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大道芸の帽子、十円玉が鳴るとき

 幹夫青年が青葉の方へ出て来たのは、何かを見に来たといふほどの積極さからではない。 ただ、家にゐると、自分の頭の中がいつまでも同じところをぐるぐる回り、しかも回り方だけが日に日に上手くなる。上手くなるほど性質が悪い。――散歩でそれを崩してやらう、といふ、いかにも静岡らしい(と幹夫が勝手に思ひ込んでゐる)小さな手当てである。

 青葉の並木道は、昼の光を受けて、どこか透明に見えた。 欅の影が石畳に落ち、通りすぎる人々の足音が、その影を踏んでは消し、踏んでは消す。店先からは焙じ茶や揚げものの匂ひが漂ひ、信号の音が少し遠くで鳴る。静岡の街は、まじめな顔をしてゐるくせに、時々ふいに遊び心を出す。今日はその遊び心が、道の真中に出てゐた。

 人だかりが一つ出来てゐる。 円を作るやうに人が立ち、中心には、赤いベストを着た男がゐる。鼻が少し赤い。赤いといふより、赤く“見せて”ゐる。つまり道化である。道化の赤は、上手にやれば、こちらの自意識の赤面を隠してくれる。幹夫はその点で道化が好きだつた。好きだつたが、好きだと認めるのは少し照れ臭い。

 男は、両手に白いボールを持ち、それをふわりと宙へ放り上げた。 ひとつ、ふたつ、みつつ――いつの間にか数が増え、ボールが空の中で小さな白い月のやうに回り始める。客の子どもが「わあ」と言ふ。母親が笑ふ。若い男がスマホを構へる。 幹夫は、円の外側で、どこにも属さぬ顔を作つて立つた。属さぬ顔を作るのは得意である。属してゐないくせに、属してゐるやうに見えたい――その矛盾の上に、彼の身の置き場は出来てゐた。

 道化は、ボールを落としかけては救ひ、救ひかけては落とし、落としたふりをして客席の方へ目配せをする。 客は笑ふ。笑ふが、笑ひ方はそれぞれだ。大声で笑ふ者、口元だけで笑ふ者、笑つてゐるのに顔がかたい者。幹夫は、自分がいちばん「口元だけで笑ふ者」に近いのを知つてゐた。声を出して笑ふと、いかにも楽しんでゐる人間みたいで、なぜだか恥づかしいのである。

 道化は、最後にボールを高く投げた。 高く投げた瞬間、客の息が揃ふ。息が揃ふと、幹夫の胸もつられて少し持ち上がる。 ボールは落ちて来て、道化の頭の上で、ぽん、と止まつた。止まつたやうに見えたのは一瞬で、次の瞬間には、道化が帽子でそれを受けてゐた。帽子。黒い、少し皺の寄つた帽子。舞台の小道具としては、どこか貧相で、しかしそれがよく似合ふ。

 ――帽子、と幹夫は思つた。 帽子は、かぶるものだが、今日は受けるものだ。 受ける、といふのが少し可笑しい。人生も、受けるのが下手な人間ほど、帽子の扱ひが下手なのかもしれぬ。

 拍手が起つた。 ぱち、ぱち。 人の拍手は、最初はまばらで、すぐに揃ひ、最後はまたまばらにほどける。そのほどけ方が、いかにも人間らしい。 幹夫は、拍手に手を出しかけて、出し損ねた。拍手をしそこねるのが、彼の癖である。拍手は他人を肯く行為だ。肯くと、自分も肯かなければならぬ気がする。自分を肯くのが怖い。怖いから遅れる。遅れると、今度は遅れた自分が恥づかしい。――幹夫は、いつもその場に立つてゐる。

 道化は帽子を地面に置いた。 そして、いかにも芝居がかつた調子で言つた。

「さて、皆さま。ボールは空を飛びました。わたくしの腹も――空でございます」

 客が笑つた。 笑つたところへ、道化が続ける。

「お代は、拍手でも結構。笑顔でも結構。――けれど、帽子に“音”がすると、わたくしの明日が、ちよつとだけ上等になります」

 帽子の中は空である。 空であるから、何かが落ちれば音がする。 音がすると、明日が上等になる。 ――この理屈のやうで理屈でない言ひ方が、幹夫の胸に妙にしつくり来た。明日を上等にする方法は、大改造ではなく、帽子の中に音を入れる程度でいいのかもしれぬ。

 子どもが先に動いた。 母親に十円玉をもらひ、ちよこちよこと前へ出て、帽子の中へ落とす。 ちん、――と小さな音がした。 それだけの音で、場が少し明るくなる。道化は大げさに胸へ手を当て、倒れかけるふりをして、子どもに深々と頭を下げた。 客がまた笑ふ。笑ひが増えると、幹夫の中の斜めの気分が少し薄れる。

 次に、中年の男が百円玉を落とした。 ちゃりん、と音が大きい。 大きい音は、少し照れ臭い。 幹夫はその照れ臭さを見てゐて、自分がなぜ拍手も投げ銭も苦手なのか、少し分つた気がした。 ――肯くことが、照れ臭いのだ。 照れ臭いのに、肯いてもらひたい。 この矛盾が、幹夫をいつも黙らせる。

 幹夫はポケットに手を入れた。 小銭が触れた。十円玉が三つほど。 十円玉。 十円玉は、百円玉ほど威張らない。千円札ほど責任もない。 十円玉は、いかにも幹夫の人生に似合ふ。小さくて、少し頼りない。だが、音は出る。

 幹夫は十円玉を一枚つまんだ。 つまんだ瞬間、妙な恥づかしさが来た。 ――十円なんて、けちだと思はれないか。 ――いや、思はれてもいいぢやないか。 ――思はれるのが怖いから、いつも何もしないのだ。 頭の中で小さな裁判が始まりかけた。幹夫は、その裁判を、今日は途中で打ち切つた。茶屋の女将の「難しくすると冷める」といふ言葉が、どこかでまだ湯気を立ててゐた。

 彼は一歩前へ出た。 一歩出ると、円の中の空気が少し濃くなる。人の目がこちらへ来る気がする。気がするだけで、実際は誰も見てゐない。誰も見てゐないのに、こちらだけが赤くなる。 ――ばかばかしい。 ばかばかしいが、今日は、そのばかばかしさごと一歩出る。

 幹夫は帽子の前に立ち、十円玉を落とした。

 ちん。

 音は、思つたよりよく鳴つた。 たつた十円で、こんなに鳴るのかと思ふほど、帽子は音を受けた。 道化は幹夫の方を見て、軽く目で笑つた。声には出さぬ。だが「分つてるよ」と言ふやうな笑ひである。幹夫は、その目の笑ひに救はれた。大げさな感謝をされると、幹夫は逃げたくなる。目で笑ふ程度が、いちばんちやうどよい。

 幹夫は、ついでに拍手もした。 ぱち、ぱち。 自分の手の音が聞こえた。 聞こえたが、恥づかしさより先に、妙な爽快が来た。手を叩くと、胸の中の石が少し揺れる。揺れると、石の角が取れる。角が取れれば、持ち歩ける。持ち歩ければ、歩ける。

 道化は、最後に深々と礼をし、帽子を抱へて、次の場所へ歩き出した。 人だかりは、ほどけて散る。 散ると、道はまた普通の道になる。 普通の道に戻つても、幹夫の胸の中には、さつきの「ちん」が残つてゐた。十円玉の音は、意外に長持ちする。

 幹夫は歩きながら、ポケットの中を探り、もう一枚の十円玉を指先で転がした。 十円玉が、冷たく、確かな丸さを持つてゐる。 丸いものは、角がない。角がないものは、人を傷つけにくい。 幹夫は、自分の言葉にも、いつか角のない丸さが欲しいと思つた。

 青葉の並木の下で、彼はふと立ち止まつた。 スマホを取り出し、連絡先の名前を一つ見た。返事を遅らせてゐた相手だ。 幹夫は、長い文章を書くのをやめた。長い文章は、言ひ訳の巣になる。今日は十円玉の日である。短くて、音が鳴る程度でいい。

 彼は打つた。

 ――「今日、街で大道芸を見た。十円入れた。ちん、て鳴つた。なんだか元気が出た。」

 送信ボタンを押すと、画面が静かに戻つた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、送つたといふ事実だけが、今日は明るい。 人間の前向きは、たいてい事実の方から来る。

 幹夫青年は、そのままコンビニで安い饅頭を一つ買つて、ベンチに腰を下ろし、茶を飲んだ。 饅頭はうまいとも不味いとも言へぬ味だが、今日の口にはちやうどよい。 彼は、十円玉の音を思ひ出しながら、また小さく笑つた。

 大道芸の帽子に十円玉が鳴つた。 その音は、芸人の明日を少し上等にするだけでなく、幹夫の明日にも、同じだけの小さな上等を残した。 十円の上等――それが案外、長く効くことを、幹夫はその春の午後に覚えたのである。

 
 
 

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