妹の目で、僕を焼け――草薙連続放火殺人
- 山崎行政書士事務所
- 5月14日
- 読了時間: 13分
※以下は完全な創作です。実在の地名を舞台にしていますが、登場人物・事件・団体はすべて架空です。

一軒目が燃えた夜、静岡市清水区草薙には、妙な静けさがあった。
草薙駅の明かりはいつも通り白く、帰宅途中の学生たちはイヤホンをしたまま改札を抜け、商店街のシャッターは半分だけ下りていた。だが、駅から少し離れた住宅地の一角だけが、夜の底から赤く膨れ上がっていた。
清水署刑事課の片瀬大吾が現場に着いたとき、火はすでに消えていた。
焦げた柱。濡れた畳。黒く縮んだカーテン。消防の照明が、焼け残った壁を青白く照らしている。
その部屋の中央に、被害者は座っていた。
元小学校教師、三浦静江、六十二歳。
遺体は、まるで誰かに祈っているように、両手を胸の前で組まされていた。
「気持ち悪いな……」
若手刑事の浅井結花が、白い息を吐いた。
片瀬は黙って膝をついた。畳の上に、焼け残った紙片があった。端は黒く炭化しているのに、真ん中だけが奇妙に無事だった。
そこには、子どもの字でこう書かれていた。
――ありがとう。あなたの中のひかりへ。
浅井が眉をひそめた。
「ひかり?」
「名前か、言葉か、暗号か」
片瀬は紙片を証拠袋に収めながら、胸の奥にざらつくものを感じていた。
火災現場は嫌いだった。
子どものころ、片瀬は火事で右目を失いかけた。記憶は曖昧だ。赤い光。誰かの泣き声。焼けた布の臭い。病院の白い天井。そして、移植手術のあと初めて見た朝の光。
以来、右目だけが少し色を変えた。黒目のふちに、冬の湖みたいな淡い青が混じっている。
「片瀬さん?」
浅井の声で我に返った。
「行くぞ。これは事故じゃない」
「どうしてです?」
片瀬は焼け残った紙片を見た。
「犯人は、火より先に言葉を置いていった」
二件目は、その五日後だった。
草薙の坂の上にある古い一軒家。被害者は、元整備士の矢部公平、五十八歳。
またしても火元は不可解で、部屋の中央には遺体。胸の前で組まれた両手。そして同じ紙片。
――ありがとう。あなたの中のひかりへ。
三件目は、さらに四日後。
被害者は主婦の大石真紀子、五十四歳。
四件目は、草薙駅近くの小さなビルの一室で起きた。被害者は会社役員の戸倉慎一、六十歳。
四人に共通点はないように見えた。
教師、整備士、主婦、会社役員。
住所も職業も交友関係もばらばら。恨みを買うような人物でもない。どの現場にも争った形跡はほとんどなく、被害者は誰かを迎え入れたように室内にいた。
ただ一つ、奇妙な共通点があった。
どの現場にも、焦げた紙片が残されていた。
そして、紙片の裏には、小さな太陽の絵が描かれていた。
子どもがクレヨンで描いたような、丸くて不格好な太陽。
マスコミはすぐに名前をつけた。
草薙連続放火殺人。
清水署は連日、怒号と電話と報道対応で揺れた。片瀬はほとんど眠れなかった。机の上には、四人の被害者の写真と現場図が並んでいる。
浅井が紙コップのコーヒーを置いた。
「片瀬さん、休まないと倒れますよ」
「倒れても寝ながら考える」
「熱血にも限度があります」
「火をつけたやつに限度がないんだ。こっちが先に止まったら負けだ」
浅井は呆れた顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「妙なものが出ました。四人とも、過去に大きな手術を受けています」
片瀬は顔を上げた。
「手術?」
「病名は違います。でも全員、二十年ほど前に静岡市内の同じ病院に入院歴があります」
「二十年前……」
浅井が資料をめくった。
「その年、清水区草薙で別の火災が起きています。児童養護施設ではありませんが、病気の子どもを預かる民間施設です。名前は――」
浅井は一瞬、口を止めた。
「草薙ひかり園」
片瀬の背筋に、冷たいものが走った。
ひかり。
四つの紙片に書かれていた言葉。
草薙ひかり園の火災は、二十年前の夏に起きていた。小さな施設で、夜間に火が回り、数人の子どもが負傷。一人の女児が死亡している。
名前は、朝倉陽葵。
九歳。
「陽葵……ひまり、か」
片瀬は死亡記事のコピーを見つめた。古い新聞の写真には、笑っている少女が写っていた。前歯が一本抜けた、明るい顔。胸に、小さな太陽のバッジをつけている。
「片瀬さん」
浅井の声が低くなった。
「朝倉陽葵は、臓器提供者です」
片瀬は目を伏せた。
四人の被害者。
二十年前の同じ病院。
手術歴。
紙片の言葉。
――ありがとう。あなたの中のひかりへ。
「被害者たちは……」
浅井が言った。
「陽葵ちゃんから何かを受け取った人たち、かもしれません」
その瞬間、事件の形が変わった。
被害者たちは、誰かに恨まれて殺されたのではない。
少女に命を救われた人たちだった。
そして犯人は、その人たちを焼いている。
片瀬は朝倉陽葵の母、朝倉文乃を訪ねた。
文乃は草薙の古い住宅で一人暮らしをしていた。庭には小さな鉢植えが並び、玄関先には風鈴が吊るされていた。冬なのに風鈴。鳴らないまま、透明な舌だけが揺れていた。
文乃は痩せた女性だった。年齢よりずっと老けて見える。だが、目だけは澄んでいた。
「陽葵のことを、今でも覚えている人がいるんですね」
文乃はそう言って、薄く笑った。
片瀬は事件のことを伏せきれなかった。もちろん捜査情報のすべては話せない。だが、四人が陽葵から何かを受け取った可能性があること、現場に「ひかり」と書かれた紙片が残されていたことは告げた。
文乃はしばらく黙っていた。
そして、膝の上で両手を握った。
「私は、あの子を殺したんでしょうか」
「違います」
片瀬は即答した。
文乃は首を振った。
「でも私は、陽葵の体を誰かに渡しました。あの子が冷たくなっていくのが怖くて、誰かの中で生きてほしいと思ったんです。私は……母親なのに、あの子を手放した」
「手放したんじゃない。届けたんです」
文乃の目が揺れた。
「刑事さんは、やさしいことを言いますね」
「本当のことです」
片瀬は、壁に飾られた写真を見た。陽葵と、もう一人の少年が写っている。少年は陽葵より少し年上で、無表情にカメラを見ていた。陽葵はその少年の腕にしがみついて笑っている。
「お兄さんですか?」
文乃の表情がこわばった。
「蓮です。朝倉蓮。陽葵の兄です」
「今はどちらに?」
文乃は答えなかった。
代わりに、古いアルバムを閉じた。
「蓮は、とても頭のいい子でした。検査をしても、いつも先生たちが困った顔をした。数値の上限を超えてしまうんです。けれど、あの子は……火事のあと、時間が止まってしまった」
「止まった?」
「私が言ったんです。陽葵は、みんなの中で生きているって」
文乃は唇を噛んだ。
「励ますつもりでした。でも蓮は、その言葉をそのまま信じてしまった。あの子にとって世界は、比喩ではなかったんです」
片瀬は胸騒ぎを覚えた。
「蓮さんは今、どこに?」
文乃は、ゆっくり顔を上げた。
「刑事さん」
「はい」
「あなたの右目、きれいですね」
片瀬は一瞬、息を止めた。
文乃はすぐに視線をそらした。
「すみません。変なことを言いました」
片瀬は何も言わなかった。
だが、その言葉は針のように胸に刺さった。
署に戻ると、浅井が待っていた。
「片瀬さん、朝倉蓮について調べました」
「出たか」
「はい。ただし、現在は名前を変えています」
浅井は一枚の写真を机に置いた。
そこに写っていた男を見た瞬間、片瀬の全身が凍った。
神谷蓮。
今回の捜査で、火災現場の心理分析を外部協力者として手伝っていた男だった。
細身で、静かな声をしたデータ解析の専門家。署内でも評判がよかった。彼の分析はいつも正確すぎるほど正確で、まるで犯人の頭の中を覗いたようだった。
いや。
覗いていたのではない。
自分の頭の中だったのだ。
「片瀬さん……」
浅井の声が震えた。
「神谷蓮が、朝倉蓮です」
片瀬は机を叩いた。
「居場所は!」
「携帯は切れています。ただ、最後に位置情報が出たのは――」
浅井が地図を指した。
「草薙ひかり園跡地です」
草薙ひかり園は、すでに廃墟になっていた。
丘の斜面に残された古い建物は、長い年月に晒され、窓は割れ、壁は蔦に覆われていた。夜の風が木々を揺らし、どこかで犬が吠えた。
片瀬は懐中電灯を手に、建物へ踏み込んだ。
「蓮!」
声が闇に吸い込まれる。
奥の広間に、明かりがあった。
裸電球の下に、神谷蓮――朝倉蓮が立っていた。黒いコートを着て、穏やかな顔をしている。
その足元には、六枚の写真が並べられていた。
四人の被害者。
そして、まだ殺されていない二人。
そのうち一枚を見て、片瀬は息を呑んだ。
自分の写真だった。
「ようやく来た」
蓮は微笑んだ。
「妹の目で、僕を見てくれる人」
片瀬の右目が、痛んだ気がした。
「何を言ってる」
「あなたの右目は、陽葵のものだ」
蓮の声は、ひどく静かだった。
「二十年前、あなたは火事で角膜を失いかけた。陽葵は死んだ。母は陽葵を誰かの中で生かしたいと言った。あなたは、その一人です」
片瀬は否定しようとした。
だが、言葉が出なかった。
幼いころの病室。
包帯。
医師の声。
母親代わりの叔母が泣いていた記憶。
そして、初めて見た朝の光。
それは自分の目で見たものではなかったのか。
陽葵という少女の目で見たものだったのか。
「だからお前は、被害者を殺したのか」
片瀬の声は低かった。
「陽葵から何かを受け取った人たちを」
蓮は首をかしげた。
「殺した?」
「違うのか」
「僕は、集めていたんです」
その言葉に、片瀬の背筋が凍った。
蓮は写真を一枚ずつ指さした。
「心臓を受け取った人。腎臓を受け取った人。角膜を受け取った人。組織を受け取った人。陽葵は、ばらばらにされた。母は言った。みんなの中で生きている、と」
蓮の目に、初めて感情が浮かんだ。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
それは、幼い子どもの混乱だった。
「でも、みんなの中で生きるって何ですか。笑う人の中に陽葵がいて、怒鳴る人の中に陽葵がいて、年を取る人の中に陽葵がいて、知らない町で知らない名前になっていく。それは生きているんじゃない。迷子だ」
「蓮」
「僕は、妹を一人に戻したかった」
片瀬は拳を握った。
「そのために、人を焼いたのか」
蓮はまっすぐ片瀬を見た。
「火は、陽葵が最後に見たものです。だから火で返すしかない」
「ふざけるな!」
片瀬の怒声が廃墟に響いた。
「陽葵ちゃんは、お前にそんなことを望んだのか!」
蓮の顔が歪んだ。
「あなたに何がわかる!」
「わかるわけないだろ!」
片瀬は叫んだ。
「でもな、わからなくても止めるんだよ! 人が死ぬのを見過ごしたら、刑事じゃなくなる。お前がどれだけ頭がよくても、どれだけ苦しくても、人を焼いていい理由にはならない!」
蓮は笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「やっぱり、あなたは陽葵の目を持っている」
「違う」
片瀬は右目を押さえた。
「これは俺の目だ。陽葵ちゃんがくれた、俺の目だ」
蓮の表情が固まった。
「くれた?」
「奪ったんじゃない。お前の妹は、誰かを生かしたんだ」
片瀬は一歩踏み出した。
「お前が殺してきた人たちは、陽葵ちゃんの命を盗んだんじゃない。受け取って、今日まで生きてきたんだ。笑って、泣いて、失敗して、それでも生きた。その中に陽葵ちゃんがいたなら、それは迷子なんかじゃない」
蓮の唇が震えた。
「じゃあ、陽葵はどこにいる」
「ここだ」
片瀬は自分の胸を叩いた。
「俺が誰かを助けたいと思うときにいる。被害者の名前を忘れたくないと思うときにいる。お前をここで死なせたくないと思うときにいる」
その瞬間、廃墟の奥で火が上がった。
蓮が仕掛けていた最後の炎だった。
赤い光が壁を舐め、古い木材が不気味に軋む。煙が一気に広がった。片瀬の喉が焼けるように痛んだ。
蓮は動かなかった。
「これでいい」
「馬鹿野郎!」
片瀬は蓮の腕を掴んだ。
蓮は抵抗した。
「離せ! 僕も行くんだ! 陽葵を一人に戻すんだ!」
「陽葵ちゃんを言い訳にするな!」
片瀬は蓮を殴った。
蓮の体が床に倒れた。
「お前は妹に会いたいんじゃない! 妹が誰かを救ったことが悔しいんだ! 自分だけが置いていかれたと思ってるんだ!」
蓮は床の上で、子どものように泣いた。
「僕は……あの日、助けられたんだ」
煙の中で、蓮の声が途切れ途切れに聞こえた。
「陽葵が、僕を押した。出口のほうへ。僕だけ外に出た。あの子は笑ってた。兄ちゃん、行って、って。僕は……僕は、妹に生かされたのに、妹がいない世界で生きるのが怖かった」
片瀬は一瞬、動けなかった。
これが動機だった。
復讐ではない。
憎悪でもない。
天才と呼ばれた男が二十年かけて作り上げた、あまりにも幼い願い。
妹を取り戻したい。
妹が誰かを救った世界を、許せない。
だから、妹が救った人間を焼いた。
だから、最後に妹の目を持つ刑事を呼んだ。
妹に見てほしかったのだ。
自分がどれほど壊れてしまったのかを。
片瀬は蓮を肩に担いだ。
炎が天井を走った。
そのとき、外から浅井の声が聞こえた。
「片瀬さん!」
「ここだ!」
浅井たちが突入し、二人は引きずり出された。
外の空気は冷たかった。片瀬は地面に倒れ込み、咳き込んだ。蓮は救急隊員に囲まれながら、ぼんやり空を見ていた。
夜明け前だった。
草薙の空は、まだ黒い。
だが東の端だけが、わずかに白み始めていた。
蓮がかすれた声で言った。
「刑事さん」
片瀬は顔を向けた。
「陽葵は……何を見ていますか」
片瀬は右目を閉じた。
そして、もう一度開いた。
煙で滲む視界の中に、泣いている浅井がいた。怒鳴る消防隊員がいた。担架を運ぶ救急隊員がいた。震えながら朝を待つ草薙の町があった。
片瀬は言った。
「お前が、まだ生きてるのを見てる」
蓮は、声を出さずに泣いた。
事件は終わった。
朝倉蓮は逮捕され、四件の放火殺人と二件の未遂について供述した。彼はすべてを認めた。あまりにも精密な計画、異常な記憶力、そして理解しがたいほど純粋な動機に、世間は騒然とした。
マスコミは彼を「知能指数マックスの殺人鬼」と呼んだ。
だが片瀬は、その呼び名を見るたびに胸が悪くなった。
蓮は怪物ではなかった。
怪物にしてしまったのは、二十年間、誰にも届かなかった悲しみだった。
数日後、片瀬は朝倉文乃の家を訪ねた。
文乃は、逮捕の報道を見ても取り乱さなかった。ただ、庭の鉢植えに水をやりながら、静かに泣いていた。
「蓮は、生きていますか」
「生きています」
片瀬が答えると、文乃は膝から崩れ落ちた。
「よかった……」
その言葉が、片瀬には重かった。
殺人犯の母が、息子の生存を喜ぶ。
それは許されることなのか。
片瀬にはわからなかった。
だが、人間とはそういうものだとも思った。
罪を憎んでも、命まで憎みきれない。憎みきれないから、人は苦しむ。
文乃は立ち上がり、片瀬の右目を見つめた。
「陽葵の目で、あなたは何を見てきましたか」
片瀬は少し考えた。
「ひどいものをたくさん見ました」
「はい」
「でも、助けたいと思える人も、たくさん見ました」
文乃は微笑んだ。
「それなら、あの子は幸せです」
片瀬は何も言えなかった。
帰り道、草薙駅前には朝の光が差していた。通学する学生たちが笑いながら歩き、店先では老婆が花の鉢を並べていた。町は事件を忘れたわけではない。それでも、今日を始めようとしていた。
片瀬は右目を細めた。
陽葵という少女の命は、誰かの中で生きた。
その事実を、兄は許せなかった。
けれど片瀬は思う。
命は、完全な形のまま残るものではない。
誰かの言葉に残る。
誰かの傷に残る。
誰かの視界に残る。
そして時には、罪を犯した者を、それでも死なせまいとする手の中に残る。
浅井が隣に並んだ。
「片瀬さん」
「なんだ」
「また無茶しましたね」
「してない」
「しました」
「じゃあ、少しだけだ」
浅井は呆れたように笑った。
片瀬も笑いかけたが、途中でやめた。
草薙の空に、朝日が昇っていた。
それは火ではなかった。
人を焼く赤ではなく、人を起こすための赤だった。
片瀬はその光を、二つの目で見た。
片方は自分の目。
もう片方も、もう自分の目。
だがその奥で、前歯の抜けた少女が笑っているような気がした。
事件の最後に残った謎は、一つだけだった。
朝倉陽葵は、兄を許すのか。
その答えを、片瀬は知らない。
けれど、もし彼女が本当に誰かの中で生きているのなら。
きっと彼女は、こう言うだろう。
――兄ちゃん、まだ行って。
生きて、と。





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