契約書は死体より重い
- 山崎行政書士事務所
- 5月13日
- 読了時間: 20分

雨は、東京の汚れを洗い流すほど強くは降らない。
むしろ、排気ガスと古い油と人間の疲労を薄く溶かして、歩道のタイルに塗りつける。山崎行政書士事務所の窓から見える雑居ビルの谷間では、傘を差した人間たちが、濡れた虫のように信号の色に従って動いていた。
午後七時を過ぎていた。
蛍光灯の一本が、切れかけた神経みたいに震えている。
「すみません……まだ、やってますか」
ドアの隙間から顔を出した青年は、濡れたリュックを胸に抱いていた。年齢は二十代半ば。頬はこけ、唇は紫がかっている。髪は雨だけではなく、何日も洗っていない脂で額に張りついていた。
山崎は壁の時計を見た。
本当なら閉める時間だった。机の上には、相続手続の書類と、建設業許可の更新資料と、コンビニで買った冷めたおにぎりが置かれている。
「どうぞ」
青年は、許可を得た囚人のように一歩ずつ中へ入った。
名前は水野拓海。フリーランスのシステムエンジニアだという。
彼はリュックからクリアファイルを取り出した。中には、濡れないように何重にもビニールで包まれた契約書が入っていた。表紙には大きく、こう書かれていた。
業務委託基本契約書。
山崎は、その言葉を見るたびに胸の奥に小さな鉛を感じる。
基本、という言葉ほど危ないものはない。基本の下に、人は縛られる。委託という言葉ほど都合のいいものはない。雇用ではない。命令ではない。保護もない。けれど現場では、午前九時から深夜二時までチャットで詰められ、画面共有で監視され、納品が遅れれば人格を否定される。
水野は濡れた指で契約書を押さえた。
「報酬が、三か月分、払われてません」
「金額は」
「二百七十万円です」
声に感情がなかった。感情を出す体力が残っていない人間の声だった。
「でも向こうは、僕の納品物に重大な瑕疵があるって。損害賠償を請求すると言ってきました」
「いくらですか」
「一千四百万円」
山崎は黙って契約書を開いた。
紙は白い。文字は黒い。人間の血も汗も涙も、そこにはない。ただ整然とした条文が並んでいる。その整然さこそが、山崎には吐き気を催すほど残酷に見えた。
第八条、検収。
成果物の検収の合否は甲の裁量により判断するものとし、乙はこれに異議を述べない。
第十一条、報酬。
甲による検収完了後、乙は請求書を発行し、甲は翌々月末日までに支払う。
第十四条、損害賠償。
乙は本契約に関連して甲に生じた一切の損害につき、直接、間接、特別、派生、逸失利益を問わず賠償する。
上限はない。
第十七条、知的財産権。
成果物および作成過程において生じた一切の著作権その他権利は、納品時点で当然に甲へ移転する。
報酬の支払いとは関係がない。
第十九条、秘密保持。
乙は本契約の存在、内容、紛争、交渉経緯を第三者に開示してはならない。
家族にも、同業者にも、専門家にも、世間にも黙れ。
第二十一条、違約金。
乙が前条に違反した場合、甲は乙に対し一件につき五百万円を請求できる。
山崎はページをめくる音を聞きながら、紙の裏から声が聞こえるような気がした。
文句を言うな。
金は払わない。
作ったものはもらう。
失敗したらお前のせいだ。
黙って死ね。
「これ、誰が作った契約書ですか」
「株式会社クロスバイト・ソリューションズです。僕はそこから紹介されて、実際の発注元は別の会社でした。メトロリンク・システムっていう……」
「紹介?」
「フリーランス向け案件マッチングです。自由な働き方、専門性に正当な対価を、って」
水野は笑おうとした。だが、顔の筋肉がついてこなかった。
「正当な対価って、すごい言葉ですよね。対価が正当かどうかを決める人間が、最初から一円も払う気がないのに」
山崎は契約書の末尾を見た。
甲、株式会社クロスバイト・ソリューションズ。
乙、水野拓海。
その下に、震えた筆跡の署名があった。
「契約書に署名したんだから自己責任だって、言われました」
水野は膝の上で両手を握った。
爪の周りが赤黒く裂けていた。キーボードを叩き続けた指だ。夜中にエラーを追い、朝に仕様変更を飲み込み、昼にリーダーから人格を削られた指だ。
「僕、読みました。全部読みました。でも案件を取らなきゃ家賃が払えなかった。母親の薬代もあって。断ったら次はないって言われて。最初は、普通にやれば大丈夫だと思ったんです」
普通にやれば大丈夫。
その言葉が、人をどれだけ殺すか、山崎は知っている。
普通の会社なら払う。
普通の相手なら話し合える。
普通の契約なら悪用されない。
だが世の中には、普通を信じている人間の喉元にだけ刃を当てる商売がある。
山崎は静かに言った。
「水野さん。私は行政書士です。紛争の代理交渉はできません。裁判の代理もできません」
水野の顔が沈んだ。
また壁だ、という顔だった。
役所の窓口、相談センター、無料法律相談、労基署、警察。どこへ行っても、管轄ではない、証拠が足りない、契約上の問題ですね、弁護士に相談してください、と紙のような声で返される。
「でも」
山崎は契約書を閉じなかった。
「書類を見ることはできます。矛盾を探すことも、事実関係を整理することもできます。必要なら弁護士にもつなぎます」
水野は、何かを言おうとして、唇を震わせた。
それから突然、顔を両手で覆った。
泣き声は出なかった。ただ喉の奥で、壊れた配管みたいな音がした。
山崎はティッシュを差し出さなかった。
差し出せば、水野が自分の惨めさを自覚してしまう気がした。
事務所の外では、雨が相変わらず薄汚れた街を濡らしていた。
翌日から、山崎は契約書を追い始めた。
条文はよくできていた。いや、よくできすぎていた。
専門家が作ったものではない。専門家なら、もっと慎重に逃げ道を作る。これは違う。これは現場で何度も使い、人間を潰し、そのたびに文言を削り、足し、磨き上げた刃物だった。
報酬の支払い条件は、発注者の裁量に丸投げされている。
知的財産権は、報酬未払いでも移転する。
損害賠償は無制限。
秘密保持条項は、契約そのものの相談すら萎縮させる。
解除後も競業避止が二年間続く。
しかも、別紙仕様書がない。
別紙に基づき業務範囲を確定する、と書いてあるのに、その別紙が添付されていない。つまり、何を納品すれば合格なのか、最初から決まっていない。決まっていないものを作らせ、作った後で不合格と言う。穴ではなく、罠だった。
山崎は水野に、過去のチャット、メール、請求書、納品履歴をすべて持ってくるよう伝えた。
その束は、紙にすれば二千枚を超えた。
深夜二時十四分。
「この仕様、明朝までに反映してください」
午前三時三十七分。
「プロなんだから寝てないアピールやめてもらえます?」
午前五時十二分。
「検収は通せません。理由は総合判断です」
午前七時四分。
「なお、本件に関する外部相談は秘密保持義務違反となる可能性があります」
人間を眠らせず、考えさせず、相談させず、最後に責任だけを背負わせる。
それは契約というより、緩慢な監禁だった。
三日後、山崎の事務所に一通の匿名メールが届いた。
件名はなかった。
本文には一行だけ。
「同じ契約書で死んだ人がいます」
添付ファイルには、業務委託契約書のPDFが入っていた。
甲は同じ、クロスバイト・ソリューションズ。
乙の名前は、黒塗りされていた。
だが条文は、水野のものとほとんど同じだった。違うのは、損害賠償の条項に「精神的損害」が加えられていることと、秘密保持条項に「SNS、掲示板、レビューサイト、匿名媒体を含む」と追記されていることだけ。
山崎は背筋に冷たいものを感じた。
これは一件ではない。
契約書は、成長している。
人を食って、太っている。
匿名メールの送り主は、翌日の夜、事務所の近くの喫茶店に現れた。
痩せた女だった。年齢は四十前後。黒いコートを着て、化粧はしていない。目の下には、眠れない人間特有の青黒い影が沈んでいた。
「夫が、去年死にました」
女は名乗らなかった。
「フリーのエンジニアでした。最後の半年、ほとんど家にいませんでした。家にいても、画面の前で謝ってばかりいました。すみません、直します。すみません、確認します。すみません、すみません、すみませんって」
山崎は黙って聞いた。
「亡くなった後、会社から請求書が来ました。損害賠償、八百万円。夫の死後にも、契約上の義務は相続人に承継されるって」
女の指が、カップの縁をなぞった。
「葬式の日に届いたんです」
山崎は息を止めた。
「喪服のまま封筒を開けました。夫は骨になって、小さな箱に入っていました。でもその紙は、夫より重かった」
女は笑った。
笑いというより、喉から漏れた錆びた音だった。
「契約書は死体より重いんですね」
その言葉が、山崎の中に沈んだ。
重かった。
紙一枚のほうが、人間の身体より、人生より、弔いより、重く扱われる社会だった。
死んだ者は黙る。
だが契約書は黙らない。
条文は、死者の口をこじ開けてまで金を取りにくる。
山崎はその夜、眠れなかった。
事務所の床に広げた契約書のコピーは、まるで白い骨のようだった。水野のもの。匿名のもの。女の夫のもの。さらに調べると、同じ文面の契約書を持つ技術者が何人も見つかった。
連絡を取れた者は、みな似た顔をしていた。
頬がこけている。
声が小さい。
謝り癖がある。
自分が悪かったのかもしれないと、まだ思っている。
「仕様が曖昧だったんです」
「でも、僕の技術不足もあったと思います」
「納期を守れなかったのは事実なので」
「契約したのは自分ですから」
山崎は、そのたびに胃の底が煮えるのを感じた。
搾取の最も醜いところは、奪われた人間に、自分が悪いと思わせるところだ。
殴る必要はない。
条文で囲い、チャットで追い込み、支払いを止め、社会的信用を脅し、最後に「あなたが選んだ働き方でしょう」と微笑めばいい。
自由という看板は、檻の入口に貼るとよく映える。
クロスバイト・ソリューションズの代表、黒瀬亮介は、雑誌にも出ていた。
「日本のIT人材不足を解消する新時代のマッチングプラットフォーム」
「地方在住者、育児中の人材、若手フリーランスに機会を」
「企業と個人が対等につながる社会へ」
写真の黒瀬は、白い歯を見せて笑っていた。
背後には観葉植物とガラス張りの会議室。いかにも清潔で、いかにも未来的で、いかにも人間の泥を知らない顔だった。
記事の中で黒瀬は言っていた。
「私たちは、個人が会社に依存せず、自分の力で生きる社会を作りたい」
山崎は雑誌を閉じた。
会社に依存しない人間を、会社よりも弱い立場に落として食う。
それを新しい社会と呼ぶなら、言葉はもう死んでいる。
山崎は弁護士の神崎に資料を送った。
神崎は、山崎が前から信頼している弁護士だった。灰色のスーツを好み、冗談を言わず、負け筋の事件では最初に負け筋だと言う。
翌日、神崎から電話が来た。
「山崎さん、これは厄介です」
「勝てませんか」
「勝てる部分はあります。報酬未払い、過大な損害賠償、秘密保持の濫用、不明確な仕様。争点はいくらでもある」
「なら」
「でも相手は、それを分かってやっている」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「一人ずつなら、潰せる。弁護士費用で折れる。時間で折れる。家族で折れる。秘密保持で黙る。裁判を起こしても、和解条項で口を塞がれる。彼らは負けても痛くない範囲で負ける設計をしている」
「制度の穴ですね」
「穴というより、制度そのものです」
神崎の声は乾いていた。
「契約自由。自己責任。事業者間取引。対等な当事者。きれいな言葉です。でも現実には、金を持っている側が時間を買い、時間を持たない側が人生を売る」
山崎は窓の外を見た。
向かいのビルでは、深夜なのにまだいくつもの窓が光っていた。
「あの会社を止めるには?」
「個別事件では足りません。複数被害の構造を見せる必要があります。行政、メディア、発注元、プラットフォーム。全部巻き込む。ただし、山崎さん」
神崎は少し間を置いた。
「あなたは行政書士です。代理交渉に踏み込めば、相手はそこを突いてくる」
「もう来ています」
山崎の机には、クロスバイト側の顧問弁護士から届いた内容証明があった。
貴殿の行為は、非弁行為に該当するおそれがあり……
第三者への契約内容開示は秘密保持義務違反を助長するものであり……
直ちに関与を中止されたい……
山崎は封筒を開けたとき、怒りよりも先に笑いが込み上げた。
人を潰す契約書をばらまく者たちが、制度を語る。
法を盾にして沈黙を強いる者たちが、適正手続きを叫ぶ。
腐った肉に香水をかけたような偽善だった。
数日後、水野が事務所に来なくなった。
電話にも出ない。
メッセージも既読にならない。
山崎は嫌な予感を覚え、水野の住所へ向かった。都心から電車で四十分。古いアパートの二階。ドアの郵便受けには、督促状とチラシが詰まっていた。
管理会社に連絡し、警察立ち会いで部屋が開けられた。
水野は、生きていた。
床に座り、ノートパソコンを抱えていた。画面には、クロスバイトからのメールが表示されたままだった。
損害賠償請求予定額の増額について。
秘密保持義務違反に関する警告。
関係各所への信用照会実施の可能性。
水野は虚ろな目で山崎を見た。
「すみません」
また謝った。
「僕、話しちゃったから。山崎さんに相談したから。違反なんですよね。僕のせいで、もっと請求されるんですよね」
「違います」
山崎は膝をついた。
部屋は酸っぱい臭いがした。洗濯物、カップ麺の残骸、湿った布団、恐怖で汗をかいた人間の臭い。
「違います、水野さん」
「でも、契約書に」
「契約書が全部正しいわけじゃない」
水野の目が揺れた。
「でも、署名しました」
「署名しても、人間であることをやめたわけじゃない」
山崎は自分の声が震えているのを感じた。
「相談する権利まで売ったわけじゃない。眠る権利まで売ったわけじゃない。死ぬまで謝る契約なんて、誰にも結べない」
水野は泣いた。
今度は声を出して泣いた。
壁の薄いアパートに、二十代の男の泣き声が響いた。情けなく、みっともなく、だがそれはまだ生きている人間の声だった。
山崎は、その声を聞きながら決めた。
この契約書を、紙のまま終わらせない。
神崎の事務所、被害者五名、亡くなった技術者の妻、そして山崎は、資料をひとつの束にした。
契約書の版数の変遷。
条文の追加履歴。
未払いの請求書。
納品後に発注元サービスへ組み込まれたコード。
検収不合格とされながら、実際には販売されていたシステム。
同一案件を複数のフリーランスに分割発注し、全員に責任を押しつける仕組み。
退職したクロスバイト元社員の証言も取れた。
「検収を通すな、という指示がありました」
元社員は音声を変え、顔を隠して言った。
「最初から全額払う案件ではありませんでした。開発費を圧縮するためです。フリーランスは、会社員より扱いやすい。労務管理も要らない。福利厚生も要らない。潰れても代わりが来る。代表はそう言っていました」
「契約書は?」
「法務が作ったものではありません。過去のトラブル対応を見ながら、営業と役員で直していました。相談されたら困るから秘密保持を強くしろ。SNSに書かれたら困るから違約金を入れろ。弁護士を立てられたら面倒だから、最初の請求額を大きくしろ。そういう会議がありました」
山崎は録音データを聞きながら、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
これは悪党の激情ではない。
怨恨でも、暴力でもない。
会議室で、ホワイトボードの前で、ペットボトルの水を飲みながら決められた搾取だった。
人間を壊す方法が、議題として整理されていた。
いちばん恐ろしい悪は、叫ばない。
議事録を残す。
最初に火がついたのは、ある経済誌のウェブ記事だった。
匿名の被害者証言。
契約書の黒塗り画像。
未払い報酬と損害賠償請求の実態。
記事のタイトルはこうだった。
「自由な働き方」の裏で何が起きているのか。
そこから、SNSで被害報告が増えた。
最初は小さな声だった。
「自分も同じ契約書です」
「泣き寝入りしました」
「まだ請求されています」
「家族に言えませんでした」
声はすぐに濁流になった。
クロスバイトは即座に声明を出した。
「一部報道について、事実と異なる点が多数含まれております」
「当社はフリーランスの皆様との公正な取引を重視しております」
「個別案件の詳細は秘密保持義務により回答を差し控えます」
山崎はその文章を読んで、吐き気を覚えた。
秘密保持義務。
またそれだ。
都合の悪い血を隠す白い布。
黒瀬代表は動画で頭を下げた。
「ご心配をおかけしております」
謝罪ではなかった。
心配をかけたことを詫びただけだ。
傷つけたことも、奪ったことも、死者が出たことも認めない。
その夜、山崎の事務所のドアに、赤いスプレーで文字が書かれた。
偽善者。
山崎はしばらくその文字を見つめた。
確かに、自分も偽善者かもしれないと思った。
人を助けると言いながら、法律の枠から出られない。
苦しむ者に「私は代理できません」と言う。
制度の中で仕事をして、制度の外へ落ちた人間を救おうとする。
矛盾している。
だが、山崎は雑巾を持たなかった。
その赤い文字を翌朝まで残した。
通行人が見る。
近所の者が見る。
依頼者が見る。
それでいいと思った。
偽善者。
その言葉は、少なくとも人間が書いたものだった。
契約書の冷たい文言より、まだ温度があった。
一週間後、クロスバイト本社で説明会が開かれた。
名目は、取引先向けの状況説明。
山崎は代理人ではない。交渉者でもない。だが被害者らが神崎を代理人として立て、山崎は資料作成補助者として同席した。
本社は港区の高層ビルにあった。
受付には白い花が飾られ、壁には企業理念が掲げられていた。
個の力を解放する。
その文字を見た水野が、小さく笑った。
「解放って、便利ですね」
会議室には黒瀬がいた。
写真より痩せて見えたが、目だけは油を塗ったように光っていた。隣には顧問弁護士、広報担当、役員らしき男たち。
黒瀬は穏やかに言った。
「まず、当社としては、個別の契約に基づき適正に対応してきたという認識です」
神崎が資料を置いた。
「では、これを見てください」
契約書の一覧。
被害者の時系列。
未払い報酬。
損害賠償請求。
検収不合格とされた成果物が、発注元の商用サービスに使われている証拠。
黒瀬は表情を変えなかった。
「それぞれ事情が異なります」
「文面は同じです」
「標準契約書ですから」
「標準的に搾取していた、ということですか」
顧問弁護士が咳払いした。
「そのような侮辱的表現は控えていただきたい」
山崎は黒瀬を見た。
「黒瀬さん」
神崎が一瞬、山崎を制するように視線を送った。
山崎は代理交渉をしない。ただ、事実を確認するだけだ。
「この契約書、第十七条では納品時点で権利が移るとあります。一方で、第十一条では検収完了後に報酬が発生するとあります。つまり、あなた方は検収しなくても成果物の権利を取得できますね」
黒瀬は微笑んだ。
「契約解釈の問題です」
「では第八条。検収の合否は甲の裁量。客観基準はない。別紙仕様書も添付されていない。これでは、合格させない自由をあなた方だけが持っている」
「実務上、仕様は随時調整されるものです」
「調整ではなく、後出しです」
会議室の空気が重くなった。
山崎は次の資料を出した。
亡くなった技術者の契約書だった。
妻は会議室の端に座っていた。背筋を伸ばし、膝の上で手を握っている。
「この方は、亡くなった後に損害賠償を請求されています」
黒瀬は初めて、わずかに眉を動かした。
「個別事情は承知しておりません」
「葬儀の日に請求書が届いています」
「回収業務は担当部署が」
「担当部署がやれば、人間ではなくなるんですか」
沈黙。
山崎の声は低かった。
「あなた方は、自由な働き方と言った。対等な取引と言った。機会の提供と言った。だが実際には、弱い人間を集めて、生活費で縛り、契約書で黙らせ、金を払わず、成果物だけ奪った」
「山崎先生」
黒瀬の声が冷えた。
「あなたは行政書士ですよね。法律上、どこまで発言が許されるか、お分かりですか」
山崎は頷いた。
「ええ。だから、これは交渉ではありません」
山崎は鞄から、分厚いファイルを取り出した。
「事実の確認です。この契約書が、どれだけの人間に使われたか。この条項が、どのように修正されてきたか。この未払いが、どの発注元の利益になったか。すべて整理しました」
黒瀬の目が細くなった。
「何が目的ですか」
水野が立ち上がった。
足は震えていた。だが立っていた。
「金です」
会議室の全員が水野を見た。
「僕は聖人じゃない。社会正義だけで生きていけません。家賃もある。母の薬代もある。払うべき金を払ってほしい」
水野は息を吸った。
「それから、謝ってください。僕たちが無能だったからじゃないって。あなたたちが、そういう仕組みを作ったんだって」
黒瀬はしばらく水野を見ていた。
そして、薄く笑った。
「ビジネスにはリスクがあります」
その瞬間、妻が立ち上がった。
亡くなった技術者の妻だった。
「夫にも、あなたは同じことを言ったんですか」
声は震えていなかった。
「リスクだと。死んだことも、リスクだと」
黒瀬は黙った。
「夫は最後まで、自分が悪いと言っていました。もっと技術があれば、もっと早く作れれば、もっと強ければ、と。私はそれを信じてしまった。夫が弱かったのだと、少しだけ思ってしまった」
妻の目に涙はなかった。
涙はもう尽きたのだろう。
「でも違った。あなたたちは、弱らせたんです。眠らせず、払わず、脅して、誰にも言えなくして、最後に自己責任だと言った」
会議室の外で、微かなざわめきがした。
広報担当がドアを見る。
神崎が静かに言った。
「本日の資料は、関係行政機関および報道各社に提出済みです。複数の発注元にも照会を送っています」
黒瀬の顔から、笑みが消えた。
「守秘義務違反だ」
神崎は淡々と言った。
「違法行為の疑いを申告するための開示まで、一律に封じられるとお考えなら、法廷で主張してください」
初めて、黒瀬は人間らしい表情を見せた。
怒りではない。
恐怖でもない。
計算が崩れた者の、空白の顔だった。
契約書は強い。
だが、同じ契約書が何十枚も並ぶと、それは証拠になる。
沈黙は強い。
だが、沈黙していた人間が同時に口を開くと、それは音ではなく地鳴りになる。
それでも、すべてが正されたわけではなかった。
クロスバイトは一部事業を停止した。
黒瀬は代表を退いた。
だが会社は名前を変え、別の役員が新しいサービスを始めた。
被害者の一部には未払い報酬が支払われた。
だが全額ではない。
損害賠償請求は取り下げられた。
だが謝罪文には、法的責任を認めるものではありません、と書かれていた。
記事はしばらく話題になり、やがて別の炎上に押し流された。
街は変わらなかった。
高層ビルは光り、求人広告は笑い、マッチングサービスは新しい言葉を覚えた。
挑戦。
自立。
プロフェッショナル。
自由。
山崎事務所のドアに書かれた赤い文字は、雨と洗剤で薄くなったが、完全には消えなかった。白いドアの塗装の奥に、赤が染み込んでいた。
ある夕方、水野が事務所に来た。
少し太ったように見えた。髪も切っていた。まだ目の奥には怯えが残っていたが、以前のように床ばかり見てはいなかった。
「別の仕事、始めました」
「会社員ですか」
「はい。給料は高くないです。でも、夜に寝られます」
それがどれほど贅沢なことか、山崎には分かった。
水野は封筒を机に置いた。
「先生、これ」
中には、例の契約書のコピーが入っていた。
赤ペンで、いくつもの条文に線が引かれている。
「捨てようと思ったんですけど、捨てられませんでした」
山崎は封筒を受け取った。
「どうしますか」
「残してください」
水野は静かに言った。
「誰かがまた同じものを持ってきたら、それはおかしいって、すぐ分かるように」
山崎は頷いた。
事務所の奥には、古いキャビネットがある。
相続、許認可、内容証明、契約書。
人間の暮らしの断片が、紙になって眠っている。
山崎はそこに、新しいファイルを作った。
表紙に、黒いペンで書く。
クロスバイト型契約書。
それから少し迷い、別の言葉を小さく書き足した。
契約書は死体より重い。
水野がそれを見て、苦い顔をした。
「ひどい言葉ですね」
「ええ」
山崎はファイルを閉じた。
「だから忘れないほうがいい」
夜になり、また雨が降り始めた。
窓の外では、傘を持たない若い男が、スマートフォンを見ながら走っていた。どこかの案件に遅れているのかもしれない。誰かに謝罪文を打っているのかもしれない。画面の向こうには、また別の契約書が待っているのかもしれない。
山崎は蛍光灯の下で、次の依頼書を開いた。
紙は軽い。
たった数グラムだ。
だがその上に、人は家賃を載せる。親の薬代を載せる。睡眠を載せる。誇りを載せる。沈黙を載せる。死者の名前まで載せる。
だから、契約書は重くなる。
ときに死体よりも。
そしてこの社会は、今日もその重さを量る秤だけを用意して、人間の痛みを量る秤を持たない。





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