声も、機械の疲れも、土の記憶も。
自分の心は、それらを映してしまう。
それで苦しくなることもある。 でも、映すことでしか出会えない美しさもある。
幹夫は、湯の中で小さくうなずいた。
夜が更けていった。
けれど、空に近い温泉では、時間の進み方が少し違っていた。時計の針ではなく、湯気の濃さや、星のまたたきや、幹夫の呼吸の深さで時が流れている。
やがて、東の空がほんの少しだけ白みはじめた。
列車の車掌が、いつの間にか湯のそばに立っていた。
車掌は小柄で、帽子のつばを深く下げていた。顔はよく見えなかったが、声は優しかった。
「帰りの列車です」
幹夫は湯から上がった。
体はあたたかく、心は静かだった。すべてが解決したわけではない。けれど、自分の内側に小さな湯だまりができたような気がした。冷たい言葉や疲れが来ても、そこへ少しずつ戻れる場所。
服を着て、列車に乗る。
車掌が切符を見た。
切符の文字は、少し変わっていた。
安倍奥鉄道 往復 心が必要とする時まで有効
幹夫は驚いた。
「また乗れるんですか」
車掌は、ほんの少し笑ったようだった。
「夢の鉄道は、時刻表ではなく、心の深さに合わせて走ります」
「でも、どこから乗ればいいんですか」
「霧の出る夕方。鹿の目が光る夜。星が湯気に滲む時。あるいは、あなたが静かに目を閉じた時」
幹夫は切符を胸にしまった。
帰りの列車は、来た時よりも早く山を下った。
けれど景色は急いでいなかった。森は朝を迎え、沢は光り、山の影は少しずつ柔らかくなっていく。梅ヶ島の温泉地の屋根からは、本物の湯気が立っていた。宿の窓が朝日を受けて、ぽつぽつと輝きはじめている。
幹夫は窓からその景色を見た。
夢の中のようで、現実のようだった。
やがて列車は、最初の小さな駅へ戻った。
扉が開く。
幹夫がホームへ降りると、列車は静かに汽笛を鳴らした。
ぽう。
幹夫が振り返ると、列車はもう霧のように薄れていた。緑色の車体も、木の窓枠も、前灯の光も、朝の山気に溶けていく。
最後に、青い線路だけが一瞬光った。
そして消えた。
そこには、安倍川上流へ続く普通の道があった。
朝の風が吹いていた。 川が流れていた。 鳥が鳴いていた。
幹夫は、自分のポケットに手を入れた。
切符があった。
薄い青色の小さな切符。 文字はもう光っていなかったが、手のひらに置くと、かすかに温かかった。
幹夫は家へ帰る道を歩き出した。
胸の疲れが完全になくなったわけではない。けれど、昨夜までのように、自分を責める声ばかりが大きくはなかった。
疲れたら、霧に預ければいい。 弱った自分を見てもいい。 揺れる心にも星は映る。 そして心は、壊れやすいのではなく、映しやすいだけかもしれない。
その言葉が、幹夫の中で湯のように残っていた。
町へ近づくにつれ、人の音が戻ってきた。車の音、家の戸が開く音、誰かの朝の声。現実は、いつもの顔をして幹夫を待っていた。
けれど幹夫は、少しだけ違う歩き方をしていた。
足もとを急がず、胸の奥の小さな温泉をこぼさないように。
その日の夜、幹夫は机の引き出しに切符をしまった。
大切なものを隠すようにではなく、また必要な時に取り出せるように。
窓の外には、静かな星があった。
幹夫は目を閉じた。
耳の奥で、列車の音が聞こえた。
がたん。 ことん。 がたん。 ことん。
夢の安倍奥鉄道は、きっと今夜も山の奥を走っている。
霧の駅で、言えなかった言葉を休ませる。 鹿の駅で、疲れた心に水面を見せる。 星の湯駅で、傷の窓に温もりを注ぐ。 そして終点では、空に近い温泉が、誰かの静かな涙を湯気に変えている。
幹夫少年は、胸の中でそっと切符を握った。
山の奥は遠い。 けれど、心の奥もまた遠い。
その二つの奥を結ぶように、実在しない小さな鉄道が、今日も夢の線路を走っている。
梅ヶ島の夜の向こう、安倍奥の深い森の中で。
ぽう、とやわらかな汽笛を鳴らしながら。







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