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定款第四条――死んだアニメーターの会社

※以下はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

静岡市清水区草薙。

山崎行政書士事務所の窓からは、夕方になると線路の向こうに薄い橙色の雲が流れた。駅前の灯りがひとつ、またひとつと点きはじめるころ、事務所にはいつも、少しだけ人の弱さを帯びた相談が持ち込まれる。

契約書を見てほしい。相続の書類がわからない。内容証明を出したい。会社を作りたい。

その日、山崎の前に座った女性も、最初はごく普通の相談者に見えた。

「法人化したいんです。フリーランスのままだと、もう限界で」

彼女の名は、深森アオ。二十九歳。アニメーター。

細い指先は、長年鉛筆を握ってきた人間特有の硬さを持っていた。爪の横に黒い汚れが残っている。インクではない。カーボンのような、古い原画用紙の粉のような汚れだった。

りなはヒアリングシートを開いた。

「株式会社ですか。合同会社ですか。事業内容は、アニメーション制作、キャラクターデザイン、映像制作、著作権管理、配信関連……このあたりでしょうか」

「はい。定款もお願いしたくて」

深森は鞄からクリアファイルを取り出した。

中には、定款案が入っていた。

山崎は一枚目に目を落とした。

商号。本店所在地。目的。公告方法。発行可能株式総数。株式譲渡制限。役員。

形式としては、さほど不自然ではない。

だが、第四条に入った瞬間、山崎の視線が止まった。

第四条 当会社は、次の事業を営むことを目的とする。一 アニメーション、映像作品、原画、動画、中割、背景美術、設定資料の制作、保管及び管理二 死亡後における作家人格、筆致、作画癖、線質、色彩感覚及び演出意図の再現、複製、提供三 作家本人の同意の有無にかかわらず、過去作品、未発表資料、私的メモ、音声、日記、通信記録を用いた創作再現四 前各号に附帯又は関連する一切の事業

事務所の空気が、ゆっくり冷えた。

みおが小さく笑いかけて、失敗した。

「……ちょっと、怖い目的ですね」

深森は笑わなかった。

「それ、私が作った定款じゃないんです」

「どなたが?」

「わかりません」

深森の声は、鉛筆の芯が折れる音に似ていた。

「でも、毎晩、私のパソコンに出てくるんです。消しても、名前を変えても、印刷しても、次の日には第四条だけが変わっているんです」

ゆいが温かいお茶を置いた。

「警察には?」

「行きました。でも、被害がはっきりしないって。嫌がらせかもしれないから、証拠を集めてくださいって」

深森は、震える手でスマートフォンを出した。

画面には、午前三時十二分に届いたメッセージがあった。

会社にしろ。定款に入れろ。死んだ線は、法人の財産になる。

山崎は黙って、その文字列を見つめた。

行政書士事務所に持ち込まれる相談の多くは、紙の形をしている。

しかし、ときどき紙は、刃物よりも深く人を傷つける。

深森アオは、かつて東京の制作会社で動画を描いていた。

一日十五時間。単価は安い。納期は短い。名前は出ない。

それでも彼女は、線を引くことが好きだった。

「絵は、嘘をつかないと思ってました」

事務所の打合せ室で、彼女はぽつりと言った。

「でも、業界には、嘘みたいな線もあるんです。誰が描いたかわからなくなる線。誰かの名前で出される線。死んだ人の線まで、便利に使われる」

りなは慎重に聞いた。

「その“死んだ人”というのは?」

深森は目を伏せた。

「瀬名カイト。私の先輩です」

三年前、瀬名カイトという若いアニメーターが亡くなっていた。

表向きは過労による事故。深夜、作業スタジオの非常階段から転落。事件性なし。

だが深森は、ずっと納得していなかった。

瀬名は生前、ある長編アニメの原画を担当していた。その未発表カットが、彼の死後、別名義で使われたという噂があった。さらに最近、深森のもとに届く定款案には、瀬名しか知らないはずの作画メモの言葉が紛れていた。

「死んだ線は、法人の財産になる」

それは瀬名が冗談で言った言葉だった。

「俺たちの線ってさ、死んだら誰のものになるんだろうな」

そのとき深森は笑った。

「そんな怖いこと言わないでください」

瀬名も笑った。

けれど、その笑いはもう戻らない。

山崎行政書士事務所では、法人化の相談をいったん通常業務として整理した。

商号。本店所在地。資本金。発起人。役員。事業目的。株式譲渡制限。公告方法。決算期。

しかし、りなは赤ペンを持ったまま言った。

「この定款案、事業目的だけではありません。全体に変です」

「どこが?」

律斗が画面を覗き込む。

りなは定款案の該当箇所を示した。

「まず、目的条項が異常に広い。著作権管理だけでなく、死後の作家人格の再現、私的記録の利用まで入っています。次に、株式譲渡制限の設計が不自然です。発起人一名の小規模会社なのに、第三者割当を前提にしたような余白があります」

山崎が頷く。

「会社設立後に、誰かが株を握る設計か」

「さらに、著作権の包括管理を会社目的に入れさせ、設立直後に業務委託契約や譲渡契約を結ばせる流れが見えます。深森さんの法人を器にして、誰かの原画や未発表資料を移すつもりかもしれません」

みおが顔をしかめた。

「会社を作る相談に見せて、箱を作らせるってこと?」

「はい。しかも、その箱に入れるものが、生きている人の仕事だけとは限りません」

ゆいが深森の手元を見た。

深森の指は、まだ震えていた。

「アオさん、大丈夫です。少なくとも、ここでそのまま進めることはしません」

その言葉に、深森の目が初めて少しだけ潤んだ。

恐怖に追われている人は、正しい説明より先に、止まっていい場所を求めている。

山崎は静かに言った。

「法人化の支援はできます。ただし、この定款案は使いません。脅迫や不正アクセスの可能性がある部分は、弁護士と警察、必要ならセキュリティ専門家に連携しましょう」

深森は小さく頷いた。

その瞬間だった。

事務所のプリンターが、勝手に動き出した。

誰も印刷指示を出していない。

白い紙が一枚、吐き出された。

そこには、黒い文字でこう印字されていた。

第四条を消すな。線を殺したのは、お前たちではない。

そこから事件は、紙の上ではなく、余白の中で動き始めた。

律斗は、問題の定款ファイルを安全な環境で確認した。

「単純なウイルスというより、誰かがクラウド同期や共有設定を悪用している可能性があります。ただ、詳細な侵入手口は断定できません。少なくとも、深森さんの作業環境とファイルの来歴を分けて確認した方がいいです」

りなは紙の定款案を並べた。

初版。第二版。第三版。午前三時に現れた版。事務所のプリンターから出た版。

どれも第四条が少しずつ違っている。

みおがつぶやいた。

「気味が悪いですね。まるで定款が成長してるみたい」

山崎は紙を一枚ずつ見比べた。

「いや、成長じゃない。これは……削っている」

「削っている?」

「文章が長くなっているように見える。でも、余計な言葉を足しているんじゃない。犯人は、何かを隠すために文章を変えている」

りなはすぐに反応した。

「頭文字ですか」

「たぶん」

各号の最初の文字を抜き出す。

ア。死。作。前。

意味をなさない。

次に、読点の数を数える。句点の位置を見る。漢数字の並びを見る。

律斗がふと、深森の持ってきた原画用紙を見た。

「これ、タイムシートですね」

アニメーション制作では、カットごとの動き、台詞、撮影指示をフレーム単位で管理する。瀬名カイトの遺品だというそのタイムシートには、数字と記号がびっしり書かれていた。

律斗は定款案の句読点の位置を、フレーム数として読み替えた。

二十四。六。十二。一。十八。八。

みおが息を呑む。

「二十四フレーム……アニメの一秒」

数字を五十音に置き換える。さらに、タイムシート上のカット番号と照合する。

出てきた文字列は、短かった。

くさなぎ あおいかべ 十一時四十七分

青い壁。

深森の顔色が変わった。

「青い壁……瀬名さんの部屋です」

「部屋?」

「昔、草薙に共同作業場があったんです。壁が青く塗られていて、みんな“青い壁”って呼んでました。今はもう閉鎖されています」

山崎は時計を見た。

午後九時半。

十一時四十七分まで、二時間少し。

罠の匂いがした。

行くべきではない。だが、行かなければ深森は一生、第四条に追われ続ける。

山崎はすぐに判断した。

「我々だけでは行きません。弁護士に連絡。警察にも相談。現地確認は安全確保が前提です」

深森は唇を噛んだ。

「でも、もし瀬名さんの何かが残っていたら……」

ゆいがそっと言った。

「残っていたら、ちゃんと取り戻しましょう。でも、アオさんまで壊れたら、瀬名さんはきっと悲しみます」

その言葉に、深森は初めて泣いた。

草薙の裏通りに、その建物は残っていた。

古い二階建て。元は小さな印刷所だったという。外壁は黒ずみ、入口には錆びたシャッターが半分だけ下りている。

青い壁は、二階にあった。

山崎、りな、律斗、深森。そして連絡を受けた弁護士と警察関係者が、慎重に建物へ入った。

埃の匂い。古い紙の匂い。消しゴムのカスの匂い。

部屋の奥に、青い壁があった。

そこだけが、不自然なほど鮮やかだった。

深森が足を止める。

「ここで……瀬名さんは、最後のカットを描いていました」

青い壁には、無数の小さな穴があった。画鋲の跡。原画を貼っていた跡。

だが、その中央に、一枚だけ新しい紙が貼られていた。

定款だった。

ただし、第四条だけが空白になっている。

その下に、手書きの文字があった。

第四条は、君が書け。会社は、死者の檻ではない。

深森は声を失った。

その瞬間、部屋の奥でプロジェクターが点いた。

壁に映像が映る。

荒い線。未完成の原画。走る少女。崩れる街。青い空。振り向く青年。

瀬名カイトの絵だった。

深森は両手で口を押さえた。

映像の最後、青年がこちらを向く。

口が動く。

音はない。

だが、深森にはわかった。

「逃げろ」

次の瞬間、背後で拍手が響いた。

「素晴らしい。やはり君たちは、ここまで来た」

黒いコートの男が立っていた。

黒淵怜司。

かつて深森と瀬名が所属していた制作会社の元プロデューサー。現在は新会社を立ち上げ、クリエイター支援と権利管理を掲げて投資家を集めていた。

黒淵は穏やかに笑った。

「誤解しないでください。私は何も盗んでいない。眠っていた才能を、社会に還元しようとしているだけです」

りなの声が冷たくなる。

「死者の未発表資料を、本人の意思確認もなく利用することが社会還元ですか」

「感傷ですね。作品は生き残る。人間は死ぬ。ならば、作品を管理する法人が必要だ」

黒淵は深森を見た。

「君に会社を作ってもらう必要があった。瀬名カイトの遺稿を扱うには、君の名前が一番美しい。元同僚、継承者、若き女性クリエイター。投資家は物語が好きだからね」

深森は震えながら言った。

「だから定款を……」

「定款は器です。器ができれば、契約を流し込める。権利も、資料も、沈黙も」

山崎は黒淵を見据えた。

「その話は、ここで続ける内容ではありません」

黒淵は笑った。

「行政書士がどこまで踏み込むんです? あなた方は書類屋でしょう」

山崎は静かに答えた。

「書類は、人を縛ることも、守ることもあります。だからこそ、書類を軽く扱う人間には渡せません」

そのとき、みおから山崎のスマートフォンにメッセージが届いた。

先生、定款の最後の謎、解けました。犯人は黒淵じゃありません。

山崎の眉が動いた。

事務所に残っていたみおとゆいは、もう一つの違和感に気づいていた。

事務所のプリンターから出た紙。

あの紙だけ、他の定款案と違っていた。

フォントの癖。余白。句読点。そして、紙の折り目。

ゆいが言った。

「これ、誰かが怖がらせるために出した紙じゃない気がします」

「どうして?」

「文章が、優しいんです」

みおは最初、意味がわからなかった。

だが、読み返すと確かにそうだった。

線を殺したのは、お前たちではない。

これは脅迫ではない。

赦しの言葉だった。

みおは定款案の変更履歴ではなく、文章の癖を見た。

読点の打ち方。漢字をひらく箇所。「附帯」を使う古い言い回し。目的条項の並べ方。

そして、瀬名カイトの遺品として残された一枚のメモと照合した。

一致した。

定款案を書き換えていた“犯人”は、瀬名カイトだった。

もちろん、死者がパソコンを操作するはずはない。

だが、瀬名は生前、自分の原画が奪われる可能性に気づいていた。自分の死が事故として処理されるかもしれないことも、薄々わかっていた。

彼は最後の数週間、原画、タイムシート、メモ、定款文例、会社設立の書式を組み合わせ、一種の遺書のような謎を作っていた。

それを保管していたのは、深森アオではない。

瀬名の母だった。

瀬名の母は、息子の死後、遺品の中からその仕掛けを見つけた。しかし、黒淵の会社が動き始めたことを知り、深森を守るために、息子の残した謎を少しずつ送り始めた。

直接言えば、深森は危険に近づく。警察に言っても、ただの業界内トラブルに見える。弁護士に持ち込むには、証拠が足りない。

だから瀬名の母は、深森が法人化を考えたタイミングに合わせて、定款という形で警告した。

恐怖の定款は、呪いではなかった。

死者からの救命具だった。

そして瀬名カイトが本当に告発したかった相手は、黒淵怜司だけではなかった。

みおは最後の暗号を読んだ。

第七号の条文の頭文字。別紙の事業目的案。タイムシートのカット番号。青い壁に残された画鋲の穴。

そこに現れた名前は、深森アオだった。

青い壁の部屋で、山崎は深森を見た。

「深森さん。瀬名さんは、あなたに第四条を書けと言いました」

深森は涙を拭いた。

「私が……?」

「はい。ただし、死者を閉じ込める条文ではありません。生きている人を守る条文です」

黒淵が苛立ったように言った。

「何を芝居がかったことを」

山崎は続けた。

「瀬名さんは、あなたが自分を責め続けていることを知っていたんです」

深森の顔が凍る。

三年前の夜。

瀬名は深森にメッセージを送っていた。

もう無理かもしれない。青い壁に来てくれ。

深森は行かなかった。

その日、彼女も限界だった。眠ってしまった。目覚めたとき、瀬名はもう亡くなっていた。

以来、彼女はずっと、自分が殺したのだと思っていた。

線を殺したのは、自分だと。

山崎は静かに言った。

「だから瀬名さんは残したんです。“線を殺したのは、お前たちではない”と」

深森はその場に崩れ落ちた。

黒淵はその隙に出口へ向かおうとした。

だが、部屋の入口には警察関係者が立っていた。

証拠はすでに押さえられていた。

黒淵が瀬名の未発表原画を投資資料に使おうとしていたこと。深森の法人化を利用し、権利処理の正当性を装おうとしていたこと。瀬名の遺品を不透明な経路で入手していたこと。

そのすべてが、青い壁の裏に隠された古い外付け媒体と、黒淵自身の説明によってつながった。

黒淵は最後まで笑っていた。

「作品は残る。人間など、いずれ消える」

深森は涙で濡れた顔を上げた。

「違います」

彼女の声は震えていた。

だが、折れてはいなかった。

「人間がいたから、線が残るんです」

数週間後。

山崎行政書士事務所の打合せ室には、新しい定款案が置かれていた。

商号は、株式会社青線舎。

事業目的は、慎重に整理された。

アニメーション制作。キャラクターデザイン。映像作品の企画・制作。クリエイターの権利管理支援。制作資料の適正な保管。作家本人または正当な権利者の意思に基づく作品管理。

そして第四条の最後には、こう書かれていた。

当会社は、創作者の人格、意思及び尊厳を尊重し、作品及び制作資料の管理にあたっては、関係法令、契約及び権利者の意思に基づき、適正かつ誠実に行うものとする。

法律文書としては、少し情緒的すぎるかもしれない。

けれど深森は、その一文を見て笑った。

「これなら、瀬名さんに怒られませんね」

ゆいがお茶を出した。

「きっと、ちょっと照れながら褒めてくれます」

みおが明るく言った。

「でも先生、定款で泣かせにくるのは反則ですよ」

山崎は苦笑した。

「定款は会社の骨格です。骨に、少しくらい体温があってもいいでしょう」

窓の外を、静鉄の電車が通り過ぎた。

夕暮れの草薙に、かすかな振動が残る。

深森は新しい定款案を胸に抱えた。

会社を作るということは、器を作ることだ。

だが、その器は、誰かを閉じ込めるためのものではない。

恐怖を越えて、もう一度線を引くための場所。

死んだ人の声を、商売の材料にするためではなく。

生き残った人が、罪悪感ではなく、誠実さを持って前へ進むために。

その夜、深森のパソコンには、もう奇妙な定款案は現れなかった。

代わりに、デスクトップに一つだけ、古い画像ファイルが残っていた。

開くと、瀬名カイトの未完成の原画が映った。

青い壁の前で、少女が振り返っている。

その口元には、小さな笑みがあった。

ファイル名は、こうだった。

第四条_ここから生きろ.png

深森は泣きながら笑った。

そして翌朝、株式会社青線舎の設立手続は、静かに始まった。

 
 
 

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