寿々木呉服店の夜霧
- 山崎行政書士事務所
- 1月13日
- 読了時間: 6分

静岡市の中心街には、かつて城下町の面影を留める路地がいくつも走っていました。その一角にあるのが、寿々木呉服店。からくり時計のついた古い看板が、曇ったガラス越しにかすかに光っています。街の喧噪(けんそう)が収まる夜になると、この老舗の店先には薄く白い霧がたちこめ、人々の足音をそっと遠ざけるように静かに包みこむのです。
1. 蔵と消える反物の謎
店主の孫娘である**紗和(さわ)**は、まだ学生ながら、店を手伝っては古い反物(たんもの)の整理なども任されていました。呉服店の奥にはひっそりとした蔵があり、そこに眠る数々の反物は、明治・大正・昭和といった時代をまたぎ、人々の思いを宿してきた宝物のような品々でした。
ある夕方、紗和は使われなくなった蔵で反物を整理していると、一枚の反物だけが夜になると透けるように消えるらしいという奇妙な噂を耳にします。半信半疑でしたが、夜が更け、電灯を落としてからもう一度蔵を覗(のぞ)いてみると、その反物が本当にうっすらと姿を失いかけているのを目の当たりにしました。
「なに、これ……?」
まるで月明かりにさらされて溶けていく雪のように、反物は幽(かす)かな光とともに消失していきます。驚いて駆(か)け寄ろうとしたその瞬間、蔵の隙間から白い夜霧が流れこみ、紗和の視界をすうっと閉ざしました。
2. 夜霧の中の大正の面影
霧がゆっくりと晴れたとき、紗和はまったく違う風景の中に立っていました。薄暗い蔵のはずが、どこか懐かしい大正風の街並みが窓の向こうに見え、かすかなガス灯の光が道を照らしています。
蔵の中心では、紫の袂(たもと)をゆらす大正時代の女性がそっと反物を広げていました。その横には、反物と同じ柄の羽織を抱えた青年が物憂げな眼差しをして立っています。彼らはまるで映画のワンシーンから抜け出たように、柔らかな着物の揺れとともにこちらを振り向きました。
「あなたは……ここに迷いこんだの?」「え、あ、あの……」
紗和は言葉を失ったまま、消えかけていた反物が彼らの手の中にたしかにあるのに気づきます。大正の女性はほほえみを浮かべ、静かに口を開きました。
「私は、この呉服店にまつわる因縁を見届けるため、ずっと霧の向こうから通い続けてきたの。呉服店の反物は、着る人の思いや願いが染みこんで、時を超えて人の心を結ぶ架け橋になるんですよ。」
3. 反物に宿る声
紗和が詳しく事情を尋ねると、大正時代の女性と青年は、とある事情で縁(えん)が絶たれてしまい、本来なら結ばれるはずだった思いが宙(ちゅう)に浮いたままになっていたのだといいます。家柄の違いや時代の移り変わり、人々の生活の変化によって、呉服が売れなくなっていったり、廃れてしまった職人技があったり――そんな断片の歴史が反物に刻まれているのです。
「けれど、反物自体はそのときどきの人の思いを織(お)り込んで、いつまでも“在り続ける”もの。私たちはこの反物を通して、過去と未来の間をさまよいながら、再び巡りあえる日をずっと待っていたの。」
青年の声は低く、どこか切なさを帯びていました。その言葉を聞くうちに、紗和は自分の胸にも熱いものがこみ上げるのを感じます。呉服店を継ぐべきか、あるいはまったく違う道を行くべきか――そんな迷いをずっと抱えていたからです。
4. 寿々木呉服店の誇りと、受け継ぐ仕事
夜霧に満ちた蔵の中で、紗和はふと祖父の言葉を思い出しました。「反物はただの布じゃない。着る人を包み、日々の生活や人生の節目に寄り添うものなんだよ」そう言いながら祖父は、仕立てや染めの工程を誇りに感じている様子を、これまで何度となく見せてくれました。
大正の女性は微笑(ほほえ)みかけながら、紗和に語りかけます。
「あなたには、この呉服店の魂(たましい)を引き継ぐ資質(しつ)があります。多くの人に和装を届けてきたここには、時代を超えた思いが眠っているから。けれど、継(つ)ぐだけが道ではありません。あなただけのやり方で、この反物に新しい物語を生み出していくこともできるのです。」
青年も、少し照れくさそうな笑顔を浮かべながら言葉を足します。
「僕らは、ただ過去に縛(しば)られているわけじゃない。反物は未来にも続いていく道しるべなんだ。ここに集う人々の思いを紡(つむ)いで、より多くの心を結び合わせる――それが本当の仕事かもしれません。」
5. 夜明けとともに
やがて蔵の外からカラスの鳴き声が聞こえはじめ、夜明けが近づいてきたことを告げます。大正の女性と青年は、抱えていた反物をそっと紗和の前に差し出しました。それは深い群青色(ぐんじょういろ)に金糸の小花を散りばめた、美しい染めの着物地です。
「これをあなたに預けます。私たちの想いも、寿々木呉服店に息づく人々の声も、すべてこの反物が織り込んでいる。あなたがそれをどう仕立て、どんな物語を続けていくのか……。それはもう、あなた自身の心が決めることだわ。」
そう言うと、二人の姿は夜霧にとかされるように淡く滲(にじ)んでいき、消えてしまいました。それと同時に、蔵に漂っていた霧も引きはじめ、周囲はいつもの薄暗い貯蔵棚(ちょぞうだな)だけが残ります。しかし、紗和の両手には確かにあの深群青の反物が握られていました。
6. 新しい一歩
朝日が昇るころ、紗和は蔵から出て店のカウンターに戻りました。これまで感じていた重苦しさは嘘のように消え、背筋がすっと伸びるのを感じます。ちょうど店の奥から祖父が姿を見せ、「夜遅くまで蔵にいたのか?」と不思議そうな顔をします。
紗和は微笑みながら、「少しだけ、不思議な体験をしたの」と答えるにとどめました。そして、両手に抱える新しい反物を見せ、
「おじいちゃん、この反物を活かして、若い人にも着物の良さを知ってもらえるような新しい企画を考えてみたいんだ。私、やってみてもいいかな?」
と、強い意志を込めて言葉を続けました。祖父は驚いた顔のあと、やがて嬉しそうに微笑み、
「紗和、お前がそう思うなら、ぜひやってみなさい。きっと、寿々木呉服店にとっても良い風を運んでくれるだろう。」
と、頼もしげに頷(うなず)きました。
7. 余韻
店の外に目をやると、すでに通勤通学の人々が行き交い、静岡市の中心街が新しい一日をはじめています。ビル群の谷間にも朝の光が差しこみ、先ほどの夜霧の幻などなかったかのよう。
けれど、夜の蔵で見た大正の女性や青年の声は、まだ紗和の胸の奥で静かに響いています。反物が語りかける言葉、人と人との想いを繋(つな)ぐ不思議な力が、確かに存在することを知った今、紗和は「自分が受け継ぐべき仕事」の本質を見つけたのです。
「この呉服店で、私にしかできない物語を紡いでいこう。遠い時代を生きた人の想いも、今を生きる人の気持ちも、きっと着物を通じて結び合うはず――」
そんな確信を抱きながら、彼女は深群青色の反物をそっと撫(な)でて微笑みました。そのとき、どこからか夜霧の気配がほんの少しだけ漂い、反物がかすかに光を放つのが見えたような気がしました。
――寿々木呉服店の蔵を満たす夜霧の中で、 過去と現在、そして未来が静かに繋がっている。 反物の声を聴く者はやがて、 人々の心を結ぶ本当の仕事に気づくだろう。――





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