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宛名のない便り

 母が「教えるで」と言った次の朝、幹夫はいつもより早く目が覚めた。 目が覚めたというより、胸の中が先に起きていた。鉛筆の硬さを思い出すと、指先が勝手にむずむずして、布団の中で手を握ったり開いたりしてしまう。

 台所では祖母が湯を沸かしていた。湯の音は昨日と同じなのに、今日は少しだけ軽い。軽いのは湯のせいじゃなくて、幹夫のほうの気持ちが昨日よりほんの少し、前へ出ているからだ。

 朝飯が終わると、母はちゃぶ台を拭いて、座敷の真ん中に持ってきた。 拭き方が丁寧だった。丁寧に拭くのは、これから置くものが大事だからだと幹夫は思った。米や芋と同じで、紙も、丁寧に扱うものだ。

「ほれ、座れ」

 母は短く言って、押し入れのほうへ行った。 幹夫は正座して待った。待っている間、畳の目を数えた。数えると胸の音が少しだけ遠くなる。遠くなるだけで消えはしない。その音を、今日は消さなくてもいい気がした。

 母が戻ってきた手には、箱ではなく、薄い布があった。 布を開くと、中から紙が一枚出てきた。紙の端が黄色く、角が丸くなっている。何度も持たれた角の丸さだった。

 絵葉書だった。

 幹夫は息を止めた。絵葉書は家の中にあるのに、家の匂いがしない。遠い匂いがする。潮とは違う、乾いた道の匂い。煙とも違う、布の匂い。

 母はその葉書を、ちゃぶ台の上にそっと置いた。置き方が、線香を置くときと似ていた。倒れないように、折れないように。

「これ……父ちゃんの字だに」

 母が言った「父ちゃん」の言い方は、いつもと少し違った。普段は出ない言葉が、紙の上から浮いてきて、母の口から出た、という感じがした。

 幹夫は葉書を見た。 裏には黒い字が並んでいる。駅の紙の字より、ずっと少ない。少ないのに、胸がいっぱいになる。字は整っているのに、ところどころ揺れている。揺れているところが、手の震えじゃなくて、書いた人の息づかいみたいに見えた。

 幹夫は指を伸ばしそうになって、途中で止めた。 触ったら、字が落ちる気がした。落ちるはずがないのに、落ちる気がする。大事なものほど、落ちやすい顔をしている。

「触るなら、手ぇ洗ってから」

 母が言った。叱る声じゃない。守る声だ。

 幹夫は裏口で手を洗い、濡れた手を布でよく拭いた。拭きながら、心臓がうるさい。 戻ると、母は葉書の横に、新聞紙の白い裏を一枚置いて、竹を継いだ鉛筆を出していた。

「今日はな、写す。真似する。……それで、覚える」

 母はそう言って、葉書の端を指で軽く押さえた。 押さえる指は、震えていない。震えていないのに、押さえ方が強い。飛んでいくのが怖いものを押さえる強さだった。

 幹夫は、葉書の一番上に書かれた字の形を見た。 読めない。けれど、昨日より怖くない。怖くないのは、隣に母がいるからだ。母がいると、読めないことが「今すぐ死ぬ」みたいに感じなくなる。

「まず、これ」

 母は葉書の中の一つの字を指した。 幹夫は目をこらした。線が多い。線が多い字は、胸も重い。重いのに、母の指がそこに置かれているだけで、「ここだ」と分かる。

「……“父”じゃない。“帰”でもない。これはな……“便”」

 母はそう言って、新聞紙の裏にゆっくり書いた。

 便。

 一画ずつ、母の指が息をするみたいに動く。 線が紙に残るたび、幹夫の胸の奥が、少しだけ落ち着く。落ち着くと、見える。見えると、真似できる気がする。

「ほれ、やってみ」

 幹夫は鉛筆を握った。竹の継ぎ目が掌に当たる。硬さが頼もしい。 幹夫は母の書いた「便」を見て、同じように線を引こうとした。引こうとした瞬間、鉛筆が少し滑った。線がずれて、字がよろけた。

 幹夫の喉がきゅっとなる。 悔しい。恥ずかしい。悔しさと恥ずかしさが一緒に来ると、胸の中の警報が騒ぐ。

「ええ。最初はみんな、転ぶ」

 母が言った。 転ぶ、という言い方が優しかった。転ぶのは悪いことじゃない、と言われた気がした。

 幹夫はもう一度書いた。 今度は、線を急がせない。急がせると、母の眉間みたいに固くなる。固くなると折れる。だから、ゆっくり。

 字はまだ歪んでいる。 歪んでいるのに、幹夫の中でなにかが少しだけ「できた」顔をした。

 母は小さく頷いた。

「よし。……次、これ」

 母が指したのは、葉書の宛名のほうだった。 宛名。幹夫はその言葉を知らないのに、母の指がそこへ行っただけで、怖い予感がした。宛名のところには、相手がいる。相手がいる場所は、届く場所だ。届く、ということは、届かないこともある、ということだ。

 母は葉書の宛名を見て、少しだけ目を細めた。 見て、息を吐いた。吐いた息が、紙の上で止まりそうで止まらない。

「……ここは、住所だに」

 母は言った。 住所、という言葉は、駅の紙の「帰」と同じ匂いがした。人が帰る場所。帰れる場所。帰る場所を持つ言葉。

 幹夫は、ぽつりと聞いてしまった。

「……父ちゃんの、住所は」

 言ってしまってから、しまったと思った。 母の眉間が固くなると思った。 固くなる前に、幹夫は息を止めた。

 母は、葉書を見たまま答えた。

「……今は、分からん」

 分からん、という言い方が、怒りじゃなかった。 怒りじゃないぶんだけ、胸が痛かった。分からん、は、逃げじゃなくて、空の底みたいに深い。

 幹夫は何も言えず、鉛筆を握り直した。 握り直すと、竹の継ぎ目が掌に刺さりそうで、でも刺さらない。その「刺さらなさ」が、今日の救いだった。

 母はふっと表情を変えて、新聞紙の裏に封筒の形を四角く書いた。 上に宛名の欄。下に自分の欄。 線を引くだけで、紙が「行き先を持つ顔」になる。

「……これが、宛名。ここに書くと、行く」

 母が言った。 行く、という言葉が幹夫の胸を小さく叩いた。行くなら、届く。届くなら、返ってくるかもしれない。

 幹夫は、息を吸って、吐いてから言った。

「……書きたい」

 母の目が、幹夫に落ちた。 その目は、探る目じゃなかった。止める目でもなかった。 困っている目だった。困っているのに、逃げない目。

「……何を」

 母が聞く。

 幹夫の喉の奥に、また「父」が膨らんだ。 膨らんだまま、でも今日は少しだけ出てきた。昨日より、紙が増えたからだ。線が増えたからだ。増えたぶんだけ、言葉が出る場所ができる。

「……父ちゃんに」

 幹夫が言うと、母は一瞬だけ目を伏せた。 伏せた目は、線香の煙みたいだった。見えるのに、触れない。

 母はゆっくり頷いた。

「……書け。書くのは、ええ」

 ええ、と言ってから、母は少し言葉を足した。

「でも、宛名は……今は、空けとく」

 空けとく。 その言い方が、幹夫の胸にやさしく刺さった。刺さるのに、血が出ない刺さり方だった。

 幹夫は新聞紙の裏に、母が描いた封筒の形を見た。 宛名の欄が白い。 白い欄は、角砂糖の白に似ていた。手を出したい白。出すと減る白。減るのに、出さないと届かない白。

 幹夫は鉛筆を置き、母の真似をして封筒の形を描いた。線が歪む。歪むけれど、四角になる。四角になると、少し落ち着く。

「……中、書く」

 幹夫は小さく言った。

 母は紙の端を押さえ、鉛筆の持ち方を少し直してくれた。指が触れる。母の指は冷たいのに、触れ方があたたかい。

「“おとうさんへ”って、書けるか」

 母が言った。 幹夫は首を横に振った。 母は「じゃあ、真似し」と言って、ひらがなをゆっくり書いた。ひらがなの線は、漢字よりも息に似ている。息に似ている線は、胸に入りやすい。

 幹夫はそれを真似した。 「おとうさんへ」の形が、紙の上にふらふらと座る。 ふらふらしているのに、座っている。座っているだけで、書いた気持ちが少しだけ落ち着く。

 その次の言葉を、幹夫は迷った。 何を書けばいいのか分からない。会ったことがないのに、知っている人に、何を書けばいいのか。

 分からないとき、幹夫は外を見る。 障子の向こうは明るく、遠くで波の音がした。汽笛が鳴った。届く音。届く匂い。届くものだけが、今日もちゃんと動いている。

 幹夫は、思い出せるものを書こうとした。 今あるもの。ここにあるもの。母と祖母と、台所の湯気と、芋と、浜の貝殻。

「……みかん」

 幹夫が言うと、母が少しだけ眉を動かした。笑いではない。驚きでもない。思い出し方が同じだった。

「みかんの花、咲くころだら」

 母は小さく言った。 その声が、幹夫の背中を押した。

 幹夫は、母に教えてもらいながら、ゆっくり書いた。

 > みかんのはながさいたよ

 文字は揺れている。線は太ったり細くなったりする。 それでも、書いた言葉は消えない。砂の字みたいに波で崩れない。残る黒は、幹夫の胸を少しだけ安心させた。

 次に、幹夫は書いた。

 > かえってきて

 書き終えた瞬間、幹夫は息が止まった。 自分の紙に、自分で「帰ってきて」と書いてしまった。 書いてしまうと、それが願いじゃなくて、命令みたいに見えるのが怖かった。

 母は紙を覗き込んで、しばらく黙った。 黙って、でも、その言葉を消さなかった。消さない、ということが、母の返事みたいに思えた。

 母はただ、紙の下のほうに指を置いた。

「最後、名前。……幹夫、書けるだろ」

 幹夫は頷いた。 自分の名前は、いちばん先に覚えたい字だった。自分がここにいる、という形だからだ。

 幹夫は「幹夫」と書いた。 書いた字は歪んでいる。歪んでいるのに、そこに幹夫がいる。紙の上に、自分の座る場所ができた。

 母は、宛名の欄の白を見つめたまま、紙を折り畳んだ。 折り目を丁寧につけて、丁寧にしまう。 しまい方が、昨夜押し入れで見た「折り畳まれた声」と同じだった。

「……これも、預かる」

 母は言った。 預かる、は、返す日がある言葉。 幹夫は胸の奥が少しだけ温かくなった。

「いつ、返す?」

 幹夫が聞くと、母はほんの少しだけ困った顔をして、それから、困ったまま笑った。 笑い方が、湯気みたいに薄かった。

「……宛名が分かったら」

 宛名が分かったら。 その言葉の中に、いつか、が入っていた。 いつか、は保証じゃない。けれど、ただの嘘でもない。

 幹夫は頷いた。 頷きながら、白い宛名欄のことを思った。白い欄は空っぽなのに、空っぽのまま、ちゃんと場所を取っている。

 昼の支度で、祖母がちゃぶ台の端から覗き込んだ。

「なに書いた」

 幹夫が言おうとすると、母が先に言った。

「手紙。……宛名は、まだ」

 祖母はそれだけで分かったみたいに、小さく頷いた。

「宛名がなきゃ、歩けんでなぁ」

 祖母の言い方は、責める言い方じゃなかった。 歩けないものを、でも捨てない言い方だった。

 その午後、幹夫は何度も鉛筆で「父」と「帰」を書いた。 書くたび、胸の中の警報が少しだけ丸くなる。 丸くなっても、鳴り止みはしない。鳴り止まないから、幹夫は手を動かす。

 夕方、汽笛が鳴った。 波の音がした。 蒲原には、サイレンは届かなかった。

 でも、宛名のない便りは、幹夫の中ではもう歩き始めていた。 行き先が分からないのに、胸の中をまっすぐに歩く。 歩きながら、いつか宛名に出会う日を、音も立てずに待っているみたいだった。

 
 
 

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