富士を仰ぐ緑の海 ——「新茶の夢」続編——

第一章　青空と緑の出会い

静岡の初夏の空は、どこまでも澄み渡っていました。雲が白くふわりと浮かんでは消え、青のグラデーションが遠くの山並みに重なります。その山々のはるか奥には、富士の秀麗な峰が悠々と顔を出していました。雪のかけらを頂に纏い、まるで絵に描いたような姿です。

七歳の幹夫は、茶畑の間を走る細い道を駆け抜けながら、時折立ち止まっては背後を振り返りました。そこには晴れ渡る青空を大きく背負った富士山が、緑の畝(うね)の向こうに堂々とその輪郭を見せていたのです。思わず「すごいなあ……！」と息を飲む幹夫。祖母が「この時期の富士山は、雪と新緑のコントラストがきれいなんだよ」とよく言っていたのを思い出し、彼はその光景に感激しました。濃い緑色の茶畑、青い空、そして白い峰。風が吹けば、茶の葉がさわさわと揺れ、まるで富士山がこちらに会釈するかのようにも見えます。

第二章　小川と湧水

「あっちのほうへ行ってみよう！」幹夫が指さした先には、小さな丘がありました。すっきりと刈り揃えられた茶畑が段を作るように連なり、その斜面を分けるように、小川がさらさらと流れているのが見えました。聞けば、この丘には富士山の伏流水が湧く泉があるのだという話を祖母から聞いていたのです。

朝のうちはまだ涼しさが残り、幹夫は麦わら帽子を押さえながら丘を登り始めました。畝の間を縫うように進み、時折伸びた新芽を見つけては「こんなに青々としてる……！」と瞳を輝かせます。指先で葉先を撫でると、ぷくりとした柔らかい感触があり、鼻を近づければ青々しい香りが漂います。まるで茶の木たちが「ゆっくりしていきなよ」と迎えているようにも感じられました。

やがて小川に近づくと、水面に小さな陽光のかけらが揺れ、細い瀬からは涼しげなせせらぎが聞こえてきます。幹夫は石の上にしゃがみ込み、透き通った水をすくってみました。すると、指先がきゅんと冷たくなり、口に含めば雑味のない柔らかな味わいが広がります。「これが富士山の水……すごくおいしい……！」もちろん生水は注意しないといけないのですが、幹夫はその清らかな冷たさに胸を打たれ、自然の恵みを全身で感じていました。

第三章　丘の頂

丘をさらに登っていくと、茶畑の端に小さな展望用のスペースがあり、そこからは一面に広がる緑の海と、その先にそびえる富士山が同時に望めました。「わあ……！」と思わず声を上げる幹夫。畝が幾重にも重なる緑の絨毯(じゅうたん)と、遠くにつらなる山々のシルエット、そしてその奥に堂々と姿を見せる富士山――絶景としか言いようがありません。

幹夫はその場に立ち尽くし、風が運んでくる青い匂いを深呼吸しました。茶の葉がさざ波のように揺れて風の音を奏で、富士山はその静かな存在感をもって大地を見守っている。「富士山と茶畑って、すごく仲良しみたい……」彼はふとそんな言葉をつぶやくと、耳の奥でかすかな囁きが聞こえた気がしました。それはきっと、茶畑の精や、遠い山の精霊たちが同意してくれているのかもしれません。

第四章　雲の帽子

しばらく景色を眺めていると、上空に白い雲がふわりと流れ、富士山の頂を覆おうとしていました。幹夫は「あ、富士山に帽子がかかる……！」と叫びます。富士山が雲の帽子をかぶると、まるで大きな巨人が笑っているようにも見えました。緑の海に囲まれたその姿は、童話のような、あるいは遠い昔のおとぎ話のような不思議な光景です。

そのとき、幹夫の耳にかすかな笛の音が聞こえた気がしました。思わず耳を澄まし、あたりを見回すのですが、誰の姿も見えません。風のせいなのか、あるいは茶の精が遊んでいるのか――いずれにせよ、富士山と茶畑が奏でる小さな祝福のように感じられました。

第五章　展望のベンチ

展望スペースには小さなベンチがあり、幹夫はそこに腰を下ろして一息つきます。持参した水筒には、家族が淹れてくれた冷茶が入っていました。ゆっくりと口に含むと、ほのかに甘みのある渋みがのどを潤し、涼やかな気持ちになれます。「はあ……おいしい。」目の前には富士山、足元には緑の畝。幹夫は至福の時を味わいました。まるでこの景色全体が、一杯のお茶とともに体に溶け込んでいくような感覚。祖母がよく言っていた「自然に感謝する心」が、まさに今ここで広がっているのを感じました。

第六章　下山と余韻

雲の帽子はしばらく富士山に留まったあと、やがて風に流されて形を変えていきました。幹夫は帽子が消えゆく様を見届け、名残惜しい気持ちでベンチを立ち上がります。「また来よう……」と心の中でつぶやきながら、丘の道を下り始めました。

段々になった茶畑を下る途中、遠くで農作業をしている人々の声が聞こえました。きっと朝の収穫が終わり、お昼の休憩に入るころかもしれません。幹夫は「こんにちは！」と手を振ろうと思ったのですが、距離が遠すぎて届かないようでした。そのかわり、茶の葉たちがまるで挨拶するように揺れ、一陣の風が幹夫の頬をさっと撫でていきます。彼は何度も振り返っては、富士山を確かめました。頂の雪化粧が朝日に輝き、雲の帽子を脱いだあとの姿もまた、凛とした美しさを放っていました。

第七章　家族のもとへ

家に戻る頃、父と母は茶の仕分け作業に忙しそうでしたが、幹夫の顔を見るなり「おかえり、どこまで行ってたの？」とやや呆れたように微笑みます。彼は目を輝かせながら「富士山がすごくきれいに見える丘があったんだよ！ ほんとに大きくて、雲の帽子をかぶってたんだ！」と身振り手振りで説明しました。

両親は「そうか、そんなにきれいなところなら、今度みんなで行こうか」と嬉しそうです。祖母は縁側で「富士山とお茶の景色は最高だろう？」と軽く目を細め、「昔から、あそこらへんは“風の通り道”があるって聞いたから、精霊たちが囁いているのかもしれないねえ」などと不思議なことをつぶやきました。

幹夫はその言葉を聞いて、また胸がどきどきしました。“精霊が囁く風の通り道”——まさにあの笛のような音や、雲の帽子をかぶった富士山が示していたもののようにも思えます。次に行くときは、もっと耳を澄ましてみよう。もしかしたら、茶の精霊と直接おしゃべりできるかもしれない――そんな期待を抱きながら、幹夫は思わず笑みをこぼしました。

終わりに

こうして七歳の幹夫は、富士山を仰ぎ見る絶景の茶畑で、自然と心を通わせるひとときを過ごしました。青空と新緑、白い雲と雪を頂く富士。すべてが調和し、まるで童話のような静岡の風景がそこにある。茶葉の囁きや笛のような風の音は、幹夫にとって“新茶の夢”の新しい章を開いてくれるサインのようでした。次に訪れるとき、富士はまた別の雲をまとい、茶畑はさらに深い緑に染まっているかもしれません。だとしても変わらないのは、人間と自然が寄り添い合い、お茶を育み、富士山がそれを見守り続けること。少年のまなざしには、その大いなる循環が神秘的に映り、いつまでも色あせることのない物語として刻まれていくのでした。