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大東・遺族編

――副題:祈りのかたち

序章 香の煙、骨の重さ

静岡県・焼津市。港町の一角にある古びた一軒家。その仏間には、白木の遺影台が置かれていた。写真の中で穏やかに笑う青年――水島亮介。その顔を見上げる老女の眼は、濡れていなかった。ただ、深く、深く、澄んでいた。

「泣いたのは、三日目で終いにしました」

母・水島和代、六十二歳。戦後世代にして、昭和の女。彼女は声を震わせることなく、焼香に訪れる近所の者にそう語った。

骨壺は重かった。中身は、ほとんどが識別不能な白濁の塊だった。艦から送られた官給品――破れた制服、燃えた手帳、そして唯一残ったポケットの中の紙片、「一死以テ大罪ヲ謝ス」。

彼女はそれを見て、微笑んだ。

「バカな子だね。けど、立派だったよ」

第一章 戦後と息子

亮介の死は、マスコミにとっては「過剰な義務感による殉職」、あるいは「統制されぬ現場の暴走」として処理された。彼の名が報じられたのはわずか数行。地方紙の社会面の片隅だった。

それを和代は無言で切り抜き、仏壇に貼った。

彼女は語る。

「亮介はね、小学校のとき“憲法ってなんで変えちゃいけないの?”って言って、先生に怒られてね。帰ってきて、悔しそうに泣いてた」

亮介は、何かを背負っていた。和代はそれが“祖父の幽霊”であることを知っていた。旧海軍の特攻兵として出撃命令直前に終戦を迎えた祖父――亮介の「おじいちゃん」が、生前に繰り返した言葉。

「国家というのは、生きている者より、死んだ者の方が多く支えているのだ」

和代は、亮介に言ったことがある。

「そんなに死に急ぐな」

すると息子は笑って、

「急がないよ。選ぶだけだよ」

と言ったのだった。

第二章 弔意という欺瞞

亮介の葬儀には、町内の人々が集った。香典には、同僚たちの名があった。だが、政府関係者は来なかった。

送られてきたのは形式的な弔辞と、勲章一つ。「危険業務従事者功労章」。それを渡されたとき、和代は言った。

「これがあの子のすべてですか」

返答はなかった。

後日、海上保安庁から一本の電話が入った。

「息子さんの最期の行動について、報道対応上“組織命令ではない”とする必要があります。誤解のないよう、ご理解ください」

和代は静かに答えた。

「ええ、わかっています。あの子は、誰にも命令されずに、勝手に死んだんでしょう」

受話器を置いた後、仏壇の前で独りごちた。

「誰のためにもならない死って、あるのね。あの子のためだけの死。…一番、潔い」

第三章 母の声明

葬儀から四十九日。和代は地元の市民会館で、報道陣の前に立った。突如届いた講演依頼は、町の若者に向けての安全講話だったが、彼女は違う話をした。

「息子が死んだ海を、わたしは見たことがありません。でも、見えます。きれいな海です。でも、怖いです。あの海は、何も言わないんです」

「けれど、あの子は言いました。“日本は誰のもの?”って」

「わたしは答えられなかった。いまも答えられません。でも、あの子は、答えを探して出て行きました。結果は…ご存じの通りです」

「わたしの祈りは、国家に届きません。でも、神さまには届くと信じています。だから今日も、香を焚きます。“あなたの死が、誰かの勇気になりますように”って」

講堂は静まり返っていた。報道陣はメモを止め、学生は俯いた。言葉に酔うことなく、涙を誘うことなく、和代はただ祈るように語った。

それは、華やかな言葉の一切を拒絶した、母の国家論だった。

終章 記憶の海へ

その後、和代は東京にも、永田町にも、一度も行くことはなかった。慰霊碑の建立の話も断った。政治家からの接触には、丁寧に断りの手紙を返した。

「うちの子は、国の役に立ちたいなんて言わなかった。ただ、自分が納得する死を探してた。それが、たまたま国だっただけです」

亮介の部屋は、そのまま残された。机の上には、折りたたまれた地図、手帳、そして最後まで持ち歩いていた紙片。

「一死以テ大罪ヲ謝ス」

和代は、それを仏壇の香炉の下に納めた。

夏のある日、海辺の防波堤で小さな子どもが、手を合わせていた。通りがかった和代に、子どもの母親が話しかける。

「うちの子、海の向こうに“神さまがいる”って言うんです」

和代は静かに笑った。

「そうかもしれないね。うちの息子も、たぶんあそこにいるわ」

そして、海に向かってひとこと。

「今日も見ててね」

波は答えなかったが、その静けさはどこまでも清らかだった。

 
 
 

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