天の川の短冊
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

七月のはじめの蒲原は、昼の熱がまだ畑の土の奥に残っていて、夕方になるとそれがそっと息を吐き出しました。みかんの葉は昼間の光を抱えたまま、裏側の白い粉をほのかに見せながら揺れ、畦道の草は、どこか遠い川の匂いを小さく運んできます。海のほうでは、波が低く、白い泡だけが先に立ち上がっては、砂の上に短い縫い目をつけていました。
幹夫は八つ。学校の机に頬を少し近づけて、鉛筆の先を見つめていました。
黒板には、先生の字で大きく、
「たなばた」
と書いてあります。字の上に、チョークの粉が星くずみたいに散っていました。
「短冊に、願いごとを書きます。みんな、ちゃんと自分の字でね。字がきれいとか、上手いとかより、ほんとの気持ちを書くこと」
先生の声は明るいのに、幹夫の胸の奥は、ちょっとだけ暗い水たまりみたいでした。暗いのは悲しいからだけではありません。暗いところに落ちると、ひとつひとつの気持ちが、底でよく見えるからです。
机の上には、色とりどりの短冊が置かれていました。赤、青、黄、紫、薄桃。紙はさらりとして、指先でなぞると、かすかな乾いた音がします。紙の乾きは、幹夫の喉の乾きに似ていました。
周りの子たちは、すぐに鉛筆を動かしはじめました。
「野球が上手になりますように」「竹馬にのれますように」「おかしがたくさんたべられますように」
願いごとは、みんなの口からこぼれた瞬間、ちいさな風船みたいに軽く浮きました。浮くのを見ると、幹夫の胸が、じわっと重くなりました。
――ぼくの願いは、重い。
重いものは、紙に乗せると破れる気がしたのです。紙は薄い。薄いのに、「ほんとの気持ちを書け」と言われると、胸の奥にあるものが、いっせいに紙へ押し寄せて、短冊が濡れてしまいそうでした。
幹夫の頭に浮かんだ願いは、たったひとつでした。
とうさんが、帰ってきますように。
それだけ。たったそれだけなのに、その言葉は、紙の上で黒く太くなりすぎる気がしました。黒が太くなると、星に見透かされる。見透かされると、もし叶わなかったとき、星が意地悪に見えてしまう――そんなふうに思う自分がこわかったのです。
叶わなかったら、また駅のベンチの冷たさが戻ってくる。 虹が消えたみたいに、願いも消える。 消えると、自分が小さくなる。
幹夫は、鉛筆を持ったまま、紙に先を当てられませんでした。
隣の席では、こういちが短冊に字を書いていました。袖をまくっている手首が少し白く、鉛筆を押す指が、いつもより丁寧に見えます。こういちの短冊は青でした。青い紙の上で、黒い字がゆっくり生まれていきます。
幹夫は、見てはいけないのに、ちらりと見ました。
こういちの字は、少しだけ曲がっていました。曲がっているのに、まっすぐな匂いがしました。
――「まえのかわの ともだちが げんきで いますように」
幹夫の胸の水たまりに、ぽちゃん、と音が落ちました。
こういちも、遠いところに手を伸ばしている。 伸ばしても届かないと分かっているのに、伸ばしている。
その姿が、幹夫には、羨ましいのか、ありがたいのか、自分でも分かりませんでした。羨ましいなら、心が狭い。ありがたいなら、優しい。どっちも本当で、どっちも恥ずかしい。
幹夫は、ようやく鉛筆を短冊に触れさせました。
紙に触れた瞬間、鉛筆の芯が、ひょい、と紙を引っかいて、黒い点を作りました。その点が、まるで小さな穴みたいに見えて、幹夫の喉がきゅっと縮みました。
――穴をあけたら、願いが落ちてしまう。
そう思ったら、指先に力が入りすぎて、鉛筆が少し震えました。
幹夫は、まず「と」と書きました。 次に「う」と書こうとして、止まりました。
「とうさん」と書いてしまったら、あとはもう逃げられない。 逃げたくないのに、逃げたい。
幹夫は、短冊を裏返して、机の引き出しに滑りこませました。紙が木に擦れて、しゅ、という音がしました。その音は、波が引くときの音に似ていました。何かを持ってきたのに、また持っていかれる音。
幹夫は、何も書いていない別の短冊を手に取りました。今度は黄色。
黄色は、みかんの花の先の粉みたいで、どこか「明るいふり」ができます。幹夫は明るいふりがほしかったのです。
黄色い短冊に、幹夫は小さく書きました。
「じが うまく よめますように」
それは嘘ではありませんでした。けれど、ほんとうの中心でもありませんでした。中心から少し外れたところにある、言いやすい願い。言いやすい願いを書いたとたん、幹夫の胸の奥が、少し冷えました。
――ぼくは、逃げた。
逃げた自分を、星が笑う気がしました。笑われるのが嫌で、でも、笑われると思うこと自体が、星に失礼な気がして、さらに胸がちくりとしました。
そのとき、先生が机の間を歩いてきて、幹夫の短冊を覗きました。
「いいね。字は、道具だからね。道具がよくなると、言いたいことも届きやすい」
先生の声はただの褒め言葉なのに、幹夫の胸には、少しだけ痛い針でした。
――言いたいことは、別にあるのに。
幹夫は、笑ってうなずきました。笑いは口の端だけで、胸は笑っていませんでした。
放課後、校庭の隅で、みんなが竹を運びました。竹は切りたてで、青い匂いがします。匂いは鋭いのに、どこか甘くて、鼻の奥をすうっと通って、頭を少し涼しくしました。
竹は教室の前に立てかけられ、短冊や折り紙の飾りがぶらさがっていきました。折り鶴、網飾り、ちょうちん。風が吹くたび、紙がこすれて、しゃらしゃら、と星屑のような音がします。
幹夫は、自分の黄色い短冊を結びました。結び目はきつく、指先が白くなるほど締めました。締めると、紙はちょっとだけ皺になりました。その皺が、幹夫の胸の皺に似ていました。
こういちは青い短冊を結んで、幹夫のほうを見ました。
「幹夫、何書いた?」 聞き方が、いつもみたいに慎重でした。薄い硝子に触れるみたいに。
幹夫は、言うか言わないかで、胸の中がぐらぐらしました。
言えば、嘘ではない。でも中心じゃない。 言わなければ、隠すことになる。
「……字が、うまく読めるようにって」「うん」とこういちは言いました。「それ、いいね」
こういちは、ほんとうに「いいね」と思っている顔でした。その顔を見て、幹夫はますます胸が苦しくなりました。いいねと言われたのに苦しいのは、自分がひねくれているからではありません。ほんとうは別の願いがあるのに、別の願いを紙に乗せられなかった自分が、紙のように薄いところで震えているからです。
帰り道、こういちと別れて、幹夫はひとりで畦道を歩きました。みかん畑の葉が、夕方の風に裏返って、白い裏がちらちら見えます。裏が見えるたび、幹夫は「見えないものが見えてしまう」感じがしました。
家に着くと、祖母が縁側で針仕事をしていました。窓辺には、青いガラスの星と、割れた貝の星座の箱と、空の蛍瓶と、虹の色が薄く混ざった海硝子が並んでいました。みんな小さくて、でもちゃんとそこにいます。
「七夕の竹、飾ったかい」と祖母が言いました。「うん」と幹夫は言って、ランドセルを下ろしました。
言いかけて、やめました。 「ほんとは別の願いがある」と言いかけて、飲みこみました。
飲みこんだ言葉は、喉の奥でひっかかって、咳になりそうでした。
夜になって、夕飯の匂いが薄れ、家の中が静かになるころ、幹夫はこっそり机の引き出しを開けました。朝、裏返してしまった短冊が、そこにありました。白い短冊。そこに、最初の「と」だけが黒く残っています。
その「と」は、小さな芽みたいに見えました。 芽は、出てしまったら、引っこめられません。 引っこめたら、土が痛む。
幹夫は短冊を持って、縁側へ出ました。
外は、湿った夜でした。遠くの海が、どっどど――と息をし、薩埵峠の影が、夜の奥で黙って立っています。踏切の音が、――カン、カン、と遠くで鳴って、汽車の灯が、暗い田の上を通っていきました。
空を見上げると、雲が少しだけ切れていました。切れ目の向こうに、星が二つ、三つ。星は小さく、でも嘘をつかない光をしています。
幹夫は、胸の中で、さっきからずっと同じことを繰り返していました。
――書きたい。 ――書くと、叶わなかったときがこわい。 ――こわいけど、書かなかったら、もっとこわい。
こわい、という気持ちは、潮の満ち引きみたいに、勝手に行ったり来たりします。止めようとしても止まりません。止まらないなら、乗ってみるしかない――幹夫は、蛍を返した夜に、少しだけそれを知りました。
幹夫は、短冊を膝の上に置いて、鉛筆を握りました。
鉛筆の木は、削られて白いところが出ています。その白さが、夜の中で少しだけ心細い。
幹夫は、深く息を吸いました。潮の匂いが肺に入って、胸の奥の空洞をなでました。空洞はまだあります。でも、空洞があるから、息が通る。息が通るから、言葉が出る。
幹夫は、ゆっくり書きました。
「とうさんが ぶじで いますように」
書き終えた瞬間、胸の奥が、ふっと温かくなりました。温かいのに、泣きそうになりました。
「帰ってきますように」と書けなかった自分が、まだ少し痛い。 でも、「無事で」と書けた自分が、少し誇らしい。
誇らしいのに、寂しい。 寂しいのに、優しい。
幹夫の心は、いくつも重なった薄い紙でした。紙は弱い。でも、重ねると風を受け止める。受け止めた風が、紙を鳴らします。鳴る音が、心の形になります。
そのとき、風がひとつ吹きました。どっどど――と、畦道から上がってきた風が、縁側の柱をなでて、窓辺の青い星を揺らしました。
からり。
青い星が鳴りました。
幹夫は、その音を聞いて、胸の中の硬いところが少しだけほどけました。星は、願いを叶えるために鳴るのではない。ただ「ここにあるよ」と言うために鳴る。その「ある」が、いちばん大事なときがある。
幹夫は短冊を持って、家の外の小さな竹に結びました。祖母が庭の端に立てておいた、細い竹です。結び目を作る指が少し震えました。震えは、恥じゃありませんでした。震えは、本気のしるしでした。
短冊が風に揺れて、さらり、と鳴りました。紙の音は小さいのに、幹夫の胸には、ちゃんと届きました。
幹夫は、もう一度空を見上げました。
雲の切れ目が広がって、そこに細い白い帯が見えました。天の川でした。はっきりではないけれど、夜の底に溶けた牛乳みたいな、淡い光。
幹夫は思いました。
天の川は、橋みたいに見える。 でも、本当は川だ。 川は渡れない日もある。 渡れない日は、ただ眺める。 眺めても、川は消えない。
父も、今夜どこかの町で、この川を見ているかもしれない。 見ていなくてもいい。 見ていなくても、幹夫の短冊は、風に読まれている。
それで十分だと、ほんの少しだけ思えました。
布団に入ると、体は疲れているのに、胸だけがまだ起きていました。胸の奥の空洞が、今夜は冷たくありません。冷たくない代わりに、そこに、淡い光がすっと伸びているような気がしました。
青い星が、窓辺でごく小さく揺れました。 割れた貝の星座の欠片も、月の光を少しだけ返しました。 空の蛍瓶は透明のまま、でも透明のまま、風の匂いを抱きました。 虹の海硝子は、暗がりで、ほんの一瞬だけ薄い色を見せました。
幹夫は目を閉じて、胸の中でそっと言いました。
――願いごとは、約束じゃない。 ――でも、灯りにはなる。 ――灯りがあれば、待てる。
遠くで汽車がことことと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。その音は、天の川の下を走る、小さな銀河鉄道の音みたいでした。
幹夫はその音に耳を預けて、眠りへ落ちていきました。 短冊の紙が風に揺れる音が、眠りの入口で、最後に一度だけ、さらり、と鳴りました。





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