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巴川の橋の上、風鈴の音に遅れて笑ふ

 幹夫青年が巴川の方へ出て来たのは、別に用事があつたからではない。 用事といふものが、近頃の彼には妙に重たく感じられたので、重たくない方へ足を向けた――ただそれだけである。川べりの散歩は、何の責任も要求せぬ。行つて帰る。それだけで一日の形が出来る。形が出来れば、胸の中の散らかりも、少しは落着く気がする。

 清水の町は、港の匂ひと川の匂ひとが、夕方になるといよいよ交り合ふ。潮の塩気に、どこか鉄の匂ひが混じり、遠い荷役の音が、風にほどけて届く。巴川の水面は、海ほど大きくはないが、その代り、街の灯を近く映して、きらきらと忙しく光る。幹夫はこの「忙しい光」を眺めるのが好きだ。忙しい光は、こちらの怠け心を一時だけ許してくれる。

 橋の上へ出ると、風がひとすぢ通つた。 橋脚の影が水に落ち、そこを小さな波がひそかに削つてゆく。欄干に手を置くと、金属がひんやりして、掌が現実へ戻る。現実へ戻る、といふ言ひ方は大げさだが、幹夫のやうな青年は、しばしば掌ひとつで救はれるのである。

 そのとき、ちりん、と微かな音がした。 風鈴である。

 どこかの家の軒先か、川沿ひの小さな店の入口か、音の主は見えぬ。だが、見えぬ方がよい。風鈴は姿より音が本体で、音は姿ほど無遠慮ではない。音は耳へ来ても、肩へ乗らぬ。幹夫は、ちりん、といふその短い涼しさに、思はず目を細めた。

 ちりん。

 もう一度鳴つた音に、幹夫の記憶がふと反応した。 ――さう言へば。

 去年の初夏、この巴川の橋の近くで、彼はひどく気恥づかしい思ひをしたことがあつた。 誰かに格好をつけたかつたのである。――相手は名を出すほどのものでもない。友人の紹介で知り合つた女で、幹夫はその女の前で「自分は気の利いた男」だと見せたかつた。気の利いた男といふのは、つまり、用もないのに用のある顔が出来る男だ。

 その時彼は、風鈴を土産にしようと考へた。 清水の夏と風鈴――いかにも洒落た趣向に思へたのである。幹夫は洒落に弱い。洒落は、努力しないで品が出るやうに見えるからだ。ところが彼は、肝腎の品を持つてゐない。だから洒落を借りる。借りた洒落は、たいてい返済を迫る。

 彼は店で風鈴を買つた。 紙袋へ入れてもらひ、胸を張つて歩き出した。――ところが、橋の上で風が一つ強く吹いた。紙袋があをられ、彼は慌てて押へ、押へた拍子に袋の底が破れ、風鈴がころりと落ちた。 落ちた風鈴は、橋の上で一度、ちりん、と鳴つた。 そしてそのまま、欄干の下へ、――水の方へ。

 幹夫は咄嗟に手を伸ばしたが、届かぬ。届かぬ代りに、自分の手のひらが空を掴む姿だけが、やけに間抜けに見えた。ちやうどその瞬間、通りかかつた老人が「おっと」と声を上げ、しかし間に合はず、風鈴は水へ落ちた。 水面に輪がひろがり、輪の中心で、風鈴が小さく沈んだ。

 幹夫は真赤になつた。 土産は消え、洒落は溺れ、彼の「気の利いた男」の顔も、あつさり剥げた。彼は笑へず、謝ることも出来ず、ただ「すみません」と小さく言つて、その場から逃げた。逃げたくせに、後でその女に「風が強くて……」などと余計な説明をした。説明をすればするほど惨めになるのに、惨めさを隠すためにまた説明する。――幹夫は、かういふ循環の名人であつた。

 それ以来、この橋のあたりを歩くと、幹夫は自分の手のひらが空を掴む姿を思ひ出し、急に歩調が乱れた。恥は足元を狂はす。 だが今夜、風鈴の音を聞いた幹夫は、なぜだか、その恥を少し違ふ形で思ひ出した。

 ちりん。

 風鈴はまた鳴つた。 その音は「お前は間抜けだ」と言はぬ。 「落ちるものは落ちる」とも言はぬ。 ただ、夏のはじまりを、勝手に告げる。

 幹夫は橋の欄干にもたれて、ひとりで小さく笑つた。 笑つた、と言つても声を出して笑つたのではない。胸の内で、ふつと息がほどけたのである。 去年は、あの一件を「人生の失敗」のやうに大げさに抱へた。けれど、今夜は、ただの「風鈴が落ちた話」になつてゐた。落ちた話に変ると、恥は急に軽くなる。軽くなると、やつと笑へる。笑へると、失敗は失敗のまま、人に害をせぬ。

 橋のたもとに、小さな店が一つあつた。 古い茶の暖簾が下がり、軒先に風鈴が二つ三つ、並んでゐる。幹夫は音の主はここか、と気づいて、ふらりと入つた。

「いらつしやい」

 店の主人は年配の男で、手ぬぐひを肩にかけ、湯呑を拭いてゐた。店内には冷茶の香がして、棚に簡単な菓子も置いてある。川べりの店らしく、どこか肩の力が抜けてゐる。

「風鈴、いい音ですね」

 幹夫が言ふと、主人は笑つた。

「音はね、遅れて来るくらゐがちやうどいいんだよ。風が吹いて、しばらくして、ちりん。――人間も同じでさ、あとから分かることの方が多いら」

 あとから分かること。 幹夫は、その言葉が気に入つた。 去年の恥も、今夜になつてやつと「笑へる話」になつた。笑へるといふことは、分つたといふことだらう。分つたところで、何が偉い。偉くはないが、少なくとも、同じ恥にまた溺れずにすむ。

「……去年、この辺で風鈴落としたんです」

 幹夫は、思はず言つてしまつた。 言つてしまつたのが不思議である。いつもの幹夫なら、恥は隠し、隠した分だけ大きくする。だが今夜は、恥を言つても、この店の冷茶の香が、恥を湿らせて小さくしてくれる気がした。

 主人は声を立てて笑はず、ただ頷いた。

「落ちるよ。風鈴は落ちる。――でもね、落とした人は、次は紐をちよいと確かめるだら。次があるってのが、いいね」

 次がある。 この「次」を、幹夫はいつも怖がつて来た。次があると、また自分が試される気がするからである。けれど、次があるといふのは、試されるだけでなく、やり直せるといふ意味でもある。やり直しは、立派な革命ではなく、紐をちよいと確かめる程度で足りる――主人の言葉は、さういふ軽さを持つてゐた。

「ひとつ、持つて行く? 高いのは勧めないよ。窓辺にぶらさげりや、十分涼しい」

 幹夫は、軒の風鈴を見上げた。 透明なガラスのもの、青いもの、短冊に茶の字の入つたもの。どれも「立派さ」を売つてゐない。生活の涼しさを売つてゐる。幹夫は、その素朴さがありがたかつた。

「……じゃあ、これ」

 彼は小さな青い風鈴を指さした。 主人が紙袋に入れ、「落とすなよ」と笑つて渡した。 幹夫は、今度は胸を張らずに、両手で丁寧に受け取つた。丁寧に受け取るのは、格好をつけるためではなく、ただ落としたくないからである。落としたくない理由が、誰かへの見栄でなく、自分の暮しのためになつたとき、人は少しだけ大人になるのかもしれぬ。

 店を出ると、巴川の風がまた橋の上を通つた。 紙袋の中で、風鈴は鳴らない。鳴らぬのがよい。鳴るのは、帰つて窓辺へ掛けてからでいい。 幹夫は橋の真中で立ち止まり、水面を見た。街灯が揺れ、橋脚の影が伸び、遠くで車の音がする。だが今夜の音は、さつきより少し明るい。自分の耳が、少しだけ軽くなつたからだらう。

 家へ帰ると、幹夫は窓を少し開け、風鈴を掛けた。 短冊が風を受けて、ゆつくり揺れる。 それから、ちりん、と鳴つた。

 幹夫はその音に、遅れて笑つた。 去年の恥も、今日の小さな買物も、明日の不安も、みな同じ箱に入れて、ちりん、と鳴らしてしまへばよい。鳴つた後は、風がまた吹くまで静かである。静かな間に、人は茶を飲み、息を吸ひ、次の半歩の用意をすればよい。

 巴川の夜は、相変らず忙しい光を流してゐた。 けれど、窓辺の風鈴が一つあるだけで、幹夫の部屋は、少しだけ涼しく、少しだけ明るくなつた。

 
 
 

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