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富士見の間

  • 山崎行政書士事務所
  • 1月13日
  • 読了時間: 7分

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富士見の間(ま)

 和臣(かずおみ)が静岡へ来てから、まだ二か月しか経っていない。東京の高校に馴染(なじ)む前に親の転勤が決まり、新しいクラスでは彼の都会的な雰囲気がどこか浮いていた。だが、そんな疎外感はすぐに消えてしまう。入学式の日、学年中の羨望(せんぼう)を集める資産家の令嬢(れいじょう)、**雅子(まさこ)**が、彼を案内役として自然に受け入れてくれたからだ。 当初は戸惑いと安堵が入り混じった複雑な思いだったが、ゆっくりと交わす会話のうちに、和臣は雅子の凛(りん)とした佇(たたず)まいと、微かに覗(のぞ)く小悪魔的な笑顔に魅せられていく。

1.料亭と「富士見の間」

 雅子の家は、静岡市内でも由緒ある料亭を営んでいるという。実際、学校帰りに目にしたその屋敷は、古風な佇まいの中にも洗練された庭園を持ち、奥には大きな座敷がいくつも連なっていた。なかでも最も格式高いとされる一室が、「富士見の間」と呼ばれている。 晴れた日には、障子(しょうじ)を開けた向こうに、富士山が凛然(りんぜん)たる白亜(はくあ)の峰を見せるという。その風景を背景に、来客は季節の懐石料理に舌鼓(したづつみ)を打つのだと雅子は言う。 和臣は、その話を聞くたびに不思議な興奮を覚えた。東京の喧噪(けんそう)を離れて訪れたこの土地には、日本の“象徴”ともいうべき富士山があり、しかもそれを堂々と眺められる特等席が用意されている。雅子の言葉の端々には、自分の家の誇りと、自分がその場所を自由に扱えるという密かな権力意識が漂っていた。そこに和臣は、ある種の倒錯的な魅力を感じずにはいられなかった。

2.満月の招待

 ある晩秋の夜、雅子から「富士見の間」に来ないかと誘われた。夜の料亭は静寂と照明のコントラストが美しく、日中とはまったく違う顔を見せるらしい。 「満月がきれいな夜なら、富士山の稜線(りょうせん)が月光を受けて輪郭を際立たせるのよ」――その言葉を耳にした瞬間、和臣の胸に妙な震えが走った。それは単なる景観への期待だけではない。背後に隠された欲望を、雅子の声がそっと揺さぶっているかのようだった。

 当日、和臣が料亭の裏口から通された廊下は、畳に鴨居(かもい)の香りがしっかりと染みつき、かすかな湯気が漂うように温かかった。奥へ進むと、雅子が一人で待っている。着物姿の彼女は、学校で見る制服のときと全く違う雰囲気を纏(まと)い、妖艶(ようえん)な笑みを浮かべた。 「ようこそ、和臣くん。今夜は特別な夜になる気がするわ」 その言葉が背筋に刃(やいば)を当てるように、静かにそして鮮明に突き刺さる。

3.富士山と日本の美

 「富士見の間」に通されると、窓を開け放った向こうに、影のように黒くそびえる富士山があった。僅(わず)かに月明かりを受けて、その稜線がくっきり浮かぶ。 和臣は息を呑(の)んだ。東京から見える富士山とは比較にならない圧倒的な存在感。“日本”という国のシンボルに対して、彼がこれまで抱いていたイメージを越えた迫力がある。まさに美の頂点。彼はその姿に畏怖(いふ)と興奮を感じずにはいられなかった。

 「私ね、ずっと思っていたの。富士山って神様みたいだと思わない? どんな世俗(せぞく)の汚れも超越して、ただそこにあるだけで人を圧倒する。だから……」 雅子がそこまで言ったとき、和臣の脳裏に“ある衝動”が湧き上がった。それは言葉では説明できない。身体の奥底で燃えあがるような欲望と同時に、崩れ落ちるような感覚を併せもっている。 「二人で、何か儀式めいたことをしようか」 雅子は微笑しながら和臣を見つめる。彼女の眼差しには、憧れと妖しい光が混在している。

4.儀式のはじまり

 障子を閉め切り、二人きりの空間が醸(かも)し出す異様な静寂(しじま)。雅子が手にしていた小瓶に目を奪われる。和臣が問いかけると、彼女はすべてを語らず、ただ「自分とあなたがもっと強く結びつくためのもの」とだけ言って、瓶を開けた。中身は微かな鉄(てつ)の匂いを放つ液体。血を思わせるその匂いに、和臣の喉(のど)が鳴る。 「ねえ、和臣くん。月が富士山を照らすこの瞬間に、人間の欲望は極限まで高められるものだと思わない?」 彼女の声は甘美(かんび)な毒のように、和臣の耳を侵(おか)していく。 そして、二人は互いの腕の内側に小刀(しょうとう)で浅く傷をつけ、その血を小瓶の液に垂らすという奇妙な行為に移った。痛みが走ると同時に、和臣は脳内が白く焼き尽くされるような感覚に襲われる。雅子の顔は恍惚(こうこつ)に染まっている。

5.エロスの果てに

 血の混ざった赤黒い液体を交互に飲み合うかのようにして、二人の唇が触れ合う。血と体液の混濁(こんだく)した味わいが、和臣の理性を溶かす。雅子は和服の裾(すそ)を乱して、白い足首をむき出しにしても意に介さない。彼女の足もとには、金襴(きんらん)の座布団が散乱し、その上に和臣が倒れこむ。 窓から差し込む月光が、部屋をまるで一枚の絵画のように演出している。その背景には、闇に沈みながらも峻厳(しゅんげん)たる気配を失わない富士の山容(さんよう)がある。 「これは……日本の至高(しこう)の美じゃないか」 和臣は喉を潰(つぶ)れそうにして呟(つぶや)く。血の香り、雅子の息遣い、そして富士山がすべてひとつの世界観を作りだし、彼の魂を深い陶酔(とうすい)へと導いている。

6.死の衝動

 しかし、その陶酔は次第に暴走(ぼうそう)する。彼は雅子の手首からさらに血を滴(したた)らせ、頬を伝う血を舌先で受け止めながら、いつかはこの行為に終わりが来るのだろうと理解する。 「終わり」を回避したいがゆえに、あるいは“美の絶頂”において散華(さんげ)したいがゆえに、彼の中には“破滅”への欲動が疼(うず)き出す。雅子もまた、その深い瞳(ひとみ)の奥に同様の衝動を宿しているかのように見える。まるで外界から隔絶された“富士見の間”こそが死へと誘(いざな)う舞台であるかのようだ。 彼女の口から出た囁(ささや)きが、和臣に最後の決断を迫る――「このまま消えてしまいたいわ、あなたと一緒に……」 この場所で富士を仰ぎながら死ねるなら、どんなに美しいだろうか。二人の心は既に極限の官能の向こう側に触れている。

7.破滅の朝

 しかし、運命の朝は、あまりにもあっけなく訪れた。夜が明けはじめる頃、隙間から射(さ)す淡い朝陽(あさひ)が部屋の障子に輪郭を作り、光の筋が入りこむ。その時、静かに障子を開けたのは、雅子の父親であった。 血の臭いと乱れた着物、座敷に横たわる二人――あまりにも背徳的(はいとくてき)なその光景に、一瞬、彼は言葉を失う。そのあと、料亭の使用人たちの慌ただしい動きが加わり、和臣は半ば無理やり引き剥がされるようにして廊下へ連れ出された。 廊下の奥で、雅子が血走った目でこちらを見たが、口を開くことはなかった。いつもの凛とした雰囲気は消え、ただ哀愁(あいしゅう)に染まる目元だけがかすかな力を宿している。まるで二人の「儀式」が未完のまま終わったことへの悔恨(かいこん)を宿しているかのように。

エピローグ:富士の輪郭

 それから数日後、和臣は父親の転勤先が変わったことを理由に、急遽(きゅうきょ)東京へ戻ることになった。あの晩の一件は、まるで誰かが闇に塗りつぶすように処理してしまったかのように、周囲から触れられない。 最終登校日の放課後、校舎の窓から富士山を遠くに眺めた和臣は、かつてないほどの虚無感(きょむかん)に苛(さいな)まれた。どれほど晴れ渡った青空でも、彼の目には富士がどこか曇った輪郭にしか見えない。あの夜の美とエロス、そして血の匂いが、彼の精神を完全に狂わせはしなかったものの、確実に心を裂いた――それだけは明白だった。 雅子の消息(しょうそく)は不明だ。料亭が一時休業しているらしいという噂を耳にするが、直接確かめる術(すべ)はない。和臣の耳には、あの「富士見の間」のすりガラス越しにかすかに聞こえた彼女の吐息が、まだこびりついている。

 東京行きの新幹線に乗る直前、和臣は駅のホームで振り返り、わずかでも富士山が見えるかを確かめる。だが、その日は曇天(どんてん)で何も見えない。ただ彼の瞼(まぶた)の裏には、あの満月の夜の威容(いよう)と、雅子の生々しい唇の感触が焼き付いているのだった。 「日本の美を仰ぐ瞬間こそ、人間の欲望が最も危うい姿を見せる」――あの一晩の経験は、和臣にそんな言葉を呟かせる。だが、それを証明するかのような血塗(ちぬ)られた儀式は、未完のまま終わってしまった。 彼は最後に一度だけ、朝の静岡の空へ視線を投げかけ、名残惜しそうにまぶたを閉じる。そこには“破滅”にも似た美への渇望が、まだ脈打っているように感じられた。

 そして列車は静かに動き出し、和臣を乗せてトンネルへと消えていく。遠ざかる街の向こうには、雲に隠れた富士山の頂(いただき)が、微かながらもその存在を主張している――。

 
 
 

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