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小さな公園のブランコ分光器(舞台:静岡市清水区 御門台)

 幹夫青年は、御門台の住宅のあひだの細い道を、ゆっくり歩いてゐました。 冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。

 (ことばも、白い息みたいならいい。  出て、消えて、でも少しあたたかい。)

 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。

 道を曲がると、小さな公園がありました。 ほんとうに小さくて、ブランコが二つ、すべり台がひとつ、砂場がひとつ。 柵も低く、木も一本だけで、夜の中で「ここは少しだけ息をしていい」と言ってゐるやうな場所です。 御門台の町は静かですが、こういふ静けさは、さらに静かで、さらにやさしい。

 公園の街灯は、白い光をぽっと落としてゐました。 その光の輪の中で、ブランコの鎖が、ほそく光つてゐます。 鎖は、ただの鉄の輪のつらなりなのに、よく見ると、その輪が一つ一つ小さな鏡になって、光をばらばらに返してゐました。

 きら。 きら。 きら。

 その「きら」が、幹夫の目には、ただの銀色に見えませんでした。 銀色の中に、赤や、黄や、青の粉が混ざってゐるやうに見えたのです。 まるで、鎖が、白い光を分けてゐるみたいに。

 (分光だ。)

 幹夫は、理科の教室のプリズムを思ひ出しました。 白い光を通すと、虹の帯に分かれる。 分かれると、見えなかったものが見える。

 でも、ここにはプリズムはありません。 あるのは、ブランコの鎖だけです。 それなのに、鎖の輪が、まるで小さな格子(こうし)みたいに、光をちぎって、色の粉にしてしまふ。 幹夫は、胸の奥がすこしだけ軽くなるのを感じました。 世界が「ちょっと理科」になると、裁判官は議事録の取り方が分からなくなって、黙ることがあるのです。

 風が通りました。 見えません。けれど通ったのが分かります。 なぜなら、ブランコの座板が、ふわりと揺れて、鎖の光が、いちどだけ虹の向きを変へたからです。

 幹夫は、ブランコの前に立ちました。 座ってみようか、と迷ひました。 大人が夜の公園でブランコに座るのは、どこか「場ちがひ」な気がします。 場ちがひ、といふ言葉は、いつも裁判官の机の上から飛んで来ます。

 ――「似合はない。」 ――「見られたら恥づかしい。」 ――「そんなことより、返事をしろ。」

 返事。 その一語で、幹夫の胸がまた少し重くなりました。 けれど、鎖の虹の粉は、叱りません。 ただ、ちぎれて、分かれて、光つてゐるだけです。

 幹夫は、そっと座板に腰を下ろしました。 座板は冬の板で、少し冷たく、しかし冷たいだけではありません。 冷たさの奥に、木の匂ひが少し残ってゐました。 幹夫は、足で地面を軽く蹴って、ブランコを一度だけ動かしました。

 ゆら。 ゆら。

 すると、鎖の輪の一つ一つが、光を拾ひながら移動して、虹の粉が、帯になって揺れはじめました。 赤い粉が先に行き、青い粉が後から追ひかけ、黄いろがその間でふるへる。 まるで、色が、ブランコの周期に合わせて呼吸してゐるやうでした。

 (周期……。)

 幹夫は、また理科の図を思ひ出しました。 振り子の周期は、糸の長さと、重力で決まる。 T = 2π√(l/g) そんな式が、黒板に白いチョークで書かれてゐたのを覚えてゐます。

 重力(じゅうりょく)。 幹夫の胸にも、重力みたいなものがある。 「遅い」「いまさら」といふ重り。 それがぶら下がってゐるから、言葉は揺れても、なかなか外へ飛べない。

 けれど、ブランコは揺れてゐます。 揺れてゐるのに、ちゃんと戻って来ます。 戻って来るのは、悪いことではありません。 戻って来るから、次にまた進める。 幹夫はその当たり前が、急にありがたく思へました。

 そのとき、公園の入口で、砂利を踏む音がしました。

 じゃり、じゃり。

 見ると、子どもが一人、母親に手を引かれて入って来ました。 子どもは小さな手袋をして、頭に帽子をかぶり、目を丸くしてブランコを見ました。 夜の公園に子どもが来るのは不思議ですが、きっと近くの帰り道なのです。 母親は、幹夫を見ると少し驚いた顔をしましたが、すぐに会釈だけしました。

 幹夫も、反射で言ってゐました。

「こんばんは」

 挨拶は短い。短いから、場ちがひの裁判が始まる前に、空気をやわらげます。

 子どもは、ブランコの鎖の光を見て、声を上げました。

「ねえ、虹!」

 母親は鎖を見て、笑ひました。

「ほんとだね。キラキラしてるね」

 幹夫は、その「虹」の一語に、胸の中の何かがほどけるのを感じました。 大人は、すぐ「ただの反射だ」と言ひたがります。 でも、子どもは先に「虹」と言ってしまふ。 先に言えば、世界は先に虹になるのです。

 子どもは、母親に言ひました。

「のりたい」

 母親は、少し困った顔をして、幹夫の方をちらりと見ました。 幹夫は、ブランコから降りて、座板を軽く押さへました。 押さへると、揺れが止まり、虹の粉もいちど静かになります。 静かになると、また見えます。 見えると、また分かれます。

「どうぞ」

 幹夫が言ふと、母親はほっとして、子どもを座らせました。 子どもは、足をぶらぶらさせて、にこにこしました。

 幹夫は、軽く、ほんのすこしだけ押しました。 ブランコは揺れ、鎖の虹はまた動き出しました。 子どもの笑ひ声は短く、空気の中でよく響いて、すぐ消えました。 消えるのに、あたたかい。 白い息と同じです。

 母親が言ひました。

「すみません……ありがとうございます」

 ありがとう。 その言葉は、幹夫の胸の中の“橙いろ”の帯を、ぱちんと点けました。 分光器は光を分けるのに、言葉もまた、胸の中で分かれます。 重い「いまさら」から、軽い「ありがとう」へ。 長い説明から、短い挨拶へ。

 幹夫は、余計な説明をせずに言ひました。

「……よかったです」

 母親は、もう一度会釈して、子どもを揺らしながら、小さく笑ひました。 その笑ひも短く、短いから、ちゃんと夜に合ひました。

 しばらくして、母子は「さむいね」と言ひながら帰って行きました。 公園には、また幹夫だけが残りました。 けれど、さっきまでとちがって、寂しくありませんでした。 虹の粉が、まだ鎖に残ってゐる気がしたからです。 そして、胸の中の裁判官の机の音が、いま、ひどく遠い。

 幹夫は、ブランコの前で立ち、もう一度、鎖の分光を見ました。 色は混ざれば黒く重くなる。 分ければ、一本だけ持てる。 一本だけなら、風に乗る。

 (一本だけ。)

 幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、御門台の小さな公園の街灯と、鎖の虹の粉が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 ブランコの揺れは、往復で十分でした。 虹の帯も、一本で十分でした。 なら、ことばも一行でいいのです。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「御門台の小さな公園。ブランコの鎖が分光器みたいに虹をつくってた。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、ブランコが揺れて戻るみたいに、ことばが外へ出て、ちゃんと空気の中へ揺れて行ったのです。

 幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、鎖の光が虹に分かれるのを見て、胸の中のことばも一本に分けて送っただけです。 けれど、その“一本だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 御門台の小さな公園は、今夜も静かに、ブランコ分光器で、ひとりの胸の光をそっと分けてゐるのでした。

 
 
 

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