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安倍川の「返事の石」


――幹夫青年、手放す勇気を“手のひら”で覚える――



 安倍川(あべかわ)の水は、ときどき怒っているみたいに見える。

 雨の次の日、川は茶色く膨らみ、石の間を押しのけ、音を大きくして流れていく。

 でも幹夫(みきお)は、それを“怒り”と呼ぶのを少しだけためらった。



 川は、ただ――運んでいるだけなのだ。

 昨日の雨も、山の土も、落ちた葉も、誰かが落とした小さなプラスチックも。

 “いまここに溜まって困っているもの”を、次へ次へと渡していく。



 幹夫はそれが、少し羨ましかった。

 自分はいつも、溜めてしまう。

 言いそびれた言葉、引き受けすぎた気遣い、返せない返事。

 胸の内側にそっと積んで、崩れないように、誰にも見えないように。



 けれど今日は、川沿いの点検の日だった。

 仕事としての“流れ”に触れられる。

 それだけで、胸の奥が少しだけ息をする。


1 濡れた草の匂いと、手のひらの温度


 朝、堤防の道はまだ湿っていた。

 空はうすい青で、雲が少しずつほどけていく。

 川の匂いは、土と、苔と、濡れた草と、遠くの海の塩が混ざった匂いだ。

 鼻の奥がつんとするのに、不思議と嫌じゃない。



 幹夫は反射材のついたベストを着て、点検表をクリップボードに挟み、河川敷の入り口の看板を見上げた。

 「増水注意」「立入禁止区域」

 文字はいつも通り角ばっている。

 けれど、看板の下で揺れている草の穂は、やさしい。



 堤防の下へ降りる階段の途中で、幹夫は足を止めた。

 石の隙間に、小さなものが光っていた。



 ――石。



 手のひらに乗るくらいの、丸い川石。

 濡れていて、表面がすべすべしている。

 拾い上げると、冷たいはずなのに、なぜか指先に“名残の温度”がある。

 まるで誰かの手から、さっき離れたみたいに。



 幹夫は無意識に、その石を掌の中心に置き、親指でゆっくり撫でた。

 撫でながら思う。

 石は、返事をしない。

 でも返事をしないものに、返事を求めてしまう夜が、たしかに人にはある。



 幹夫は石をポケットに入れた。

 理由はない。

 ただ、置いていきたくなかった。



 そのとき、堤防の下のほうで、砂利を踏む音がした。

 人の足音。急いでいる、細い足音。



 幹夫が顔を上げると、制服姿の少年が、立入禁止のロープの向こう側に入りかけていた。

 背中が硬い。肩が少し上がっている。

 “探している”背中だ、と幹夫は思った。



 幹夫は声を張るのが苦手だ。

 でも、危ない場所に入ろうとしている背中を見ると、声を出さずにいられない。



 「……そこ、入っちゃだめ!」



 少年はびくっとして振り向いた。

 目が赤いわけじゃない。泣いているわけでもない。

 ただ、目が“どこにも落ち着いていない”。



 「すみません、でも……ちょっとだけ……」

 言葉が途切れる。

 幹夫は、その途切れが胸に刺さる。

 言葉が途切れるとき、人はたいがい、ひとりで抱えすぎている。



 「何か落とした?」

 幹夫がゆっくり尋ねると、少年は一瞬だけ唇を噛み、頷いた。

 「……石。探してます」



 石。

 幹夫はポケットの中の石を、指先でそっと触った。


2 探しているのは、石じゃない


 堤防の上へ戻るよう促すと、少年は不満そうに顔をしかめた。

 “いまここで”見つけなければいけない何かがある、という顔だった。



 幹夫は、その必死さを押し返さないように言った。

 「ロープの中は危ない。水、昨日より増えてる。

 ……でも、探してる理由は聞かせて。手伝えるかもしれない」



 少年は少し迷ってから、短く名乗った。

 「蓮(れん)です」

 言ったあと、視線を川へ戻す。

 まるで名前を置いていくみたいに。



 「どんな石?」

 幹夫が訊くと、蓮はポケットから小さな布袋を出した。

 袋の中には、丸い石がいくつか入っている。

 白い線が入った石、黒くて平たい石、粒がきらきらする石。

 どれも、丁寧に拾われている。



 「これ……姉と集めてた」

 蓮は言葉を探しながら続けた。

 「石に名前つけて、川に投げるんです。

 ……投げるっていうか、渡すっていうか」



 “渡す”。

 幹夫の胸が小さく鳴った。

 蓮は、川をただの遊び場にしていない。

 相手として見ている。

 それが、幹夫には痛いくらい分かった。



 蓮は布袋の中の一つを取り出し、指で撫でた。

 「姉が、これを“よび水”って呼んでた。

 投げると、返事が返ってくるって」



 「返事?」

 幹夫が聞き返すと、蓮は少しだけ笑った。

 でもその笑いは、嬉しい笑いじゃない。

 思い出すと胸が詰まる笑いだった。



 「同じ石が戻ってくるわけじゃないんです。

 ……別の石が、次の日とか、別の場所で見つかる。

 それを“返事”って。姉が」



 幹夫は、何も言えなかった。

 返事。

 返事が返ってくると信じられる心は、あたたかい。

 同時に、返事が返ってこない日があることも知っている心だ。



 蓮は視線を落とし、声を小さくした。

 「……昨日、姉の一周忌で。

 最後にここ来て、姉が好きだった石、投げたんです。

 “また返事くるよ”って言いながら」



 幹夫は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 一周忌。

 “返事”を待つ日。

 待つのが、苦しい日。



 蓮は川を見たまま言った。

 「でも、昨日、雨降って。

 流れが変わって……石、どこ行ったか分かんなくなって」

 言葉が少し荒くなる。

 「返事、来ないかもしれないって思ったら……怖くなって」



 幹夫は、胸の中でそっと繰り返した。

 怖い。

 それは、石が見つからない怖さじゃない。

 “姉が遠くなる”怖さだ。



 幹夫は、安い慰めの言葉を言いたくなかった。

 「大丈夫だよ」なんて、根拠もなく言いたくなかった。

 でも、沈黙で突き放したくもなかった。



 だから幹夫は、いちばん小さな現実だけを差し出した。

 「……今日は、危ない場所には入らないで、見えるところだけ探そう。

 川は、運ぶけど……戻すことも、ある」



 蓮は、少しだけ頷いた。

 “戻すこともある”という言い方が、幹夫には大切だった。

 絶対じゃない。

 でも、ゼロでもない。

 それが現実にいちばん近い希望だ。


3 川が返すのは、同じ形じゃない


 二人はロープの外側を歩きながら、砂利の間を目で追った。

 雨で運ばれた枝や草が、ところどころに絡んでいる。

 小さなプラスチック片、流木の破片、誰かのボール。

 川は、いろんなものを持ってくる。

 持ってきて、置いていく。



 蓮は必死だった。

 でも必死なまま、少しずつ呼吸を整えていく。

 幹夫はその変化が分かった。

 “探す”という行為は、ときどき人を壊す。

 でも、“探す”という行為で救われる人もいる。

 探している間だけ、心が“ここ”にいられるから。



 しばらくして、蓮が立ち止まった。

 「……これ、似てる」

 砂利の間に、白い帯の入った石があった。

 蓮が求めている石の特徴と、少し似ている。



 蓮は拾い上げた。

 掌の中で石を転がし、目を細める。

 「……違う」

 その声は、怒りではなかった。

 ただ、がっかりした声。

 がっかりして、でも諦めきれない声。



 幹夫は、そのときポケットの中の石の存在を思い出した。

 朝、階段の途中で拾った石。

 あの石は、丸く、表面がやさしい。

 そしてなぜか、温度が残っていた。



 幹夫は、迷った。

 これは蓮の石ではない。

 ただの偶然の石だ。

 でも、蓮が求めているのは“同じ石”ではなく、“返事”なのかもしれない。

 返事は、同じ形で来ない。

 それなら——



 幹夫は、そっと石を取り出して、蓮の掌の上に置いた。

 「……これ、さっき拾った。

 君の探してる石じゃないと思う。でも……」



 蓮は石を見た。

 見た瞬間、息が止まったように見えた。

 石の表面に、小さな粒が光っていた。

 星屑みたいな、細い光。

 ただ濡れているだけなのに、光が“中に”あるみたいに見える。



 蓮は指で石を撫でた。

 その撫で方が、布袋の石たちを撫でるときと同じだった。

 慎重で、でも乱暴になれない撫で方。



 「……温かい」

 蓮が小さく言った。

 幹夫は、胸の奥がきゅっとした。

 幹夫も、そう感じた石だ。



 蓮は石を握って目を閉じた。

 しばらく、ただそれだけ。

 風が川面を撫で、遠くで鳥が鳴く。

 その間、幹夫は何も言わなかった。

 言葉が邪魔になる時間がある、と幹夫は知っている。



 蓮が目を開けたとき、表情がほんの少しだけ変わっていた。

 泣いてはいない。

 でも、目の奥の固さが、少しほどけた。



 「……姉、これ好きそう」

 蓮は言った。

 それは、諦めの言葉じゃなかった。

 “受け取る準備ができた”声だった。



 幹夫はうなずいた。

 「……それが、返事かもしれないね」



 蓮は石を布袋の中に入れ、袋の口を結んだ。

 結んだあと、川を見て、少し迷って、言った。

 「……探してた石は、たぶん、もっと下流に行った。

 でも……いい。

 返事、もらった気がする」



 幹夫はその言葉が、胸にしみるのを感じた。

 “いい”と言うまでに、どれだけの怖さを飲み込んだのか。

 幹夫は、その怖さを軽く扱いたくなかった。

 だから、ただ一つだけ言った。

 「……それ、ちゃんと大事にして」



 蓮は頷いた。

 「はい」



 その「はい」が、やけにまっすぐで、幹夫は少し泣きそうになった。


4 手放すのは、全部じゃなくていい


 堤防の上へ戻る階段の途中で、蓮がぽつりと言った。

 「……大人って、こういうの、分かんないと思ってた」



 幹夫は、足を止めた。

 胸の奥が少し痛い。

 分かっているつもりで、分かったふりをして、分からないまま通り過ぎる大人を、幹夫自身も何度も見てきたからだ。

 自分もそうなりそうで怖いからだ。



 幹夫は正直に言った。

 「……分かんないこと、いっぱいある。

 でも、分かろうとするのは、できる」



 蓮は少し笑った。

 その笑いは、今日いちばん軽かった。



 別れ際、蓮は小さく頭を下げた。

 「ありがとうございました」

 幹夫は手を軽く振り、見送った。



 仕事に戻る道すがら、幹夫は携帯を取り出した。

 姉から、まだ返事は来ていない。

 でも画面を見た瞬間、胸の中の“詰まり”が自分を押してくるのが分かった。



 実家の件。

 手放すかどうか。

 決めなければいけない。

 でも幹夫は、今日、少しだけ学んだ。



 手放すのは、全部じゃなくていい。

 同じ形で残せなくてもいい。

 “返事”は、別の形で受け取れることがある。



 幹夫は姉にメッセージを打った。

 ゆっくり、息をしながら。



 ――「家のこと、手放す方向でもいいと思う。

   でも、庭の石と、父の机だけ残したい。

   全部じゃなくていいなら、俺、決められる気がする」



 送信するとき、幹夫は少し震えた。

 震えは怖さだ。

 でも、震えは生きている証拠でもある、と最近思えるようになった。



 川のほうから風が来た。

 湿った匂いを運ぶ風。

 幹夫はその風が、どこか遠いところで蓮の布袋も撫でている気がして、胸が少しあたたかくなった。


おわりに


 帰り道、幹夫は堤防の上から安倍川を見下ろした。

 水はまだ濁っている。

 でも濁りの中にも、光がある。

 川面が、空の明るさを少しずつ取り戻している。



 幹夫は思った。

 自分の中にも、濁った川がある。

 思い出や迷いが混ざって、透明じゃない。

 けれど、透明じゃなくても流れていい。

 流れながら、形を変えながら、返事を返してくれる日がある。



 ポケットの中は空だった。

 あの石は、蓮の布袋の中へ行った。

 それでいい。

 “返事”は、受け取ったら誰かに渡してもいい。

 返事を独り占めしなくていい。



 幹夫は、手のひらを一度だけ開いてみた。

 何もない。

 でも、何もない手のひらが、今日は少しだけ軽い。



 軽いまま、幹夫は歩き出した。

 川は流れる。

 人も、少しずつ流れる。

 手放しながら、受け取りながら。

 その繰り返しの中で、やっと自分の息が、自分のものになっていく。

 
 
 

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