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将門塚の草

首は、身体よりも先に政治を知る。身体は飢え、眠り、汗をかき、恋をするが、首は命令の重さだけで太る。太った首は、いつか切られる。切られた首は軽い。軽くなった首ほど厄介なものはない。軽い首は、風に乗って噂になる。

大手町の昼は白い。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。ガラスの壁、磨かれた石の歩道、蛍光灯の反射、名刺の角。都会は、白いものを積み上げて安心する。安心に似たものほど危険だ。安心は、血の匂いを消す。

私はその白い街を、毎日同じ速度で歩いていた。通勤の速度、会議の速度、承認の速度。速度は、罪を追い越すための技術だ。追い越された罪は、後ろで黙って腐る。腐ったものほど匂いを増す。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。

昼休み、私はいつものように将門塚の前を通った。小さな柵、小さな緑、小さな石碑。この小ささが、やけに目に刺さる。小さいものほど胸に刺さる。小さいものは、巨大なものの弱点を露わにするからだ。ビルの谷間に残された土は、まるでここだけが「地面」であるかのような顔をしていた。地面は正直だ。正直なものほど残酷だ。地面は、書類の言葉を笑わない。ただ、受け取って沈める。

私は柵の外から、草を見た。草は風に揺れ、揺れながら濃い緑を保っている。濃い緑は、白い都会にとって異物だ。異物は、排除の欲望を呼ぶ。排除の欲望は、いつも「整備」という名を借りる。整備という言葉ほど不潔なものはない。整備は、切り捨てるものの匂いを消してしまう。

その日、私の鞄の中には一枚の紙が入っていた。「周辺整備に伴う関係地の扱いについて」——そんな題名の、薄い紙。紙は軽い。軽い紙が、重い土を動かす。土を動かせば、人も動く。人が動けば、骨も動く。骨が動けば、祟りの噂が立つ。噂は軽い。軽い噂ほど、現実を重くする。

上司は言ったのだ。「一応、念のためね。移設ってほどじゃない。少し“整える”だけ」整える。整えるという行為は、崩れる前提を含んでいる。崩れる前提の言葉ほど危険だ。崩れる前提の上で、人は平気で刃を振るう。

私は将門塚の前で立ち止まった。立ち止まるという行為は、都会では罪に似る。罪に似た行為ほど、胸を正直にする。白いシャツの袖口が、汗でわずかに湿っていた。湿り気は、人間の証拠だ。証拠ほど都市は嫌う。都市は、乾いた顔を好むからだ。

ふいに、背中に視線を感じた。振り返っても、同じスーツ、同じ歩幅、同じ無関心が流れているだけだ。無関心は残酷で、残酷だから正しい。正しい無関心の中で、ここだけが「見ている」。

私は柵に近づいた。柵の鉄は冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の甘い好奇心を叱る。それでも私は、指先を伸ばし、石の縁に触れた。

石は冷たかった。だが、冷たさの奥に、妙な重さがあった。重さは、ここに「まだいる」という感触だ。私はその重さに、どうしようもなく感情移入してしまった。

——あなたは、首だけになっても、ここに帰ってきたのか。——帰ってきて、土に沈められて、草に髪を作られて、それでもまだ、都を見ているのか。

その瞬間、匂いが変わった。大手町の紙とコーヒーの匂いが、一枚剥がれ、代わりに湿った土の匂いが立ち上がる。土の匂いは正直だ。正直な匂いほど残酷だ。土の匂いの下から、鉄と血の匂いが薄く混じってきた。血は洗えば消えると人は思うが、血の匂いは鉄にだけは残る。鉄は人間をよく覚える。人間の方が、すぐ忘れる。

私は見た。――いや、見たのではない。胸の奥で、古い映像が勝手に再生された。

湿った草、濁った空、馬の息。声。命令。矢の音。そして、首が落ちる瞬間の、あまりに鈍い静けさ。静けさは、刃のあとにだけ訪れる。首は転がり、転がりながらも、眼だけが開いている。開いた眼は危険だ。開いた眼は、死を美に変えやすい。美しさは危険だ。美しさは、殺しを清めた気にさせる。

首が笑う。笑いは薄い。薄い笑いは、敗北の皮を被った勝利に似る。私はその笑いに、なぜか救われそうになった。救いは甘い。甘い救いは腐る。腐った救いの上で、人はまた同じことをする。

私は石から手を離した。指先に、冷たさが残っている。残る冷たさは、罪の形に似ていた。

「首になるぞ」

誰かの声が聞こえた気がした。もちろん、現実の誰も言っていない。言っていないのに、私はその言葉を聞いた。首になる。会社を追われること。首を落とされること。首が噂になること。首が土に戻ること。

私は笑いそうになった。首という一字が、こんなにも多くの死と生活を繋いでいる。繋ぐものは、いつでも縁(えにし)に似る。縁は美しい。美しい縁ほど危険だ。縁は、人を縛る。

鞄の中の紙が、急に重く感じられた。軽い紙が、重くなるとき、紙は「命令」になる。命令は耳より先に骨へ入る。骨へ入った命令は、考える前に手を動かす。私はその骨の動きを止めたかった。止めるという行為は、都会では反逆に似る。反逆は美しい。美しい反逆ほど危険だ。美しさは、自分を英雄にしてしまう。英雄という呼び名ほど不潔なものはない。

だから私は、英雄にはならない形で止めようと思った。ただ、署名しない。ただ、押印しない。ただ、今すぐは動かさない。卑怯な方法だ。卑怯だから胸に刺さる。刺さる痛みは生の証拠だ。

私は柵の外で、深く頭を下げた。礼は美しい。美しい礼ほど危険だ。礼は心の汚れを一瞬隠す。だが今は隠したくなかった。私は自分の汚れを、草の匂いに晒したまま、口の中で小さく呟いた。

「清潔にしすぎない」

将門塚は、何も答えない。答えないものほど残酷だ。答えないものほど正しい。正しい沈黙の中で、草だけが揺れていた。揺れる草は、髪のようだった。髪は生の名残だ。名残はいつも、甘くない。

職場へ戻る道で、ビルのガラスに自分の顔が映った。顔は、いつもと同じ顔だった。同じ顔で、私は毎日「整備」の言葉を使っている。整備、改善、合理化——どれも清潔な語だ。清潔な語ほど残酷だ。語は、切り捨てるものの匂いを消すからだ。

エレベーターの中で、私は鞄から例の紙を取り出した。紙は白い。白は潔白ではない。白は、汚れを目立たせるための背景だ。私はペンを握った。ペンは刃に似る。刃に似たものほど、軽々しく握ってはいけない。

署名欄の上に、私は一行だけ書いた。「要再検討」たった五字。だが私にとっては、首を落とすより重い動作だった。なぜならその五字は、私の「生活の首」を危うくするからだ。危うくなることが怖い。怖いから、私はそれを書いた。怖いと言えるのは、まだ人間である証だ。

夕方、残業の蛍光灯の白さの中で、私はふいに思った。将門は、何のために立ったのか。正義のためか。野心のためか。土地のためか。そんな問いは遅い。遅い問いは答えを持たない。答えのない問いの代わりに、匂いだけが残る。

血の匂い。土の匂い。首が落ちる瞬間の、鈍い静けさの匂い。その匂いが残る限り、将門はただの「伝説」にはならない。伝説にならない限り、私の紙もまた、ただの「手続き」にはなりきらない。

夜、ビルの外へ出ると、将門塚の方角に小さな闇が見えた。闇は怖い。怖い闇ほど、正しい。私はその闇に向かって歩くのではなく、背にして歩いた。背にするという行為は逃げに似る。逃げは卑怯だが、卑怯でなければ守れないものもある。

首を守るのではない。土を守るのでもない。ただ、「匂いが消える速度」を少しだけ遅らせる。その遅さだけが、私に残された唯一の抵抗だった。

そして私は知っている。明日もまた、白い街は整えたがる。整えたがる欲望は、いつでも正義の顔をする。だから私は、昼の草の揺れを忘れない。

将門塚の草は、今日も髪のように揺れるだろう。髪は伸びる。伸びるものほど、いつか切られる。切られる前に、私はもう一度だけ、あの冷たさに触れるつもりだ。清潔な物語にされないために。そして、私自身が「首」を軽々しく扱わないために。

 
 
 

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