幹夫少年探偵団 第一話 「松影は波に書く」
- 山崎行政書士事務所
- 8月24日
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序章 海霧の線
夜明け前の三保の松原は、音が薄い。波が砂を撫でては引き、松の葉についた水滴がまだ世界の音量を絞っていた。
幹夫は吐く息の白さを確認して、足を止める。そこに――線があった。
押されたのではない、掘られたのでもない。濡れていないのだ。砂浜いっぱいの巨大な曲線。羽衣伝説の絵巻に出てくるような、流麗な筆致。それが波打ち際から斜めにのび、薄明の空に向かって淡く消えている。
「……読めないけど、文字だよね」朱音が囁く。彼女の視線は、線の“かすれ”に留まった。「羽衣の一節に似てる。でも、海の線はもっと気まぐれだよ」
海霧がひと筋、沖から寄せる。足もとには――足跡がない。
幹夫は松の匂いと潮の匂いの境目に立ち、目を細めた。見たことのない“書”が、波に現れている。
遠くで小さくエンジン音。灯台下のほうで、光がひとつ揺れて消えた。
第一章 みほしるべのガラス越し
その朝から、SNSは「奇跡」と「ご神意」でざわついた。最初に高画質で投稿したのは、清水在住の若手写真家・榊優斗。投稿のExifには4:49とある。一方、天気アプリの表示ではこの日の日の出は5:02だ。
「4時台の自然光で、この解像感は変だ」理香がタブレットを覗きこみながら言った。「三保灯台からの反射が入ってる角度じゃない」
「神の道、行く?」蒼の提案に、幹夫はうなずく。彼ら五人――幹夫、理香、蒼、圭太、朱音――幹夫少年探偵団は、御穂神社から海へまっすぐのびる松並木を歩いた。早朝でも、砂に近い空気は塩の気配を運んでくる。
「おはようございます」御穂神社の神職、八重樫が境内の落ち葉をはらっていた。「さっきの“書”の件だら? 心霊騒ぎにしたくないもんで、ほどほどに頼むよ」
「ほどほどに観察します」蒼が笑って答える。その足で、五人は三保松原文化創造センター「みほしるべ」へ。展示室の一角には、砂の乾湿で模様が浮き出る実験コーナーがある。朱音はガラス越しに、乾いた砂の上に置いた板をそっとどける。裏に隠れていた濡れムラが、線を描いて現れた。
「乾いてるところと、湿ってるところ。線はコントラストで見える」理香が少し身を乗り出す。「濡らすんじゃなくて、濡らさないほうが、きれいな線になる」
展示の奥で、水野夕希(市観光課)が来館者対応をしていた。声をかけると、彼女は困ったように笑う。「ありがたい関心なんですけど、保全上、勝手な“演出”は困るんです。羽衣の松も、長く持たせたいもんで」
蒼が訊く。「日の出の前に撮られてる写真があるんです。現地をもう一度見てきます」
八重樫の話では、今朝、海浜清掃の作業員が「砂防柵のメンテ扉が、内側から閉まっていた」と言ったという。鍵は戻っている。「内側から?」幹夫の背中に、さっきの足跡の無さがひやりと蘇った。
第二章 線のエッジ、松葉の向き
昼前、潮が少し戻り、あの線はもう半分ほど消えていた。幹夫は線の縁にしゃがみ込む。指で砂をすくって、光に透かす。
「エッジが……海側はシャープ、陸側はボケてる」理香が言い、朱音が頷く。「海から作用があったってこと」
「松葉、見て」幹夫が指さした。線の縁に沿って松葉だけが海側に倒れている。全体の風は陸から海へ弱く吹いているのに、だ。
「何かをはがした方向に、葉が引っぱられて寝た?」圭太が言う。清水の港で育った彼は、風と匂いの変化に敏い。
砂に半ば埋もれた小片を、幹夫がピンセットで拾いあげる。緑色の養生テープ。指に触れると、砂がざらりとまとわりついた。「乾いた砂に、最近まで貼り付いていた感触だな」朱音がポーチから小袋を出して、証拠のようにしまう。
巴川河口のほうを見やると、遊覧船のチャーターが戻るところだった。「朝の四時半ごろ、灯台下で白いバンを見た人がいるって」圭太がスマホを見せる。港の顔なじみのオジサンからのメッセージだ。「清水みなと祭りで使う提灯のフックの点検に来てたんじゃないかって。けど、あの時間に?」
蒼は榊の投稿を拡大した。最初の写真の角度は灯台下からの斜めの視線に近い。「榊さん、早朝の光の“縁”を狙ってる」理香は潮汐表アプリを開く。「今朝の干潮は4:31、風向は夜半から数時間、沖から陸へ弱く……“のびる砂鏡”が出てたはず」
幹夫の頭の中で、二つの絵が重なった。――砂の上に薄い透明な板のようなものを置く。潮が寄せ、周囲は濡れる。板の下だけ、乾いたまま残る。線は、濡れていない。
第三章 再現
みほしるべのスタッフに頼み、展示の実験器具を少し借りた。大きな砂箱に水を注いで、浅い波を作る。理香が透明のビニールシートを切り抜く。「この字で行こう。……“海”」
「養生テープで仮止め、持ち手は布の剥離方向に沿って一方へ寄せる」蒼は作業手順を声に出す。幹夫は砂箱の角度を微調整し、朱音は手元の風見で微風を作った。
小さな波が寄せ、引く。一度、二度。やがて、シートをそっと剥がす。貼っていた側の砂粒が一瞬だけ持ち上がり、すぐ落ちる。松葉を撫でた時のように。
砂面には、濡れていない“海”の字が現れた。
「……できた」圭太が息をのむ。「足跡は?」
「シートを沖側から滑り入れて、撤収も沖側へ引けば、波が足跡を消す。陸側に痕が残るのは、砂防柵のメンテ扉の出入りだけ」幹夫は緑のテープ片を見た。貼っていたことの記憶が、砂に残ることがある。
「榊さんに会おう」蒼が言った。「怒るためじゃなくて、観察の作法を話すために」
第四章 写真家の部屋
榊のアトリエは、清水駅から巴川沿いに少し歩いた古い倉庫の二階だった。壁には港と松原の写真が並ぶ。「君たち、例の“書”の件だね」榊は笑って紙コップのコーヒーを配る。指の関節に、早朝の冷えがまだ残っているような人だった。
「投稿、最初の一枚が4:49でした。日の出は5:02」理香が穏やかに言う。「灯台下からの角度と、海霧の濃さが一致します」
榊の笑みが、少し固くなった。「早起きしただけだよ」
蒼が、養生テープの小片をテーブルに置く。「現場で拾いました。砂のつき方が、乾いた面に押しつけてから剥がした痕に見えます」
榊は沈黙する。幹夫は部屋の隅、丸められた白い防水シートに目を留めた。端が二重になっていて、**“取っ手”**のように見える。
「……やったのは僕だ」榊が言った。声は思ったより静かだった。「保全への関心を集めたかった。拡散の速い川に投げないと、届かない。御穂神社や観光課に許可を取ったら、時間がかかる。時間をかけている間に、人の関心は別の映えに行く」
朱音が眉を寄せる。「本物に寄りかかる嘘は、本物を傷つけます」
「嘘じゃない」榊の目が一瞬強くなる。「潮が書いて、潮が消す。僕は手伝っただけだ」
「なら、作法の話をしよう」蒼が口調を正した。「あなたは最初の一枚を狙った。ExifのGPSロールオフも出てる。機内モードを切った直後の位置精度の乱れ。写真は記録でもある。記録に寄りかかるなら、前提を明示する責任がある」
榊は視線を落とす。「……やり直せるだろうか」
幹夫は「やり直すなら」と言って、手帳を開いた。「御穂神社の許可と、観光課の安全管理を入れて、“消える書”の公開実験にする。潮位・風向・保全の解説をセットに。**見せたいのは“奇跡”じゃなく“現実の関心”**なんでしょう?」
榊はしばらく黙り、やがてうなずいた。「謝罪はする。方法の解説も、コピーされにくい設計にして……君たち、協力してくれる?」
蒼が笑う。「もちろん。責めないけど逃がさないのが、うちのやり方です」
第五章 公開実験
一週間後、空はよく晴れ、風は弱く、潮は計画どおりに引き始めた。砂防柵のメンテ扉には注意喚起の掲示と監視の大人が立ち、みほしるべは保全と観察のミニ講座を準備。御穂神社の八重樫が神の道で人の流れを整え、市観光課の水野がメディア対応に走り回る。
「合図で、シートを沖側へ」理香が腕時計を見ながら言う。「風は陸から海へ。剥離は海側に引く」
透明なシートの切り抜きは、今度は誰の目にも見えるように置かれた。榊はゆっくりと、布の剥離方向に沿って持ち上げる。砂がさらりと鳴る。松葉がわずかに、海へ寝た。
波が一度、二度、寄せて引く。乾いた砂だけが、文字になって残る。
「読める……!」誰かが声を上げた。砂浜いっぱいに現れたのは、「海と松を守る」の四文字。歓声が伸びて、すぐ収まる。蒼が用意した解説ボードが掲げられた。
これは“自然と観察”の共同制作です。① 砂の乾湿差② 潮位と風向③ 観察者の倫理――「見せたい現実」に正直であること
取材のマイクが向けられた。榊は深く頭を下げる。「無断の演出で誤解と混乱を招きました。今日のこれは、許可と安全を整えた公開実験です。奇跡ではありません。三保の保全に関心を寄せてください」
幹夫は人の輪から少し離れ、松の陰に立った。視界の隅で、八重樫がにやりと笑い、みほしるべのスタッフがこっそり親指を立てる。水野は電話を耳に、何度も「ありがとうございます」と頭を下げていた。
「終わったね」朱音が隣に来る。「作法さえ整えれば、見せられる」
「整えるのは、いつも面倒だけどね」圭太が伸びをした。「でも、面倒をやるのが“街の味方”だもんで」
理香が砂を一つまみ、光に透かす。「乾いたものと濡れたものの差は、見たい人の目が決めるのかも」
蒼は人の群れを眺めて、肩の力を抜いた。「“観察の倫理”のボード、SNSでバズってる。奇跡じゃなくて仕組みが伝わるの、いいね」
幹夫はうなずき、ふと御穂神社の案内板を見た。木の縁に、小さな透かし彫りがある。「松」――一字。海風がそっとその字を撫で、砂の文字が薄れていく。
彼は手帳に、その一字を書き写した。松。この街の地形、産業、祭、歴史、展望――すべてに枝を伸ばす文字。
潮が寄せ、また引く。線は消え、しかし確かに残る。次に現れるのは、きっと別の場所で、別の形で。
終章 観察のノート
風:陸→海。剥離方向に松葉が寝る。砂:乾湿差で線。濡れていない側が文字になる。時:干潮 4:31。上げに転じる短い時間窓。道:砂防柵のメンテ扉。内側から閉。倫理: 許可と安全。 記録と表現の線引き。 本物に寄りかかる嘘は、本物を傷つける。 責めないが逃がさない。
幹夫はノートを閉じ、松の匂いを吸い込んだ。この街を好きになる手がかりが、今日もひとつ増えた――そう思った。





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