top of page

巴川の浮き輪(泳げない私)

 私は泳げない。 泳げない、と書くと、まるで私が可哀想な子どもだったみたいで、いやになる。可哀想でも何でもない。私はただ、覚えなかっただけだ。覚える気がなかったわけではない、と言いたいが、結局は覚える気がなかったのだろう。人間は、覚える気があるふりはできても、覚える気そのものは誤魔化せない。

 それでも私は、いまも時々、「泳げない」という事実に救われる。 救われる、などと立派に言うな、という声が胸の奥で鳴る。だが、泳げないというのは、私にとって一種の免罪符なのである。できないことがある人間は、できないことを理由に、いろいろな場面から逃げられる。逃げるための理由を、私はいつも喉の奥に飼っている。理由の飼育係は私だ。

 私は泳げない。だから海へ行かない。 海へ行かない。だから友だちが減る。 友だちが減る。だから夜が増える。 夜が増える。だから、ひとりで川へ行く。

 こういう因果を、私は「詩的」だと思い込む癖がある。詩的ではない。ただの、生活の手抜きである。

 その晩、私は清水のほうへ歩いた。 静岡駅の改札が怖い夜もあるし、用宗の波打ち際でちゃんと嫌われてしまった夜もある。今夜はそのどちらでもないのに、私はなぜか家に帰れなかった。帰れない理由を探している時点で、私はもう帰れない。理由を探すのは、帰らないための儀式だ。私は儀式に忠実だ。忠実であることだけが、私の取り柄になりかけている。

 巴川の土手へ出ると、街の明かりが少し薄くなる。 川は川のくせに、海の匂いを持っている。川の水の匂いと、潮の匂いと、鉄の匂いが混ざって、あの辺りの夜は、どこか工場の夢みたいに生ぬるい。橋の下をくぐる風が、たまに濡れた縄の匂いを運んでくる。私はその匂いが好きだ。好きだと言うとまた、私が人間らしくなりそうで気持ちが悪いが、好きなのだから仕方がない。私は嫌いなものだけで生きているふりをするが、実は好きなものにも弱い。

 土手の欄干に、橙色の浮き輪がぶら下がっていた。 救命浮環。ロープが巻かれていて、プラスチックは擦れて白っぽくなり、ところどころ黒い汚れがこびりついている。あれが「救い」の形か、と私は思った。救いは、案外みすぼらしい。救いがみすぼらしいのではない。みすぼらしい夜を救うのだから、救いも夜の匂いを吸ってしまうのだろう。

 私は浮き輪を眺めながら、少し笑ってしまった。 浮き輪というものは、泳げない者の友だ。 泳げない者の友であり、泳げない者の恥でもある。 私が子どものころ、プールの端で浮き輪を抱えていたとき、私は「自分は特別な事情がある」みたいな顔をしていた。特別な事情などない。ただ、怖かっただけだ。怖かっただけのくせに、私はずっと「怖かっただけ」を、文学に変換して生きてきた。つまり、私は浮き輪を、文章にして抱いてきたのだ。

 浮き輪は、そのままぶら下がっていた。 誰にも触られないまま、しかし必ずそこにある。 私は、そういう存在に弱い。 必ずそこにあるものは、私に「やればできる」と言ってくる。 私は「やればできる」が嫌いだ。やればできるなら、やらない自分の責任が確定してしまうからだ。

 私は浮き輪のロープに指をかけた。 ロープは硬く、少し湿っていた。指先が、なんだか現実に引き戻される感触だった。現実はこういう触感でできている。紙の上の言い訳では、こういう湿り気が出ない。

 そのとき、土手の階段を下りてくる足音がした。 若い母親と、小さな男の子。男の子は走っていて、母親は少し怒っている。怒っているが、怒り方が半分だけだ。半分だけ怒る人は、優しい人だ。優しい人は怖い。優しい人は、こちらの卑怯を逃がさない。

「走らないの! 落ちたらどうするの!」

 母親が言った。男の子は「はーい」と言いながら、全然分かっていない顔で笑った。笑っている顔は、無責任で、うらやましい。無責任な笑いは、子どもの特権だ。大人の無責任な笑いは、ただの犯罪である。私は大人の無責任な笑いを、得意技にしてきた。だから、子どもの笑いを見ると、私は自分の手口を見透かされた気がして居心地が悪い。

 男の子は川のほうへ小石を投げた。 ちゃぽん、と音がした。 水面に丸い波紋が広がる。波紋はすぐ消える。消えるのに、最初から消える顔をしていない。その真面目さが、腹立たしいほど美しい。

 男の子はもう一つ投げようとして、手に持っていた何かを落とした。 落ちたのは、小さな黄色いボールだった。ゴムの、軽い、あれだ。子どもは「あっ」と言って、手を伸ばしたが、ボールはころころと転がり、斜面を下って、そのまま川へ落ちた。

 ボールは水に浮いた。 浮いて、流れた。 流れていく黄色い点が、妙に目立つ。目立つものは、失うと心が乱れる。私も昔、目立つものを失ったことがある気がする。何を失ったのかは覚えていない。覚えていない程度のものを、私はいつも大げさに失った顔をする。

 男の子の顔が、みるみる歪んだ。 泣く一歩手前の顔。 泣く一歩手前の顔には、私を動かす力がある。動かされたくないのに、動かされる。私はそういうところが、ほんとうに弱い。

「……取ってくる!」

 男の子が言って、土手を下りようとした。 母親が慌てて腕を掴んだ。

「だめ! 危ない!」

 危ない。 危ない、という言葉は、私の人生のあらゆる場面で言われてきた気がする。 「危ないからやめなさい」 私はその言葉の通りにやめて、結局、何もできないまま大人になった。危ないことをやめたら安全になるわけではない。安全になるのは、危ないことをちゃんと扱える人間だけだ。私は扱えなかった。だから私は、浮き輪を見ると腹が立つ。浮き輪は、危ないことを扱うための道具なのに、私にはただの敗北の輪に見える。

 私は、気がついたら浮き輪のロープをほどいていた。 ほどくのは得意だ。糸をほどくのは得意だ。責任をほどくのも得意だ。借りた金をほどくのも得意だ。得意技ばかりが並ぶと、人生は全部すり抜ける。私はすり抜ける人生で、すり抜けた自分を「繊細」と呼んできた。笑わせる。

 浮き輪は、思ったより重かった。 重いのに、頼りない。 この世の救いはだいたいそうだ。重いのに頼りない。頼りないのに手放せない。

 私は階段を下り、川の縁に立った。 水面は暗く、流れは速い。 黄色いボールは、もう少し下流へ行っている。 私は泳げない。泳げない者が川に近づくのは、ほんとうに馬鹿げている。だが私は、馬鹿げたことをしているときだけ、少しだけ正気になる。正気になるのもまた、私の悪癖だ。

 私は浮き輪を投げようとして、躊躇した。 投げたら、浮き輪が濡れる。 濡れた浮き輪を戻すのが面倒だ。 面倒だ、という理由が先に出る。 私はそういう人間だ。ボールひとつで泣きそうになっている子どもの前で、私は面倒を計算する。面倒を計算しながら、善人になりたい顔をする。最低である。

 それでも私は投げた。 ――ええい、と思って投げた。 ええい、というのは、私が自分の卑怯を黙らせるときの掛け声である。 浮き輪は、ぼちゃん、と水に落ちて、軽く跳ねた。ロープが伸びる。私はロープを握る。浮き輪が流れに乗って、黄色いボールに近づく。私はその瞬間だけ、ちょっとした「作業者」になれた。作業者は、考えない。手を動かす。手を動かすと、余計な悲劇が小さくなる。

 浮き輪が、ボールの横を通り過ぎそうになった。 私は慌ててロープを引いた。 浮き輪がくるりと回って、ボールに触れた。触れただけで、ボールは浮き輪の内側へ入った。まるで最初からそこが居場所だったみたいに、ぴたりと収まった。

 私はロープを引いた。 引くと、浮き輪が戻ってくる。 戻ってくる、という現象は、私の人生には珍しい。私は何を投げても、だいたい戻ってこない。戻ってこないものばかり投げて、戻ってこないことで詩を書く。戻ってこないことを誇りにする。私は馬鹿だ。 その夜、ボールは戻ってきた。浮き輪が戻してくれた。浮き輪は、泳げない私のために働いたのではない。泣きそうな子どものために働いたのだ。私はその事実に、少し救われてしまう。救われると、また自分が嫌になる。だが、今夜は嫌になる余裕が少し遅れて来た。

 私は浮き輪の中からボールを取り出し、母親へ差し出した。 母親は目を丸くして、それから深々と頭を下げた。

「すみません……ありがとうございます!」

 来た。 ありがとうございます。 私はこの言葉に弱い。弱いから嫌いだ。嫌いだから、また欲しがる。欲しがるから、また卑怯になる。私はありがとうの循環の中で、いつも酔っている。酒ではなく、感謝で酔う人間は始末が悪い。

「いえ、たまたま……」

 私はまた、たまたまを使った。 たまたまという言葉は、私の人生の浮き輪である。 たまたま、と言えば、責任が少し浮く。 浮くのは私で、責任は沈む。 私は沈ませるのが得意だ。 得意だと言ってしまうところが、もう駄目だ。

 男の子はボールを抱え、泣かなかった。 泣かなかったが、私のほうをじっと見て、「ありがとう」と小さく言った。 小さいありがとうは、強い。 強すぎて、私はうまく返事ができない。 私は、笑った。変な笑いをした。 子どもは意味が分からない顔をして、母親の後ろへ隠れた。 そうだ。私はこうやって、いつも人を小さく怯えさせる。私は「ちゃんと嫌われる」前に、こういう細かいところで嫌われるのだ。嫌われるのが上手い。上手いというのは、最悪だ。

 母子は去っていった。 私は濡れた浮き輪を持って立ち尽くした。 ロープは重く、手のひらが少し痛い。 手のひらの痛みは、正直だ。 正直な痛みがあると、私は少しだけ安心する。私はいつも、胸の痛みを比喩にして誤魔化してきたが、手のひらの痛みは誤魔化しようがない。だから私は、今夜の手のひらを信用した。

 私は浮き輪を元の場所へ戻した。 ロープを巻き直し、ぶら下げた。 浮き輪はまた、誰にも触られない顔をしてそこにいる。 しかし私は知っている。さっき私は触った。さっき私は投げた。さっき私は引いた。 泳げない私でも、投げたり引いたりはできる。 泳げない私でも、救いを「持ち上げる」ぐらいはできる。 それだけのことが、なぜだか少し胸に残った。胸に残ると、また私はそれを文学にしたがる。文学にすると腐るから、今夜はしない。しないふりをする。ふりをするな。――また声がする。うるさい。今日は黙れ。

 土手を上がると、街の灯りがまた近づいた。 私はポケットの中を探り、スマホを出した。 そして、連絡先の名前を一つ見た。 今月中に、と言われた顔が浮かんだ。 私は息を吸って、短い文を打った。

 「今月中に返す。無理なら無理って言う。ごめん。」

 たったそれだけだ。 たったそれだけの文が、私には泳ぐより難しい。 難しいのに、送信ボタンを押せた。 押せたことを誇るのは恥ずかしい。恥ずかしいが、今夜は誇ってしまう。誇ってしまう程度の人間で、私は生きていく。

 巴川の水は、相変わらず暗く流れていた。 私は泳げない。 だが、浮き輪はそこにある。 浮き輪はみすぼらしい。みすぼらしいが、実際に働く。 私も、みすぼらしい。 みすぼらしいが、たまに働ける夜がある。 それで、まあ、今日はいい。

 私は歩き出した。 靴の中に小石がないことを確かめながら。

 
 
 

最新記事

すべて表示
2026年香水トレンド分析|“売れる香り”を“売れる形”にする許認可・表示・輸入の落とし穴(山崎行政書士事務所)

2026年の香水トレンド(大人グルマン、スキンセント、リフィル、ミスト化など)を専門家視点で整理。香水を商品化・輸入販売するときに必要な許認可、表示、物流の注意点を行政書士が解説。 はじめに:2026年は「香りのトレンド」=「事業設計のトレンド」 2026年のフレグランスは、単に“人気の香調”が変わるだけではありません。 リフィル化 、 ボディミスト/ヘアミストなどフォーマット拡張 、**香りのワ

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page