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影が指す方へ

「Gimbal shot. Trees In Winter Forest With Snow.」


ポケットから折り畳んだ紙を取り出し、私は小さく読み上げた。撮影用のショットリストだ。英語で書かれたその一行は、冷たい空気の中でいっそう乾いた音を立てた気がした。


ジンバルのモーターが、耳を澄まさなければ聞こえないほどの微かな唸りで回り始める。手首に伝わる振動は、雪を踏む靴底の軋みよりも確かな「機械の生」を主張していた。レンズを雪面すれすれまで落とし、私は一歩、また一歩と進む。画面の中では、森が滑らかに流れていく——まるで私だけが浮いているみたいに。


冬のヨーロッパの森は、音を削ぎ落とす。葉のない枝は空に細い線を引き、太い幹はその線を支える柱になる。雪は白く、白すぎて、逆に色を持つ。太陽は低い位置から差し込み、木々は長い影を雪の上に伸ばしていた。影は灰色ではなく、青に近い。凍った空気が光の中に混ざり、影を染めているのだと、誰かが言っていた。


「Natural Scenery. Environment. Nature. Europe.」


私はショットリストをまた口の中で転がす。これは仕事だ。自然ドキュメンタリーの撮影。ここ数年、冬は短くなり、雪は薄くなり、森は「冬の顔」を失い始めている。プロデューサーは言った。「今のうちに撮っておけ。消えていく景色を」


——でも、私がここに来た理由は、もうひとつある。


雪を踏むたび、足元から乾いた音がする。ふかふかではない。表面は締まり、少し下で柔らかく崩れる。雪の中から、細い枝が何本も突き出ていた。芽でも、針でも、誰かの書きかけの文章でもない。ただ、春を待つ「途中」の姿。私はその細さに、言いようのない安心を覚える。途中であることは、続きがあるということだ。


幹の一本に手を当てる。冷たい。掌の熱が奪われていく。樹皮のざらつきは、時間の粒だ。私は目を閉じ、ふと、昔の声を思い出す。


——影は、地図になるよ。


父はそう言った。研究者で、森の呼吸を測る人だった。二酸化炭素、湿度、土の温度。数字で世界を読もうとする人が、なぜか私には詩人のように見えた。父は、冬の森が好きだった。「静かなときほど、森はたくさん話す」と言って。


父がこの森に来たのは、十年前。私はまだ学生だった。父は帰国のたびに土の匂いをまとっていて、スーツケースの底から小さな落ち葉や種が転がり出た。その父が、最後に残したメモがある。


Trees cast shadows on snow.

影の交点に置く。


それは研究ノートの端に走り書きされた短い言葉だった。何の交点なのか、何を置いたのか。父が亡くなったあと、遺品の中から出てきた。私はその言葉を、ずっと持っていた。仕事のショットリストに紛れ込ませるようにして。


だから私は今、ただの「美しい冬景色」を撮りに来たのではない。父が言った「影の地図」を確かめに来たのだ。


私はジンバルを少し上げ、影を見る。一本、また一本。木々の影が雪を斜めに横切っている。森は均一に見えて、均一ではない。幹の太さ、枝の方向、地面の微かなうねり。その差が、影の長さと角度を変える。私は歩きながら、目の端で影の線を追った。


影は、確かに線だった。黒いペンで引いた線ではなく、光が引いた線。触れられないのに、消えない線。


そして、ある地点で、それらが奇妙に集まっているのが見えた。


雪の上に、何本もの影が重なり合い、ひとつの濃い「節」をつくっている。まるで、糸が結ばれているように。私は息を止める。心臓の音が耳の中で大きくなる。機械の安定した唸りが、逆に不安を煽った。


「……交点」


私は呟き、節へ向かって歩く。雪が少し深い。足が取られる。ジンバルが手首の角度を勝手に修正し、画面の揺れだけはきれいに殺していく。画面の中の私は、落ち着いたプロの撮影者だ。現実の私は、子どものように焦っている。


影の節の真ん中に立つと、雪面がわずかに盛り上がっているのが分かった。不自然な膨らみ。私は膝をつき、手袋の上から雪を払う。硬いものに指が当たった。


金属だ。


私は慎重に掘り出す。小さな箱。錆びかけた留め具。箱の表には、薄く刻まれたイニシャルがあった。


——Mへ。


一瞬、視界が白くなる。雪の白さではない。涙が勝手ににじんだのだと気づくまで、私は瞬きを忘れていた。


留め具を外すと、箱の中には防水袋が入っていた。袋の中には、メモリーカードが一枚。さらに、小さな紙片が折り畳まれている。


「影は毎日場所を変える。

でも、ある時間だけ同じ場所に戻る。

そのとき、森は“忘れ物”を返してくれる」

——父の筆跡だった。


私は手の震えを抑えられないまま、カメラのスロットにカードを差し込んだ。冷えた指先がうまく動かない。ジンバルのモーター音が、私の鼓動と重なる。


再生。


画面に映ったのは、今より少し雪の厚い森だった。枝の線は同じように空へ伸び、影は同じように雪へ落ちている。時間が折り重なる感覚。映像の中の父の声が、ヘッドホン越しに響いた。


『もしこの映像を見ているなら、君はここに来たんだね』


息が詰まる。父の声は、元気なときのままだった。少し早口で、笑いを含んでいる。


『森はね、黙ってるんじゃない。聞く側がうるさすぎるだけだ。

 風の音、鳥の声、雪のきしみ。そういうのを“背景”だと思ってるうちは、森の言葉は聞こえない』


画面には、父の手が映る。木の幹を撫でる手。雪面の影を指でなぞる手。父はカメラに向かって話し続ける。


『この森の冬は、いずれ短くなる。数字はもう出てる。

 でも数字だけじゃ、誰も泣かない。

 君は映像で泣かせられる。泣かせて、立ち上がらせることもできる』


父は一度だけ、言葉を切った。カメラが少し空を仰ぐ。薄い青の中に、葉のない枝が網のように広がっていた。


『“Trees cast shadows on snow.”

 影が落ちるから、雪が白いって分かる。

 白さは、影があって初めて白さになる。

 君もそうだよ。影があるから、君は君の輪郭を持てる』


私は知らないうちに、頬を伝うものを手袋で拭っていた。雪が溶けたみたいに冷たい。


映像の最後、父はこう言った。


『撮って。

 ただ綺麗に撮るんじゃない。

 ここに生きているものを、ここに生きられなくなる未来ごと撮って。

 それでも人間が、守るという選択をできるように』


画面が暗転した。


私はしばらく動けなかった。森は変わらず静かで、影は変わらず長く伸びている。けれど、私はもう「景色」を見ていなかった。ここは、誰かの研究室であり、誰かの墓標であり、誰かの贈り物の置き場所だった。


私はカメラを持ち上げた。ジンバルをオンにし、もう一度、歩き出す。雪面を滑るように、影の線の間をすり抜けるように。低い位置から始まったショットを、ゆっくりと上へ上へと上げていく。幹の柱をなめ、枝の線を追い、空の青へ到達する。


「Trees Cast Shadows On Snow.」


私は今度は、メモではなく、祈りみたいにその一文を呟いた。


木々が影を落とす。影が雪を描く。雪が森の輪郭を浮かび上がらせる。輪郭があるから、失われることが分かる。分かるから、人は守ろうとできる。


太陽が少しだけ高くなり、影はわずかに短くなった。けれど、影が消えるわけじゃない。形を変えながら、森は自分の存在を雪に刻み続ける。


私は録画ボタンを押したまま、立ち止まった。


この森が、まだ白いあいだに。

影がまだ、雪の上に文字を書けるあいだに。

私は撮る。森の静けさを、森の叫びとして。

 
 
 

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