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安倍川の白いシャツ

 私は白いシャツが苦手である。 白いシャツというものは、着た瞬間から「清潔な人」の役を私に強制する。私はそんな役、できない。そもそも私は、清潔という言葉を信用していない。信用していないくせに、明日の面接のためにアイロンまでかけて、胸ポケットの縫い目を指でなぞって、「よし、今日は大丈夫だ」などと小声でつぶやいている。大丈夫なわけがない。大丈夫な人間は、白いシャツを気にしない。

 夕方、私はその白いシャツを着たまま安倍川へ行った。 用があるのではない。用がないから行ったのである。私の散歩には、いつも目的がない。目的がない散歩ほど、みじめな散歩もない。みじめなのに、私はやめられない。目的のない歩行は、罪のない逃亡に似ている。罪のない逃亡ほど、卑怯なものはない。

 安倍川橋のあたりは、夕方になると妙に広い。川そのものが広いのだから当然だが、その「広さ」が、私をいっそう小さくする。河原の石は白っぽく、ところどころに草が生え、犬が走り、子どもが笑い、若い父親が「おーい」と叫ぶ。ああいう叫び声が、私は苦手だ。叫べる人は、生きていてもいい人間だと、勝手に決めてしまう癖がある。私は自分にそんな許可を出せない。

 私は河原の端に立ち、白いシャツの袖口を気にしながら、川面を見た。 水は、思ったよりも黒い。黒いくせに、ところどころ光っている。光っているのに、温かくない。静岡の夕方は、こういう「やさしい顔をした冷たさ」が上手い。私は、その上手さに腹が立つ。腹が立つのに、見惚れる。人間もまた、そういうものだろうか。いや、私は違う。私はただ、腹が立つだけだ。(こういう言い切りがまた、私のいやらしさである。)

 そのとき、河原のずっと下のほうで、白いものが動いた。 最初は鳥だと思った。鷺かと思った。けれども鳥にしては、だらしなく、ひらひらしすぎる。私は目を細めた。白いシャツが、水に流されていたのである。袖が波に煽られて、まるで溺れている人の腕みたいに、ばたばたと動く。

 私は、胸の中がざわついた。 ――誰か、川に落ちたのか。 私の頭は、すぐそういう大げさな方へ走る。私は悲劇が好きなのだ。悲劇が起きれば、私の無能も、私の自意識も、少しは正当化される気がする。そういう卑怯が、私の中には住んでいる。

 私は河原を下りた。靴が石に取られて、よろけた。白いシャツを着ている人間が河原でよろける、というのは、なかなか滑稽である。滑稽であるのに、私はその滑稽を自分で味わっている。自分で味わっているから、笑えない。笑えない滑稽ほど、つらいものもない。

 シャツは浅瀬の石に引っかかっていた。私は枝を拾い、引き寄せようとした。枝は折れた。私は仕方なく手を伸ばした。水が冷たく、シャツが重い。泥と藻の匂いが、鼻の奥まで一気に入った。私は思わず顔をしかめた。こういうとき、私は自分の「清潔好き」を呪う。清潔好きというより、汚れへの恐怖だ。汚れを恐れる人間は、結局、汚れに支配されている。

 シャツを引き上げた瞬間、袖口が私の腕をぺたりと叩いた。 ぺたり、という音が、やけに大きく聞こえた。私は自分の白い袖を見た。泥がついている。ほんの小さな泥なのに、白い布の上では、罪状のように目立つ。私は、急に息が苦しくなった。明日の面接が頭をよぎった。面接官の「袖口、汚れてますね」という無言の視線が見えた気がした。見えた気がしただけで、私はもう半分、落ちた。

 そこへ、背後から声がした。

「すみません! 白いシャツ、見ませんでしたか!」

 私は、びくりとした。 振り向くと、小学生ぐらいの男の子が、息を切らして立っていた。後ろに母親らしい女性がいて、肩に買い物袋を下げている。二人とも、焦っている顔だ。私は手に持っている「証拠品」のような白いシャツを、反射的に背中へ隠したくなった。隠してどうする。私は泥棒ではない。泥棒ではないのに、こういうとき、私は必ず「泥棒の心」を発揮する。

 母親が私の手元を見て、すぐに言った。

「あっ……それ、それです! うちのです。干してたのが、風で……」

 ああ。 人が死んだわけではない。私の悲劇好きは、拍子抜けした。拍子抜けした自分を、私はまた嫌いになった。悲劇を望んでいたのか、と。

 男の子は「よかったぁ……」と声を出し、泣きそうな顔になった。母親は何度も頭を下げた。

「すみません、ほんとに、すみません。助かりました」

 助かったのは、あなたたちだろう。 私は助かっていない。私は袖口が泥だらけだ。そう言いたかった。言いたかったが、言えない。私は「恩」を売るのが嫌いだと言いながら、内心では「損」を数えている。人間として最低である。

「……いえ、たまたま。流れてきたので」

 私はそう言った。たまたま、という言葉は便利だ。責任を消してくれる。私の人生は、たぶん八割が「たまたま」でできている。だから私は、いつも薄い。

 母親はシャツを受け取り、泥のついた部分を見て、はっとした顔をした。

「あ、汚れて……すみません、ほんとに。クリーニング代……」

 私は首を振った。首を振ったのは、立派だからではない。そこまで話が進むのが怖かっただけだ。金の話になると、私は急に人間になる。人間になるのが恥ずかしい。

「大丈夫です」

 大丈夫なわけがない。 だが、私は言ってしまう。言ってしまうと、引っ込みがつかない。引っ込みがつかないまま、私は「いい人」のふりをする。「いい人」のふりをすると、胸の奥がむずむずして、気持ちが悪い。気持ちが悪いから、帰りたくなる。私は、善行のあとに必ず逃げたくなる。善行が嫌いなのではない。善行をしている自分が嫌いなのだ。

 母子は何度も礼を言って去っていった。男の子が振り返って、ぺこりと頭を下げた。私はそれを見て、胸が少しだけ痛んだ。痛んだのは、感動ではない。自分の汚さが露呈した痛みだ。

 私はその場にしゃがみ込み、川の水で袖口をこすってみた。 やめておけばいいのに、私はこういうとき、無駄な努力をする。無駄な努力をすると、「努力した」という事実だけが残って、失敗の責任が薄まる気がするからだ。川の水は冷たく、泥は落ちたようで落ちず、むしろ広がった。白が、灰色になった。私は笑いそうになった。いや、笑った。河原で、白いシャツを着た男が、袖口を洗っている。これはもう、漫画である。漫画なのに、私は笑っている。笑っているうちに、急に涙が出そうになった。私は、こういう「笑いのすぐ隣の泣き」を持っていて、それがいちばん厄介だ。

 結局、袖口は汚れたまま、私は町へ戻った。 呉服町の光は白く、アーケードの白は、私の袖の灰色を容赦なく照らした。私はコインランドリーに入った。コインランドリーという場所は、なぜあんなに人生の敗者を公平に照らすのだろう。洗濯機が回る音は、どこか裁判所の時計みたいだ。

 私は洗濯機に、白いシャツ一枚だけを入れた。自分の袖口のためだけに洗濯機を回す。こんな贅沢があるか。贅沢のくせに、私は「罰を受けている顔」をしていた。罰の顔は、私の得意技だ。

 洗濯が終わって取り出すと、袖口はきれいになりきっていなかった。うすい影が残っている。白いシャツは、影を残す。影は、私の本性みたいだ。完全に落ちない。落ちないものを、私はずっと「落とさなければ」と思って生きている。思って生きているから、疲れる。疲れているから、また影が濃くなる。

 私は家へ帰り、ハンガーにかけた。 明日、これを着て面接へ行くのか。行けるのか。私は鏡の前で袖口を見た。見るほどに影が濃く見える。私は、また余計な想像をした。面接官が眉をひそめる。私は言い訳をする。「川で子どものシャツを拾って……」などと、ヒーローみたいな話をする。私はそんな話をする自分が死ぬほど嫌いだ。嫌いだが、追いつめられたら言うだろう。言い訳は、私の最後の武器である。

 その夜、私は眠れなかった。 眠れないので、窓を開けた。遠くで、安倍川の水の音がする気がした。実際には聞こえない。聞こえないのに、聞こえる気がする。私は、そういう「気がする」で人生を組み立ててきた人間だ。気がする、という曖昧さの上に、私は立っている。

 私はふと、あの母親の顔を思い出した。 礼を言いながら、泥のついたシャツを見て、一瞬だけ申し訳なさそうに口元を引き結んだ顔。あれは、私の顔に似ていた。清潔でありたいのに、清潔になれない顔。私はその顔を見て、勝手に同盟を結んだ。勝手に同盟を結ぶほど、私は寂しい。

 明日、私は白いシャツを着るだろう。 影の残った袖口のまま、着るだろう。 清潔な人の役は、できない。できないが、役を放棄する勇気もない。だから私は、影のついた白で行く。影のついた白で、静岡のまちを歩く。人間失格だと言われても、まあ、それでいい。失格のまま歩ける靴があれば、それでいい。靴は、まだ買っていないけれど。

 安倍川の白いシャツは、結局ただの洗濯物だった。 ただの洗濯物だったのに、私の一晩を大げさに揺らした。 私の人生はいつもそうだ。小さな泥が、世界を黒くする。だが、黒くなった袖口を見て、私はほんの少しだけ思った。――黒さがあるから、白がわかるのだ、と。こんな立派な結論を口にしたくない。口にしたくないが、もう思ってしまった。思ってしまった以上、私はまた、少しだけ人間をやめそこねたのである。

 
 
 

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