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安倍川の向こうで、夏は止まっていた

安倍川は、夏になると川というより「光の原っぱ」みたいになる。水は真ん中を細く流れているだけで、広い河原は白い石と乾いた砂が太陽を返し続ける。遠くで蜩が鳴くと、音が熱に溶けて、どこから鳴いているのか分からなくなる。

幹夫は静岡駅から出た瞬間、空気の質が違うと気づいた。牧之原の朝は茶畑の匂いが先に立つのに、ここはアスファルトの熱が先に来る。息を吸うと、肺の奥で「夏」が鳴る。空は同じはずなのに、街の上の空は少し低い。

母に会う。そう決めたのは自分のはずなのに、足取りは自分のものじゃないみたいだった。歩道の白線に合わせて歩いてしまう。白線の上なら、迷わない気がするからだ。

安倍川の方へ向かうバスは冷房が効いていて、窓が曇っていた。曇りの向こうに、遠くの富士がかすかに見える。前なら見上げるのが怖かった。今日は視線だけで追った。富士はそこにいるだけで、何かを急かさない。

バスを降りると、川の匂いがした。潮とも違う、茶畑とも違う、石と水の匂い。湿っているのに、どこか乾いている。河原に近いほど、蝉の声が増え、反対に人の声が薄くなる。夏休みのはずなのに、世界の真ん中ががらんとしている感じがした。

「幹夫!」

呼ばれて振り返ると、俊が手を上げていた。春に引っ越していった俊だ。髪が少し伸びて、日焼けの色も変わっていて、同じ顔なのに別の場所の空気をまとっている。

「来たじゃん。暑っちいら?」

俊は相変わらず雑な言い方で、でもその雑さが、幹夫の胸の奥の固まりを少しだけゆるめた。

「……暑い」

「河原、行く? あっち、風ある」

俊の指差す方向へ歩き出す。河原の入口をくぐると、光が一段階強くなる。白い石が目に痛い。幹夫は思わず目を細め、俊の背中を追った。

河原の真ん中あたり、水の流れが見えるところで俊は立ち止まった。川幅は広いのに、流れは一筋で、細い音だけ立てている。水の音は大きくない。大きくないのに、耳に残る。ずっと同じところを掻くみたいに、心の奥をなぞってくる。

「ここさ、最初来たとき、びびった」

俊が石を蹴った。乾いた音がした。

「なんか、時間止まってるみたいじゃね? 夏休みってさ、何しても進んでる感じするのに、こっちは……ずっと同じ」

幹夫は、その「同じ」が胸に引っかかるのを感じた。同じ、という言葉は、安心にもなるし、怖くもなる。安心は「戻れる」匂いがする。怖さは「戻れない」匂いがする。

「……母さん、あっちなんだよね」

幹夫が言うと、俊は一瞬だけ表情を変えた。すぐに戻したけれど、その一瞬に「知ってる」が入っていた。俊は全部を聞かない。聞かないで、勝手に分かったふりもしない。その距離がありがたくて、幹夫は息を吐いた。

「向こう側?」

俊は川の向こう、住宅が並ぶ方を顎で示した。幹夫は頷いた。

橋の方へ歩く。アスファルトに近づくほど、河原の光が背中から剥がれていく。振り返ると、河原は眩しすぎて、目を開けていられない。まるで、そこだけ季節が閉じ込められているみたいだった。

橋の上は風が強い。風が汗を冷やす。冷えると同時に、肌がざらつく。幹夫は手すりを握った。金属が熱い。熱いのに、手のひらの内側だけ妙に冷たい。

「なあ」

俊が、少しだけ声を落とした。

「無理すんなよ。今日、会うだけで、十分だら」

「無理してるわけじゃ……」

と言いかけて、幹夫は言葉を飲んだ。無理していない、と言い切れるほど自分の心を信用できない。信用できないから、いつも「ちょうどいい」距離を探す。でも今日は、その「ちょうどいい」が見つからない。

橋を渡り切ったところで、街の匂いが戻ってきた。排気ガスと、夕立の前みたいな湿った熱。道端の自販機が唸り、電線が低く唸る。俊が先に立って案内する。

母の住むアパートは二階建てで、外壁が日に焼けていた。階段の鉄が、触れなくても熱いのが分かる。二階の廊下は風が通らず、空気が溜まっていた。夏がそこに居座っている。動かない夏。

「ここ」

俊が小声で言って、一歩だけ後ろへ引いた。幹夫はノックをする手を上げて、止めた。止めた指先の震えを見られたくなくて、拳を握り直す。拳の中で汗が滲む。

ノックの音は思ったより軽かった。軽いのに、廊下に残る。残る音は、逃げない。

少しして、鍵が回る音がした。ドアが開いて、母が立っていた。

母は、駿河湾で会ったときより少し明るい服を着ていた。けれど表情は同じだった。笑おうとして、途中で止まる顔。笑顔の形を探している顔。

「……幹夫」

名前を呼ばれるだけで、幹夫の胸の奥が反射的に固まる。固まるのに、同時に、ほどけたい部分もある。ほどけたい部分があることが、また怖い。

「……来た」

幹夫はそれだけ言った。

母は「暑かったでしょう」と言い、慌てたように玄関にスリッパを出した。その仕草が、昔の家の台所の仕草と重なる。重なって、幹夫は視線を落とした。重なるものは、嬉しいのに痛い。

部屋に入ると、扇風機が回っていた。首を振りながら、同じ場所に風を送り続ける。カタ、カタ、という小さな音が、部屋の時間を刻む。壁には安いカレンダーが掛かっていて、めくり忘れたのか、先月のままになっていた。

——ここは、止まってる。幹夫は思った。安倍川の向こうで、夏は止まっている。扇風機の風の形も、カレンダーの紙も、母の「ごめんね」を言い出せない口元も。

母は冷蔵庫から麦茶を出した。コップに注ぐ音が、やけに大きい。氷がぶつかって、からん、と鳴る。氷の透明さが、なんだか現実みたいだった。触れたら割れる。

「……お父さんは」

母が聞く前に、幹夫は言ってしまった。

「今日は……来てない」

本当は父も来た。でも玄関の下で待っている。幹夫が「一人でいい」と言ったわけじゃない。父が「ここまでは」と言った。父なりの限界だ。母なりの限界と同じで、そこに責める言葉は届かない。

母はコップを持つ手を少し止めた。止めて、それから小さく頷いた。

「……そう」

沈黙が落ちる。扇風機だけが、止まらずに回り続ける。止まっている夏の中で、機械だけが律儀に動く。その動きが、余計に「止まっている」を際立たせた。

幹夫はコップを両手で包んだ。冷たい。冷たいのに、胸は熱い。熱いのに、喉は乾く。

母は言った。

「……また、会ってくれてありがとう」

その「ありがとう」は、駿河湾のときより少しだけ大きい。でもまだ、沈みそうな声だった。沈まないように、母が自分の喉で必死に支えている声。

幹夫は、笑えないまま、でも目を逸らさずに言った。

「……俺、分かんないんだよ。何をどうしたらいいか」

母の目が揺れた。揺れは、涙より先に来る。揺れは、言葉が追いつかないときの身体の反応だ。

「私も……分かんない」

母はそう言って、少しだけ息を吐いた。その吐き方が、やっと「今」に触れた吐き方だった。止まっていた夏が、ほんの一ミリだけ動く。

幹夫はふと思い出した。小さいころ、家族で川へ行ったことがある。どこの川だったかは曖昧だ。でも水の冷たさだけは覚えている。母が「石、滑るよ」と言って、幹夫の手首を掴んだ。掴んだ手の強さ。強さは、怖さを守るためにあると、そのとき初めて知った。

幹夫は、コップの縁を指でなぞった。

「……さっき、河原見た。こっち側の」

母は小さく頷いた。

「安倍川、ね」

母が「安倍川」と言ったとき、幹夫の中で何かが繋がった。河原の光。橋の風。止まっている部屋の夏。全部が、一本の線になって、胸の奥へ落ちてくる。

「……向こうでさ」

幹夫は言葉を探しながら続けた。

「河原、夏が止まってるみたいだった。ずっと同じで……眩しくて。目、開けてらんない」

母はそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。笑顔ではない。けれど、「分かる」に近い形。

「止まってるように見えるよね。ああいう場所って」

母は窓の外を見た。窓の外は隣の建物の壁で、空が少ししか見えない。

「でもね、止まってるのは……たぶん、私のほう」

幹夫は、その言葉にすぐ返せなかった。返したら、何かが決まってしまう気がした。でも今度は、決まることが全部怖いわけじゃなかった。決めないまま放っておくほうが、いつまでも自分を縛る気がした。

「……俺も、止まってるとこある」

幹夫はそう言ってしまってから、胸が少し軽くなるのを感じた。「ある」と言えたことが、動きの始まりみたいだった。

そのとき、ドアの外で足音がした。廊下の板がきしむ。母が身を硬くする気配が伝わってくる。幹夫は立ち上がり、玄関へ向かった。

ドアを開けると、そこに父がいた。日陰にいても汗をかいている。帽子のつばを握り、視線を落としている。父は上手に立てない。人の前で、感情の置き場所が分からない。

幹夫は、父の手首を軽く掴んだ。昔、母が自分の手首を掴んだみたいに。強くは掴まない。掴んだら、父は壊れそうだった。

「……来て」

父が目を上げた。驚いた目。それから、少しだけ安心した目。

父は黙って頷き、部屋へ入った。

母は立ち上がっていた。三人が立っているだけで、部屋が狭くなる。狭いのに、逃げ道がある感じもする。逃げ道があるのは、誰かが一緒にいるからだ。

父は母を見て、すぐ目を逸らし、しかし逃げるように玄関へ戻りかけた。その背中に、幹夫が言った。

「……夏、止まってたらさ」

声が少し震えた。

「……動かすしかないじゃん。誰かが、動かさないと」

父が立ち止まった。母も立ち止まった。扇風機の首振りが、ちょうど三人の間を横切って、風が順番に頬を撫でていく。

父は、喉の奥で何かを探してから、やっと言った。

「……動かすの、下手でな」

母はすぐには泣かなかった。泣く代わりに、小さく笑ってしまうような息を吐いた。笑いと泣きの間の息。人が本当に困っているときの息。

「……私も」

幹夫は、その二つの「下手」が、初めて同じ場所に並んだ気がした。並んだだけで、何かが解決したわけじゃない。でも、止まっていた夏に、ほんの少しだけ水が入った。水が入れば、いつか流れる。

帰り道、幹夫は俊とまた河原へ出た。夕方の光は少し柔らかくなって、石の眩しさも角が取れている。川の流れが昼より太く見えるのは、光のせいか、自分の目のせいか。

「どうだった?」

俊が聞いた。

幹夫は「うまく」と言いかけて、やめた。うまくなんて、言えない。でも、何も起きなかったわけでもない。

「……止まってた夏が、ちょっとだけ動いた」

俊はそれを聞いて、意味が分かったのか分からないのか、でも頷いた。

「それ、十分だら」

河原の向こうに街がある。街の向こうに、今日の部屋がある。安倍川はその間を流れている。止まって見えるくらいゆっくり、でも確かに。

幹夫は川を見た。水は音を立てて、流れていく。止まらない。止められない。止まっていたのは夏じゃなく、自分の中のどこかだったのかもしれない、と幹夫は思った。

それでも。

安倍川の向こうで、夏は止まっていた。あの日の部屋の暑さと、扇風機のカタカタと、めくり忘れたカレンダーの紙がそう言っていた。

でも幹夫は、初めて「止まっていた」を過去形で言える気がした。過去形にできるのは、ほんの少しでも動いたからだ。

風が河原を渡り、汗の跡を冷やした。幹夫は目を細めずに、夕方の光を見ていられた。

 
 
 

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