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安倍川の水晶ラッパ

 幹夫青年は、静岡の町を南から北へ、胸の中の重たいものをぶらさげたまま歩いてゐました。

 電車の鉄の響き、信号の青いひかり、コンビニの自動ドアの「ひゅい」といふ音――どれもまるで、誰かが世界を小さく畳んで、箱にしまつてしまふみたいに、きちんとしてゐます。

 けれども幹夫の胸の中は、きちんとしてゐないのでした。

 何かがいつも「ふう」と膨らんで、すぐ「すう」としぼんで、形にならないまま息をしてゐるのです。

 ――ぼくの心は、どこへ行きたがつてゐるんだらう。

 ふと気づくと、幹夫は安倍川橋の上に立つてゐました。

 夕方の風が橋の欄干をすり抜けて、指の間をすうつと冷やします。川はとてもひろく、灰色の河原がどこまでもひらけ、ところどころに水がみづたまりのやうに光つてゐました。上流の方には山の稜線があり、さらにその向うの空が、うすい群青(ぐんじやう)に染まりかけてゐます。

 安倍川は、いつも黙つてゐるやうで、ほんたうは、ひとつひとつ音を持つてゐるのです。

 石がこすれる音、砂がずれる音、水が小さく息をつく音、風が枯れ草をひつくり返す音――それらが重なつて、ひとつの大きな合奏みたいになつてゐます。

 幹夫は欄干にもたれて、しばらくその合奏を聞いてゐました。

 すると、胸の中の重たいものが、ほんの少しだけ軽くなるやうに思へました。

 幹夫は橋をおりて、河原へ降りてゆきました。

 堤防の階段を下りると、石ころが「ころり」「ころり」と靴の底で転がりました。河原の石は大きいのも小さいのも、みんなまるく、まるいのにどこか鋭く、まるいのにどこか頑固です。山から削られて、ここまで運ばれて来て、また削られてゐるのです。

 河原の真ん中に、ふしぎに白く光る石がひとつありました。

 石英(せきえい)の石です。

 しかも、その石には小さな穴があいてゐました。穴といふより、まるで細い筒が、石の中へすうつと通つてゐるやうでした。

 幹夫はそれを拾ひ上げ、掌にのせて見つめました。

 石は冷たくもなく熱くもなく、ただ、硬いのにどこか透きとほつた気配がありました。穴の口は唇に当てると、ちようど笛の吹き口みたいにしつくりします。

 ――石の笛だ。

 幹夫は、なぜだかそんなふうに思つてしまひました。

 そして、思ひ切つて、その穴にそつと息を吹き込みました。

 「ぷうう……ん」

 驚くほど澄んだ音が出ました。

 それは、笛の音といふより、遠いガラスの鐘が、海の底で鳴つたやうな音でした。音は空気を震はせながら、河原の石の列をすうつと渡り、安倍川の水面の上へ白い線を引きました。

 幹夫は目を丸くしました。

 もつと吹いてみました。

 「ぷうう……ん、ぷうう……ん」

 音は、ただ響くのではありませんでした。

 音が出るたび、河原のあちこちで、ちいさな石が「こつ」と鳴り、砂が「さらり」と動き、水たまりの表面が「ぴりり」と震へました。

 そして、その次の瞬間です。

 河原のずつと向うから、何かが「トン、トン、トン」と、規則正しく近づいて来るやうに聞こえました。

 それは足音ではありません。石が石を叩く音でもありません。もっと透明で、もっと細い、しかし確かなリズムです。

 トン、トン、トン。

 トン、トン、トン。

 幹夫は耳を澄ませました。

 すると、そのリズムの奥に、さらに細い旋律が混じつてゐるのが分りました。

 ――プウーン、プウーン。

 ――プウーン、プウーン。

 まるで、見えない楽隊が、河原の上を行進してゐるみたいでした。

 幹夫は思はず、その石英の笛を胸に抱へました。

 そのとき、風が松の葉のやうに河原を撫でて、砂を少しだけ走らせました。

 砂が走ると、石の間の隙間で、またちいさな音が生まれます。

 「さらさら、さらさら……」

 さらさらの中に、言葉のやうな節がありました。

 ――ミキオ、ミキオ。

 ――コチラ、コチラ。

 ――オトノ ミチ。

 幹夫は背中がぞくりとしました。

 けれども怖いのではありません。むしろ、胸の中の重たいものが、「おいで」と呼ばれたやうで、勝手に足が動き出したのでした。

 幹夫は河原を上流へ向かつて歩きました。

 石ころはどこまでもつづき、ところどころに草の島があり、草の島の上に、冷たい露が光つてゐます。川は本流のほかに、細い流れがいくつも分かれてゐて、どれも「しゅ、しゅ」と小さな息をついてゐます。

 行進の音は、幹夫が歩くと少し先へ移り、止まると止まる。

 まるで幹夫に合わせて進んでゐるやうでもあり、幹夫が追ひかけてゐるやうでもありました。

 やがて、河原の端の方に、ちいさな水たまりがありました。

 夕方の空を映した水は暗い藍色で、その中に、銀いろのものが「ぴち、ぴち」と跳ねてゐます。ちいさな鮎(あゆ)の子でした。流れが弱くなつて、取り残されてしまつたのでせう。水たまりの縁は石で囲まれ、出口がありません。

 鮎の子は、跳ねるたびに水面を割り、割れた水面が一瞬だけ星のやうに光りました。

 その光が、幹夫の胸をきりつと痛くしました。

 ――このまゝだと、朝までに乾いてしまふ。

 幹夫は河原を見回しました。

 本流はすぐそこを流れてゐます。けれども水たまりとのあひだに、低い石の壁があり、ほんの少し高さが足りないのです。水は、こつちへ来たがつてゐるのに来られない。来られないのに、来たがつてゐる――そんな形が、胸の中の重たいものと、どこか似てゐました。

 幹夫は膝をついて、手で砂を掘りはじめました。

 砂は乾いてゐて、指の間からさらさらと落ちます。

 掘つても掘つても、すぐ崩れて、溝が埋まつてしまひます。

 幹夫は息を切らし、ふと手を止めました。

 そのとき、胸に抱へてゐた石英の笛が、掌の熱で少しぬるくなつてゐるのに気づきました。

 ――さつきの音。

 幹夫は笛の穴を見つめ、そつと口をつけました。

 そして、今度はまつすぐ水たまりへ向けて、息を吹き込みました。

 「ぷうう……ん」

 音が水面へ落ちると、水たまりが「ぴりり」と震へ、鮎の子が一斉に静かになりました。

 さらに一度。

 「ぷうう……ん」

 すると、河原の石が、どこかで「こつ」と鳴り、風が「すう」と溝の方へ流れ、砂が「さらり」と自分から退きました。

 トン、トン、トン。

 トン、トン、トン。

 あの透明な行進の音が、今度はすぐ足もとで鳴りはじめました。

 そして幹夫の目の前の砂の上に、ほんのひと筋だけ、細い水が現れたのです。水は本流から滲み出て、幹夫が掘りかけた溝へ入り、ためらはずに水たまりへ向かひました。

 「……来た」

 幹夫は息をのみました。

 水は、細い線になつて「しゅる、しゅる」と走り、ちいさな堰を越えて、水たまりへ落ちました。水たまりの水位がほんの少し上がり、鮎の子が「ぴち」と跳ね、流れの方へ向かつて泳ぎはじめました。

 鮎の子は、幹夫が作つた水の道を、まるで銀の針のやうにすうつと通り抜けました。

 本流へ出た瞬間、魚は一度だけ体をひねり、夕方の薄い光を受けて「きらり」と光りました。

 そのきらりが、幹夫の胸の奥の井戸にも、ちいさく落ちました。

 松の葉のやうな風が、またさらさらと鳴きました。

 ――イイ、イイ。

 ――オトハ ミチ。

 ――ミズハ オトノ カタチ。

 幹夫はしばらく、溝を流れる水を見てゐました。

 水は、ただ水であるのに、どこか歌つてゐるやうでした。

 歌は言葉ではなく、波のリズムであり、石の並びであり、風の向きでありました。

 幹夫は石英の笛を、掌の中で転がしました。

 石の中の穴は、山の時間が作つたものです。山の岩が砕け、川が運び、ぶつかり合ひ、削られ、やつと出来た一本の小さな空洞です。その空洞を通る息が、音になる。音が水を動かす。水が生きものを助ける。

 ――ぼくの息も、石の穴みたいなものかもしれない。

 幹夫はそんなふうに思ひました。

 自分の胸の中の重たいものも、ただの重さではなく、どこかに穴があいてゐれば、音になつて、だれかの水の道をつくるかもしれない。

 河原の行進の音は、いつの間にか遠のいてゐました。

 けれども完全に消えたのではありません。耳を澄ませば、石と水と風の隙間で、まだ「トン、トン」と小さく鳴つてゐます。

 幹夫青年は石英の笛をポケットに入れ、夕暮れの安倍川橋の方へ戻りはじめました。

 空はもう夜に近く、橋の街灯が一つずつ点き、河原の石ころが、その光で薄く銀色になつてゐます。

 歩きながら、幹夫はときどき、胸の中であの音を繰り返しました。

 ぷうう……ん。

 トン、トン、トン。

 ぷうう……ん。

 そのたびに、胸の中の井戸の底で、なにかが小さく澄んだ音を返すやうに思へました。

 世界はまだ、きちんとした箱の中に入つてゐるやうでいて、ほんたうは――河原の石と同じやうに――ところどころに穴があいてゐて、そこから音が抜けて、遠くの水まで届いてゐるのかもしれません。

 橋の上で、幹夫は一度だけ立ち止まりました。

 安倍川の黒い流れの向うに、静岡の町の灯が、星のやうに散つてゐました。

 そして幹夫は、小さな声で言ひました。

 「……明日も、吹いてみよう」

 風が「すう」と通り、欄干が「ひい」と鳴りました。

 それは返事のやうでもあり、ただの物理の現象のやうでもありました。

 けれども幹夫青年は、そのどちらでもよいと思ひました。音が出るなら、音は行先を持つ。行先があるなら、歩いて行ける。

 幹夫は、静岡の夜へ、ゆつくり歩き出しました。

 
 
 

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