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巴川のくらげ燈

 幹夫青年は、夜の静岡を、用もないのに歩いてゐました。

 昼の町は、看板やガラスや電車の音で、いかにも「こちらへ来い、こちらへ来い」と呼ぶのですが、夜の町は、ただじつと黙つてゐて、却つて胸の中のものがはつきり聞こえてしまふのです。

 ――ぼくの胸の底で、いま、何が「こつこつ」と鳴つてゐるのだらう。

 幹夫は、青葉の方角を抜けて、巴川(ともえがわ)の堤へ出ました。

 川の匂ひがしました。泥の匂ひと、藻の匂ひと、それからどこかに塩の針のやうな匂ひが混じつてゐます。巴川は海へ近いから、夜の潮が上がると、川の水はすこしだけ海の気分になるのです。

 堤の下へ降りると、水面は黒い硝子のやうにひろがり、街灯の光が細く折れて、

 「ゆらり、ゆらり」

 と揺れてゐました。

 幹夫は石の縁に腰をおろし、しばらく、その光の折れ方を見てゐました。折れる光は、どこか胸の中の考へに似てゐます。考へもまた、まつすぐではなく、波ひとつで折れ、風ひとつで切れてしまふのです。

 そのとき、水面のずつと手前で、ふうつと淡い明りが点きました。

 「……あれ?」

 明りは一つではありません。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、と、黒い水の上に、淡い乳色の点が生まれて、ゆつくり動きはじめました。点は、まるで小さな提灯(ちやうちん)を腹に抱いたくらげのやうに、ぷかりぷかりと浮いてゐるのです。

 幹夫は思はず身を乗り出しました。

 くらげ燈(あかり)たちは、水面に近づくほどよく見えました。

 透明な傘のやうなものが、呼吸するやうに、

 「とろり……とろり……」

 とひらいたり閉ぢたりします。そのたび、腹の明りがふつと強くなり、ふつと弱くなりました。

 そしてその明りの輪の中で、ちいさな泡が一つずつ生まれて、上へ上へと上がつて行きました。

 泡は、

 「ぷつ、ぷつ、ぷつ」

 と小さな句読点(くとうてん)の音を立てました。

 幹夫はなぜだか、その泡が「ことば」みたいに見えて、胸がすこしあたたかくなりました。

 すると、くらげ燈の一つが、幹夫のすぐ前まで来て、そこでぴたりと止まりました。

 そのくらげ燈は、ほかのより少し大きく、腹の光が淡い金いろでした。

 くらげ燈は、まるで水の中で鈴を鳴らすやうな声で言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――コンヤ、ヨルノ水ノ学校。

 ――オマエ、席(せき)アリ。

 幹夫はびつくりして、あたりを見回しました。

 もちろん人はゐません。堤の上を車が一台通り過ぎる音がして、遠くの信号が赤く光つてゐるだけです。

 けれども水の上には、くらげ燈が次々に集まつて来て、半円をつくり、まるで教室の机を並べるやうに整列しました。

 ――サザナミ一組。

 ――アワ二組。

 ――ミズクサ三組。

 さらさら、と水の面がささやいて、暗い川の上に、見えない黒板が一枚すうつと現れたやうに思へました。

 幹夫は、どうしても断れませんでした。

 それは命令といふより、宿題を渡されるときの、あのひそやかな確かさだつたからです。

 幹夫は靴をぬぎ、そつと石の縁へ足をおろしました。

 水は冷たいはずなのに、そのときだけ、足の裏へ柔らかい板が当たつたやうに感じました。

 くらげ燈が、ふうつと光を寄せて、水面に小さな「席」を作つてゐたのです。

 幹夫がそこへ坐ると、くらげ燈たちは一斉に、

 「とろり……とろり……」

 と傘を動かして、授業のはじまりの挨拶をしました。

 先生は、いちばん大きな、金いろのくらげ燈でした。

 先生は、腹の明りを少し強くして言ひました。

 ――ヨルノ水ハ、文字ヲ書ク。

 ――カゼ少ナイ。

 ――オン(音)ハ澄ム。

 ――ヒカリ、折レル。

 ――ソレ、全部、文法。

 幹夫は、胸の中で「文法?」と思ひました。

 すると先生は、ふつと傘を閉ぢ、またひらきました。

 すると水面に、小さな輪がひろがつて、輪は二つになり、三つになり、やがて一列に並びました。

 輪は、

 「すう……すう……」

 と息をして、まるで文章の行間(ぎやうかん)みたいにきちんと揃つたのです。

 先生は言ひました。

 ――コレ、流(ながれ)ノ式。

 ――速サ(はやさ)ト、幅(はば)ト、深サ(ふかさ)。

 ――ドレカ変ハルト、ドレカ変ハル。

 ――ソレデモ、ミズハ、海ヘ行ク。

 幹夫は思はず、遠い港の方角を見ました。

 見えません。けれども確かに、巴川の水は、その闇の向うへ流れてゐるのです。

 すると、後ろの席の「あわの子」が、ちいさく手を挙げました。

 あわの子は、ほんたうは泡なのですが、泡の中に小さな眼が二つ見えるのです。

 ――センセイ。

 ――海ヘ行ク途中、アワハ消エマス。

 ――消エルノハ、ワルイコトデスカ。

 先生は少し黙つて、それから腹の光をあたたかくしました。

 ――消エルノハ、ワルイコトデハナイ。

 ――ダガ、消エル前ニ、次ノ泡ヲ押シ上ゲル。

 ――押シ上ゲタ泡ガ、次ノ文ノ句読点。

 幹夫の胸が、きゅうとしました。

 押し上げる――。

 胸の中の重たい石が、すこしだけ「道具箱」の重さに変はるときと同じ感じがしました。

 そのとき、教室の端のくらげ燈が、ふいに光を弱めました。

 弱めたのではありません。光がくもつて、胸の灯が曇り硝子のやうになつたのです。

 くらげ燈は、かすれた声で言ひました。

 ――アシ……。

 ――ワタシ、アシ、カラマル。

 見ると、くらげ燈の細い触手に、透明な糸が絡まつてゐました。

 釣り糸か、ビニルの切れ端です。水の中でそれがきらりと光り、くらげ燈の触手を締めつけてゐるのです。

 先生は言ひました。

――ミキオ青年。

 ――今夜ノ宿題。

 ――コノ灯(ひ)ヲ、自由ニスル。

 ――自由ニシテ、流レニ返ス。

 幹夫は膝をつきました。

 水は冷たく、指先がすぐ痺(しび)れて来ます。

 けれども糸は、塩と泥でぬるぬるして、なかなかほどけません。

 幹夫は息を止めて、そつと、そつと、糸をたぐりました。

 爪の端が痛み、皮膚が冷えて、「いまやめろ」と胸の中の声が言ひかけました。

 けれども幹夫は、その声を押し込めませんでした。押し込めると、声は石になります。石は沈む。沈むと灯が届かない。

 幹夫は、ただ胸の中で、ちひさく言ひました。

 ――いま、ほどく。

 ――それだけ。

 すると不思議なことに、糸の結び目が少しだけゆるみました。

 水が手伝つたのか、風が手伝つたのか、あるいは幹夫の指の熱が、結び目の塩をほどいたのか。

 糸がはずれると、くらげ燈は一度だけ大きく傘をひらき、

 「とろりっ」

 と鳴りました。

 腹の灯がぱつと澄んで、淡い光が水面へ広がりました。

 くらげ燈は、幹夫の指先の近くで、ふうつと小さな泡を出しました。

 泡は、

 「ぷつ」

 と鳴つて、まるで「ありがとう」の句点みたいに、水の上へ上がつて行きました。

 先生が言ひました。

 ――ヨシ。

 ――今夜ノ水ノ学校、修了(しうれう)。

 ――ミキオ青年、オマエ、灯ヲ持ツテヰル。

 ――灯ハ、空カラ来ルコトモアル。

 ――ダガ、多クハ、手カラ来ル。

 くらげ燈たちは一斉に、腹の明りを小さく振るへさせました。

 それは拍手ではありません。水の拍手は音ではなく、光の震へで行はれるのです。

 そして教室は、ゆつくり解けはじめました。

 くらげ燈たちは、ぷかり、ぷかり、と流れに乗り、闇の向う――海の方角――へ、淡い列になつて進みました。

 幹夫は石の縁に立ち、靴を履きました。

 指先は冷たい。

 けれども胸の中は、さつきより少しだけ澄んでゐました。澄んだといふより、胸の底の井戸に、小さな泡が上がつたやうに思へたのです。

 幹夫は堤を上がりながら、ふと掌を見ました。

 掌は暗いままです。

 けれどもその暗い掌の中心に、さつきほどいた糸の感触が、淡い燈のやうに残つてゐました。

 巴川の水面は、もう遠くて黒く、くらげ燈も見えません。

 それでも幹夫には、あの「夜の水の学校」の黒板が、まだ胸のどこかに立つてゐるやうに思へました。

 ――水は海へ行く。

 ――泡は消える。

 ――けれども消える前に、次の泡を押し上げる。

 ――それが文法。

 幹夫青年は、夜の静岡の道を、ゆつくり帰りはじめました。

 街灯の円い光が、ひとつ、またひとつ、舗道に落ちてゐます。

 幹夫の影はその円の中で短くなり、円と円の間で長くなりました。

 そして幹夫は、小さく言ひました。

 「……あしたも、ちかいところで、ほどいてみよう」

 風が「すう」と通り、遠い川が「ゆらり」と答へました。

 それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいと幹夫は思ひました。

 光は遠くから来る。

 けれども使ふのは、いつも、ここなのです。

 
 
 

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