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富士桜幻想譚

  • 山崎行政書士事務所
  • 3月30日
  • 読了時間: 11分

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第1章 黎明

東の空が藍色から薄白く変わりはじめたころ、少年はふと目を覚ました。寝床から上半身を起こし、まだ家の者が眠る気配の中、彼は静かに布団を抜け出した。胸の内に言い知れぬ高鳴りがあった。早春の朝の息づかいが、何かを囁きかけているように感じられたのだ。

窓を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。東の空には夜の名残の星がひとつだけ瞬いている。遥か遠く、闇に溶け込むように富士山が姿を潜めていた。月はすでに沈み、山の稜線だけがかすかな輪郭を空に描いている。少年はしばらくその静かな光景に見入った。世界が夜と朝の狭間で息をひそめ、何かを待ち構えているようだった。

少年は戸口を開け、外へ出た。土と草の匂いが湿り気を含んで立ち昇ってくる。足元の地面は冷え、霜が降りて白く輝いていた。吐く息が白く煙り、彼は両腕を抱えて身震いする。しかし心は不思議な期待に温まっていた。彼はゆっくりと家の裏手の小径を歩きはじめた。

薄暗がりの中、周囲の景色が次第に輪郭を帯びてくる。遠くから川のせせらぎが微かに聞こえ、風もないのに桜の枝がそよいだように見えた。冬枯れの景色の中で、桜の木々には淡紅色の蕾が無数に宿っている。彼はその下に立ち、じっと枝先を見上げた。固い蕾は夜露に濡れて光り、朝の気配にわずかに震えている。

「もうすぐ咲くんだ……」少年は胸の中でそっとつぶやいた。それは自分自身に言い聞かせるようでもあり、木々を励ますようでもあった。その瞬間、少年の心にも小さな蕾がひとつ、ふいにほころびかけたように感じられた。

ふと、頭上で「ホーホケキョ」というウグイスの初音が響いた。少年は目を見張った。鳥の澄んだ声が静寂に染み渡り、空気が一瞬ふるえたように感じられた。春がすぐそこまで来ている――彼の心にそう確信が芽生えた。長い冬の眠りから目覚めようとしているのは、自分だけではない。大地も、木々も、そしてあの富士山でさえも、同じ瞬間を待ち望んでいるに違いない、と少年は思った。

東の空が次第に明るみを増し、富士山の姿がゆっくりと闇から浮かび上がってきた。空を背景に黒々とした山体が現れ、その頂に白く積もった雪だけがほのかに朝焼け色を帯び始める。やがて、稜線の端から一筋の光が漏れ、少年の立つ地上にまで届いた。彼は思わず目を細める。見る間に光は黄金色に広がり、霜をきらめかせ、川面を淡く染めた。

少年は息を呑んだ。目の前では壮麗な夜明けの劇が展開されていた。その舞台には自分ひとりしかいないように感じられた。だが同時に、彼は自分もまたこの劇の一部なのだと確かに感じていた。世界と心が溶け合い、富士山も空も桜の木々も、彼の胸の鼓動とひとつに響いている。冷たい朝の空気の中で、少年の頬にはいつしか温かな涙が一筋伝っていた。

第2章 桜霞

春が訪れ、麓の里は薄紅の霞に包まれていた。遠目には景色全体がほのかな桃色の霧に煙っているようで、それが「桜霞」と人々に呼ばれていた。数日前まで裸同然だった桜の木々は、一斉に花を咲かせ、枝という枝を柔らかな花びらで埋め尽くしている。青空の下、富士山の白雪と桜の淡紅が鮮やかな対照をなした。野には春の光が満ち、空気は微かに甘やかな花の香りを含んでいる。

少年は川沿いの土手を歩いていた。川岸には桜並木が続き、その下を澄んだ水がゆったりと流れている。水面にも桜色の雲が映り込み、揺れる度に模様を変えていた。少年はお気に入りの一本の桜の大樹の下で足を止めた。見上げれば、無数の花が陽光を浴びて輝き、木漏れ日の模様が地面に踊っている。彼はそっと幹に手を触れ、その温もりを感じながら瞼を閉じた。風もなく穏やかな昼下がり、遠くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。村の人々は思い思いに春を楽しんでいるようだったが、少年はひとり静かに桜の下に佇むことを選んだ。

淡く透き通る花びらが、はらり、はらりと舞い降りてきた。少年はゆっくりと腰を下ろし、草の上に寝転んだ。頭上いっぱいに広がる桜の雲。その向こうには、どこまでも高い春の空がある。白い峰を戴く富士山が、横になった少年の視界に逆さまに映った。彼はまぶしそうに目を細め、しばらくの間、何も考えずにそのまま空と花に身を委ねた。花びらがひとひら、またひとひらと頬に落ちてはくすぐったい感触を残し、やがて地上に散ってゆく。いつしか少年の心は深い静けさに満たされていた。

瞼を閉じると、幼い日の情景が浮かんだ。それは満開の桜の下、母親に手を引かれて歩いた記憶だった。淡い花のカーテン越しに見上げた空の青さに、幼い彼は笑い声をあげていた。舞い散る花吹雪の中、母の笑顔もまた空に溶けるようにぼんやりとしていた。それは幸福そのものの記憶だったが、同時に儚く遠いものでもあった。少年は静かに目を開け、舞い降りる花びらに手を伸ばした。ひらひらと掌に降り積もる花びらは、今ここに確かにあるものなのに、指先からすり抜けてしまう幻のようにも思えた。

少年はふっと息をついた。手の平から舞い上がった花びらが、くるりと宙を舞って川面へ落ち、ゆっくりと流れていく。それを見送りながら、少年の胸には言葉にならない想いが去来した。あの花びらはどこへ行くのだろう。川の流れに乗って、海へ出て、やがて見知らぬ遠い国の岸辺に打ち上げられるのだろうか。それとも水とともに空に昇り、雲になってまたこの地に雨となって戻ってくるのか――。ひとひらの花びらの旅路に思いを馳せるうちに、少年の意識は次第に夢うつつへと沈んでいった。

花陰に横たわる少年の上で、花びらは静かに降り続いていた。世界は柔らかな光に満ち、時の流れがゆるやかに感じられた。耳をすませば、自分の鼓動が大地の脈動と響き合っているように思える。遠く富士山を渡る風の音さえ、彼には聞こえてくるかのようだった。その風は花を揺らさぬほど穏やかでありながら、雪解け水のせせらぎや、地中の芽吹きの力強さを運んできている。少年はまどろみの中で感じた。自分は今、春そのものの中に抱かれているのだ、と。目に見えるものも見えないものもすべてが優しく自分を包み、ひとつの生命のうねりとなっているように思えた。

やがて少年は、はっとして目を覚ました。どれほど眠っていたのだろうか。日は西に傾きかけ、桜の花影も長く伸びていた。穏やかだった空気に、わずかな変化が生じているのを少年は感じ取った。空の色が午後の柔らかな水色から、夕暮れの気配を帯びた淡い金色に変わりつつあった。

彼はゆっくりと身を起こし、名残惜しそうにもう一度頭上の桜を見上げた。美しく咲き誇った無数の花々。その輪郭がどこかぼんやりとして見えるのは、夕方の光のせいだろうか。それとも別の予兆なのだろうか、と少年は胸騒ぎを覚えた。彼はそっと桜の幹に別れを告げ、足早に家路についた。

第3章 花嵐

夜になると、風がざわめき始めた。夕暮れの黄金色に染まった空は次第に灰色の雲に覆われ、木々が不穏に身を揺らし始める。少年は家の窓から外を見つめ、胸騒ぎの正体を悟った。春の嵐が近づいていたのだ。昼間あれほど穏やかだった桜の梢が、闇の中で騒がしくざわめいている。風の音は次第に唸りを増し、家の戸をがたがたと震わせた。

少年は居ても立ってもいられず、外へ飛び出した。夜空には月はなく、厚い雲が低く垂れ込めている。暗闇の中、吹き荒ぶ風に煽られて桜の花びらが無数に宙へ舞い上がっていた。昼間はあれほど静かに舞っていた花びらが、今は嵐に巻かれ、狂おしく乱舞している。少年は懸命に目を凝らし、自分が昼間過ごした川辺の桜並木の方へ走った。強風に足をすくわれそうになりながらも、「どうしても桜の傍に行かなければ」という思いが彼を突き動かしていた。

桜並木に辿り着いたとき、少年は息を呑んだ。辺り一面、花吹雪だった。強烈な風が吹き抜けるたびに、木々から花ごと枝がもぎ取られていくかのようだ。空も地面も判然としないほどの桜の飛沫が舞い乱れていた。花びらは雨のように少年に降りかかり、髪や肩をびしょ濡れにする。冷たい風に晒されて頬が痛んだ。しかし少年は痛みも忘れ、ただ立ち尽くした。耳元で風が吠え、花々の悲鳴のような音が聞こえた気がした。少年は思わず桜の幹にしがみつき、「やめて…!」と心の中で叫んだ。だが嵐は容赦なく唸り続けるだけだった。

一筋の稲光が空を裂いた。その瞬間、白い閃光に浮かび上がった光景を少年は瞼に焼き付けた。怒涛のごとく降り注ぐ花びらの渦。その背景にそびえる富士山の黒い影。次の瞬間、世界は再び漆黒の闇と狂乱の風音だけになった。少年の胸は張り裂けそうだった。あまりに美しく、あまりに悲しい光景――その激しさに彼の心も吹き千切られてしまいそうだった。

やがて嵐は嘘のように静まりはじめた。少年が震える指で桜の幹から手を離すと、雲の切れ間から月の淡い光が漏れはじめ、闇に白々とした輪郭を与えていく。肩で荒い息をしながら周囲を見回すと、先ほどまで宙を舞っていた無数の花びらは地上に散り敷き、薄桃色の雪原のようになっていた。まだ枝に残る花もあるが、その姿は痛々しく乱れている。少年は静かにかがみ込み、一輪の花を拾い上げた。手の中の花は、ついさっきまで高い梢で誇らしげに咲いていたものだ。今はしおれた羽のように力なく垂れている。少年の頬に熱い涙がこぼれ落ちた。それが花びらか涙か、自分でも区別がつかなかった。

第4章 星の海

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ふと顔を上げると、夜空の雲が切れ、ぽっかりと穴が空いていた。そこには、無数の星が瞬いている。少年は呆然とその星空を見つめた。嵐に洗われた空気は澄み渡り、春の宵の星々が驚くほどくっきりと瞬きを放っている。遠くの山際には淡い月が姿を現し、静かな光を投げかけ始めた。荒々しい風は止み、世界は信じられないほど静けさに包まれている。先ほどまでの狂騒が嘘のようだった。

少年は花びらで埋め尽くされた地面に膝をつき、そのまま天を仰いだ。胸の奥で何かが溢れそうになっていた。言葉も涙ももはや出ない。ただ、自分が小さな存在であることを痛感していた。人は自然の摂理の前には無力なのだと――あの美しい花々でさえも。

だが、同時に思う。自分はいったい何者なのだろう。あの星のまたたきに比べれば、一片の花びらほどの命に過ぎないのではないか。風に散る花と、自分はなんとよく似ているのだろう。

少年は空に向かって静かに手を伸ばした。震える掌の向こう、星々が悠久の光を湛えていた。冷たい夜気が肺の奥まで満ちてゆくにつれ、少年の中の悲しみと畏怖はやがて静かな敬虔さへと変わっていった。花は散った。しかし、散り際にこれほどまでの輝きを見せて消えていった。命とはなんといとおしく、尊いのだろう――少年は降り注ぐ星の光の中で、そっと目を閉じた。

第5章 春暁

東の空が再び白み始める頃、少年はゆっくりと立ち上がった。気づけば夜明けが近づいている。嵐の興奮と星空の余韻で、一睡もせずに過ごした夜だった。しかし不思議と疲れは感じない。むしろ心は澄み渡り、身体の内側から力が漲ってくるようだった。

少年は川沿いの土手まで歩み出た。朝の冷たい大気が頬を撫でる。空には一番鳥の鳴き声が響き、遥か遠くの富士山が群青色の空を背にくっきりと浮かび上がっていた。嵐で空気が洗われたのか、富士の頂はいつもよりも鮮明に白く輝き、稜線の一つ一つがはっきりと目に見える。少年はその荘厳な姿に深く息を吸い込んだ。

足元に目を落とすと、土手の草一面に桜の花びらが散り敷いているのが見えた。まるで春の雪が降り積もったかのようだ。しかし、その花びらは既に乾き、朝日に照らされて淡い虹色の光を帯びていた。少年は一枚の花びらを拾い上げ、掌に乗せた。それはもはや冷たく柔らかな肉を持たず、薄紙のように乾いて軽かった。けれど、そこには確かな美しさが宿っているように思えた。花びらは静かに風に乗り、くるりと宙を舞って再び地上へと舞い降りた。少年はその行方を穏やかな気持ちで見守った。

ふと見渡せば、桜の木々は昨夜とは打って変わって静かに佇んでいる。ほとんどの花は散ってしまったものの、枝先には小さな若葉が顔を出し始めていた。生命は確かに次の姿へと受け継がれている。少年の胸に温かなものが満ちた。あの嵐の夜、自分が感じた悲しみも畏れも、今は静かな感謝へと変わっている。花はその命を全うし、新たな命へと橋渡しをしているのだ、と少年は思った。

東の空に朝日が昇った。黄金の陽光が川面に跳ね返り、少年の顔を照らす。彼は目を細めて空を仰いだ。あの星々は青空の中に消えて見えない。けれど、太陽という大いなる星が今、目の前に姿を現したのだ。少年はそっと瞼を閉じ、ゆっくりと両腕を広げた。朝の光と風とを全身で受け止めながら、静かに息を吸い込む。世界が新しく生まれ変わる瞬間だった。耳を澄ませば、遠くで「ホーホケキョ」とウグイスの声が響き、少年は思わず微笑んだ。

その瞳には涙はなかった。ただ、限りない空の輝きと大地の息吹が映っていた。少年は足元の土を踏みしめ、ゆっくりと歩き出した。朝日に染まる富士山を横目に、彼の影法師が長く伸びていく。世界と自分とが呼応し合う鼓動を感じながら、少年は新たな一日へと踏み出していった。

 
 
 

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