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後見人の沈黙

 山崎行政書士事務所に、その男が来たのは、梅雨入り前の蒸し暑い午後だった。

 男は四十代半ば。よく仕立てられたスーツを着ていたが、襟元だけが妙に汗ばんでいた。名刺にはこうあった。

 菱田陽介

「叔母のことで、ご相談があります」

 山崎は向かいの席に座る男を見た。

「成年後見制度の件ですね」

「はい。叔母は認知症が進んでいます。資産も多いので、早く後見人をつけて財産を守らないといけないんです」

 男は分厚いファイルを机に置いた。

 診断書の写し、預貯金一覧、不動産の登記情報、施設の利用契約書、投資会社からの提案書。きれいに分類され、付箋まで貼られている。

 整いすぎていた。

 山崎は最初の一枚をめくった。

 対象者の名前は、菱田冴子。八十二歳。

 かつてこの町で知らぬ者のない資産家だった。郊外の大型商業施設、山林、駐車場、古い借家群。菱田冴子の名義になっている土地は、町の地図にいくつも赤い点を打てるほどだった。

「陽介さんは、冴子さんの甥でいらっしゃる」

「はい。叔母に子どもはいません。兄弟も亡くなっています。身内で動けるのは私だけです」

「ご自身が後見人候補になるお考えですか」

 陽介は一瞬だけ目を伏せた。

「可能なら。もちろん、家庭裁判所が決めることだとは分かっています。ただ、叔母のことは家族で守りたいんです」

「成年後見の申立ては家庭裁判所の手続きです。山崎行政書士事務所では、戸籍や財産資料の整理、ご本人の状況確認、関係者の事情の聞き取り、必要な専門職への連携まで丁寧に行います。ただし、誰かに都合よく財産を動かすための制度ではありません」

「分かっています」

 陽介はすぐに答えた。

 早すぎる返事だった。

「叔母を守りたいだけです」

 山崎はファイルを閉じた。

「では、まずご本人に会わせてください」

 陽介の喉が、小さく鳴った。

     *

 介護施設「白樺苑」は、町外れの丘の上にあった。

 白い外壁、広い庭、ガラス張りの談話室。パンフレットには「穏やかな終の住まい」と書かれていたが、廊下には消毒液と古い尿の匂いが薄く漂っていた。

 施設長の矢代多江は、上品な老婦人のような笑みを浮かべて山崎を迎えた。

「菱田様は、最近少し被害妄想が強くていらっしゃいます。お話はあまり真に受けないほうがよろしいかと」

「真に受けるかどうかは、聞いてから判断します」

 矢代の笑みが、わずかに固まった。

 冴子は個室にいた。

 窓際の車椅子に座り、枯れ枝のような指で膝掛けを握っている。白髪はきれいに整えられていたが、目だけが異様に澄んでいた。

「菱田冴子さん。山崎行政書士事務所の山崎です」

 冴子はゆっくり顔を上げた。

「行政書士……」

「陽介さんから、後見制度について相談を受けています」

「陽介」

 冴子の口元が歪んだ。

「いい子よ。いい子に育った。私が、陽のあたる名前をつけた」

 山崎は少し引っかかった。

「名前をつけた?」

 冴子は答えず、窓の外を見た。

「私は殺される」

 声は乾いていた。

「誰にですか」

「みんな」

「みんな、とは」

「甥も、施設も、金貸しも、昔の男も。みんな私を見ていない。私の土地を見ている。私の預金を見ている。私の印鑑を見ている」

 冴子は急に山崎の手首を掴んだ。

 思いのほか強い力だった。

「井戸を見てはいけない」

「井戸?」

「あの子は落ちたんじゃない。落としたの。だけど死ななかった。死ななかったから、もっと困った」

 部屋の空気が重くなった。

「誰の話ですか」

「水神原は売っていない」

 冴子は震えた。

「澄江は売っていない。あの子は判を押していない。後見人が黙っていた。みんな黙っていた。だから私は金持ちになった」

 次の瞬間、矢代施設長が部屋に入ってきた。

「菱田様、少しお疲れですね」

 彼女は慣れた手つきで冴子の肩に触れた。

「山崎先生、今日はこのあたりで」

 冴子は首を振った。

「私は殺される」

「またそんなことを」

「違う」

 冴子は山崎を見た。

「殺されるのは、私だけじゃない。もう一度、あの子が殺される」

     *

 水神原。

 山崎はその地名を調べた。

 現在は大型商業施設と物流倉庫が建つ一帯で、かつては湧き水のある田園地帯だった。四十年前、土地開発で一気に売買が進み、その中心にいたのが若き日の菱田冴子だった。

 彼女は不動産会社の事務員から身を起こし、水神原の土地を取得して巨額の利益を得た。

 表向きは、先見の明ある女実業家。

 だが古い登記簿を追うと、不自然な流れがあった。

 最初の所有者は、小峰澄江

 当時二十三歳。

 両親を亡くし、水神原の土地を相続した女性だった。

 その土地が、ある日突然、菱田冴子へ売られている。

 売買代金は、相場の十分の一以下。

 契約書の立会人欄には、菱田冴子の名前。

 そして、もう一人。

 小峰政造 後見人

 山崎は眉をひそめた。

 四十年前の制度は今とは違う。だが、判断能力に問題があるとされた者の財産を、後見人が扱う仕組みは存在した。

 小峰澄江は、土地を売る直前に「精神に異常あり」とされ、叔父の政造が後見人になっていた。

 その後、澄江の戸籍には短い記載がある。

 昭和五十五年七月二日 死亡

 だが、死亡届を出した人物の筆跡は、妙に整っていた。

 菱田冴子の古い書類の署名に、似ていた。

     *

 陽介は、何度も事務所を訪れた。

「先生、申立ては進んでいますか」

「確認事項が増えています」

「何の確認ですか」

「冴子さんの財産形成の経緯です」

 陽介は苛立ったように笑った。

「それは後見と関係ありますか」

「あります。財産目録を作るなら、その財産に争いの可能性があるかも見なければなりません」

「叔母は昔から商売上手でした。それだけです」

「そう聞いていますか」

「ええ」

 陽介は視線を逸らした。

「でも、叔母の周りには妙な人間が多いんです。橘アセットという投資会社が、叔母名義の土地をまとめて買い取ると言ってきています。施設長も叔母の通帳を預かりたがっている。昔の内縁の夫まで現れた」

「内縁の夫?」

「高槻清司という男です。昔、叔母と一緒に暮らしていたそうです。金に困っているのか、施設に押しかけてくる」

「その方は、冴子さんを狙っていると?」

「分かりません。ただ、叔母はその男の名前を聞くと怯えるんです」

 陽介は拳を握った。

「先生。叔母を守ってください。財産も、叔母自身も」

 その声には焦りがあった。

 だが山崎には、それが愛情から来る焦りなのか、別のものなのか、まだ分からなかった。

     *

 橘アセットの担当者、橘真一は、笑顔の鋭い男だった。

「菱田様の土地は、今が売り時です」

 彼は山崎の事務所で、平然と資料を広げた。

「太陽光、物流、データセンター。眠っている土地を活かすには、まとまった資本が必要です。ご本人の判断能力が落ちているなら、後見人を立てて、適切に売却するのが一番でしょう」

「ずいぶん後見制度に詳しいですね」

「高齢地主の案件は多いですから」

「冴子さんから、売却の意思を確認しましたか」

「ええ。以前、書面で」

 橘は委任状の写しを出した。

 冴子の署名と実印。

 だが山崎は、すぐに違和感を覚えた。

 署名の「冴」の字だけが、震えていない。

 八十二歳の手ではなく、古い書類を見ながら慎重に真似た手だった。

「この委任状は、どなたが作成を」

「施設の方にもご協力いただきました」

「矢代施設長ですか」

 橘は笑った。

「先生もご存じでしょう。高齢者の財産管理は、周囲の協力がなければ成り立ちません」

「協力と誘導は違います」

 橘の目が笑わなくなった。

「山崎先生。あなたは行政書士です。書類を整えるのが仕事でしょう」

「違います」

 山崎は静かに言った。

「整えてはいけない書類を見抜くのも、仕事です」

     *

 高槻清司は、古い市営住宅に住んでいた。

 七十八歳。痩せた体に作業着を着て、右手の中指が欠けている。部屋には酒瓶と、古い写真が散らばっていた。

「菱田冴子を守る?」

 高槻は山崎の名刺を見て、鼻で笑った。

「あの女を守るくらいなら、蛇を布団に入れたほうがましだ」

「冴子さんは、あなたに殺されると怯えています」

「殺すなら、四十年前に殺してる」

「なぜ殺さなかったのですか」

 高槻は黙った。

 やがて、床に落ちていた写真を拾った。

 若い男女が三人写っている。

 高槻清司。

 菱田冴子。

 そして、白いワンピースを着た若い女。

「小峰澄江さんですね」

 高槻の顔が変わった。

「調べたのか」

「水神原の土地の件で」

「なら分かるだろう。冴子は澄江から土地を奪った」

「小峰政造さんが後見人として売却した記録があります」

「政造は字もまともに書けない男だった。酒と博打で借金まみれ。冴子に使われたんだ」

「澄江さんは、判断能力に問題があったと」

 高槻は机を叩いた。

「嘘だ!」

 壁が震えた。

「あの子は少しおっとりしていた。人を疑わなかった。でも馬鹿じゃない。土地を売る気なんてなかった。あの土地の湧き水を守りたいと言っていた」

「なぜ、異常ありとされたのですか」

「井戸だ」

 高槻の声が低くなった。

「澄江は井戸に落ちた。いや、落とされた。頭を打って、しばらく言葉が出なくなった。冴子はそれを利用した。『澄江はおかしくなった』と親族に言いふらし、医者を連れてきて、政造を後見人にした」

「あなたは何をしていたのですか」

 高槻は顔を歪めた。

「俺は、冴子と寝ていた」

 部屋に沈黙が落ちた。

「あの頃、俺は澄江と結婚するつもりだった。だが貧しかった。冴子は都会の匂いがして、金の話に強くて、俺みたいな男を褒めた。馬鹿な俺は、澄江を裏切った」

「冴子さんとは内縁関係だった」

「澄江が死んだあとにな」

「澄江さんは本当に亡くなったのですか」

 高槻は山崎を見た。

 目の奥に、四十年分の濁った後悔があった。

「分からない」

「分からない?」

「死体を見ていない。葬式もなかった。ただ、戸籍から消えた。冴子は『病院で死んだ』と言った。俺は信じた。信じたふりをした。そうしないと、自分の罪を見なくちゃならなかった」

 高槻は写真を握りしめた。

「あの女は、土地だけ奪ったんじゃない。澄江の名前も、人生も、俺との子どもも奪った」

「子ども?」

 山崎の声が変わった。

 高槻は震えながら笑った。

「澄江は妊娠していた。井戸に落ちる前に、俺に言った。『名前は陽の字を入れたい』って」

     *

 山崎は、菱田陽介の戸籍を取り寄せた。

 父は菱田冴子の弟。

 母はその妻。

 出生地は、市内の産院。

 表面上は何も問題がない。

 だが、出生届の提出者欄の筆跡を見て、山崎は息を止めた。

 菱田冴子の筆跡だった。

 さらに、陽介の母とされる女性は、出産予定日の一か月前に別の病院で長期入院していた記録があった。病名は子宮摘出後の合併症。

 子を産める状態ではなかった。

 山崎は机に両手を置いた。

 財産を守りたいと相談に来た甥。

 その甥は、もしかすると、奪われた女の子どもだった。

 守るべき財産は、そもそも誰のものなのか。

 守るべき家族とは、誰のことなのか。

     *

 白樺苑の夜は、異様に静かだった。

 山崎は、施設の元職員から話を聞いていた。

「四階の奥に、身元のはっきりしないおばあさんがいます」

 元職員は怯えた声で言った。

「野原スミという名前で入っています。でも、保険証も戸籍も変なんです。費用はずっと菱田さんの口座から払われていました。施設長は、絶対に外部に話すなと言っていました」

「野原スミさんは、冴子さんと関係が?」

「菱田さんは、月に一度だけ会いに行っていました。認知症が進む前は、その部屋の前で何時間も立っていたこともあります」

「話していましたか」

「いいえ。ただ、扉の外で泣いていました」

 山崎はすぐに白樺苑へ向かった。

 四階の奥。

 施錠された小さな部屋。

 施設長の矢代は、山崎を見るなり顔色を変えた。

「そこは感染症の管理区域です」

「記録を見せてください」

「個人情報です」

「高齢者虐待や不適切な財産管理の疑いがあります。関係機関にも相談します」

 矢代の目が鋭くなった。

「余計なことをすると、困るのは菱田様ですよ」

「困るのは、あなたではありませんか」

 その時、廊下の向こうから冴子の声がした。

「開けなさい」

 車椅子の冴子が、介護士に押されて近づいてきた。

 顔は青白い。だが目は妙に冴えていた。

「先生、そこを開けたら戻れないわよ」

「戻る必要がありますか」

 冴子は笑った。

「若い時の私なら、あなたを買収したでしょうね」

「今のあなたは?」

「殺してくれと頼むかもしれない」

 矢代が声を荒げた。

「菱田様、いけません」

「黙りなさい。あなたも私の金で口を閉じていただけでしょう」

 冴子は山崎を見た。

「開けなさい」

 鍵が回った。

 部屋の中には、小柄な老婆がベッドに横たわっていた。

 髪は真っ白で、頬は紙のように薄い。左のこめかみに古い傷跡があった。目は半分閉じているが、山崎たちが入ると、かすかに動いた。

 冴子の車椅子が止まった。

「澄江」

 老婆の指が震えた。

 声にならない音が漏れた。

 山崎は、その瞬間に理解した。

 小峰澄江は死んでいなかった。

 戸籍上は四十年前に死んだ女が、偽名で施設に入れられ、奪われた人生の抜け殻のように生き続けていた。

     *

 その夜、関係者が白樺苑の談話室に集められた。

 陽介。

 高槻清司。

 矢代施設長。

 橘アセットの橘真一。

 そして、菱田冴子。

 山崎は机に資料を並べた。

「小峰澄江さんは死亡したことになっています。しかし、白樺苑に入所している野原スミさんは、年齢、身体的特徴、過去の医療記録から、小峰澄江さんである可能性が極めて高い」

 陽介が立ち上がった。

「何の話ですか」

 山崎は続けた。

「四十年前、水神原の土地は小峰澄江さんから菱田冴子さんへ売却されています。その際、澄江さんは判断能力がないとされ、後見人が売買に関与した。しかし、その手続きには重大な疑いがあります」

 橘が舌打ちした。

「昔の話でしょう。今さら何になるんですか」

「今の売却計画にも関係します。橘さん、あなたは矢代施設長と共謀して、冴子さんの判断能力が低下している状況で委任状を作成し、土地売却を進めようとしていた」

「証拠は?」

 山崎は署名の比較資料を出した。

「それから、冴子さんへの薬の投与記録。面会日の前後だけ量が変わっています。冴子さんを弱らせ、判断できない状態にしていた疑いがあります」

 矢代の顔が土色になった。

「私は施設を守るために」

「守っていたのは施設ですか。それとも口止め料ですか」

 冴子が笑った。

 乾いた、古い障子が破れるような笑いだった。

「みんな同じよ。私も、矢代さんも、橘さんも。守るという言葉を使う時、人間はたいてい何かを奪っている」

 陽介が震える声で言った。

「叔母さん、澄江さんって誰なんですか」

 冴子は陽介を見た。

 その目に、初めて哀れみのようなものが浮かんだ。

「あなたの母親よ」

 談話室の空気が止まった。

 陽介は聞き間違えたように瞬きした。

「何を……」

「あなたは私の甥じゃない。小峰澄江と高槻清司の子。私が奪った子よ」

 高槻が椅子から崩れ落ちた。

「冴子……」

「黙って」

 冴子は低く言った。

「あなたも黙っていた。澄江を裏切って、私の布団に入った。真実を探さなかった。だからあなたも同罪よ」

 高槻は泣いていた。

 皺だらけの顔を歪め、声も出せずに泣いていた。

「井戸に落ちた澄江は、言葉を失った。でもお腹の子は無事だった。私はその子を、子どものできない弟夫婦に渡した。陽介という名前をつけた。澄江が言っていた名前よ。陽のあたるところで生きてほしいって」

「なぜ」

 陽介の声は、ほとんど息だった。

「なぜ、そんなことを」

 冴子はしばらく黙った。

 やがて、顔を歪めた。

「欲しかったからよ」

 その言葉は、あまりに単純で、あまりに残酷だった。

「土地が欲しかった。清司が欲しかった。澄江みたいに何もしなくても愛される女が憎かった。私は働いて、媚びて、計算して、男の機嫌を取って、泥水を飲んで生きていた。なのに澄江は、ただ笑っているだけで土地も男も子どもも持っていた」

「だから奪ったのか」

 陽介が言った。

「ええ」

 冴子は答えた。

「最初は土地だけのつもりだった。でも一つ奪うと、次を奪わないと嘘が壊れる。後見人を黙らせた。医者を買った。政造に金を握らせた。澄江を死んだことにした。あなたを弟夫婦の子にした。私は、書類で人を殺したの」

 山崎はその言葉を聞きながら、指先が冷えていくのを感じた。

 殺人よりも残酷なことがある。

 生きたまま名前を奪うこと。

 戸籍から消すこと。

 母から子を奪い、子から母を奪い、それを正当な書類の束で覆い隠すこと。

「叔母さん」

 陽介の声は震えていた。

「僕は、あなたを守るために後見の相談をしたんです」

「知っている」

「僕は、あなたの財産を守りたいと思っていた」

「それも知っている」

「でも、その財産は……」

「あなたの母親から奪ったものよ」

 冴子は静かに言った。

 談話室の時計の音だけが響いた。

「先生」

 陽介は山崎を見た。

「僕は、誰を守ればいいんですか」

 山崎はすぐには答えられなかった。

 目の前には、殺されると怯える認知症の資産家がいる。

 その女を利用しようとする親族、施設、投資会社がいる。

 だが同時に、その女は若い頃、後見という制度を悪用し、一人の女性の人生を奪い、財産を築いた。

 守るべき弱者が、過去の加害者でもある。

 被害者の声は、四十年間、戸籍の外で沈黙させられていた。

 どちらを優先すべきなのか。

 答えは、法律の本にも、申立書の様式にも書かれていない。

     *

 数日後、橘と矢代の不正は明るみに出た。

 冴子への不適切な薬の投与、財産管理への不当介入、偽造が疑われる委任状。山崎は事実関係を整理し、関係機関や専門職へつないだ。

 山崎行政書士事務所は、裁判所で人を裁く場所ではない。

 だが、書類の違和感を見逃さない場所ではある。

 戸籍、登記、契約書、委任状、財産目録。

 一枚ずつ読み解けば、沈黙していた過去が声を持つことがある。

 冴子については、第三者の専門職による後見の検討が進められた。

 同時に、小峰澄江についても、本人保護と身元回復のための手続きが始まった。

 陽介は、しばらく何も話さなかった。

 母だと知らされた澄江の病室に通い、ベッドの横で黙って座った。澄江はほとんど話せなかったが、ある日、陽介の指を握り、かすれた声で言った。

「よう……」

 それが名前なのか、ただの息なのか、誰にも分からなかった。

 陽介はその一音で泣いた。

 四十年以上遅れた、母からの呼び声だった。

     *

 冴子は急速に衰えた。

 あれほど強かった目の光は薄れ、記憶はますます崩れていった。

 ある夕方、山崎が病室を訪れると、彼女は天井を見つめていた。

「先生」

「はい」

「私は守られるの?」

「必要な保護は進めています」

「私の財産は?」

 山崎は黙った。

 冴子は小さく笑った。

「正直な人ね。行政書士には向いているけれど、悪党には向いていない」

「悪党になる予定はありません」

「そう」

 冴子は窓の外を見た。

「私は、澄江を殺していない。あの子は生きていた」

「生きていたから、罪が軽くなるわけではありません」

「分かっている」

 冴子の目から涙が流れた。

「でもね、先生。私は陽介を愛していたの」

 山崎は何も言わなかった。

「奪った子だった。嘘で育てた子だった。それでも、愛していた。これは罪の言い訳になる?」

「なりません」

「でしょうね」

 冴子はかすかに笑った。

「でも、愛はあったの。人間って嫌ね。罪の中にも、本物みたいなものが混じる」

 その言葉は、山崎の胸に重く残った。

     *

 冴子が亡くなったのは、それから二週間後だった。

 殺されたのではない。

 病死だった。

 けれど、陽介は葬儀の席で言った。

「あの人は、真実に殺されたんだと思います」

 山崎は答えなかった。

 葬儀の後、冴子の貸金庫から一通の封筒が見つかった。

 宛名は、山崎行政書士事務所。

 中には、古い土地売買契約書の原本、偽名で入所させられた澄江の記録、出生に関する書類、そして冴子の手書きの告白書が入っていた。

 最後に、一枚の便箋があった。

 私は小峰澄江の土地を奪った。 私は小峰澄江の名前を奪った。 私は小峰澄江の子を奪った。 その財産で、私は女実業家と呼ばれた。 後見人は黙っていた。 医者も黙っていた。 男も黙っていた。 そして私も、四十年黙っていた。

 次の行で、筆跡が乱れていた。

 山崎先生。 私を守ってくれてありがとう。 でも、私だけを守らないでください。

 山崎は便箋を閉じた。

 その言葉が贖罪なのか、自己満足なのかは分からなかった。

 分からないまま、書類は保全された。

 分からないまま、陽介へ渡された。

 分からないまま、澄江の病室には、毎朝新しい花が飾られるようになった。

     *

 数か月後、山崎行政書士事務所に陽介が来た。

 痩せていたが、以前のような焦りは消えていた。

「澄江さんの手続きは、少しずつ進んでいます」

「そうですか」

「母と呼べるかは、まだ分かりません」

「急ぐ必要はありません」

「冴子のことも、憎みきれません」

 陽介は苦しそうに笑った。

「僕を奪った人なのに、僕を育てた人でもある。母を消した人なのに、僕に名前をくれた人でもある。先生、こういう時、人は誰を許せばいいんでしょうか」

 山崎は答えられなかった。

 代わりに言った。

「許すことを、急がなくていいと思います」

 陽介はうなずいた。

「先生に相談してよかったです。最初は、ただ叔母の財産を守るための手続きだと思っていました。でも、書類の奥に、こんなものが隠れているなんて」

「財産は、数字だけではありません」

「ええ」

 陽介は窓の外を見た。

「人の沈黙も、財産に化けるんですね」

     *

 山崎行政書士事務所の書棚には、その後、一冊の厚いファイルが収められた。

 表紙には、こう書かれている。

 菱田冴子・小峰澄江関係資料

 成年後見、財産管理、戸籍、土地売買、委任状、施設契約。

 そこに並ぶ紙は、どれも無機質だった。

 けれど、その一枚一枚の裏に、誰かの欲、嫉妬、裏切り、沈黙、そして遅すぎた悔恨が貼りついている。

 後見人は、人を守るために存在する。

 だが、守るという言葉は、ときに人を閉じ込める檻にもなる。

 山崎はファイルを閉じた。

 窓の外では、雨が降り始めていた。

 雨粒がガラスを伝い、街の灯りを歪ませる。

 その歪んだ光の中で、山崎は冴子の最後の言葉を思い出した。

 私だけを守らないでください。

 それは依頼なのか、呪いなのか。

 今も分からない。

 ただ一つだけ確かなことがある。

 沈黙した書類は、いつか必ず声を上げる。

 そしてその声を聞いてしまった者は、もう知らなかった場所へは戻れない。

 
 
 

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