富士を仰ぐ緑の海 ——「新茶の夢」続編——
- 山崎行政書士事務所
- 5月5日
- 読了時間: 6分

第一章 青空と緑の出会い
静岡の初夏の空は、どこまでも澄み渡っていた。雲が白くふわりと浮き、青のグラデーションが遠くの山まで続いている。その山々のはるか奥には、富士の秀麗な峰が顔を覗かせていた。雪の残滓が頂に白く光り、まるで絵に描いたような姿だ。
七歳の幹夫は、茶畑の間を走る細い道を駆け抜けながら、時折立ち止まって背後を振り返る。そこには、青空を大きく背負った富士山が悠々とそびえ、茶の畝(うね)の向こうに凛とした輪郭を見せていた。「わあ……すごいなあ」と、幹夫は息をのむ。祖母が「この時期の富士山は、雪と新緑のコントラストが美しいんだよ」とよく言っていたが、まさにその通りだった。濃い緑の茶畑と、青い空、その奥の白い峰。風が吹くたび、茶の葉がさわさわと揺れて、富士山が自分に挨拶をしてくれているように思えた。
第二章 水の音をたずねて
「今日はあっちのほうへ行ってみよう!」幹夫は指さした先に、小さな丘が見えた。茶畑がきれいに刈り揃えられ、丘の中腹には湧水の流れる小川があるらしい。祖母が「富士山からの伏流水が地下を通っているのか、あそこは澄んだ水が湧くんだよ」と話していたのを思い出す。
朝のうちはまだ涼しく、幹夫は麦わら帽子を押さえながら、丘を登り始める。畝が規則正しく並び、間の狭い通路を慎重に進むと、ときどき若い茶の葉が顔を出していて、摘みたての緑が鮮やかに目に飛び込んできた。「ごめんね……まだ摘み取られてないんだね」幹夫は葉っぱを撫でながら囁くように言う。まるで茶の木たちの声が聞こえるような気がした。「大丈夫。お日様をいっぱい浴びて、おいしく育つんだよ」と。
第三章 富士山の泉
少し登った先に、小川というより細い水路が流れていた。囲いもほとんどなく、土の間をさらさらと水が走っている。その音はかすかで、耳を澄まさないと聞こえないほど控えめだ。幹夫は「これが富士山からの水……?」と水面を覗き込む。底まで透き通った流れに、自分の顔と青空が写り込むのが見える。葉っぱが一枚、ひらひらと流されていき、光を反射していた。
幹夫は手を伸ばし、その流れをすくってみる。まるで氷水のように冷たく、手のひらがじんとする。口元に運んでほんの少し味わってみると、くせのない柔らかな味がした。「すごい……おいしい水だ……」もちろん、生のまま飲むことは勧められないかもしれないが、幹夫はその水が特別に清らかだと直感した。まるで山の精霊が凝縮された一滴のように思える。
第四章 茶畑と富士の対話
丘のてっぺん近くまで来ると、視界がぐんと開けた。眼下に広がる茶畑は、幾重にも重なる緑の段々畑だ。その向こうに遠く町の家々が並び、その先に広い空と富士山がそびえている。「うわあ……!」幹夫は思わず声を上げた。こんなに広い景色、ここから見えるなんて知らなかった。富士山のてっぺんにはうっすらと雪が残り、その斜面が青空のグラデーションに溶け込んでいる。その姿は、まるで天と地を繋ぐ大きな橋のようでもあり、茶畑と語らっているようにも見える。
そのまま風が吹くと、茶の葉たちがさざ波のように揺れ、「ざわ……ざわ……」という優しい音が響いた。空気が澄んでいて、富士山と茶畑が互いに呼応しているような錯覚に陥る。幹夫は胸の奥が熱くなるのを感じた。「なんだか、両方ともすごく仲良しみたい……」と呟くと、耳の奥で“そうだよ”と囁く声が聞こえた気がした。きっと富士山の精霊か、茶の精たちが、ここでこっそり息づいているのだろう。
第五章 緑の宴
丘の上には小さな展望スペースがあり、木陰になったベンチが設置されていた。幹夫はそこで持参したおにぎりを取り出し、ささやかな食事をとる。父や母が摘んだ茶葉で淹れた冷茶を水筒に入れてきたので、それをぐいっと飲むと、体の中に爽やかな香りが広がった。
「このお茶は、ここの風景と同じ色だ……」湯飲みに注いでみると、薄い金緑色の液が光を受けて微かに輝いている。冷茶の清涼感と甘みが幹夫の疲れをほどいていく。思わず「ごちそうさま」と青空に向かって呟くと、富士山が少し得意げに見えたのは、気のせいじゃないだろう。
第六章 大きな白い雲
おにぎりを食べ終え、しばし景色を堪能していると、雲が一つ、白くふわりと富士山の頂上付近に現れた。風を受けて急速に形を変え、山肌に帽子のようにかぶさろうとする。「富士山が雲の帽子をかぶってる……!」幹夫ははしゃいだように声を上げる。その瞬間、茶畑の一角から何かの笛のような音色が聞こえた気がした。耳を澄ませるが、それは風の音に紛れてしまい、はっきりしない。(もしかして、茶の精霊が喜んでいるのかな……?)そう思っただけで胸がわくわくし、幹夫は立ち上がって辺りを見回した。けれど人影はない。ただ葉の波が揺れるだけだ。
雲はしばらく富士山に寄り添い、やがてゆっくりと流されていった。その合間、富士山の頂が雲の切れ間から覗き、「またね」と言っているようにも見える。幹夫は手を振るようにして、「うん、また見るね!」と小さく答える。
第七章 帰り道
時間が経つのは早いもので、気づくと日差しがかなり高くなっていた。そろそろ家に戻らなくてはと、幹夫は背伸びをして名残惜しそうに茶畑の風景を最後に見下ろす。遠くに富士山の綺麗なシルエットがくっきりと浮かび、ほんの数時間前とはまた違う表情を見せていた。(富士山も茶の葉も、一日のうちにもいろんな顔があるんだな……)幹夫は心の中でそう呟きながら、足早に下山を始める。
茶の畝を下る途中、父や母の姿は見当たらない。みんな朝の作業を終えて、すでに家へ戻ったのかもしれない。幹夫は風景に満足した気持ちでいっぱいだが、同時に不思議とまたここへ来たい衝動に駆られていた。富士山と茶畑が一緒に見えるこの場所は、彼にとって特別な“心の地図”になりそうだ。
第八章 家族の笑顔
家に戻ると、ちょうど父と母が新茶の袋詰めをしていた。幹夫は少し息を弾ませながら、「ねえねえ、富士山と茶畑が一緒に見える場所があったんだよ!」と興奮気味に話す。母は笑って「へえ、いい景色だったでしょう?」と相槌を打ち、父は「そうか、そりゃあいいところだな。今度みんなで行ってみるか!」と応じる。
祖母が「あら、おかえり」と居間から出てきて、「ほら、汗かいたでしょ? 冷たいお茶でも飲みなされ」と湯呑みを差し出す。幹夫は「ありがとう」と言って受け取り、先ほどの水筒の冷茶とはまた違う、温かい緑茶をすすった。甘くまろやかな香りが口に広がり、心と体がふっと落ち着いていくのを感じる。まるで、富士山の清らかな水と、緑の茶葉の恵みが一緒になって、家族を迎えてくれているようだった。
終わりに
こうして七歳の幹夫は、富士山の姿と茶畑が織り成す静岡らしい風景に出会い、自然の美しさと神秘をあらためて胸に刻む。朝のうちは雲ひとつなかった空も、気づけば富士山の頂に白い帽子をかぶせ、風と光の競演がくり広がる。茶畑の葉先はそのたびに表情を変え、幹夫の心をわくわくと躍らせた。まるで、山と茶が互いに会話をし、風や雲を仲介役にして、彼に語りかけてくるかのようだ。“いつでもここにおいで。私たちは、澄んだ空の下で緑の波を揺らしながら、お前を待っているよ。”富士を仰ぐ緑の海は、少年の探求心と茶への愛情を優しく包み込んでいた。次に訪れるときは、また新しい雲の形が山頂を覆い、茶葉がさらに濃い緑へと変化しているかもしれない。そのすべてが、幹夫にとっての大切な“新茶の夢”の続きとなるに違いない。





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